今週の説教「愛がなければ」( コリントの信徒への手紙第一12章31節後半から13章7節)

コリントの信徒への手紙第一1231節後半から137

 

31そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 

4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 

 

 

 

 

最初のところですが、もう何か、いきなり高らかに宣言されているような感じですね。

 

「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。

 

こう言うんですね。

 

こんな言葉、聞いたことがありません。

 

聞いたことがあるとしても、それはもう、誰でも、こんな言葉を聞いたら、疑いを抱くのではないかと思います。

 

けれども、この手紙を書いたパウロは、自分が建てたコリントの教会の人たちに対して、どうしても言いたいことがあって、この手紙を書いているんですね。

 

ですから、パウロとしてはもう、必死の思いでこう言っているんですね。

 

お願いだから話を聞いてくれ。

 

そういう思いで、パウロは言うんですね。

 

「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。

 

パウロは何も、自分の方が立場が上で、自分の方が偉いんだから、お前たちに教えてやるよとか、そういうつもりはないんですね。

 

そういうつもりではなくて、もう必死なんです。

 

分かってほしいんです。

 

このコリントの教会はパウロが建てたんですが、いつの間にか、問題の多い教会になっていました。

 

けれども、どうにかして立ち直って欲しい。

 

それでパウロは必死になって、こんなにも長い手紙を書いたんですね。

 

ですので、余裕を持って、上から下に、教えてやるよなんていう気持ちではありません。

 

これだけは分かってくれ、これがクリスチャンということなんだ、そういう気持ちで書いているんですね。

 

パウロの言う最高の道、それは、愛ということです。

 

愛が最高の道だ、と。

 

なるほど、聖書にふさわしい言葉です。

 

ただ、愛が最高の道である、愛が道であるというのはどういうことでしょうか。

 

道というのは、そこを通ってどこかに行く、そういうものですよね。

 

道を通らなければ、どこにも行くことはできません。

 

道は目的地ではないですけれども、道を歩かないなら、今の場所に留まり続けるしかありません。

 

私たちを今いる場所から目的地に連れて行ってくれるもの。

 

それが愛なんですね。

 

ですから、その人にどんな能力があっても、どんなことをしたとしても、愛がないなら、なんにもならない。

 

パウロはそう言うんですね。

 

1節から3節で、パウロはそういう話をします。

 

愛がなければ無意味だ。

 

パウロはそのことを繰り返し言います。

 

最初のところに異言という言葉が見えますけれども、異言というのは、言葉は言葉なんですが、世界中のどの言葉とも違う言葉です。

 

その人オリジナルの言葉、と言ったらいいでしょうか。

 

誰にも意味がわからない言葉です。

 

けれどもその言葉は、神様が特別にそのような言葉を話せるようにしてくださっているんだと考えられていたんですね。

 

ですから、立派な信仰があるから異言が語れるんだ、異言を語るのは、信仰の表れだと考えられていました。

 

パウロはそのこと自体は否定しません。

 

けれども、言うんですね。

 

そんなのは、「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」。

 

うるさいだけだ、と言うんですね。

 

続けて、2節では、預言する賜物があっても、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていても、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、無意味だと言います。

 

かなり大胆なことを言い出しました。

 

預言というのは、神の言葉を語ることですね。

 

これを「説教」と言い換えても構いません。

 

それほど説教が素晴らしくても無意味だと言うんですね。

 

その次の、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じているということは実際にはないのでしょうが、もしそうであったとしても、やっぱり無意味だと言うんですね。

 

そして、「山を動かすほどの完全な信仰」、これは、キリストが、「信じて疑わずに、山に向かって海に入れと命じたらその通りになる」とおっしゃったことから来ています。

 

全く純粋に疑いなく信じきるということがあれば、全てその通りになるということですね。

 

けれども、そうであったとしても、愛がないなら無意味だとパウロは言うんですね。

 

3節でさらにパウロは言います。

 

「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」無意味だ、と言うのです。

 

ただ、ここで思うんですね。

 

「全財産を貧しい人々のために使い尽く」すということは、愛がなければできないんじゃないでしょうか。

 

パウロは、そうではない、と言うんですね。

 

これは次の、「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」ということを考えてみれば分かります。

 

私たちが良いことをしようとするとき、自分の中に自分を誇る思いがあることに気が付くことがあります。

 

ことによると、自分を誇るために良いことをすることがないとは言えません。

 

それが非常に極端になった場合には、自分を誇るために全財産を施したり、命を投げ出したりすることだって、ないとは言えないのではないでしょうか。

 

