
【今週の予定】
●8/1(火)東部・東北・東関東の三中会合同修養会(栃木県日光市、3日〔木〕まで)
●8/5(土)牧師週休日
●8/6(日)礼拝(聖餐式あり、10:30—12:00)、お茶会(12:00-13:00)、小会(13:00-)、掃除
★8/6(日)の説教:尾崎牧師
聖書:ルカによる福音書20章1-8節
説教題「わたしも言うまい」

ルカによる福音書19章41節から48節
41エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
45それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
エルサレムに近づいて、いよいよ都が見えてきました。
今、イエス様たちはオリーブ畑という山にいます。
この山については、先週の場面に出てきていました。
今、イエス様たちはその山を登り切って、下っているところです。
オリーブ畑という山があって、その西側が谷になっていて、そのさらに西にエルサレムがあります。
ですから、今イエス様たちがいるところからは、エルサレムの町が良く見えるんですね。
現在、その場所には、「主の嘆きの教会」という教会が建っています。
「主の嘆きの教会」。
イエス様がここで嘆いた。
ここで泣いた。
その場所に教会を建てたんですね。
この場所で、イエス様が泣いたということが今日の第一の場面です。
なぜイエス様は泣いたんでしょうか。
それも、ここでつかわれている泣くという言葉は、大声で泣くという意味の言葉です。
ほんの少し涙をこぼしたとか、そういうことではないんですね。
イエス様はここで、大声で泣いたんです。
その理由が、イエス様の言葉の中にありますね。
エルサレムの人たちは、平和への道をわきまえていないんですね。
どの道を選んだら平和につながるのか、何をどうしたら平和につながるのか、それが分かっていないんです。
だから、大変なことになるぞということが言われていますね。
ここのところのイエス様の言葉は恐ろしいですね。
もう、エルサレムの町はなくなってしまうんですね。
戦争が起こって、攻められて、町が滅ぼされてしまうんです。
人々が、平和への道をわきまえていなかったからです。
実際、この場面の40年後に、このようなことが起こりました。
エルサレムの人たちは当時エルサレムを支配していたローマ帝国に対して反乱を起こしました。
けれども、結局、エルサレムはローマ帝国に滅ぼされてしまったんですね。
その責任はエルサレムの人々自身にあるとイエス様は言います。
そして、最後に、こう言っていますね。
「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。
平和への道を知らないというのは、そういうことだということですね。
神様が訪れてくださっているのに、それを知らないでいる。
知ろうともしない。
それは、まさにこの時のことです。
イエス様がエルサレムに入ろうとしているのに、エルサレムの人々はどうでしたか。
39節にありますけれども、弟子たちがイエス様のことを賛美しているのに、エルサレムの人たちはそれを止めさせようとしたんですね。
エルサレムの人たちは、イエス様を迎えようとしなかったんです。
イエス様がエルサレムを訪れてくださっているのに、それを知らないでいる。
知ろうともしない。
神の訪れてくださる時は今なのに、それをわきまえていない。
そのことが、後になって、大変な結果になる。
神の訪れてくださる時をわきまえていないこと、平和への道をわきまえていないことが、後になって、町を滅ぼすことになる。
イエス様は泣いておられます。
大声で泣いておられます。
これは、胸を締め付けられる場面ですね。
私たちの涙をぬぐってくださるはずの方が、大声で泣いているんですね。
人々のことを心にかけてくださっているからです。
人々のことを、真剣に考えて、人々と、真剣に向き合ってくださり、いつも心にかけてくださる方だからです。
ですので、ここのところに、神が訪れてくださるという言葉がありますけれども、この訪れるという言葉は、原文では、心にかけるとも訳せる言葉なんです。
この、訪れる、心にかけるという言葉がつかわれた場面が他にもあります。
