今週の説教「目を覚ましていなさい」(新約聖書・ルカによる福音書21章29節から38節)

【今週の予定】

●10/9(月・祝)クリスチャン・アーティスト・フェスティバルIBUKI(横浜中央教会、13:00-16:20)

 

●10/10()牧師休暇(15日〔日〕まで)、チャリティー・ゴスペル・ライブに向けてのオカリナの音合わせ(14:00-16:00)

 

●10/12()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

 

●10/13()コーヒー・ブレイク(聖書を読んで自由に意見を出し合う会、10:00-14:00)

 

●10/15()礼拝(10:3012:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除

 

★10/15()の説教:佐々木次夫長老(所沢ニューライフ教会)

 

聖書・詩篇131-6

 

説教題「三つの坂」

 

第11回凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

日時:10月22日(日)14時30分から16時30分

会場:光が丘キリスト教会

ぜひお出かけください!

 

凪ゆうこ

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円

 

♪凪ゆうこゴスペル・スクール♪

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・見学500円

第2日曜13:00~14:30

第4日曜14:00~15:30

チャリティー・バザーのお知らせ

 

2017年11月18日(土) 10時から15時 @光が丘キリスト教会

どなたでもご自由にお出でください。

 

収益は被災地の復興支援センター(のぞみセンター)に全額寄付されます。

 

バッグ、衣類、食器、日用雑貨など。

 

ルカによる福音書2129-38

 

29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 

37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。38民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。

 

 

 

 

 

おはようございます。

 

21章に入ってからはずっと世の終わりの話でしたが、今日はその締めくくりになります。

 

今日もまた世の終わりの話なんですが、この話には私は思い出すことがあるんですね。

 

これは8年くらい前の話なんですが、ある人から、話を聞いたんですね。

 

というか、私に話をしてくれたその人も他の人から話を聞いたということなんですが、イエス様が再び地上にこられたという話を聞いたんです。

 

イエス様が再び来られた。

 

こういう話を聞いたら皆さんはどういう対応をなさるでしょうか。

 

イエス様が再び来られるというのは世の終わりの出来事です。

 

私たちはここのところずっと世の終わりの話を聞いてきたわけですが、世の終わりは何によって起こるのかと言いますと、イエス様が再び地上に来られることによって起こるんですね。

 

そのことが、今日お読みした箇所のすぐ前のところに書かれていました。

 

27節なんですが、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」ということですね。

 

人の子というのはイエス様がご自分をさしてつかった言葉です。

 

人の子という言葉は私という意味にもなる、そういう言葉なんですね。

 

イエス様は、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るわけです。

 

それは、今この場面でイエス様は人々に対して話をしておられますけれども、その時のことではありません。

 

この後、この福音書ですと最後の24章でイエス様は天に上っていかれますけれども、その前に、イエス様は再び地上に来られることを約束してくださっていました。

 

何年後ということは言わなかったんですが、世の終わりに再び地上に下ってくることを約束しておられたんですね。

 

ですので、イエス様が再び来られることよって世の終わりになるんですね。

 

今の世界が終わって、この世が全く改まるということになるわけです。

 

そして、私が8年前に聞いた話というのは、イエス様が再び来られた、という話なんですね。

 

イエス様がもうすでに、再び来られているという話です。

 

再び来られているというのにどう考えてもまだこの世は終わりになっていませんから、イエス様が再びこられたという話は事実ではなかったんでしょうけれども、その時私が聞いた話としては、イエス様が再びこられて、東大阪のアパートに隠れ住んでいるので、会いに行かないか、という話だったんですね。

 

しかし、どうして再び来られたのに、東大阪のアパートに隠れているんでしょうか。

 

しかも、その人は自分がイエス・キリストだ、と言っているそうですが、どう見ても日本人のただのおじさんなんだそうです。

 

そして、一日中アパートでゴロゴロしているんだそうですね。

 

少し前までは新聞配達をやっていたそうですが、朝起きるのが面倒になってやめてしまったんだそうです。

 

何かもう、こちらも考え込んでしまいそうです。

 

こんな怪しい話は聞いたことがありません。

 

ただまあ、そういう話をする人も、だまされる人がいるからこそ、そういう話をするんでしょうね。

 

実際のところ、世の終わりの話というのは、いろんな団体がそういう話をしていますよね。

 