昔、日本の侍は、人から侮辱されたら切腹したのだそうです。

 

それはまさに、自分の誇りを守るために命を投げ出したんですね。

 

ただそれは必ずしも悪いこととは言えないと思います。

 

誇りを全く失ったらおしまいだとも言えます。

 

聖書は、自分を誇るなと言いますけれども、そして、「誇るなら主を誇れ」と言いますけれども、神様を自分の主人として誇りとすることは、主のしもべである自分を誇りとすることでもあります。

 

何より、人間というものは、聖書的に言うなら、動物とは全く違っていて、神様の似姿に造られたんですね。

 

そう考えましても、誇りを全く失ってしまうというのは人間として健全な状態ではありません。

 

ただ、外側から見て、誰にもできないほど素晴らしい行いであったとしても、愛が全くないのにそうする場合があるんですね。

 

パウロはそれを指摘しているんです。

 

そして、それなら何の意味もないと言うんですね。

 

では一体、パウロが言う愛とは、どのようなものなのでしょうか。

 

ここからの話はもう、私たちが普通に愛と呼んでいるものとは違いますね。

 

パウロは、「愛は忍耐強い」と言います。

 

しかし、「忍耐」というのはがまんすることですよね。

 

それも、何か嫌なことがあった時にがまんすることです。

 

何か嫌なことがあることが話の前提になっているんです。

 

次に、「愛は情け深い」と言われます。

 

情け深いというのは、武士の情けという言葉がありますが、自分に関わりがない人や、もしかすると自分の敵に対してのことですよね。

 

やっぱりここでも話にそういう前提があるんです。

 

愛する相手は、自分の仲間であったり、自分の好きな人、自分にとって良い人というわけではないんですね。

 

そしてその次に、パウロは、愛というものをまた別の言い方でのべていきます。

 

それは、愛というのは、何かをすることではなくて、何かをしないことなんだということですね。

 

ここに挙げられているような、マイナスのことをしないということだと言うんです。

 

考えてみると、私たちは、マイナスの状況があるとマイナスのことをしようとする傾向があります。

 

プラスの状況でマイナスのことをする人は少ないかもしれませんが、マイナスの状況になると、自分自身がマイナスに傾いてしまうことがある。

 

やっぱりここでも話に前提があるんですね。

 

けれども、それをしない、それが愛だ、と言うんです。

 

そして最後に言います。

 

「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

これが愛だと言うんですね。

 

これはもう、私たちが普通に考える愛とは全く異なっています。

 

パウロの言う愛は、感情ではないんですね。

 

人間のあり方のことなんです。

 

ただ、パウロはここで、そのようになりなさい、とは一言も言っていません。

 

パウロはここまで、ただ、愛というものはこういうものだと宣言してきただけですね。

 

ではどうして、パウロは私たちの常識とは違うこんな話を話し続けてきたんでしょうか。

 

パウロは、キリストを思い描きながら、この話をしたのではないかと思うのです。

 

これは、誰よりもキリストに当てはまる話ですね。

 

4節から7節の愛という言葉をキリストという言葉に置き換えてみると、非常によく分かりますね。

 

キリストは忍耐強い。

 

キリストは情け深い。

 

ねたまない。

 

キリストは自慢せず、高ぶらない。

 

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

 

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 

これはキリストのことを言っているんです。

 

そして、そのキリストが、私たちを愛してくださっているんですね。

 

だからパウロは、ここでこんなにも一生懸命に語るんです。

 

キリストに愛されているんだから、キリストに似る者になりなさい。

 

身の回りのマイナスの状況に流されてしまわないで、愛をもって、罪に打ち勝つことこそが、私たちにふさわしいことなんだ。

 

実際パウロは、今、そのことを自分に言い聞かせるようにして、ここのところを書いているのではないかと思うんですね。

 

だからこそ、問題の多い教会に対して、それでも見捨てずに、一生懸命働きかけているんだと思うんですね。

 

そのパウロのように、キリストは、日々、私たちに働きかけてくださっています。

 

もう必死で、私たちに働きかけてくださっているんです。

 

その、声無き声に聞きましょう。

 

キリストに似る者でありましょう。

 

実際、私たちは、一番決定的なところで、キリストに似ています。

 

私たちは、神の似姿に造られたものであるということ。

 

そして、キリストと同じく、私たちも、洗礼を受けた時に神の霊を与えられているということ。

 

私たちは、一番決定的なところで、もう十分にキリストの似姿なのです。

 

そのことを心に収めて、罪の世に、愛をもって立ち向かっていきましょう。