今週の説教「滅びからの救い」(新約聖書・ローマの信徒への手紙8章18節から21節)

【今週の予定】

●9/18(月・祝)長野佐久伝道所設立式(佐久平交流センター、10:00-15:00)

●9/19()東部中会教師会(東京教会、13:00-17:00)、チャリティー・ゴスペル・ライブに向けてのオカリナの音合わせ(14:00-16:00)

●9/20()指導者訓練研究会理事会(御茶の水、15:00-17:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

●9/21()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●9/22()牧師週休日

●9/23()洗礼準備会(13:00-14:00)

●9/24()礼拝(埼玉西部地区講壇交換、金慶煕宣教師〔坂戸教会〕、尾崎牧師は所沢ニュー ライフ教会へ、10:3012:00)、食事会(12:00-13:00)、宣教師の証と交わり(13:00-13:50)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 ★9/24()の説教:金慶煕宣教師(坂戸教会)

 聖書・士師記81-3

 説教題「知恵あるギデオンの答え」

第11回凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

日時:10月22日(日)14時30分から16時30分

会場:光が丘キリスト教会

ぜひお出かけください!

 

凪ゆうこ

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円

 

 

 

 

♪凪ゆうこゴスペル・スクール♪

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・見学500円

第2日曜13:00~14:30

第4日曜14:00~15:30

ローマの信徒への手紙818節から21

 

18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 

 

 

 

 

今日の御言葉は「現在の苦しみ」という言葉で始まっています。

 

「現在の苦しみ」。

 

それを聞いて、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。

 

いろいろなことが思い浮かぶと思います。

 

これは心理学の実験結果なのですが、人が生きていく中で感じる感情を「快」と「不快」に分けますと、「快」が2割で「不快」は8割になるんだそうです。

 

まあ、平たく言うと、苦しまずに生きている人なんていないということですね。

 

私たちには、皆それぞれに大きな苦しみも小さな苦しみもあると思います。

 

ただ、この手紙を書いたパウロがここで言っているのは、もう少し本質的なことなんですね。

 

この「現在の苦しみ」という言葉は原文では、「今のこの時の苦しみ」という言葉なんです。

 

つまりパウロは、何か具体的な苦しみを取り上げているのではなくて、私たちが生きている今この時というのはそもそも苦しみの時なんだということを言っているんですね。

 

ではどうして苦しみの時を生きているのかと言いますと、20節とか21節にヒントになる言葉がありますね。

 

20節、「被造物は虚無に服して」いる。

 

21節、「滅びへの隷属」。

 

パウロはこのことをもって、今のこの時は苦しみの時なんだと言っているんですね。

 

これは聖書に基づいてそう言っているわけです。

 

つまり、神によって良いものとして、全てのものは造られたと聖書は言いますが、やがてそれは滅びに支配されるようになってしまった。

 

そしてそうなったのは、20節を見ますと、「服従させた方の意志による」、つまり、神の意志でそうなったんだと言われるんですね。

 

これは旧約聖書の創世記の最初のところの物語を思い起こしますけれども、アダムとエバが神様に背いて食べてはいけないと命じられていた木の実を食べたという出来事がありました。

 

そしてその結果、アダムとエバは神様の元、エデンの園から追放されてしまったんでした。

 

ただ、この時大変な目にあったのはアダムとエバだけではないんですね。

 

創世記の317節には、こういう言葉があるんですね。

 

これは神様がアダムに対して言った言葉なんですが、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」

 

人間が神様に背いたために、土までが呪われるものになってしまったんですね。

 

どうしてかと言いますと、神様が人間を造った時、土を取って人を造ったからなんですね。

 

つまり、人間が神に背いた結果、自分の存在の大もとまでもが「呪われるものとなった」。

 

神に背くということは、大もとでの不幸で、もうそれは自分一人の話ではなくて、自分ではどうしようもできないような、大もとでの苦しみをもたらすものなんだということなんですね。

 

とにかく、人間の罪のために、この地上の大もとである土までが呪われるものとなったんですね。

 

まして、人間には、造られた時から、この地上の管理者としての役割が神様から与えられていました。

 

だからパウロは言うんです。

 

被造物は虚無に服している。

 

滅びに隷属している。

 

人間の罪のために、世界はそのようなことになってしまった、滅びの世界になってしまったと聖書は言うんです。

 

これは少し調べてみたんですが、世界には発見されているだけで、175万種類もの生物が存在するといわれているのだそうです。

 

そして、まだ発見されていない生物も含めると、500万種類以上の生物が存在するそうです。

 

けれども、生物というものは、その種が絶滅してしまうということがありますね。

 

1万年前には、100年間で1種類くらいのペースで生物は絶滅していたんだそうです。

 

