
【今週の予定】
●11/21(火)礼拝(聖餐式、9:00-10:00)
●11/22(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
●11/23(木・休)東部中会定期会(10:00-16:00)
●11/24(金)指導者訓練研究会会議(お茶の水、17:30-19:30)
●11/25(土)牧師週休日
●11/26(日)学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、信徒の学び会(13:00-14:00)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、クリスマス飾りつけ、掃除
★11/21(火)の説教:尾崎牧師
聖書・使徒言行録9章1-9節
説教題「回心とは何か」
★11/26(日)の説教:尾崎牧師
聖書・ルカによる福音書22章35-38節
説教題「その人は犯罪人の一人に数えられた」
11月18日に催されました第二回チャリティー・バザーにおきまして、ご来場の皆様から51,660円をお預かりいたしました。収益は全額、被災地の復興支援センターにお届けさせていただきます。皆様のご厚意に感謝いたします。

こどもクリスマス会(かい)
12月(がつ)9日(にち)(土(ど))午後(ごご)2時(じ)から4時(じ)
クリスマスのお話(はなし)を聞(き)いて、歌(うた)を歌(うた)って、ゲームをして楽(たの)しもう!おかしもあるよ。お父(とう)さんお母(かあ)さんといっしょでも大(だい)かんげいです。お金(かね)はかかりません。

【第4回 クリスマス・チャリティー演劇】
皆さまのご来訪、心よりお待ちしております!
◇日時
12月16日(土)&17日(日) 両日とも14時から15時
◇場所
光が丘キリスト教会
東京都練馬区春日町4-37-26
TEL 03-3577-1044
Mail info@shining-hill.org
Web https://www.shining-hill.org/
地下鉄大江戸線「練馬春日町」駅徒歩8分
地下鉄大江戸線「光が丘」駅徒歩10分
地下鉄副都心線・有楽町線「平和台」駅徒歩20分
◇タイトル
「意地悪ばーさん」
脚本:能登千春(光が丘キリスト教会員・劇団座長)
演出:斉藤可南子
◇あらすじ
教会の仲良し3人組。その内の2人は介護職員。2人の同僚に、いつも独りぼっちの女性がいる。3人は彼女を教会に誘うことを決意するが彼女は思いの外、かたくなで一向にはかどらない。はたして彼女は心を開くのだろうか?
◇劇団
兎団
練馬区を拠点に活動する劇団。
80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。
◇劇団問合せ先
oukaissou@yahoo.co.jp
080-3323-9944
https://usagidan.amebaownd.com/
◇チケット
予約800円・当日1,000円・小学生以下500円
収益は被災地の児童養護施設に全額寄付されます。
チケットについては光が丘キリスト教会までお問合せください。

クリスマス礼拝
2017年12月24日(日)10:30-12:00
キリストの誕生を教会でお祝いしましょう。
キャンドル・サービス
2017年12月24日(日)19:00-20:00
電灯を消して、ろうそくの明かりで礼拝します。
あなたのお越しをお待ちしています。
(小さなお子さんのための母子室もあります)

主は祈っておられる
ルカによる福音書22章31節から34節
31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
今年もクリスマスの季節が近づいてきましたね。
今日の午後にはクリスマスの飾りつけをします。
そして、12月に入ると子どもクリスマス会があって、クリスマス・チャリティー演劇があって、にぎやかな感じになりますね。
今年はクリスマス演劇は16日と17日の二日間で行われるのですが、毎回、脚本家のMさんが脚本を書いてくださって、Mさんの劇団のプロの方が演じてくださいます。
私は一足早く脚本を読ませていただいたんですが、今回の演劇もどうぞ楽しみにしてください。
と言いますのも、なんと今回、初めて、私が出演することになったんですね。
劇団の演出家の方から、先週の火曜日にそういうお話をいただきました。
一体どんな役なんだろうとドキドキしましたけれども、なんと、牧師の役でした。
なあんだ、と思ったんですけれども、まあ、他の役を私が演じるということになりますと、プロの中に混じって一緒にやるのは難しいですので、牧師の役で良かったですね。
どんなふうに演技しましょうか、と演出家の方に聞いてみたんですけれども、牧師に牧師の役を演じていただくので、演技指導はしませんということでした。
これは安心しましたね。
厳しいことを言われるということはなさそうですね。
