今週の説教「神のものは神に」(新約聖書・ルカによる福音書20章20節から26節)

【今週の予定】

●8/22()牧師週休日

 

●8/23()ガス管取替え工事(9:00-12:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

 

●8/25()教会の土地建物の名義変更手続き(13:00-15:00)10/9(月・祝)のクリスチャン・アーティスト・フェスティバルIBUKIに向けての劇団稽古(19:00-22:00)

 

●8/26()夏休み土曜学校(10:00-12:00)洗礼準備会(12:00-13:00)

 

●8/27()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:3012:00)、お茶会(12:00-13:00)、女性会懇談会(13:00-14:00)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 

★8/27()の説教:尾崎牧師

 

聖書ルカによる福音書2027-40

 

説教題「生きている者の神」

 

第11回凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

日時:10月22日(日)14時30分から16時30分

会場:光が丘キリスト教会

是非お出かけください!

 

凪ゆうこ

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円

 

 

凪ゆうこゴスペル・スクール

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・見学500円

第2日曜13:00~14:30

第4日曜14:00~15:30

ルカによる福音書2020節から26

 

20そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。21回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。22ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」23イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。24「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、25イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」26彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

 

 

 

 

 

最初に、先週までのところを振り返っておきますけれども、ユダヤ教の権力者たちは、今までのところ、イエス様にやられっぱなしでしたね。

 

イエス様はユダヤ教の権力者たちにとって都合の悪いことを言ったりしたりするんですね。

 

そうするとイエス様に人気が出て、人々がみんなイエス様の方に行ってしまう。

 

ユダヤ教の権力者たちにとってはこれが面白くないんですね。

 

このままでは自分たちの立場がない。

 

何とかしてイエス様をやっつけたい。

 

はっきり言って、殺してしまいたい。

 

でも、やっつけるといっても難しいですね。

 

何しろ、人々はみんなイエス様の話を一生懸命に聞いているんです。

 

そんな状況でイエス様を殺してしまったりしたら、それこそ、ユダヤ教の権力者たちの立場がなくなります。

 

誰ももう自分たちの話を聞かなくなるでしょう。

 

というか、いくら権力者だといっても、人数は民衆の方が多いわけですから、みんなに信頼されているイエス様を殺したりしたら、自分たちも殺されてしまうかもしれません。

 

そのことが、今日の場面の直前の19節に書かれていますね。

 

ユダヤ教の権力者たちは民衆を恐れているんです。

 

そこで、彼らは作戦を考えました。

 

自分たちがイエス様を殺したら自分たちの立場がその後大変なことになるから、自分たちでイエス様を殺すのではなくて、イエス様をローマ帝国に引き渡して、ローマ帝国にイエス様を死刑にさせようと考えたんですね。

 

ローマ帝国というのはこの時代、イスラエルも含めて、非常に広い地域を支配していた強い国です。

 

そのローマ帝国にイエス様を逮捕させようという考えです。

 

そうすれば、イエス様が殺されても、自分たちの立場が悪くなることはないですね。

 

ただ、ローマ帝国にイエス様を逮捕させるためには、イエス様に何か、ローマ帝国にとって良くないことを言わせなければなりません。

 

イエス様がローマ帝国にとって何かまずい事を言ってしまったら、それをローマ帝国に告げ口して、あのイエスという男はこういう事を言っていましたよ、逮捕したほうがいいんじゃないですか、と言えますね。

 

ユダヤ教の権力者たちは、そういう、ローマ帝国がイエス様を逮捕する理由になるようなまずいことを言わせたいんです。

 

そのために、今回は回し者が用いられることになります。

 

この「回し者」という言葉は、英語の聖書では「スパイ」と訳されています。

 

スパイである回し者は、イエス様にたずねます。

 

「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」。

 

回し者はこのように言って、自分が信仰深い人間で、イエス様を尊敬しているようなふりをします。

 

ただ、ここでこの人が言っていることはどうなんだろうなあ、という感じなんですね。

 

この人は、イエス様はえこひいきしないと言っていますけれども、この「えこひいきなしに」という言葉は、直訳すると、「顔を受け入れない」という言葉なんです。

 

「顔を受け入れない」というのは、人の顔色をうかがうようなことはしないということです。

 

もちろんイエス様はそうです。

 

人の顔色をうかがうようなことはなさいません。

 

いつも神様を見上げて歩んでおられるんですね。

 