そしてそれは、いつの時代でもそういうことを言う人というのはいたわけです。

 

今開いていただいているページの前のページの下の段の8節で、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時は近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」とイエス様が言っていますけれども、そういう人というのはいつの時代でもどこの国でもいたわけです。

 

けれども、私たちからすると、世の終わりというのはいつ、どのようにして起こるのか、前もっては分からないものですから、戦争とか大災害とか、何か大きなことがあると、これが世の終わりなのか、という気持ちになってしまうんですね。

 

と言いますか、私たちには先のことなんて何にも分からないんですよね。

 

日本語のことわざにも、「一寸先は闇」という言葉があります。

 

「一寸先は闇」なんです。

 

一寸って、三センチです。

 

三センチ先は暗闇、もう何も見えない。

 

だからこそ、再びこられたイエス様が東大阪のアパートに潜伏していると聞いても、人によっては信じてしまう。

 

まあ、大体の人は信じないんでしょうけれども、世の終わりというような、いつかはやってくるんでしょうけれども、いつになるか分からないようなことを考えると、私たちはよく勘違いをしてしまうんですね。

 

何か大きなことがあると、もうそろそろじゃないかと思ってしまう。

 

だから、イエス様は、この21章に入ってから、世の終わりの話をするにあたっては、まどわされてはならないということを何度も言うんですね。

 

戦争とか大災害があると、それでひとつの時代が終わる、世の中の有り方が変わるということはあります。

 

72年前、戦争が終わって、世の中の有り方が変わりました。

 

時代が変わったということですね。

 

でもそれは世の終わりではないですよね。

 

世の中は続いているんです。

 

でも、72年前の戦争を経験した人たちからすれば、72年前のその時、それはもう本当に世の終わりのように感じられたでしょうね。

 

あるいは、6年前には大地震がありました。

 

突然の大地震で、たくさんの人が命を落としました。

 

津波にのまれて町が丸ごとなくなってしまったということもたくさんありました。

 

それは、その町に住んでいた人からすると、もう本当に世の終わりのようだったでしょう。

 

ですけれども、それで世の終わりではないんですね。

 

戦争も大災害も、いつの時代でもあることです。

 

ですからそれは、それが世の終わりであるかどうかを知るための目印にはならないんです。

 

イエス様が言っていたのはそういうことです。

 

それなのに私たちは、何か大きなことがありますと、これはもう世の終わりかなあ、なんて考えることが多いものですから、イエス様は、まどわされてはならない、という話を一生懸命になさってくださっているんですね。

 

今日の32節でも、イエス様は言っていますね。

 

「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」。

 

世の中のあり方は移り変わりますけれども、時代は移り変わりますけれども、簡単に滅んだりはしないんですね。

 

では、世の終わりの目印は何でしょうか。

 

それは、さっきもお読みした27節ですね。

 

イエス様が再び来られることです。

 

ここで、イエス様が「雲に乗って来る」と言われていますけれども、これは文字通りに受け取るところではありません。

 

聖書で「雲」と言ったら、それは神様がそこにおられるということです。

 

ですのでこれは、イエス様は神様として地上に来られるということなんですね。

 

でもそれだったらある意味、ちょっと困りますよね。

 

雲に乗ってやってきてくれたらそれはもう確かな目印になるわけですけれども、それがないのなら目印もないということになってしまいます。

 

でもこれは心配しなくていいんですね。

 

今日の35節で、こういうふうに言われています。

 

「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」。

 

世の終わりの日ということなんですから、そこから逃れられる人はいませんよね。

 

ですので、「地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかる」と言われていますけれども、要するに、私たちは、これが世の終わりかなあ、なんて考えないでいいんです。

 

これが大事なところです。

 

戦争とか大災害があると私たちはなんとなくこれが世の終わりかなあということを考えてしまいますけれども、そんなことは考えなくていいんです。

 

それが世の終わりであるかどうかは、誰にとっても明らかなんだということなんですね。

 

それが世の終わりであるかどうかは、私たちが考えなくたって分かることなんです。

 

それよりも大事なことは、まどわされないことです。

 

何年か前のことですが、エホバの証人の人たちが毎週のように私を訪ねてきたことがありました。

 

向こうとしては、私を説得して、エホバの証人になってもらいたかったんでしょうね。

 

でももう、話を聞いていると、その人たちは完全にまどわされてしまっているんですね。

 

