
【今週の予定】
●11/6(月)12月16日(土)、17日(日)、両日とも14時から15時にかけて催される第4回クリスマス・チャリティー・演劇の劇団稽古(19:00-22:00)
●11/7(火)聖書を読む会(10:30-12:00)、劇団稽古(19:00-22:00)
●11/8(水)聖書を読む会(19:30-20:30)
●11/9(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
●11/10(金)コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)
●11/11(土)リードオルガン・コンサート(江古田教会、10:30-12:00、茶話会は13:30まで)
●11/12(日)学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30—12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、バザーの準備(13:00-16:00)、掃除
★11/12(日)の説教:尾崎牧師
聖書・新約聖書、ルカによる福音書22章24-30節
説教題「いちばん偉い者は」

チャリティー・バザーのお知らせ
2017年11月18日(土) 10時から15時 @光が丘キリスト教会
どなたでもご自由にお出でください。
収益は被災地の復興支援センター(のぞみセンター)に全額寄付されます。
バッグ、衣類、食器、日用雑貨など。

ルカによる福音書22章14-23節
14時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。15イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」17そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。18言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」19それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。21しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」23そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
今年は2017年ですね。
ルターが宗教改革を始めてからちょうど500年です。
そういうこともあって、宗教改革500周年がいろいろな教会の集まりでお祝いされているような感じです。
まあ、宗教改革と言いましても、ルターとしては最初から「宗教改革」をやろうなどという気持ちがあったわけではありませんでして、当時、ルターも含めて何人かで集まってキリスト教神学の議論をしていたらしいんですけれども、議論するテーマを出す役割がルターに回ってきたので、ルターとしてはこういうことをテーマに話し合いましょうというテーマを出して、教会のとびらにはりだした。
それが歴史の教科書にものっている「95か条の提題」なんですね。
別に宗教改革なんて大胆なことをやろうとしたわけではないんです。
議論のテーマを出せと言われて出しただけなんです。
教会のとびらにはりだしたなんて聞きますと、ルターは教会に対してよっぽど不満があったに違いないんじゃないかと思ってしまいますけれども、実際私は中学生だった時、学校の先生は、「教会のとびらにそんなものをはるというのは大変な覚悟があったはずだ」というお話をしたんですけれども、そうではありませんでして、何のことはない、教会のとびらというのは当時の掲示板だったんですね。
いろんなものがはられている掲示板に、ルターも神学の議論のテーマをはりまして、どうぞみなさんいらしてください、というただそれだけのことなんです。
ですけれども、それが非常に大きな反響を呼びまして、宗教改革という運動になっていくんですね。
神様は人を用いながら人の歴史において働かれるわけですけれども、本当に不思議な出来事ですね。
仲間内での議論のはずが、世界史の大事件になっていったわけです。
こうなりますと何か、私たちが仲間内でやっている小さな催しでも、神様はそれを大きく用いてくださるかも知れないと思ったりしますね。
考えてみると、最初は小さな出来事だったけれども、それが大きな出来事になったということは、私たち自身もいろんなところで見たり聞いたり体験したりしてきたんじゃないかと思うんですね。
神様が私たちの小さな行いを大きく用いてくださるようにと、私たちは祈っていいんだと思うんですね。
とにかく、今年は宗教改革500周年です。
これを記念しまして先月、日本キリスト教会という教派と日本キリスト改革派教会との合同教職者会が催されました。
日本キリスト改革派教会も日本キリスト教会も、ジャン・カルヴァンの神学に立つ、改革派の教会です。
ただ、信仰は同じなんですが、教派としては別々の教派になっているんですね。
どうして別々になっているかと言いますと、信仰基準が違うんですね。
日本キリスト改革派教会はウェストミンスター信仰基準を採用しています。
毎週、礼拝の中でウェストミンスター小教理問答を交読していますけれども、それですね。
しっかりまとめられた、分量の多い信仰基準を持っているわけです。
それに対して日本キリスト教会はウェストミンスター信仰基準のようなものは持っておりませんでして、日本キリスト教会が持っている信仰基準は、私たちも礼拝の中で声を合わせて読んでいる使徒信条だけなんですね。
信仰は同じなんですけれども、私たちはウェストミンスターを持っていて聖書の信仰とはどういうものなのかがはっきりしているのに対して、日本キリスト教会はそれをはっきり言葉にしていないんです。
ですので、信仰は同じなんですけれども、カラーが大分違うんですね。