ただまあ、厳しいことを言われるというのも、いつもいつも悪いことではないのかな、とも思いますね。
考えてみると、人間が成長する時というのは、厳しいことを言われて、言いたいことがあるけれども、まずそれを我慢できた時ではないかなと思うんですね。
今日の聖書の場面、ペトロがイエス様から厳しいことを言われていますけれども、実はこの場面も、この場面があったから、その後のペトロがある、というそういうペトロの人生にとって大事な場面です。
今日の聖書の場面ですが、最後の晩餐の場面が続いていますね。
イエス様が弟子たちと一緒に食卓を囲んだ場面ですね。
この食卓で、イエス様は弟子たちといろいろお話をなさいました。
今日の場面もそういう場面です。
ところが、今日の場面にはひとつ特徴がありますね。
今まではイエス様は弟子たちみんなに対して話をしておられました。
弟子たちに対して「あなたがた」と呼びかけて、全員に対して話をしていたんですね。
けれども、今日の場面には特徴がありまして、イエス様は今日、一人の弟子とだけ話をしておられるんですね。
その弟子というのがペトロです。
イエス様はここでペトロに対して、「シモン」と呼びかけたり、「ペトロ」と呼びかけたりしていますけれども、これ、別々の人ではなくて、一人の人なんですね。
もともとはこの人はシモンという名前だったんです。
シモンというのは旧約聖書の言葉であるヘブライ語で、「小さい石」という意味になります。
小石という名前だったんですね。
けれども、この人はイエス様の弟子になりまして、ある時、イエス様に対して、あなたは神の子です、と申し上げまして、そうするとイエス様がシモンのその信仰をご覧になって、あなたはこれから「ペトロと名乗りなさい」とおっしゃってくださったんですね。
そしてその、ペトロという名前は新約聖書の言葉であるギリシャ語で、「岩」という意味になるんですね。
イエス様はこの人を大いにほめてくださったわけです。
あなたの名前はシモン、小石だけれども、あなたの信仰は立派だ、岩のようにしっかりした信仰だ、だからあなたはこれからは、シモンではなくペトロと名乗りなさい。
イエス様はシモンにだけ特別に、そう言ってくださったんですね。
でも今日の場面では、イエス様はペトロに対して厳しいことをおっしゃるんですね。
それも、今日、イエス様はペトロに対して、「シモン、シモン」とわざわざもともとの名前で呼びかけておられるんですね。
何かこう、小石に逆戻りしちゃったような感じですね。
ではどうして今日、イエス様はペトロに対してだけこんな厳しい言い方をなさるのかということなんですが、ついさっきまで弟子たちはどんなことを話していたのかと言いますと、弟子たちは、自分たちの中で一番偉いのは誰か、という話をしていたんですね。
そんな話になりますと、ペトロは頑張るでしょうね。
ペトロは弟子たちの中でも年上の方で、イエス様からペトロという名前ももらっているし、自分こそが一番弟子だと思っていますから、一番偉いのは私です、みたいなことを言っていただろうと思うんですね。
だから、そのペトロに対してイエス様が、それは違うんじゃないの、ということでこういうお話をなさったというのが今日の場面ではないかと思います。
しかしまあ、ここでイエス様が言っていることはちょっとびっくりするような話ですね。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。
何か大変なことになっていますよね。
これ、イエス様はペトロに対してだけ呼びかけていますけれども、弟子たち全員の問題ですよね。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」というんですから、弟子たち全員がふるいにかけられてしまうんです。
それも、小麦のようにふるいにかけるというんですから、大変なことです。
小麦をふるいにかけるというのは、もみがらと実を分けるためですね。
もみがらは当然捨ててしまうわけです。
弟子たちは実りのないものとして捨てられてしまうかもしれないんです。
ただ、ここで気になりますのは、このイエス様の話ですね。
サタンは神様に願って聞き入れられたということですね。
これは一体どういうことなのかなあと思いますが、サタンと神様というのはライバル同士ではないんですね。
絶対的に神様の方が上だということですね。
だから、サタンが何か悪いことをするとしても、神様のお許しがなければできないということなんですね。
こういう話は旧約聖書にも描かれておりまして、旧約聖書にヨブ記という物語があるんですが、その物語の中で、サタンはヨブという人をふるいにかけることを神様にお願いするんですね。
ヨブという人は立派な信仰者だったんですが、大変なお金持ちでもありまして、そこでサタンは神様に対して、ヨブが神様に従っているのは神様がたくさんの恵みを与えてくださっているからで、もしヨブからすべてを取り上げたら、ヨブはきっと神様を呪うようになりますよ、ということを言ったんですね。
