今週の説教「礼拝に生きる」(旧約聖書・エズラ記3章1節から13節)

【今週の予定】

●10/25()聖書を読む会(19:30-20:30)

●10/26()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●10/28()牧師週休日

●10/29()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:3012:00)、ユース集会(13:00-15:30)、掃除

●10/29()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書221-13

説教題「最後の食事の準備」

 


 

チャリティー・バザーのお知らせ

 

2017年11月18日(土) 10時から15時 @光が丘キリスト教会

どなたでもご自由にお出でください。

 

収益は被災地の復興支援センター(のぞみセンター)に全額寄付されます。

 

バッグ、衣類、食器、日用雑貨など。

エズラ記31-13

 

1第七の月になって、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。2祭司たち、すなわちヨツァダクの子イエシュアとその兄弟たちは、シェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちと共に立ち上がり、イスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法に書き記されているとおり、焼き尽くす献げ物をその上にささげようとした。3彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす献げ物、朝と夕の焼き尽くす献げ物を主にささげた。4書き記されているとおり仮庵祭を行い、定めに従って日ごとに決められた数を守って日ごとの焼き尽くす献げ物をささげた。5その後、絶やすことなくささぐべき焼き尽くす献げ物、新月祭、主のすべての聖なる祝祭、主に随意の献げ物をするすべての人のために献げ物をささげた。6第七の月の一日に、彼らは主に焼き尽くす献げ物をささげ始めた。しかし、主の神殿の基礎はまだ据えられていなかった。7彼らは石工と大工に銀貨を支払い、シドン人とティルス人に食べ物と飲み物と油を与え、ペルシア王キュロスの許しを得て、レバノンから海路ヤッファに杉材を運ばせていた。

 

8エルサレムの神殿に帰った翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは彼らの他の兄弟たち、祭司とレビ人、および捕らわれの地からエルサレムに帰って来たすべての人と共に仕事に取りかかり、二十歳以上のレビ人を主の神殿の工事の指揮に当たらせた。9イエシュアもその子らと兄弟たち、カドミエルとその子ら、ホダウヤの子らと一緒になって、神殿の工事に携わる者を指揮することとなった。ヘナダドの子ら、およびその子らと兄弟たち、レビ人も同様であった。10建築作業に取りかかった者たちが神殿の基礎を据えると、祭服を身に着け、ラッパを持った祭司と、シンバルを持ったアサフの子らであるレビ人が立って、イスラエルの王ダビデの定めに従って主を賛美した。11彼らも「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。12昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。13人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。

 

 

 

 

 

今日の場面から、礼拝について学びたいと思います。

 

今日の場面だけを読んでも状況がどういう状況なのか、分かりにくいこともあるでしょうけれども、ここのところから、とにかく礼拝とは何かを取り出すことだけに集中してお話いたします。

 

まず、サブ・タイトルに「礼拝の開始」と太字で書かれていますけれども、礼拝を開始したのがこの時ということではありません。

 

聖書のもっと前のところから、礼拝は始まっていました。

 

ただ、その礼拝は何十年もの間、行われなくなっていたんですね。

 

神殿が外国の軍隊に壊されてしまったからです。

 

それだけではなくて、人々は外国に連れ去られてしまいました。

 

けれども、その外国も打ち倒されて、人々は帰ってくることができました。

 

最初に連行されてから65年後のことです。

 

この時、ふるさとに帰ってきた人々が最初にしたことが礼拝だったんですね。

 

65年たっていますから、帰ってきた人たちの多くは、外国で生まれた新しい世代の人々だったのではないかと思いますが、65年の間、人々は新しい世代にも信仰を伝えて、神殿で礼拝することはできなくても、信仰を守り続けていたんですね。

 

だからこそ、帰ってきて真っ先にしたのが、礼拝でした。

 

ただ、これはやはり、普通のことではないと思います。

 

何しろ、今はまだ、外国から帰ってきたばかりです。

 

エルサレムの町の城壁は崩れたままです。

 

この時代の町は頑丈な高い壁で守られていたんですが、城壁が崩れたままでは、またいつ敵が攻めてくるか分かりません。

 

神殿も崩れたままです。

 

普通に考えるなら、まず城壁を再建して、それから神殿を再建して、それから礼拝をしよう、ということにならないでしょうか。

 

いやそれよりも、そもそも、帰ってきた人たちの多くは外国で生まれた人たちです。

 

多くの人は、外国のことしか知らないんです。

 

それなのに、それまでの生活をすべて捨てて、帰ってきたんですね。

 

礼拝するために帰ってきたんです。

 

これは考えさせられることではないかと思います。

 

私たちが、人間の目に必要と考えることよりも、人間の目に他に優先したいことがあったとしても、何よりもまず最初にするべきことが礼拝なんですね。

 

何よりもまず神様に向き直ることが、なすべきことなんですね。

 

聖書は、人間は神に背く性質があるといいます。

 

だからこそ、まず神に向き直る。

 

すべてはそこからなんですね。

 

私たちが今している礼拝も、そういうものです。

 

まず、神に向き直る。

 

全てはここから始まるんですね。

 

この時、1節に、「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と書かれています。

 

「一人の人のようになった」。

 

これは使徒言行録の2章で教会が生まれたときの記事を思い出します。

 

