今週の説教「主のお入り用」ルカによる福音書19章28節から40節

【今週の予定】

●7/24()牧師週休日

 

●7/25()ゴスペル・ライブに向けてのオカリナの音合わせ(15:00-)、クリスチャン・アーティスト・ネットワークBUKI会議(横浜中央教会、18:00-21:00)

 

●7/26()受洗準備会(13:00-14:00)、牧会事例研究会(豊川修司先生、16:00-17:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

 

●7/30()礼拝(10:3012:00)、お茶会(12:00-13:00)、東部中会連合執事会長老会(東京恩寵教会、14:30-)掃除

 

★7/30()の説教:尾崎純牧師

 

聖書ルカによる福音書1941-48

 

説教題「泣くイエス」

 

 

ルカによる福音書1928-40

 

28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

 

37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

 

38「主の名によって来られる方、王に、

 

祝福があるように。

 

天には平和、

 

いと高きところには栄光。」

 

39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

 

 

 

 

イエス様は先頭に立って歩んでいかれます。

 

エルサレムに上って行かれます。

 

エルサレムはもうすぐそこです。

 

ここに、最初のところに色々な地名が出てきていますが、まず、エルサレムのすぐ東にオリーブ畑という山があります。

 

そして、オリーブ畑の東にベトファゲという村があります。

 

その村の東にベタニアという村があります。

 

西から順に、エルサレム、オリーブ畑、ベトファゲ、ベタニアと並んでいるんですね。

 

この一番東のベタニアという村に来た時、イエス様は、二人の弟子を使いに出しました。

 

隣のベトファゲという村に行って、子ろばを引いてきなさいということですね。

 

イエス様がそれに乗ってエルサレムに入るための子ろばを引いてきなさいと言うのです。

 

しかし、このあたりのイエス様の言葉、読んでみますと、弟子たちに本当に細かく指示を出しているんですね。

 

これは適当な指示の出し方ではありませんよね。

 

村に入ったら一頭くらい子どものロバがいるだろうというようなことではないんですね。

 

イエス様はまるで、見てきたように指示を出します。

 

そのろばは、まだ誰も乗ったことのない子ろばです。

 

そしてそのろばは、つながれているということなんです。

 

それだけでなく、イエス様は、こう言われたらこう言いなさいと指示も出します。

 

「なぜほどくのか」と言われたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。

 

そういうところまで、イエス様は指示を出します。

 

そして、すべて、その通りになっていくんですね。

 

弟子たちが村に入ると、まさにその通り、子ろばがつながれていました。

 

弟子たちがそれをほどこうとしていると、持ち主たちが声をかけてきました。

 

弟子たちは答えます。

 

「主がお入り用なのです」。

 

この、イエス様に指示されていた言葉、この言葉が面白いのです。

 

弟子たちが「主がお入り用なのです」と言った時の「主」という言葉ですが、これは、イエス様が弟子たちにとって主である、私たちの主であるということを指す言葉ではありません。

 

弟子たちが言ったこの言葉は、「このろばの主人がお入り用なのです」という言葉なのです。

 

しかし、このろばの主人というなら、それは持ち主たちのことでしょう。

 

実際、この「持ち主たち」という言葉は原文では「主人たち」という言葉です。

 

そしてこの「主人」という言葉は、「主がお入り用なのです」と弟子たちが言った、その「主」という言葉と同じなのです。

 

ですから弟子たちは、ろばの主人たちに何をしているのかと言われまして、それに対して、このろばの本当の主人がお入り用なのですと答えたんです。

 

この時、弟子たちの気持ちはどんなだったでしょうか。

 

何しろ、弟子たちのやっていることは、これははっきり言って泥棒ですね。

 

おそらく弟子たちはろばをほどくとき、緊張していたんじゃないかと思います。

 

そんな時に、ろばの持ち主たちから、どうしてそんなことをするのかと言われた。

 

見つかってしまった、ああもうお終いだ、という感じですね。

 

けれどもそこで、イエス様から指示されていた通りに答えた。

 

そうすると、それが通るんですね。

 

一言、イエス様から言われた通りに言っただけで、持ち主たちはもう何も言わなくなった。

 

イエス様こそ、本当の主人なんです。

 

イエス様は、すべてのものの本当の主人であるということです。

 

弟子たちはこの時、イエス様の言葉の力を実感したんじゃないでしょうか。

 

この話は普通に読めば無茶な話です。

 

しかし、ここで聖書が言いたいことは明らかです。

 

神の言葉をそのままに語る時、神の力が働くんですね。

 

私たち人間の側にはいろいろな思いがあります。

 

このろばの主人は誰だろうか、いくらイエス様の指示だからって、こんなことをしていいんだろうか。

 

そういう思いがあります。

 

何しろ、普通に見ればこれは泥棒です。

 

けれども、人間の思いをどけておいて、神の言葉に従う時、その言葉は実現するんですね。

 

泥棒であったはずのことも、泥棒でなくなる。

 

何しろ、持ち主たちが納得しているんですから。

 

そしてこの時、この弟子たちは素晴らしいことを宣言することになりましたね。

 

