
【今週の予定】
●9/11(月)牧師週休日
●9/12(火)火曜礼拝(聖餐式あり、9:00-10:00)、チャリティー・ゴスペル・ライブに向けてのオカリナの音合わせ(14:00-16:00)
●9/13(水)牧師ラジオ収録(御茶の水、11:00-12:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)
●9/14(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
●9/15(金)加入準備会(12:00-13:00)
●9/16(土)洗礼準備会(13:00-14:00)
●9/17(日)学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30—12:00)、ユース集会(12:00-15:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除
★9/12(火)の説教:当教会牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章18-21節
説教題「滅びからの救い」
★9/17(日)の説教:当教会牧師
聖書:ルカによる福音書21章5-19節
説教題「脅えてはならない」

第11回凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ
日時:10月22日(日)14時30分から16時30分
会場:光が丘キリスト教会
ぜひお出かけください!
凪ゆうこ
ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。
NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。
第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。
現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。
収益は被災地に全額寄付されます。
チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円
♪凪ゆうこゴスペル・スクール♪
生徒募集中!!
受講料
3ヶ月3,000円・見学500円
第4日曜14:00~15:30

ルカによる福音書20章45節から21章4節
45民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。46「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。47そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
今日の話ですが、なんだか二つ、関係のない話が並んでいるように見えます。
ただ、この二つの話はよく読んでみると、深いところでつながっていると思うんですね。
前半の話は悪い見本です。
後半の話は良い見本です。
悪い見本と良い見本が並べられているんですから、ここにはきっと、二つの話を結びつける一つのテーマがあると思うんですね。
そもそも、もともとの聖書には、今私たちが手にしている聖書のような章の番号とか節の番号はありません。
全部続けて書かれているんですね。
ですので今日も、つながった話なんだということで読んでいきたいと思います。
まず、前半の話ですが、ここでイエス様は律法学者を非難しておられますね。
律法学者というのは聖書の専門家です。
ですのでまあ、人々からは、偉い人だと思われていた人たちです。
けれども、イエス様はその律法学者に気を付けなさいと言うんですね。
何に気を付けなければいけないのかと言うと、それは、彼らの話に気を付けなさいというようなことではなくて、彼らの態度に気を付けなさいということですね。
まず、「彼らは長い衣をまとって歩き回りたが」る。
長い衣というのは律法学者の制服ですね。
日本では裁判官が黒くてふんわりした服を着ていますけれども、律法学者は裁判官でもありましたから、それをイメージしていただくといいかもしれません。
とにかく、長い衣というのは、律法学者だけが着られる制服です。
律法学者は、その制服をまとって歩き回りたがるんですね。
これはどこに気をつけなければいけないのかと言いますと、この人たちは、長い衣を「まといたがる」んじゃないんですね。
長い衣をまとって「歩き回りたがる」んです。
つまり、立派な自分を人に見てもらいたいんですね。
自分を見せびらかしたいんです。
その次に、この人たちは、「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」と言われていますけれども、これも言ってみれば同じことですね。
人から尊敬されたいんですね。
そして、尊敬されていることを自分で確かめたいんです。
そういう気持ちで生きているこの人たちですけれども、実際にやっていることは、その次に書かれていますけれども、「やもめの家を食い物にする」ということですね。
これが具体的にどういうことなのかは調べてみてもちょっとはっきりしなかったんですが、とにかく、「やもめ」というのは、主人を亡くした女性ですね。
それなのに、その人を大事にしない。
いたわらない。
それどころか、食い物にする。
まあ、自分のための道具だとしか見ていない。
そういうことでしょうね。