けれども、この回し者、スパイを送り込んだユダヤ教の権力者たちはどうだったでしょうか。

 

人の顔色をうかがってばかりですね。

 

彼らが考えていることというのは、自分たちの手でイエス様を殺してしまいたいけれども、民衆がイエス様を支持しているから、自分たちの手でイエス様を殺したら自分たちの立場がどうなるか分からないから、民衆の顔色をうかがって、じゃあ、ローマ帝国に死刑にさせよう、それだったら自分たちの立場は大丈夫だろう、ということですね。

 

この人たち、神様の顔色は全くうかがってないんです。

 

人の顔色だけをうかがっているんですね。

 

この人たちは宗教家って言えるんですかね。

 

神様のことはどうでもいい。

 

人が自分をどう思うか、それが全て。

 

こういう人たちなんですね。

 

ただ、こういう人たちほど、悪知恵が働くんですね。

 

回し者はこういう質問をしました。

 

「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。

 

この質問がもう、よく考えられた質問なんですね。

 

当時、ローマの皇帝はユダヤ人に税金を納めさせていました。

 

一人当たり、毎年1デナリオンを納めさせていたんですね。

 

1デナリオンというのは今で言うと大体1万円くらいです。

 

1年で1万円を納めるということですから、そんなに高くはないわけです。

 

ですので、これは金額の問題ではありません。

 

ただ、ユダヤ人たちにとって問題になることがありました。

 

ユダヤ人というのは神様が選んだ神の民ですね。

 

そのユダヤ人が外国に税金を納めるということになりますと、ユダヤ人にとっては、自分たちは神に選ばれているのに、外国人の下に置かれているということになってしまいます。

 

ですので、ローマ帝国に税金を納めるということは、ユダヤ人にとって問題だったんですね。

 

そして、問題になるのはそれだけではありませんでして、この税金を納めさせるために、ローマ皇帝が造らせた1デナリオンのコインそのものにも問題があったんですね。

 

1デナリオンのコインには、表面には皇帝の肖像が描かれていまして、「皇帝ティベリウス・神の子アウグストゥス」という銘が入っていたんですね。

 

しかもコインの裏面には、平和の神の姿で、皇帝の母親の肖像が描かれていたんです。

 

こうなりますと、ユダヤ人にとっては、このコインで税金を納めるというのは大変なことですね。

 

回し者は「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と質問していますが、このようなコインで外国に税金を納めることが律法に適っているのか、いないのか。

 

律法という言葉が出てきましたけれども、律法というのは旧約聖書の最初の5つの書物で、旧約聖書の中で一番大事な部分です。

 

その中にはたとえば、十戒なんていう決まりもあって、こういうことを守って生きていきなさいと言われているんですね。

 

十戒の第一戒は、神様の他にはどんなものでも神としてはならないということです。

 

けれども、デナリオンのコインには、ローマ皇帝が神として描かれているんですね。

 

だとしたら、このコインで税金を納めるのは、律法に適っているんでしょうか。

 

とても難しい問題ですね。

 

これについて、当時のユダヤ人たちの中には、この税金を納めることに反対する人もいました。

 

けれども、もし税金を納めないんだったら、ローマ帝国に逮捕されてしまうでしょうね。

 

それでもなお税金を払わないんだったら、もしかすると死刑にされてしまうかもしれません。

 

ですから、人々は、そこのところでローマ帝国の顔色をうかがって、どうしようもない現実としてそれを受けいれて、税金を納めていたんですね。

 

これ、皆さんだったらどうお考えになりますか。

 

もし皆さんがイエス様だったら、この回し者の質問に、どう答えますか。

 

「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。

 

これはとても難しい質問ですよね。

 

大事な問題ですし、それに、どう答えるかがとても難しいんです。

 

もしここでイエス様が「そんな税金は払わなくていい」と言ったとしたら、イエス様はローマ帝国に訴えられてしまいます。

 

そうならないためには、税金を払うことに賛成するしかありません。

 

けれども、もし税金を払うことに賛成したら、民衆はイエス様から離れていくでしょうね。

 

民衆がイエス様について来ているのは、この人こそがローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる救い主ではないか、と期待していたからです。

 

ですからイエス様がもし、ローマ帝国の税金を払いなさいと言ったら、もう誰もイエス様のところには来なくなるでしょうね。

 

