今週の説教「わたしも言うまい」(新約聖書・ルカによる福音書20章1節から8節より)

【今週の予定】

●8/8()チャリティー・ゴスペル・ライブに向けてのオカリナの音合わせ(14:00-16:00)

 

●8/9()洗礼準備会(13:00-14:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

 

●8/10()牧師週休日

 

●8/13()礼拝(10:3012:00)、お茶会(12:00-13:00)、埼玉西部地区815集会(坂戸教会、14:30-17:00)掃除

 

★8/13()の説教:尾崎純牧師

 

聖書ルカによる福音書209-19

 

説教題「ぶどう園と農夫」

 

ルカによる福音書201-8

 

1ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、2言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」3イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。4ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」5彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。6『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」7そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。8すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

 

 

 

 

先週の場面では、イエス様は神殿の境内、境内というのは庭ですが、神殿の庭で商売をやっていた人たちを追い出しました。

 

これは大変なことですよね。

 

神殿の庭で商売をやっていた人たちは勝手にやっていた訳ではなくて、ちゃんと許可をもらってやって商売をしていたんですね。

 

神殿の祭司から許可をもらって、店を出していたんです。

 

祭司がそれでいいと言ったんですね。

 

それなのにイエス様は、商売をやっていた人たちを追い出したんです。

 

これは祭司の側からするととんでもないことです。

 

ですので、前の場面の47節に書かれていますが、祭司長、律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺そうと考えたんですね。

 

この人たちからすると、自分たちが神殿を守っているのに、イエス様は自分たちを無視して、自分たちにとって嫌なこと、困ることをしているわけです。

 

だったらもう生かしておけない。

 

殺してしまおうと考えたんですね。

 

恐ろしいことですが、殺してしまってもいいと考えたんです。

 

もうそれくらい、自分の考えが絶対になってしまっているんですね。

 

結局、今日の場面に同じ言葉が何度も出てきますけれども、権威ですよね。

 

この人たちは、自分に権威があると信じていて、その権威が傷つけられるなんていうことがあってはならないと考えているんです。

 

けれどもその権威は、どのくらいのものなんでしょうか。

 

48節を見ますと、この人たち、どうすることもできなかったんですよね。

 

どうしてかというと、民衆がみんな、夢中になってイエス様の話を聞いていたからです。

 

つまり、いきなりイエス様を殺してしまうと、民衆は自分たちから離れていってしまう。

 

もうだれも、自分たちの言うことを聞かなくなる。

 

それは、権威が全くなくなってしまうということですよね。

 

それを恐れているんですね。

 

人を殺しても構わないと考えている一方で、人を恐れている。

 

けれども、自分の権威が傷つけられて、黙っていられなくて、この人たちは今日、イエス様に質問するんですね。

 

質問して、イエス様が不利になるような答えをさせて、それを理由にしてイエス様を殺してしまおう、そうすれば、だれも文句は言わないだろうという考えです。

 

質問するというか、もう、問い詰めているような感じですけれども、「我々に言いなさい」なんて言って、これなんてもう、権威丸出しの言葉ですよね。

 

イエス様を問い詰めるんです。

 

「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。

 

イエス様はこの時、神殿の境内で民衆に話を聞かせていました。

 

これもこの人たちにとっては嫌なことだったでしょうね。

 

神殿という、自分たちの場所で、イエス様が話をしている。

 

その話に、民衆が聞き入っている。

 

これもこの人たちにとっては権威を傷つけられる出来事です。

 

それで、この人たちは聞くんですね。

 

自分たちの権威を傷つけるような、そんな大きな権威を、お前はどこのだれから与えられたのか。

 

権威ということを問題にするんですね。

 

そして、イエス様は祭司でも律法学者でも長老でもありませんから、だれからも権威を与えられていないじゃないか、ということにして、権威がないのに自分たちの権威を傷つけたということで、イエス様を殺してしまおうという考えです。

 

これは考えさせられることですけれども、私たちはみんな、権威というものを気にしますね。

 

だれかが何かを言ったとして、それがただの人の意見だったら、あんまり気にしない。

 

でも、その道の専門家が言ったとしたら、それを信じてしまう。

 

信じてみようという気になってしまう。

 

私も、そういうことがありました。

 

私の場合は、髪の毛が少なくなっていることを気にしているわけですけれども、広告を見ていて、「これで髪の毛が生えます」なんて書いてあったりする。

 

それも、どこかのお医者さんがそう言っている。

 

そうなると、もう信じてしまう。

 

というか、信じたい。

 

だまされてもいいから信じたい。

 

そういう気持ちになることって、ないでしょうか。

 

きっと、少しはあると思うんですね。

 

だから、その道の専門家という人が広告に出てくるんです。

 

けれどもそこでそれを買おうとすると、私よりもっと権威のある人に「これ買っていいかな」と聞いて、お許しをいただかなくてはいけない。

 

人間というのは権威に弱いんですね。

 

まあだから今日の場面で権威ということが問題になっているんですけれども、だれからの権威なのかと聞かれた時、イエス様はそれにすぐにはお答えになりませんでした。

 

質問に質問で返したんですね。

 