この福音書の7章11節から17節の場面です。
「やもめの息子を生き返らせる」という場面がありました。
ある女性が、それも夫のいない女性が、たった一人の息子を亡くしてしまったんですね。
女性は当然、大声で泣いています。
今日のイエス様のように、大声で泣いている。
イエス様は言うんですね。
「もう泣かなくともよい」。
そして、一人息子を生き返らせるんですね。
この時、人々は喜んで言いました。
「神はその民を心にかけてくださった」。
心にかけてくださるんです。
泣いている私たちのことを心にかけてくださって、私たちを訪れてくださって、涙をふいてくださるんです。
それがイエス様なんです。
それなのに、今日、そのイエス様が大声で泣いています。
それほどに、エルサレムの人たち一人一人のことを心にかけているんです。
私は神様のもとからつかわされた。
今、私を通して神様があなたを訪れている。
どうかそのことを受け入れてほしい。
あなたの心に神様を迎えてほしい。
イエス様は本気でそう願っているんですね。
けれども、人々は神様を迎えたくないんです。
それは、自分よりも上に何かを置くということをしたくないからです。
たとえ神様でも、自分の上には置きたくはないんですね。
それが明らかになるのが次の場面です。
次の場面では、イエス様は今度は怒りを現されます。
これは、神を神として認めない者たちへの怒りです。
イエス様は、神殿で商売をしていた人たちを追い出しました。
神殿の境内で商売をしていた人たちというのは、両替人とハトを売る人です。
両替人は、世の中で普通につかわれているお金を神殿専用のお金に両替していました。
神殿で神様にささげることができたのは、神殿専用の清いお金だけだったんですね。
ですから、この両替は、人々が神様に献金するために必要なことだったんです。
そして、神殿でしていた商売のもう一つはハトを売ることですけれども、このハトも、神様にささげるためのものでした。
お金のある人は羊をささげるんですが、そこまでお金のない人は、羊の代わりにハトをささげたんですね。
そして、神様にささげる動物には傷があってはいけないんですね。
少しでも傷があったら神様にはささげられない。
そして、少しも傷がないということを、お金を払って祭司に認定してもらわなければいけなかったんですね。
自分で捕まえてきたハトだったら、捕まえるときにケガをさせてしまうかもしれませんし、持ってくる途中でけがをさせてしまうかもしれません。
ですから、多くの人は、神殿で売られている、傷がないと認定されたハトを買ってささげたんですね。
ですので、両替もハトを売ることも、神殿に礼拝しに来た人たちのためになされていたことなんです。
それなのに、イエス様は、ここは強盗の巣になってしまっている、神様の家は祈りの家のはずなのに、強盗の巣になっている、ここにいる人はみんな強盗だと言うんですね。
強盗というのは、力づくで奪い取ることです。
しかし、ここにいる人たちは、誰から何を奪ったというのでしょう。
何を強盗したんでしょうか。
神様にお金をささげることは、自分の働きの一部を神様に差し上げることですね。
神様にハトをささげることは、犠牲をささげることで、犠牲をささげて、自分が犯した罪をつぐなうことです。
それは旧約聖書に書かれていることで、間違ったことではありません。
しかし、イエス様はここで、神殿は本来祈りの家だとおっしゃるんですね。
つまり、あなたがたの心の中に祈りがない、あなたがたは神様と真剣に向き合っていないと言うんですね。
もし、神様と真剣に向き合っていないのに、お金や動物をささげているとしたら、どうでしょうか。
心は神様に向かっていないのに、神様のことを心にかけていないのに、お金や動物をささげてはいるんですね。
そうなりますと、ささげものをすると言っても、それはもうささげものではないですね。
ささげものというよりも、それはもう、お金を払うから、神様、私を祝福してくださいっていうことじゃないですか。
これが強盗ということでしょうね。
神殿にいる人たちは、神様から祝福を力づくで奪い取ろうとしているんです。
神様を神として認めていないんです。
ここにいる人たちは、神様にお仕えしているんじゃなくて、神様を自分に仕えさせているんです。