そうなりますと、ユダヤ教の権力者たちは、もう民衆の顔色をうかがう必要はなくなって、直接イエス様に手を下してイエス様を殺すことができます。

 

ですのでこれは、とても難しい質問なんです。

 

税金を納めることに賛成しても、反対しても、イエス様は無事ではいられないんですね。

 

これはもう本当に、よく考えられた質問なんですね。

 

人の顔色をうかがう人たちというのはこういうところで賢いですね。

 

けれども、イエス様は彼らのたくらみを見抜いていました。

 

23節にそう書かれていますね。

 

そして、「デナリオン銀貨を見せなさい」とおっしゃいました。

 

見せなさい、とおっしゃったわけですから、イエスさまご自身はそれを持っていなかったことになりますね。

 

それに対して、回し者は、この銀貨を持っていたわけです。

 

律法をしっかり守ろうとする信仰者のふりをしていたんですが、この人は、御心に適っていないコインを持っていたんですね。

 

ここで、イエス様の方から質問します。

 

「そこには、だれの肖像と銘があるか」。

 

回し者はもちろん、「皇帝のものです」と答えます。

 

それに対してイエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。

 

税金を納めなさい、じゃないんですね。

 

返しなさい、なんですね。

 

皇帝が造らせて、皇帝の肖像が描かれているコインを、皇帝に返しなさい、と言うんですね。

 

納めるんじゃないんです。

 

返すんです。

 

ここでイエス様が返しなさいと言う理由は、デナリオンのコインに、皇帝の肖像が刻まれていたからですね。

 

イエス様はそのことを相手に確認させていました。

 

そして、ここでつかわれている「肖像」という言葉が、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書の、創世記1章に出てきます。

 

私の方でお読みいたしますが、「神はご自身にかたどって人を創造された」という言葉が創世記1章にありますね。

 

「神はご自身にかたどって人を創造された」。

 

このところを原文で読みますと、「肖像」という言葉がつかわれているんです。

 

「神はご自身にかたどって人を創造された」。

 

これを直訳しますと、「神は、神の像に従って、人を創造された」となります。

 

「神は、神の像に従って、人を創造された」。

 

ここに出てくる「神の像」の「像」という言葉と、今日の場面に出てくる「肖像」という言葉が、同じ言葉なんです。

 

イエス様はこの「像」という言葉をつかうことで、人間が皆、神の像に造られたことを思い起こさせたんですね。

 

そうなりますと、どうなりますか。

 

皇帝も「神の像」です。

 

私たちも皆、「神の像」です。

 

イエスさまはまずそのことに心を向けさせるんですね。

 

そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言いますけれども、「皇帝のもの、神のもの」というふうに訳されている言葉は、正確に訳しますと、「皇帝に属するもの、神に属するもの」という表現です。

 

皇帝に属しているのは、皇帝が造らせて、皇帝の像が描かれているコインです。

 

それに対して、神に属しているのは、全てのものです。

 

ということは、イエス様の言いたいことはこういうことです。

 

「あなた方は、神の像に従って造られている。

 

あなた方は、神に属している。

 

あなた方は、皇帝に属しているのではない。

 

皇帝は神ではない。

 

そういうことを言っていることになりますね。

 

だから、皇帝に属している銀貨を皇帝に返してしまいなさい。

 

そして、あなたは、神に属する者として、神に立ち返りなさい。

 

こういうことなんですね。

 

あなた方は皆、神の像に造られていて、神に属している。

 

最初から皇帝になんか属してはいない。

 

だから、神に立ち返りなさい。

 

これはまさに神様が私たちに願っておられることですよね。

 

私たちも人の顔色をうかがうということがないわけではありません。

 

むしろ、人の顔色をうかがうということが全くないんだったら、その人にはいろんな人との共同生活というのはできないでしょうね。

 

ただ、大事なのは、私たちが神様に立ち返ること。

 

何よりもまず、神様に心を向けること。

 

神様の顔色をうかがう、というと言葉が悪いですが、何が神様の御心であるのかをいつも求めること。

 

そう考えますと、イエス様の今日の言葉は、言ってみれば信仰のファイナル・アンサーなんですね。

 

この答えは、税金を払っていいかどうかなんていう問題だけを取り扱っているものではありません。

 

信仰の中心に当たることを教えているんです。

 

だから、イエス様の答えを聞いて、だれも何も言えなかったんです。

 

26節に書かれていますね。

 

「彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった」。

 