自分が立派な人間であると皆に認めて欲しい、そして、尊敬されていることを自分でも確かめたいというのがこの人たちの気持ちですから、そうなりますと、そうでしょうね、やもめみたいな弱い立場の人を大事に扱うということはないでしょうね。
そして、「見せかけの長い祈りをする」。
自分がこれだけ祈っているということを人に見せつけようということです。
祈ることが目的ではなくて、人から尊敬されたくてそうするんですね。
つまり、律法学者という人たちは、自分が神様の前に立っているふりをしていますけれども、全然神様を意識していないんですね。
彼らの心は人に向かっているんです。
人から尊敬されたい。
尊敬されていることを確かめたい。
自分は立派な人間だから、弱い人なんてどうでもいい。
神様の前に立っているふりはしていても、結局のところ、自分のことしか考えていないんです。
ただ、そういう人たちは、「人一倍厳しい裁きを受けることになる」とイエス様は言うんですね。
それはそうでしょうね。
このイエス様のお話を聞くと、もう本当に、律法学者というのは悪い見本ですね。
典型的な悪い見本なんです。
それに対して、後半の話は良い見本ですね。
この話をお読みになられた時、どのようにお感じになられましたでしょうか。
衝撃というか、衝撃を通り越して戸惑ってしまうような場面ですね。
このやもめがささげたレプトン銅貨2枚は、今で言うと100円か200円です。
ただ、それは、この人の、おそらくはその日一日の生活費のすべてだったんですね。
これはもう、何も言えなくなるような出来事ではないでしょうか。
イエス様もこの出来事を見逃すことはありませんでした。
そして、「確かに言っておく」とおっしゃっておられますね。
強い思いを込めて、ここからお話をなさったのではないかと思うんですね。
出来事としては見逃してしまいそうな小さな出来事です。
けれども、イエス様は、どうしてもこのやもめの姿を紹介したかったんでしょうね。
そのイエス様の強い思いが、時を越えて場所を超えて、今ここにまで届いている。
そんな気がします。
神殿の境内に賽銭箱があって、そこにたくさんの人がお金を入れている。
そのそばに立って、イエス様は見ておられる。
金持ちたちが賽銭箱に献金を入れていきます。
これは、献金の金額を見いてると、もうそれはお金持ちに違いないと誰の目にも分かったということだろうと思います。
そして、これははっきりしないことですけれども、この神殿には、やもめにはやもめ専用の賽銭箱があったようでして、それで、そこにお金を入れたんだから、この人はやもめだ、ということも誰の目にも分かったようです。
やもめはレプトン銅貨2枚をささげました。
それは、金持ちがささげた金額の何分の一くらいだったでしょうか。
金額としては、小さな金額です。
ただ、この時代は、女性が男性と同じように働いてお金をかせぐことができる時代ではありません。
夫を亡くしてしまった女性は、基本的に収入のない生活になってしまって、親戚に頼って生きていくしかなかったんですね。
ですから、この銅貨2枚は、この女性にとっては大きなお金だったことに間違いありません。
イエス様はそれをしっかり見ておられました。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。
イエス様はここで、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言っておられます。
イエス様は、たくさん献金することは良いことだと言っているんですね。
これは注目するべきところだと思います。
何しろ、献金されたお金は基本的に、神殿の建物や神殿の中のいろいろな道具を整えておくためにつかわれるんですし、神殿にたくさんいる祭司たちを雇うためにつかわれるんです。
そしてその祭司たちというのは、イエス様の敵ですね。
イエス様を何とかして殺してしまおうと考えている人たちです。
けれども、イエス様は、たくさん献金することは良いことだと言っておられるんですね。
これが大事なことなんですが、イエス様は、献金が何につかわれるのかは見ておられないんですね。
イエス様が見ておられるのは、献金する人の心なんですね。
献金は神様へのささげものです。
ですから献金には、神様に対するその人の心が現れます。
イエス様が見ているのはそれなんですね。
献金は会費を納めるとか税金を納めるということとは全く違います。
会費や税金は最初から金額が決まっています。
そして、それを収めるのは義務です。
けれども、献金は義務ではありません。
私たちの心で決めることです。
自分の心で決めて、自分から神様におささげするんです。
ですので、そこには神様に対する私たちの心が現れます。
たくさん献金するということは、神様をそれだけ信頼しているということになります。
だからイエス様は、たくさん献金することを良いことだと言うんですね。
ただ、イエス様の言う「たくさん」というのは、単に金額の問題ではありません。
金持ちたちは文字通りたくさんささげていたんです。
でもそれは、銅貨2枚を入れたやもめほどではなかったということなんですね。
イエス様は、このやもめは「生活費を全部入れた」とおっしゃいました。
この「生活費」という言葉は、原文のギリシャ語では「ビオス」という言葉になります。
これが英語になると「バイオ」です。
バイオテクノロジーなんて言う時のバイオですね。
日本語で言うと「命」ということです。
そして、そこから、「生活」とか「人生」という意味も持つようになりました。