自分の方が上なんです。
イエス様は、そうじゃないと言っているんですね。
祈りなさい、神様と真剣に向き合いなさいと言っているんですね。
イエス様が、神殿での祈りについてお話になった場面がありましたよね。
この福音書の18章13節です。
その人は、このように祈りました。
「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」。
祈りの言葉はそれだけです。
たったそれだけの言葉を、その人は、胸を打ちながら祈ったんですね。
胸を打つという悲しみを現すジェスチャーをしながら、一生懸命祈ったんです。
そして、目を天に挙げることもしない。
うつむいて、神様、自分なんかは神様にはふさわしくありません。
でも神様、どうかわたしを憐れんでください。
わたしのことを心にかけてください。
そのような祈りが神様の御心にかなうんだということをイエス様は言ったんですね。
これは一つの例ですけれども、神様に真剣に向き直るということ。
それを神様は良しとしてくださるということ。
神様の家は祈りの家なんですから、真剣に神様に向き合って祈ることこそ、私たちがするべきことです。
今日の場面に戻りますけれども、今この神殿には大勢の人がいて、神様を礼拝しています。
それは、目に見える姿としては、大変信仰熱心であるように見える。
けれども、人々の心の中にあるものはどうでしょうか。
イエス様は、そのことを正そうとしたんですね。
けれども、それに対して、指導者たちは、イエス様を殺そうとするようになっていくんですね。
もうまさに、神を神として認めないんです。
もうこれは本当に、平和への道をわきまえていないということです。
エルサレムという町の名前は、神の平和という意味になるんですけれども、神の平和への道から、もう全く外れてしまっているんです。
神様に向き合わないばかりか、神様に敵対して、自分から平和を失ってしまっているんですね。
神様が私のことを心にかけてくださっていて、神様が私を訪れてくださっている、そう思える時にはいつも平和があります。
それは私たちだってそうです。
けれども、心にかけてくださる神様、訪れてくださる神様を神として認めない。
それどころか、敵にしてしまっている。
そうなるともう、平和なんてどこにもないですよ。
どんな状態であっても、神様が敵だったら、平和なんてありません。
この人たちは、この数日後には、イエス様を十字架に付けることになります。
その人間の愚かさ、罪深さのために、イエス様は大声で泣いて、激しく怒りました。
でも、それでも、大声で泣いて、激しく怒っても、イエス様は私たちのことを見放すことはできなかったんです。
私たちを見放していたら、イエス様は十字架にかかることもなかったでしょう。
でも、見放すことができない。
どうしたって見捨てられない。
だから、大声で泣くんです。
激しく怒るんです。
涙も怒りも、愛なんです。
血が噴き出るような愛です。
人が真剣に向き合ってくれなくたって、イエス様はこれ以上ないくらい、真剣に私たちに向き合ってくださるんですね。
もう、真剣なんです。
血が噴き出るくらい真剣なんです。
居ても立っても居られない。
だから、私たちを訪れてくださるんですね。
イエス様は、いつか、ある時、私たちを訪れてくださった。
私たちのために大声で泣いたこともあったかもしれません。
激しくお怒りになったこともあったかもしれません。
けれども、今、私たちはここにいるんです。
私たちは、神様が訪れてくださる時をわきまえていたんです。
これが平和への道です。
今この礼拝においても、神様は私たちを訪れてくださっています。
礼拝の中で、私たちは祈ります。
神様に向き直ります。
そして、平和への道をここから歩みだしていきます。
それが今です。
それがここです。
神様が訪れてくださる今、ここから、歩みだしましょう。
神様が私たちのことを心にかけてくださっている。
そのことを、私たちは知ることになるんだと思います。
私の話になりますが、私は、ある牧師から、大声で怒られたことがあります。
それも、何十人も人がいる前で、大声で怒られたことがあります。