使徒言行録の2章で教会が生まれた場面では、繰り返し、「一つになって」という言葉がつかわれていました。

 

「一人の人のようになる」、「一つになる」。

 

それが礼拝なんですね。

 

私たちの個性は様々ですけれども、神様に心を向けることにおいて、一つになる。

 

と言うよりも、神様に心を向けた時に、私たちは一つになることができる。

 

そして、この時の礼拝では、人々は「焼き尽くす献げ物」をささげました。

 

2節から6節までに、6回も、この「焼き尽くす献げ物」という言葉が出てきています。

 

「焼き尽くす献げ物」というのは、全部燃やして煙にして、全部神様に届ける、というささげ方です。

 

これは、自分自身を神様にささげるというしるしでした。

 

自分自身を神様にささげる。

 

それが礼拝だということですね。

 

そしてそれは、義務として行うものではないんですね。

 

今日の4節に、仮庵祭を行ったと書かれています。

 

これはイスラエルの大事なお祭りの一つで、年に一度、このお祭りを行うんですが、このお祭りは、その昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったところから解放されて、約束の土地に向かって導かれていったことを祝う祭なんですね。

 

仮庵というのはテントのことです。

 

エジプトから脱出したイスラエルの民はテントで生活しながら約束の土地に向かって旅をしましたから、そのことを記念してこの祭りの期間、人々はテントで生活をするんですね。

 

そして、今日のこの場面も、救い出された時ですね。

 

外国に連行されていたところから救い出された場面です。

 

だからこそ、心を一つに神様に向き直って、自分自身をささげるんですね。

 

私たちが礼拝しているのもそうです。

 

私たちは救われた者として礼拝しているんです。

 

私たちは礼拝の中で賛美歌を歌います。

 

神様を賛美します。

 

神様が救ってくださったからです。

 

神に背く罪の支配から救い出してくださったからです。

 

私たちは礼拝の中で聖書の言葉を聞きます。

 

それは救いの言葉ですね。

 

だからこそ、心を一つに神様に向き直って、自分自身をささげるんですね。

 

それが礼拝なんです。

 

もちろん、人間として生きている限り、恐れがなくなるわけではありません。

 

この時の神の民もそうでした。

 

3節に、「彼らはその地の住民に恐れを抱」いたと書かれています。

 

「その地の住民」というのは新約聖書に出てくるサマリア人のことです。

 

イスラエルの人々を連行した外国は、いろいろな土地から人々を連行するだけではなく、いろいろな土地に自分の国の人々を移住させました。

 

そのために、イスラエル人と外国人が混血してできた民族がサマリア人です。

 

元は同じ民族とは言っても、信仰はかなり違ってしまっていました。

 

そういう状況で礼拝をするとなると、サマリア人たちが自分たちを攻撃してこないとも限りません。

 

命が危ないかも知れないのです。

 

それでも、礼拝をささげたんですね。

 

何度も何度も、「焼き尽くす献げ物」をささげたんです。

 

神様に向き直っていたからこそ、そうすることができるんですね。

 

次に、人々は神殿の再建にとりかかります。

 

ここでも人々は一つになって事に当たるんですね。

 

9節の真ん中あたりに「一緒になって」と書かれていますけれども、これは原文では、「一つになって」という言葉です。

 

10節で神殿の基礎がすえられると、人々は賛美しました。

 

11節です。

 

「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」。

 

実はこれは、この時代よりも400年も前の、ダビデの時代の賛美です。

 

ただ、この神殿の基礎を見た人たちの反応は二つに分かれました。

 

11節の後半では、人々は大喜びしているんですね。

 

けれども、12節では、「昔の神殿を見たことのある多くの年取った」人たちがなげき悲しんでいるんです。

 

昔の神殿はもっと大きかったのに、今はこれくらいの神殿しか建てることができない。

 

そのことをなげき悲しんでいるんですね。

 

しかし、旧約聖書のハガイ書には、この時のことについて、神様のこのような言葉が記されています。

 

わたしは「この神殿を栄光で満たす」。

 

「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」。

 

この神殿は後に大きな工事がなされて、最初の神殿よりもはるかに大きな神殿になります。

 

けれども、「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」というのは、そのことを言っているのではありません。

 

「この神殿を栄光で満たす」と神様がおっしゃったんですから、栄光というのは神様の栄光です。

 

人間の目に栄光であると映るようなものではないんですね。

 

神様の栄光、それは、人を救うことです。

 

新約聖書では、人を救うことが、神の栄光であると書かれています。

 

そして、人を救うために来られたキリストは、この時に基礎がすえられたこの神殿に入ってこられたんですね。

 

ですから神殿というのは大きさの問題ではありません。

 

もちろん、この時、お年寄りたちが大声で泣いたというのはわかります。

 

この人たちにとって、こんな小さな神殿では神様の栄光にふさわしくないと思ったのでしょう。

 

この人たちは神様を思って泣いたんです。

 

ですけれども、それは人間の考えです。

 

神様の栄光は、誰よりも低くなられて、全ての人に仕えて、人を救うところにあるんですね。

 

神様と人間というのはもう、決定的に違うんです。

 

だからこそ、私たちは神様を礼拝するんですね。

 

何よりもまず最初に礼拝をするんです。

 

そして、神様に向き直ったところから、教会を建てていくんです。

 

その教会に、神様の栄光が満ちるのです。