ユダヤ教の権力者たちは、人の顔色にしか心を向けていない人たちでしたから、イエス様の言葉にハッとさせられたでしょうね。

 

考えてみると、ユダヤ教の権力者たちは、まさに罪のもとにありますね。

 

先ほど創世記の1章を読みました。

 

そこでは、人間は神の似姿に造られたとありました。

 

ところが、旧約聖書のそのすぐ後のところには、人間は神に背いて、罪に落ちてしまったことが記されています。

 

食べてはいけないと神様から命じられた木の実を、アダムとエバは食べてしまったんですね。

 

神様の言いつけに背いたわけです。

 

そして、神様に問いただされたアダムは、謝らなければいけないのに、エバのせいにしたんですね。

 

次に問いただされたエバは、「蛇が自分をそそのかしたから」と言って、蛇のせいにします。

 

自分の立場を守ろうとして、自分以外のだれかに責任を押し付けるんですね。

 

これが人間の罪の現実です。

 

ユダヤ教の権力者たちも、これと同じことをしています。

 

彼らは、民衆が自分たちよりもイエス様を支持しているのを見て、自分の立場が危なくなっていると思って、自分の立場を守るために、イエス様をやっつけようとします。

 

自分の立場を守るために人のせいにしたアダムやエバと同じですね。

 

でも、今日、イエス様が思い起こさせてくださったことですが、人間は神の似姿に造られたものなんです。

 

だから、人間に守るべき立場というものがあるとすれば、それは自分の立場などではありません。

 

守るべきは、私たちが神の似姿に相応しくあることです。

 

それだけなんです。

 

それ以上に大事なことはわたしたちにはありません。

 

ところで、今日の話は後から取り上げられることになります。

 

今日のイエス様の言葉は、結局、理解されることはありませんでした。

 

イエス様は結局、ローマの総督の前に引き出されることになります。

 

この福音書の232節、157頁です。

 

ここで、ある人がイエス様を訴えて、総督に対してこのように言います。

 

「この男は、(……)皇帝に税を納めるのを禁じ」ました。

 

そういうふうに言われてしまうんですね。

 

そんなことをイエス様は言っていません。

 

けれども、イエスさまの教えは、このようにねじ曲げられてしまいました。

 

まさに、アダムとエバのように、責任をなすりつけられたような形ですね。

 

ところが、イエス様は一切言い訳をしませんでした。

 

ただ一言、「それは、あなたが言っていることです」と言ったんです。

 

「それは、あなたが言っていることです」。

 

そう言って、自分のせいにしようという相手の悪意を、相手に返したんです。

 

その悪意は、皇帝が造らせたコインと同じで、人から出たものです。

 

人から出たものであって、神に属するものではなかったからです。

 

私たちは、このように、神の似姿に相応しくあることができるでしょうか。

 

イエス様のようにあることができるでしょうか。

 

はっきり言えることには、神さまは、私たちが神の似姿になることを強くお望みであるということです。

 

神さまは、私たちが神の似姿に相応しくあることができるようにと、愛する独り子を私たちのもとにつかわしてくださいました。

 

これは、神様がイエス様を通して、私たちに模範を示してくださっているということです。

 

私たちをご自分の似姿としてお造りになられたからこそ、それに相応しく私たちが生きることができるように、神の子イエス様をつかわしてくださったのです。

 

神様がイエス様をつかわしてくださったのに対して、ユダヤ教の権力者たちは、そのイエス様に回し者をつかわしました。

 

イエス様をローマの支配に引き渡して、自分の立場を守るためにです。

 

そのローマの皇帝はユダヤに総督をつかわしました。

 

人々を支配することで、自分の立場を確かなものとするためにです。

 

この現実は、いつの時代も変わることはありません。

 

私たちも、自分の立場を守りたい権力者や、ローマ皇帝に取り囲まれて生きています。

 

もしかすると、回し者や総督に取り囲まれて生きています。

 

けれども、だからこそ、神様は私たちのもとに、イエス様をつかわしてくださいました。

 

わたしたちが、そのような世にあっても、神様の似姿として生きることができるようにです。

 

神様は、それほどまでに私たちのことを思いやってくださっているんですね。

 

神の似姿に造られたことを、私たちは忘れてしまうことがありますが、神様はそのことを忘れてはおられないんです。

 

その御心に、心をとめたいと思います。

 

神の似姿として、ありつづけたいと願います。