というか、本当に勝手に決めつけていて、聖書のここに書いてあることは、911のテロを表している、ですとか、聖書のここに書いてあることは東日本大震災を表している、ですとかそういうことを言ってくるんですね。

 

でも、そんなことを考える必要なんてないんです。

 

世の終わりがどんなふうにやってくるのかは分かりませんけれども、世の終わりが来たかどうかは、誰にでも分かることなんですね。

 

大事なのは、まどわされずに、イエス様の言葉を聞いて、イエス様の言葉に留まって生きることですね。

 

今日の33節で、イエス様も言っています。

 

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 

いつまでも滅びないイエス様の言葉に心を向けることです。

 

世の中のものはどんなものでもいつかは滅びます。

 

戦争で滅びることもあれば、災害で滅びることもあります。

 

そういう、いつか必ず滅びてしまうものに心を向けずに、滅びない言葉に心を向けること。

 

そうして生きていくなら、私たちはどんなものにもまどわされないようになるのではないでしょうか。

 

そして、私たちが世の終わりのことを考えるときに、勘違いしやすいことがもうひとつあります。

 

それは、世の終わり、この世界の終わりというものを、何か恐ろしいものであるかのように勘違いしてしまいやすいんですね。

 

「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかる」なんて言われてしまいますと、もう本当に恐ろしいものであるかのように思われてしまいます。

 

けれども、心配はいらないんですね。

 

イエス様は28節で言っておられました。

 

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。

 

私たちは、イエス様が再び来られたら、身を起こして頭を上げるんですね。

 

解放の時が近いんです。

 

聖書は、この世は罪に支配されていると言いますけれども、それが終わるのが世の終わりなんですから、世の終わりというのは私たちにとって解放の時なんです。

 

ですから、私たちはその日を待ち望むんですね。

 

希望を持って待ち望んでいいんです。

 

世の終わりには大きな出来事が起こります。

 

25節では、「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う」と言われていました。

 

これは聖書では、大きな国が滅ぶことを表す表現です。

 

そして、26節では、「天体が揺り動かされる」と言われていました。

 

この「天体」という言葉は、「天の力」という言葉です。

 

天の力も揺り動かされるんです。

 

そんな大きなことが起こります。

 

それは、イエス様が神様として、大きな力と栄光を帯びてやってこられるからです。

 

今日のところで、イエス様は、まずそういう話をなさっていますね。

 

31節で、こういうことが起こったら、「神の国が近づいていると悟りなさい」、と言われています。

 

神の国という言葉は、神の支配とも翻訳することができる言葉です。

 

世の終わりには罪の支配が終わって神の支配に入るんですね。

 

それが救いということです。

 

私たちが自分の罪、人の罪に支配されているところからの解放が救いです。

 

その時、天地は滅びます。

 

罪に支配された今のあり方というのはなくなるんですね。

 

ただそれを、天地が滅びると言われますと、私たちは何か不安になります。

 

けれども、33節でイエス様はこう言います。

 

「わたしの言葉は決して滅びない」。

 

神の言葉は滅びることがない。

 

神の言葉は人間の言葉とは違うんですね。

 

神の言葉は必ず実現する。

 

だから、聖書の言葉であるヘブライ語では、言葉という単語と出来事という単語は、同じ単語なんですね。

 

神の言葉は現実の出来事になる。

 

神の言葉というのは、必ず実現する確かな約束の言葉なんですね。

 

その言葉を信じて、私たちは、身を起こして頭を上げるんですね。

 

この、「天地は滅んでも、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉に、イエス様のお気持ちがこもっていますよね。

 

イエス様は世の終わりに再び来られるんですから、ここのところをこう言わずに、「天地が滅んでも、私は滅びない」と言っても良かったはずです。

 

けれども、そうではないんです。

 

「天地が滅んでも、私の言葉は決して滅びない」なんです。

 

あなたがたに約束したわたしの言葉はけっして滅びない。

 

わたしは必ず約束を果たす。

 

そういうおつもりなんでしょうね。

 

考えてみると、私たちは、いつも滅びを恐れていると思うんです。

 

私たちの体はいつもいつも健康であるわけではありません。

 

若くても死の危険にさらされている人もいますし、誰だってそのような状態になってしまう可能性はあります。

 

まして、年を取ってくると、それこそ、思い通りに行かなくなっていく自分の体との戦いになります。

 