このろばの本当の主人がお入り用なのです。

 

イエス様こそがすべてのものの持ち主です。

 

すべてのものの本当の主人です。

 

まことの王です。

 

弟子たちは、もともとは考えてもいなかったことに、そのことを宣言することになったわけです。

 

言ってみれば、神の世界の出来事が、ここに起こってくるんですね。

 

これを私たちも自分に言われているんだと思っていいですね。

 

私たちも、自分の思いをどけておいて、神の言葉に従う時、考えもしなかったような神の出来事の当事者になっていく。

 

今日の聖書の場面は私たちにそのことを約束してくれていると思うのです。

 

しかし、なぜそのイエス様が乗るのがろばなんでしょうか。

 

ろばというのは庶民の乗り物です。

 

ろばなんかよりも馬の方がふさわしいような気もします。

 

けれどもこれは、実は旧約聖書の預言の実現なんですね。

 

旧約聖書に救い主がやってくる場面がえがかれているところがあるんですが、救い主はろばに乗ってやってくるんですね。

 

戦争の時にも用いられる馬ではなくて、戦いには使えない、ろばに乗ってやってくる。

 

そのことが旧約聖書のゼカリヤ書に書かれているんですね。

 

ですからろばなんです。

 

馬ではないんですね。

 

イエス様は平和のために来られるんです。

 

ですから、王ではありますけれども、イエス様は軍隊を引き連れたりはしていないんですね。

 

武器も持っていません。

 

弟子たちはついてきていますけれども、兵隊は一人もいない。

 

イエス様はそんな王様なんです。

 

けれども、この王には神様が共におられます。

 

神様の御心に従って、神様の御言葉の通りに、イエス様はエルサレムに入っていきます。

 

兵隊と一緒にではなく、弟子たちと一緒にです。

 

そして、そのイエス様の目線は、弟子たちと同じ高さなんです。

 

ろばは自転車よりも小さいくらいの動物です。

 

それも、イエス様が乗っているのは子ろばです。

 

イエス様は、まさに弟子たちと一緒に進んでいかれるんですね。

 

イエス様はこの世の王とは違うんですね。

 

イエス様は私たちを守り、私たちのために戦ってくださる王です。

 

それは間違いありません。

 

しかし、その戦いを、一人で戦ってくださるんですね。

 

たった一人で、イエス様は、この後、多くの人の憎しみを背負ってくださり、私たちの罪を背負ってくださるんですね。

 

それが十字架の戦いです。

 

イエス様は私たちのために、その戦いを戦ってくださる。

 

私たちが傷つくことがないように、私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる。

 

それがイエス様という王様なんです。

 

王様のために私たちがいるんじゃないんです。

 

私たちのために王様がいてくださるんです。

 

ここのところを読んでいた時に、思い出したことがあります。

 

私が学んでいた神学校の校長先生のことです。

 

私は、この先生ほど謙そんな人は見たことがありません。

 

何も言わずに、すべて自分のこととして引き受けて、自分のこととして務めを果たす、そういう人でした。

 

この先生について思い出すことがあるんですけれども、神学校では、毎日、朝は祈りで始まります。

 

校長先生と神学生全員が会堂に入って、朝7時から祈り会があるんですね。

 

ある時、その祈り会が終わって私が会堂を出た時、校長先生が校長の部屋とは別の方向に歩いていくのが目に入りました。

 

様子を見ていますと、掃除用具入れからほうきを取り出して、どうやら掃除をしようというおつもりのようだったんですね。

 

私はそれを見てとても驚きました。

 

掃除というのは当然、神学生の仕事です。

 

それを校長先生にやらせるわけにはいきません。

 

私は先生に声をかけました。

 

「先生、何をなさるんですか」。

 

そうすると、「少し枯葉が落ちているのできれいにしておきたいんです」。

 

「いえ、それは私がやります。先生はお下がりください」。

 

「構いません。そんなに時間はかからないですから」。

 

私はもう困ってしまって校長先生が持っているほうきを無理にでもちょうだいしようとしたんですが、そうすると先生は、「では、一緒にやりましょう」とおっしゃいましたので、私もほうきを取り出してきて、二人で一緒に掃除をしました。

 

これは、考えようによっては、校長先生がそこにいた神学生たちに指示をして掃除をさせた方がよかったのかもしれません。

 

考えられないことですね。

 

神学生たちがぞろぞろ帰っていくのに、ご自分は掃除をする。

 

校長にはふさわしくないことです。

 

他にもっといいやり方もあったかもしれません。

 

しかし、私はそこに、その先生の思いを見たように思っています。

 

私はあの時、あの先生と一緒に掃除をして、この神学校で学んでいることを本当に感謝していました。

 

私はその時、感動していたんです。

 

あまりその先生の話ばかりいたしますと、その先生がこういう話を私がしていると知った時に嫌がるでしょうからもうこれくらいにいたしますけれども、今日のこの場面で、ろばに乗るイエス様と一緒に進む弟子たちも、そういう感動を味わっていたのではないかと思うんですね。

 

王である方が、ろばに乗っておられる。

 

私たちと同じ目線で、進んでいってくださる。

 