「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。

 

権威と言っても、それが天からの権威なのか人からの権威なのかを問題にしているんですね。

 

祭司長や律法学者や長老たちは、イエス様は祭司でも律法学者でも長老でもないじゃないか、だれからも権威を与えられていないじゃないか、そういうふうに問い詰めたんですね。

 

でもそれは、人からの権威ということを問題にしているんですね。

 

というか、人からの権威ということなら、こんなふうに問題にすることができるわけです。

 

人からの権威は、与えられているのかいないのかがはっきりしていますから。

 

でも、イエス様は、そうじゃないんだということですね。

 

天からの権威なのか、人からの権威なのかが問題だと言うんです。

 

人からの権威には、どこまでも信頼できるような権威はありません。

 

それはもう、この人たちを見ていれば分かります。

 

この、祭司長、律法学者、長老たち、この人たちは、権威を傷つけられたと怒っていますよね。

 

そうなんです。

 

人からの権威は、簡単に傷ついてしまうんです。

 

そして、イエス様を殺したいけれども、そうするとだれも自分の権威を認めてくれなくなるんじゃないかと心配して、今度はこんな、だれからの権威かなんてことを問題にして、イエス様がまずい答え方をするのを待っている。

 

人からの権威というのはこんなものなんですね。

 

ただ、ここでひとつ立ち止まった考えたいことがあるんですが、イエス様はこの時、「ヨハネの洗礼」ということを持ち出しているんですね。

 

このヨハネというのはどういう人だったかというと、イエス様が登場してくる準備をした人で、もうすぐ神様のもとから救い主イエス様が来るから、それまでに、悔い改めて洗礼を受けるようにと人々にすすめたんですね。

 

それが「ヨハネの洗礼」です。

 

たくさんの人がヨハネの言ったことを信じて、洗礼を受けたんですね。

 

ではどうしてイエス様がここでその「ヨハネの洗礼」を持ち出すのかと言いますと、ヨハネはイエス様と似ているんですね。

 

ヨハネもイエス様と同じ、人からの権威を受けなかった人でした。

 

ですので、世の中の、権威があるとされている人たちから嫌われるんですね。

 

今日の言葉で言うと、祭司や律法学者や長老たち、こういう人たちはヨハネを嫌ったんですね。

 

そして、最後には、殺されてしまうことになります。

 

ヨハネはイエス様と同じように、民衆からは人気があった人だったんですが、最後には権力者によって殺されてしまうことになりました。

 

この人のことをイエス様は持ち出しました。

 

そうすると、彼らはどう答えようかと相談するんですね。

 

このイエス様の質問は彼らにとっては困ったものでした。

 

まず、自分たちはヨハネの言葉を信じなかったから、天からの権威だとは言えないし、そんなことは言いたくない。

 

けれども、ヨハネの権威は人からの権威だったんだと言えば、民衆は怒り出すだろう。

 

そうなったら自分たちは生きていられない。

 

こんなことを相談するんですね。

 

そして結局、「どこからか、分からない」と答えるんですね。

 

しかし、ここで彼らが相談していたことは、どうでしょうか。

 

彼らが考えているのは、自分の立場をどうやって守るか、ということだけです。

 

真実はなんであるのかなんてこと、彼らは少しも考えていません。

 

自分の立場を守りたいということだけです。

 

もっと言うと、この人たちは、神の権威に従うつもりがないんですね。

 

この人たちは、権威を利用したいだけです。

 

神様に従うつもりはありません。

 

神からの権威ということなんて、考えてもいなかったんです。

 

彼らが与えられているのが人からの権威だからです。

 

人からの権威だから、人の顔色をうかがうんですね。

 

神様のことは考えない。

 

そして、その権威を自分のために利用することだけ考えている。

 

神様の権威に従うなんてことは考えもしない。

 

そして、この人たちは結局、自分の権威を自分で手放しています。

 

この人たちは専門家ですよね。

 

それなのに、この人たちは、「分からない」と答えた。

 

民衆だってみんな、ヨハネの権威は神からの権威だったと知っているのに、この人たちは「分からない」としか言えないんです。

 

こうなるともう、この人たちに権威なんてありません。

 

権威を自分から手放してしまったんです。

 

というか、神からの権威の前では、人からの権威は通用しないんです。

 

今日の話を読んでいても分かりますが、人からの権威をおびていると、結局、自分を守ろうとするようになります。

 

けれども、守ろうとしても守りきれないくらい、実はそれは弱いものなんですね。

 

人の顔色をうかがわなければならないような、弱いものなんです。

 

神からの権威の前で、それが明らかになってしまうんですね。

 

そして、この場面で、もっと大事なことが示されています。

 

イエス様は今日、質問に対して質問をお返しになりました。

 

イエス様は時々、こういうことをなさいますよね。

 

敵対する人から質問されて、それにすぐに答えずに、質問を返す。

 

その質問は、人からの権威にこだわっていたのでは答えられない質問で、神からの権威に従うならすぐに答えられる質問です。

 

それを、イエス様の方から質問をなさるんです。

 