私の祖父なんか、本当にそうでした。

 

毎日毎日、ものすごく健康に気をつかって、朝起きたら養命酒を飲んで、決まった時間に散歩をして、薬を飲んで、決まった時間に食事をして、もうそれこそ、滅びとの戦いですよね。

 

最後は認知症が少し入ってきたので、私の母なんかが面倒を見ていたんですが、子どもだった私は、人間は最後にはこんなに大変な思いをして生きるのかと思わされました。

 

考えてみると、私たちは、毎日、滅びと戦っているんだろうと思うんですね。

 

その私たちに、言ってくださるんです。

 

あなたは決して滅びない。

 

私は、私の約束を必ず果たす。

 

必ずあなたを神の国、神様の支配に入れる。

 

イエス様は今、そのことを言ってくださっているんですね。

 

そして、34節からのところでは、イエス様は私たちに注意をなさいます。

 

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」ということですね。

 

私たちは、世の終わりなんていう大きい事を考える時には、目に映る何か大きなことがあると、これが前触れか、と勘違いしてしまうことがあるんですけれども、わたしたちがまどわされるのはそれだけではないですね。

 

生活の中でまどわされることがあります。

 

「放縦や深酒や生活の煩い」、その他いろんなことにまどわされて、心が鈍くなる、イエス様の言葉に心が向かなくなるということがあります。

 

要するにこれは、きちんと生活していればそれで良いということではなくて、目に映るいろいろなことがらにばかり心が向かってしまって、神の言葉を忘れてしまうことが問題なんですね。

 

大事なのは、目に映ることがらの向こうからやってくる神の言葉を聞き取ることなんですね。

 

自分の身の回りにどんなことがあろうとも、決して滅びない約束に心を向けることなんです。

 

では、どのように生きるのが良いのかといいますと、36節の最後ですね。

 

「いつも目を覚まして祈りなさい」。

 

私たちは、祈ることによって、神の約束に心を向けることになるんですね。

 

そしてそれは、そのすぐ前に書かれていますが、イエス様の前に立つことなんですね。

 

祈るというのはそういうことなんです。

 

イエス様の約束に心を向けて、イエス様の前に自分がいるということなんです。

 

ということは逆に言って、私たちが祈る時には、私たちの救いを約束してくださってイエス様が、私たちの前にてくださるということなんですね。

 

私たちが祈る時、そこはもう特別な空間で、私たちは、救いを約束された者として、イエス様に向かい合うんですね。

 

「目を覚まして祈りなさい」と言われています。

 

「目を覚まして」、なんですね。

 

心が鈍くならないように、ということでしょうね。

 

目に映る大きなことがらとか、身の回りのことがらに心を奪われて、神様の約束に対して目を閉じてしまうことがないように、ということでしょう。

 

祈っていれば、そうなることはありません。

 

私たちは、祈りながら、永遠に心を向けて、今を生きていくんですね。

 

そして祈るのは、私たちだけのことではありません。

 

イエス様も祈っておられます。

 

37節にこう書かれています。

 

「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」。

 

イエス様は、夜は「オリーブ畑」と呼ばれる山にいたんですね。

 

ここは、イエス様がお祈りをなさった場所です。

 

イエス様はここで何を祈ったのでしょうか。

 

少しでも多くの人が神の国に入ることができるようにと祈ってくださったはずです。

 

そう考えますと、祈りの場というのは、本当に特別なものですね。

 

私たちがイエス様に心を向けて祈って、そのイエス様は私たちに心を向けて祈ってくださるんですね。

 

私たちはイエス様の前に立ち、イエス様は私たちの前に立ってくださる。

 

この時、人々も、自分が祈られていることが分かっていたんじゃないですか。

 

38節にはこう書かれています。

 

「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。

 

考えてみるとこれ、今の私たちも同じですよね。

 

わたしたちも今こうして、イエス様の前にいて、イエス様の言葉に聞いている。

 

この場所も、特別な場所です。

 

永遠と向かい合う場所。

 

私たちが神様の約束の中にあることを確かめる場所。

 

私たちは、心が鈍くなっていないからこそ、目を覚ましているからこそ、この場所で、イエス様の言葉に向かい合うんです。

 

これからも、そのように生きていきましょう。

 

心配する必要はないし、まどわされることもありません。

 

私たちは事実、神様の約束の中に生きているんです。