それは、神学校で学んでいた時、神学校というのは神の学校と書きまして、牧師になるために勉強するところですが、その神学校で、最終学年になって、卒業論文の発表をした時のことです。
卒業論文を書くためには、神学生一人一人に指導してくださる先生が付いてくださいます。
その先生といろいろ相談をしながら、卒業論文を作っていくんですね。
私の出身教会の先生が私の指導をしてくださることになりました。
その先生は元は学者だったんですが、詩の研究、ポエムの研究をするためにイスラエルにわたって、イスラエルのヘブライ大学という大学で、日本文学を教えながら詩の研究をしていた人でした。
その時にキリストがその先生を訪れてくださって、その先生はクリスチャンになりました。
イスラエルではクリスチャンになってしまうと仕事はクビになってしまいますので、その先生は日本に帰ってきて、神学校に入って牧師になったんですね。
私がキリストに出会ったのはその先生を通してでした。
その先生を通して、キリストは私を訪れてくださったんですね。
私も昔、勉強していて、それは現代思想、まあ、哲学なんですけれども、哲学を勉強していて、その先生も哲学がお好きだったものですから、読んできた本が本当に私と先生とで似通っていて、ですから話が合うんですね。
哲学の本だけではなくて、シャーロック・ホームズが好きだということも共通していて、その先生が私のことを認めてくださったので、私も神学校に入ることができたんです。
ただ、その先生が私のことを認めてくださったというのは、学者としてなんですね。
神学校という場所は、勉強はそれはもちろんしますけれども、学者を作る場所ではありません。
ですので、神学生は全部で20人以上はいましたけれども、本気で研究ということまでするような人は一人もいないんですね。
やっている勉強というのは、授業の予習復習や、試験勉強くらいです。
私も、それくらいのところをちゃんとやっておけばいいかと思って、先生がたから教わったことを頭の中に入れることくらいしかしていませんでした。
けれども、私の先生は私に、学者としての働きを願っておられました。
けれども、私はそこまでのことをするつもりはありませんでした。
その怒りが最後の最後で、卒業論文の発表の時に出てしまったんですね。
神学校の会堂に神学生全員と教授たちが集まって、発表をするんですね。
他の先生方は私の発表をほめてくださったんですけれども、その先生は大声で怒りました。
こんなものでは足りない。
これは研究の準備段階の話だ。
こんなものを出してくるなんて、本気で学ぶつもりがあるのか。
私は、あなたが神学校に入学する前に、横を見てはいけない、上を見上げろ、人を見るとつまづくから、神様を見上げて学べと何度も言った、それなのに、あなたはその私の言葉を聞いていなかった、あなたは横にいる人たちを見た、そして、それくらいでいいと勘違いしてしまった。
顔を真っ赤にして、大声でそう言ったんですね。
びっくりしました。
聞いていた人たちもびっくりしたと思いますね。
その先生は普段、ものすごく穏やかで口数も多くはない人でしたから。
私はうつむいているしかありませんでした。
ただ、発表が終わった後、一人の神学生が私に言いました。
「あの先生がどれほど尾崎さんを愛しているのかが良く分かりました」。
そうです。
愛しているから、怒るんです。
その先生は、私を思って泣いたこともあったんじゃないですか。
その先生は私に洗礼を授けてくださった先生で、私を神学校に入学させてくださった先生なんですけれども、残念なことに、その時以来、今に至るまで、その先生ときちんとお話をしたことはありません。
ただ、時々、その先生からいただいた本が私の本棚に入っていますので、それを見ては、先生のことを思い出しています。
私は先生の愛にふさわしかっただろうか。
どうすれば良かったのだろうか。
色々と考えますが、5年たっても答えは出ていません。
ただ、居ても立っても居られないくらいの、もう、血が噴き出るようなキリストの愛を、私は、その先生を通して受け取ったのです。
それは私だけではありません。
その同じ愛が、皆さんにも及んでいます。
今日、キリストは、そのような思いをもって、私たちを訪れてくださっているのです。
どうぞそのキリストを迎えてください。
そこから、平和への道が始まります。