日本キリスト教会は、十分な信仰基準を持っていないので、強いリーダーが出てくる必要があるんですね。
聖書の信仰とはなんであるのかがはっきり言葉になっていませんから、みんな自分で考えて、自分でやっていかなくてはならないんです。
自分が頑張らなきゃいけない。
そして実際、日本キリスト教会は植村正久という強いリーダーが建て上げた教派であるわけです。
それに対して、日本キリスト改革派ははっきりした信仰基準がありますので、強いリーダーは必要ないんですね。
人間の力に頼らなくていいんです。
御言葉の力に頼って、平凡な人が力を合わせてやっていく体制なんですね。
そういうことですから、日本キリスト改革派と日本キリスト教会の合同教職者会が終わった後、若手の牧師たちで一緒に食事に行ったんですけれども、まあ、カラーが違いますね。
向こうの牧師さんたちはどんどん自分を出してくるんですね。
それに対して改革派の牧師はおとなしいですね。
みんながあんまりおとなしいので私もおとなしくしていました。
まあ、それを見ていて、日本キリスト改革派と日本キリスト教会は、一緒に何かをするということはできても、合併して本当に一緒になることはできないだろうなと思いました。
どちらもキリストの教会で、どちらも同じ信仰に立っているんですけれども、ちょっとの違いがあるだけで、それだけカラーが違ってくるんですね。
ただ、やっぱり一番大事にしたいのは教派ごとのカラーではなくて、キリストの教会としてのカラーですよね。
キリストに従って教会を建て上げて、キリストを伝えていく。
その中でどうしてもカラーの違いは出てくるものなんですけれども、それをアイデンティティーにするのではなくて、キリストの教会であることをアイデンティティーにしたいですね。
今日の場面はその、キリストの教会の一番のアイデンティティーと言いますか、キリストの教会だけで行われている聖餐式が定められた場面です。
世界の片隅でひっそりと行われた最後の晩餐ですけれども、今、これが世界中の教会で行われているんですね。
そして、この食事は、キリストがどうしても弟子たちと一緒にしたいと願っておられた食事です。
今日のところでも、15節で、「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」とキリストは言っていますよね。
「切に願って」いたんですね。
しかもこの、「切に願っていた」という言葉は、原文では、「切に切に願っていた」というような言葉です。
強く願っていたんだということを繰り返して強調しているんですね。
ではどうしてキリストがそこまで強く願っていたのかと言いますと、この食事が過越の食事だからです。
過越というのは何なのかと言いますと、お祭りの名前です。
そして、この過越祭というお祭りでは特別な料理を食べたんですね。
たとえば、小羊のローストを食べたんです。
どうして小羊なのかと言いますと、この過越祭は、小羊の血によって救われたことを記念するお祭りだからなんですね。
昔昔、イスラエルの人々はエジプトで奴隷にされていたんですが、小羊の血によって救われた。
どういうことかと言いますと、神の怒りがエジプト人の家の中に入っていって、人間の子どもでも動物の子どもでも、最初に生まれた子どもは命を落とした。
それに対して、イスラエルの人々は家の門柱と鴨居に小羊の血を塗っていたので、それが目印になってイスラエル人の家を神様の怒りが過ぎ越したんですね。
そういうことがあって、エジプトの王様はイスラエルの人たちを解放したんですね。
それでこのお祭りは過越祭と呼ばれるようになりました。
ところで、その家がイスラエル人の家であるという目印にするために、家の門柱と鴨居に小羊の血を塗るって、何かおかしいとお思いになりませんか。
神様はそんな目印がなければ、その家がイスラエル人の家かエジプト人の家か、見分けが付かないのでしょうか。
これには理由がありまして、エジプトでは動物が神様なんですよね。
体だけ人間で頭が動物のエジプトの神の絵を見たことがあるのではないかと思います。
エジプトの神は動物なんですね。
ですので、動物をむやみに殺すとエジプトでは大変に重い罪になりました。
死刑になることもあったんだそうです。
そういうことですから、小羊の血を家の門柱と鴨居に塗るというのは大変なことなんですね。
命がけでなければできないことです。
イスラエルの人たちはそれをやったんですね。
私は本当の神様に従います。
ものすごい覚悟ですよね。
神様はそれをご覧になられて、イスラエルの人々を救い出してくださったんですね。
そのことを思い起こすのが過越祭なんですね。
イエス様はどうしても、弟子たちと一緒にその過越の食事をしたかったんです。
それは何も、ものすごい覚悟で立派な信仰を見せて欲しいということではありません。
立派な信仰どころか、もうこのすぐ後には、弟子たちの中から裏切り者が出て、この数時間後には弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げ出してしまうんですね。
そうなることをイエス様はもうご存知です。
それでも、イエス様は、弟子たちと一緒に過越の食事がしたかった。
弟子たちにも、救われて欲しかったんですね。
弟子たちは本当の意味で奴隷であるわけではありませんが、罪の奴隷です。
もうこの数時間後にはそれが明らかになります。
イエス様よりも誰よりも、自分が一番かわいい。
とにかく自分が最優先。
だから神に背く。
それが聖書の言う罪です。
けれども、弟子たちがそこから救い出されることをイエス様は切に切に願っておられたんですね。
イエス様が弟子たちの救いを願っておられたのは、その言葉だけではありません。
16節では、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言っています。
18節では、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言っています。