それが1000年前には10年で1種類になりました。

 

100年前からは1年間に1種類。

 

そして現在では、なんと1日に100種類もの生物が絶滅しているのだそうです。

 

これってとんでもないことですよね。

 

もしこの地上に生物が500万種類くらいいると考えると、単純に計算すると、今後150年で、今生きている全ての生き物はいなくなってしまうということです。

 

まさに、世界は滅びに支配されているんですね。

 

これは何も大げさな言い方ではないですね。

 

私たちがたとえ滅びということを普段は意識していなかったとしても、この世界は滅びの世界と言っても差し支えないような世界なんです。

 

そもそも、種としての生物がまるごと滅ぶということがなかったとしても、私たちも含めて、一つ一つの生き物は、いつか必ず死ぬんですね。

 

そう考えましてもやっぱり、世界は滅びに支配されていると言っていいと思います。

 

私たちはもうそれに慣れきっていますけれども、この世界は滅びの世界なんですね。

 

滅びに支配されて、滅びに向かっている、そんな苦しみの世界。

 

考えてみれば、確かにそうです。

 

大げさな話ではありません。

 

しかし、ここでパウロは言うんですね。

 

最初の18節ですが、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。

 

私たちには、将来、栄光が現されるんですね。

 

滅びから救い出されて栄光に入れられるということですね。

 

もっと正確に言うと、私たちはもうすでに、栄光に入れられているんですね。

 

「将来私たちに現される」という時の、「現される」という言葉は、「おおいが取りのぞかれる」という言葉です。

 

今すでに、実は私たちは、栄光に入れられている。

 

けれども、そこに、私たちの罪というおおいがかかっている。

 

そのおおいが取りのぞかれる時、私たちの目に栄光がはっきりと明らかになるということですね。

 

その栄光はどういうものでしょうか。

 

今日の箇所の直前にヒントがありますね。

 

17節ですが、このように言われています。

 

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。

 

相続という言葉が出てきました。

 

本来、相続というのは親が子どもに与えるものですね。

 

神様の栄光というものは、本来、神の独り子であるキリストだけに与えられるものであるということです。

 

ところが、私たちも、神の栄光を受け取る立場に実はあるんだということですね。

 

私たちは、今は滅びに支配されているようにしか見えないわけですけれども、実は神の栄光の相続人であって、いつかおおいを取りのぞかれて、滅びから救い出されて、神様のみもとに帰るんですね。

 

その時私たちが味わう栄光というのは、神の子キリストだけが受けるはずだった栄光です。

 

まさに神の栄光が私たちに与えられる。

 

私たちは神の栄光に照らされる。

 

だから、パウロは言うんですね。

 

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」。

 

本当にそうですよ。

 

取るに足りない。

 

神の栄光が与えられるんですから、人間である私たちの苦しみなんて、取るに足りないんです。

 

そして、私たちはそのことに、希望を持つことができる。

 

希望を持って、今のこの滅びの支配の中でも、生きることができる。

 

20節にこうありました。

 

「それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであ」る。

 

これは地上が滅びに支配されてしまったことを言っているんですが、私たちが滅びから救い出されることについても、同じように言うことができますね。

 

「それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであ」る。

 

私たちが滅びから救い出されて神の栄光に入るのは、神の意志なんです。

 

私たちの意志ではない。

 

私たちは自分ではそうは願いませんよ。

 

生まれた時から、生きているものはいずれは死ぬということをこの目で見て学んできたんですから。

 

生きているものはいずれは死ぬ。

 

もうそれが前提ですよね。

 

だから、そこから救い出されようなんて自分からは考えもしない。

 

願わないわけではないのかもしれませんが、本当のところ、もうずっと、小さい頃からあきらめている。

 

でも、神様は本質を見ておられるんですね。

 

だから、私たちを滅びから救い出してくださるんです。

 

それが神様の意志なんです。

 

その意志が、実はもうすでに、私たちに及んでいます。

 

私たちはもうすでに、栄光の中にいる。

 

だから、おおいが取りのぞかれる日を期待しながら、この今の苦しみの時を、苦しみを超えて、そんなものは取るに足りないという気持ちで、生きていくことができるんです。

 

これが希望ですね。

 

本当の希望。

 

どんな苦しみにも負けない希望。

 

私たちは本当のことをいつも忘れてしまいがちですが、神様の方ではお忘れになりません。

 

私たちのどの一人も、神様はお忘れになりません。

 

そして、私たちを、一番本質のところで救ってくださる。

 

そのことへの希望を心に抱いて、生きていきましょう。

 

希望に生かされていきましょう。

 

それが神様が私たちに願っておられることです。