ですので、この女性が生活費を全部入れたということ、これは、その人の命を、生活を、人生を、神様にすべておゆだねしたということなんです。
この人は、自分の命を、自分の生活を、自分の人生を、神様の愛の御手に丸ごとゆだねたんです。
金持ちはこの人よりももっと多くの金額をささげていたでしょう。
けれども、この人たちは、「有り余る中から献金した」んです。
人生をゆだねてはいないんですね。
このことを私たちもひとりひとり、自分の心に問いかけたいですね。
私たちは神様に、どれくらいゆだねているでしょうか。
それが献金に現れるということなんですね。
これは単なる金額の問題ではありません。
大事なのは、イエス様に「あなたはたくさんささげた」と言っていただけるささげ方をしたかどうか。
そうなりますともう、その日の生活費を全部ささげたかどうかとか、そういう問題でもないんですね。
金額の問題ではないし、割合の問題でもない。
金持ちはその時持っているお金の1割しかささげなかったかもしれません。
でもこのやもめは10割全部ささげたとか、そういう割合の問題でもありません。
お金の問題じゃないんです。
大事なのは、この献金において、私は神様に自分自身をゆだねた、そう言えるかどうか、ということなんですね。
その意味で、このやもめに見習いたいと思いますね。
イエス様はこのやもめのことをほめておられます。
このやもめは私たちの模範なんです。
考えてみれば、大人の人が銅貨2枚をささげるって、どうなんでしょうか。
これは、他の人からいくら入れたか見えるところでささげているんですよね。
それが、銅貨2枚なんです。
お金持ちが文字通りたくさん入れている中で、銅貨2枚なんですね。
でもこの人は、それを何も恥ずかしいとも思っていないんですね。
神様に自分自身をすべてささげる。
それだけなんです。
神様だけを見上げてささげたんですね。
最初から、人と自分を比べてなんていないんです。
ただ神様だけに心を向けているんです。
私たちが模範にするべきところは、そこですね。
このやもめはその日の生活費をすべてささげました。
でもそれは、必死の覚悟でそうしたんじゃないんです。
神様に全ておゆだねします、だからもう安心です。
そういう思いでささげたんですね。
この人は、何も無理をしていないんです。
むしろ、穏やかな笑顔でささげたんじゃないですか。
それが素晴らしい、とイエス様はおっしゃっておられるんですね。
そしてそれは、今日の前半の話で出てきました律法学者とは正反対ですよね。
律法学者は自分が立派な人間だということを人に認めてもらいたいんです。
そして、人から立派な人間だと思われていることを、自分で確かめたいんです。
神様の前に立っているふりをしていますけれども、周りの人の方にしか心が向かっていないんです。
神様に心が向かっていないんです。
でもこのやもめはそうではありません。
人から立派な人間に思われたいなんていうこと、最初から考えてもいません。
というよりも、そもそも、やもめなんですよね。
不幸な立場にあるわけです。
少なくとも、周りの人たちはそう思っていたでしょう。
けれども、この人は神様に自分自身をゆだねるために、ここにやってきたんですね。
そもそも、これが素晴らしいことだと思うんです。
夫を亡くして、生活に困っている。
そんな状況でも、この人は、神様に感謝していて、神様に自分をゆだねているんですね。
普通、賽銭箱にお金を入れるというのは、何か良いことがあった時とか、良いことが起こるようにと期待している時ではないかと思うんです。
それなのにこの女性は、良いことなど何もないのに、まったく神様に信頼しているんですね。
もう心が神様から離れてしまってもおかしくないのに、それでも変わらず神様を愛している。
神様は自分を愛してくださっている。
その神様に、自分は生かされている。
命も、生活も、人生も、苦しくても、守られている。
たとえ苦しいことがあったとしても、神様の御心によらないでは、何事も起こることはない。
すべては、神様の御手の内にある。
その神様は、いつも変わらず私を愛してくださっている。
そう信じているんですね。
だから、誰の目も気にせず、全て神様にささげることができた。
だから思うんです。
今日、イエス様が「確かに言っておく」と言った時、イエス様は本当に喜んでおられたんじゃないですか。
今までもずっと、神殿におられて、でも、心が神様に向かっている人なんていなかった。
けれども、今日やっと、こんな素晴らしい人がいたんですね。
イエス様は本当に喜んでおられたと思います。
そして、私は思うんですね。
今日も、今も、この場所で、イエス様は、私たちのことを喜んでみておられるんじゃないですか。
私たちも、この場所で、自分自身を神様にささげている。
時間を取って、この場所にやってきたんですけれども、それは強制されたわけではなく、義務でやっていることでもなく、喜んで自分からこの場所にやってきたんですね。
これは、「たくさんささげた」っていうことじゃないですか。
イエス様は私たちの心の中までよくご覧になって、私たちもそれぞれにたくさんささげていることを、
喜んでくださっているんじゃないですか。
教会は喜びの場所ですね。
神と人との喜びの場所。
それが教会ですね。
この場所で私たちは、神様を賛美し、祈り、御言葉を聞きます。
そして、その中で、命と、生活と、人生を、ますます神様にゆだねていくんです。
そうする時、ますます確かな喜びと安らぎが与えられる。
今日のやもめのように。
今日の御言葉は、そのことを約束してくれていると思うのです。