これは詩篇などにもよく見られますけれども、同じことを言葉を少し変えて繰り返して言う表現の仕方なんですね。
そして、ここでイエス様が繰り返して言っておられるのは、自分はもう飲んだり食べたりすることはないということですよね。
願いがかなうまで何かを飲んだり食べたりしないということは当時、普通に行われていたことでした。
それだけ熱心に願っているということです。
願っているのは、「神の国で過越が成し遂げられること」、「神の国が来ること」ですね。
要するに、救いが実現することです。
だからこそイエス様はこれから、十字架に向かって進んでいくんですね。
十字架は過越です。
神の子が私たち罪人の代わりに罰を受けてくださる。
そうすればもう、私たちに神の怒りが下ることはない。
神の怒りは私たちを過ぎ越す。
その十字架という過ぎ越しが実現することを、何よりも願っておられるんですね。
そのために自分が血を流すんだ、という大変な覚悟をもって、願っておられるんです。
けれどもそうなりますと、弟子たちは取り残されることになります。
イエス様はいなくなって、弟子たちは残されることになります。
その弟子たちのために、イエス様は、このようにして十字架という過ぎ越しを記念しなさいと指示しておいてくださるんですね。
これはもう信じられないことですね。
これから自分を見捨てる弟子たちのために、弟子たちが取り残されてもやっていけるように、指示しておいてくださるんですね。
とほうもない話です。
イエス様はパンと杯に意味を与えてくださいました。
パンは「あなたがたのために与えられるわたしの体である」。
杯は「あなたがたのために流される、わたしの血」である。
これによってイエス様の記念としなさい。
ということは、イエス様というのは私たちにとって、私たちのための体、私たちのための血。
イエス様というのは私たちにとって、私たちのための命なんですね。
それを記念にしなさいということは、それがイエス様だということです。
イエス様はとにかく、私たちのための命なんですね。
そして、20節では、新しい契約ということが言われています。
新しい契約ということは、古い契約があったわけです。
けれども、その古い契約は破られてしまっていました。
神様が人間との間に契約を結んでくださったんですが、人間がそれを破ってしまったんですね。
神の言葉に従って、神の恵みの中に生きていきなさいということだったんですが、人間は神様のことを忘れてしまったんですね。
ふるい契約と書いて旧約ですけれども、旧約聖書に書かれているのは結局そういうことですね。
ここで、人間同士の関係だったら、契約が破られてしまったんですからもう関係はそれっきり、というか、訴えられたりすることもあると思いますけれども、神様はそうなさらないんですね。
契約を結び直してくださるんですね。
それが新しい契約、新約なんです。
それくらい神様は、あなたともう一度新しく、良い関係を結びたいと願っておられるんですね。
今度の契約は契約というより、神様が与えてくださる救いの約束です。
契約と聞くとどうしても、お互いに何かしなければならないことがあるように感じてしまいますけれども、そうではないんですね。
神の子イエス様が私たちのために命を投げ出してくださる。
それだけなんです。
契約と言っても取引じゃないんです。
何とかして人間を罪の奴隷であるところから救い出すためだけの契約なんです。
そのために、イエス様は命を投げ出す覚悟なんです。
弟子たちはまだそのことを知りません。
でも知られなくてもいいと思っておられるんです。
知られなくても、見捨てられても、イエス様はとにかく弟子たちを救いたい。
その思いだけなんです。
ただ、この契約によって救い出された者はそれまでとあり方が変わるんですね。
今日お読みした場面では、弟子たちのことが弟子たちとは書かれていませんでして、「使徒たち」と書かれています。
原文では、「遣わされた者」という意味の言葉になります。
イエス様から「遣わされた者」ですね。
イエス様から遣わされて、それぞれの場所で、新しい契約を伝えていくんですね。
救いを伝えていくんです。
神様はあなたを愛している、大変な覚悟をもって愛しているということを伝えていくんですね。
ただこれは何も、自分が立派な人間にならなければならないということではありません。
この使徒たちは、これからイエス様を見捨てる人たちです。
そして、今日の場面の次の場面では、自分たちの中で誰が一番偉いか、なんていう話をしてしまうような人たちです。
何も特別なところのない、罪もあるし弱さもある、どこにでもいる人たちだったんですね。
けれども、そのような人たちを用いて、神様は人を救っていってくださるんですね。
神様がその人に御手を置いてくださる時、何でもない人たちが大きな働きに用いられるようになっていく。
何かこれはルターの話を思い出しますけれども、神様がその人に御手を置いてくださると、考えもしなかったような大きな働きに用いられるようになっていくんですね。
だからこそ思うんですね。
教会に強いリーダーは必要ない。
私たちは人間の力に頼らなくていい。
神の力に頼って、罪もあるし弱さもある、平凡な人たちが力を合わせてやっていく。
それが使徒たちだったし、御心にかなう教会なんじゃないかと思います。
というより、そうするしかないんじゃないかと思うんです。
私たちにはみんな、罪もあるし弱さもあるんですから。
そして、それでも、それなのに、イエス様に、覚悟をもって愛されているんですから。
小さな力を合わせて、キリストの教会を建て上げていきたいと思います。
その出発点になるのが、今整えられているこの食卓ですね。
私たちの命であるイエス様を記念する、この食卓です。
私たちは皆、この食卓に招かれています。
イエス様が切に切に願っておられた食卓です。
私たちのための命を、これからいただきます。
ここに私たちの命があります。
キリストが与えてくださるまことの命です。