質問をなさって、イエス様が人からの権威ではなく、神からの権威で働いておられることを明らかにするんですね。

 

その質問の前に、私たちも立たされています。

 

私たちとしても、イエス様に聞きたいことがたくさんあります。

 

どうしてこういう事が起こるのですか。

 

これはどのように考えればいいのですか。

 

質問したいことがたくさんあります。

 

しかし、そのような時に、イエス様の方から質問が返ってくるんですね。

 

その質問は、結局のところ、このように聞いてきます。

 

あなたは、神からの権威に従うか。

 

大事なのはそこです。

 

神からの権威に従うこと。

 

人からの権威を手放すこと。

 

私たちもみんな少しは持っている、人からの権威。

 

それを手放すことができるかどうか。

 

手放して、神からの権威に従うことができるかどうか。

 

それによって、私たちは、信仰を確かにされていくんです。

 

逆に言って、信仰というのは、質問して、それに答えて教えてもらったら信仰が深まるというものではないということですね。

 

人ではなく、神を見上げること。

 

それが信仰です。

 

イエス様は私たちの信仰をきたえるために、そのような質問を私たちにも返してくるのだと思います。

 

祈って祈って、それでも答えが与えられないことがあります。

 

私たちとしては、どうしてですか、と聞きたくなります。

 

祈りの中で、どうしてですか、という言葉が出てきます。

 

でも、その時に、気づくんですね。

 

祈って、質問して、答えは与えられなかった。

 

それでも、私は確かに、以前よりも神様に従うことができるようになった。

 

その時、私たちは、神様から質問されていたと思うんですね。

 

あなたはわたしの権威を認めるのか、と質問されていたと思うんです。

 

その中で祈る時、私たちは神様に近づけられていく。

 

イエス様はそのように私たちを導いてくださるんだと思うんですね。

 

もうずいぶん前のことのように感じられますが、私の兄は39歳でこの世を去りました。

 

39歳です。

 

あまりにも早すぎる死です。

 

私は神様に祈りました。

 

神様、どうしてですか。

 

答えは与えられません。

 

兄を生き返らせてくださいとも祈りました。

 

愚かなことですが、本気でそう祈ったんです。

 

けれども、祈りは聞かれません。

 

けれども、祈る中で、私たちに命を与えてくださる神様、この世のどんな権威よりもはるかに権威のある神様に思いが向かうようにされていきました。

 

考えられないようなことを祈ってしまって、でも、一生懸命祈る中で、神様の権威について考えて、その権威に圧倒される思いが与えられたんですね。

 

そのあまりにも大きな神様が、私たちに命を与えてくださっている。

 

私たちにとって最も大切なものである、私たちの命。

 

それを神様が与えてくださる。

 

神様は私たちを愛してくださっている。

 

それは、私たちが生きている限りでのことではありません。

 

神様は、私たちの命を超えて、神様です。

 

永遠に私たちを愛してくださる、ただお一人の方なんです。

 

だからこそ、神様は私たちに、人の権威にではなく神の権威に従うようにおっしゃいます。

 

そして、私たちに質問なさるんです。

 

私たちがもっと確かに神様に従うようになるためにです。

 

実は私たちは毎週、礼拝の度に神様から質問を受けて、その質問に答えています。

 

礼拝の中で、私たちは、ウェストミンスター小教理問答の問いと答えを読みますね。

 

キリスト教会は伝統的に、問いと答えで信仰を言い表すことを大切にしてきました。

 

大事なのは、その問いはだれが問うのか、ということです。

 

この問いは、信仰を求めている人が質問をして、牧師がそれに答えるというようなことではないんですね。

 

実はこの問いは神様からの問いなんです。

 

私たちは毎週、神様から問いかけられているんです。

 

神様からの質問に、私たちが答えるんですね。

 

神様から問いかけられて、それに答える中で、私たちは神様に従うようにされていくんです。

 

ただ、従うと言っても、それは、がまんして嫌々ついていくというようなことではありません。

 

そもそも今日、イエス様は、民衆に何を話しておられましたか。

 

イエス様は、福音を告げ知らせていたと書かれています。

 

福音、原文では単に、良い知らせ、という言葉ですが、神様が私たちを救ってくださるという良い知らせですね。

 

そのために、イエス様は、私たちの罪を代わりに背負って十字架にかかってくださいました。

 

このことにしても、世の人たちは疑問を感じるでしょう。

 

本当にそんなことがありえますか、と質問したくもなるでしょう。

 

その質問を神様に向かって、していいんですね。

 

神様は問い返します。

 

あなたは私の権威を認めるか。

 

その時、神様の権威に従うことができるかどうか。

 

ただ、それは何も難しいことではないと思うんです。

 

今日の話を見ても分かるとおり、人からの権威は人を押さえつけて、事によっては人を殺そうとします。

 

けれども、神はどうでしょうか。

 

命を与えてくださり、その命が永遠であるようにと、私たちに代わって命を投げ出して下さるのです。

 

神の権威は、自分を守るためではなく、私たちを守るためだけに発揮されるのです。

 

神様の権威は、私たちへの愛によって発揮されるんです。

 

その権威の中に、私たちは入れられているんです。