イエス様は軍隊に取り囲まれているのではない。

 

誰でもイエス様に近づくことができる。

 

イエス様と一緒に歩くことができる。

 

こんな謙そんな王があるだろうか。

 

これが、私たちの王だ。

 

王のために私たちがいるのではない。

 

私たちのためにこの王がいてくださる。

 

その感動が、弟子たちの賛美になっていきます。

 

37節から、弟子たちの賛美が始まりますね。

 

弟子たちはイエス様のことを王として祝福を願っています。

 

少し前の36節に、「人々は自分の服を道に敷いた」とありますけれども、これも、王を迎える作法です。

 

ただ、弟子たちは、本当の意味ではイエス様のことをまだ分かっていません。

 

弟子たちは、イエス様が、ローマ帝国を打ち倒して、イスラエルを独立させてくださる強い王様になってくださると考えていました。

 

戦争をして、その果てに平和を達成してくださると考えていたんですね。

 

ですので、弟子たちの考えは間違っているんです。

 

けれども、イエス様はこの賛美を止めないんですね。

 

これでいいのだと、賛美を続けさせるんですね。

 

この賛美ですけれども、クリスマスの場面の賛美とよく似ていますよね。

 

クリスマスの場面の賛美は、この福音書の214節にあるんですが、そこでは、天使たちが賛美しました。

 

こういう言葉で賛美しました。

 

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。

 

「地には平和」と天使たちは賛美したんですね。

 

そして今日、弟子たちは、「天には平和」と歌っています。

 

天使たちは地上に平和があるようにと祈った。

 

弟子たちはそれを受けて、天使たちに対して言葉を返すようにして、まことの平和は天にある、神にある、神から来るのがまことの平和だと歌ったんですね。

 

ですから、イエス様は、この賛美を止めさせません。

 

ここでファリサイ派の人が出てきていますよね。

 

ファリサイ派の人は、いくらイエス様が力ある先生だからって、救い主ということはないだろう、そんなふうに言われると、イエス様、あなたも困るんじゃないですか、そういうつもりでイエス様に対して、賛美を止めさせるように言うんですけれども、イエス様は言うんですね。

 

「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」。

 

これで良いのだ。

 

これは御心に適う賛美なのだ。

 

むしろ、このように賛美すべきなのだ。

 

クリスマスの天の大軍の賛美を誰にも止められないように、この賛美も御心に適う賛美なのだから、止められるものではない。

 

この賛美は御心に適うものなのだ。

 

もし止めれば、口を持たない石だって大声で賛美しだすだろう。

 

賛美とはそういうものなんでしょうね。

 

これは私たちの賛美もそうですね。

 

天から御心が下されて、私たちのところに平和が実現することを願う時、そのつもりで私たちが賛美するとき、その賛美を、神様は御心に適うものとして確かに聞きあげてくださる。

 

その賛美は、止められることがない。

 

どんな力も、その賛美を止めることができない。

 

賛美というのは神様が伴ってくださるものなんですね。

 

もう本当にすぐそばで聞いてくださる、すぐそばに神様がいてくださって、私たちを包んでくださる、そういうものなんでしょうね。

 

賛美というのは天のもの、神のものなんですね。

 

それが賛美です。

 

この日からほんの数日の内に、イエス様は逮捕されて十字架につけられることになります。

 

その時、弟子たちは全員、逃げ出してしまいます。

 

賛美どころか、弟子の一人は、あなたはイエス様の弟子ではないのかと言われて、それを三度も否定することになります。

 

一体イエス様はどのような思いでこの賛美を聞いておられたでしょうか。

 

それでもイエス様はおっしゃるんですね。

 

今はこれで良いのだ。

 

これはまさにイエス様が弟子たちの目線で、弟子たちと一緒に歩んでくださっているということではないでしょうか。

 

だからこそ、弟子たちがイエス様を見捨てても、イエス様は弟子たちを見捨てないんですね。

 

一緒に歩んでくださっているからこそです。

 

イエス様は弟子たちの目線に合わせてくださっている。

 

弟子たちのために進んでいってくださる。

 

そして、賛美を許してくださる。

 

この時、弟子たちはこれからどうなるか、分かっていませんでした。

 

それは、私たちもそうでしょう。

 

私たちにも、未来のことは分からないです。

 

けれども、私たちは賛美する。

 

私たちの救い主を賛美する。

 

もう弟子たちと同じように、自分と同じ目線でイエス様が歩んでくださっていることを知った時、感動して、抑えきれない思いで、賛美する。

 

そして、その賛美の言葉が結局、実現していくんですね。

 

弟子たちはこう歌いました。

 

「主の名によって来られる方、王に、

 

祝福があるように。

 

天には平和、

 

いと高きところには栄光。」

 

この言葉が結局、実現するんですね。

 

それが御心に適うものだからです。

 

それは私たちの賛美もです。

 

私たちの賛美も、御心のままのものです。

 

だからイエス様はそれを止めたりなさらない。

 

賛美し続けましょう。

 

その賛美の言葉は、私たちに実現します。

 

今日、私たちは、その約束の言葉を聞いたのです。