そうしますと神様はサタンがヨブをふるいにかけることをお許しになりました。
そこでサタンがヨブに大きな試練をいくつも与えるということになっていったんですね。
これと同じことがイエス様の弟子たちにも起こってきます。
イエス様の弟子たちもこれから、大きな試練を与えられることになります。
今まで信じて従ってきたイエス様が逮捕されて、十字架に付けられてしまうんです。
大変な試練です。
イエス様の弟子としては一番大きな試練です。
その時、弟子たちはまさにふるいにかけられることになります。
けれども、ふるいにかけられた時、イエス様の弟子にふさわしくありつづけることができた人は一人もいなかったんですね。
今の時点ではまだこれからそういうことが起こるということを弟子たちはまだ知りませんから、ペトロは今日、立派なことを言っていますけれども、実際にはイエス様が逮捕されると弟子たちは全員逃げ出したんですね。
その後、ペトロは、イエス様の裁判が行われている場所に行くんですけれども、そこにいた人たちに、あなたはイエスの弟子じゃないかと言われて、それを否定するんですね。
自分から、私はイエスの弟子ではない、あんな人のことは知らないと言ってしまうんです。
ふるいにかけられて、こぼれ落ちてしまうんです。
みんな小麦じゃなくてもみがらだったんですね。
イエス様はそうなることを知っておられました。
だから今日、言うんですね。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
けれども、こんなふうに言われてしまいますと、ペトロとしては自分が一番弟子だと思っているわけですので、我慢できないんですね。
だいたい、自分のことをイエス様が「シモン」と呼びかけていることからして、ペトロとしては我慢ならなかったんじゃないかなと思います。
ですのでペトロは言い返しますね。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。
ここまで言うんですね。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。
こういう言い方を聞きますと、なんだか、イエス様と一緒なら私は命もいりませんというような、イエス様に対する愛を語っているように聞こえますけれども、原文を見ますとこの言葉は、「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」という言い方なんですね。
「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」。
これはイエス様に対する愛ではないですね。
ペトロとしては、私はイエス様の弟子としての責任をどこまでも果たします、という気持ちなんですね。
イエス様に対する愛というより、自分の責任感を語っているんです。
弟子としての覚悟を宣言しているんですね。
けれども、実際にどうなってしまったのかというと、皆さんご存知の通りなんですね。
これは私たちもよく考えてみたいところです。
信仰というのは覚悟してイエス様に従うことではないんですね。
もし、信仰とは覚悟することだと思っているのなら、私たちもペトロが言ったようなことを言うでしょう。
けれども、イエス様は今、そのペトロの覚悟をほめておられますか。
イエス様はペトロをほめておられません。
今度はシモンとは呼ばずにペトロと呼んで、何かこうペトロを落ち着かせようとしている感じですけれども、イエス様はもっと厳しいことを最後に言っていますね。
「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。
自分が今日、三度、イエス様のことを知らないと言う。
そんなことはあるはずはない、とペトロは思ったでしょうね。
しかし、その通りになります。
そして、今このようにして、前もってこういうことを言っておられるということは、逆に言って、イエス様としては、それでいいんだと考えておられるということですね。
それでいいんですね。
覚悟はいらないんです。
もしイエス様が、覚悟が必要だとお考えだったら、ここで最後に、「あなたは覚悟が足りないよ」と言うと思いますね。
でも、そんなことは言わないんです。
覚悟はいらない、とイエス様は考えておられるんです。
どうかすると私たちは、覚悟をもって生きていきたいと考えることがありますね。
覚悟して、イエス様にしっかり従って行きたい。
それが信仰の歩みだと思ってしまうことがあります。
しかし、信仰には覚悟は必要ないんですね。
イエス様はそんなものは求めておられないんです。
イエス様はイエス様の弟子にそんなものを求めておられないから、だからイエス様は言っているじゃないですか。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。
私たちは、何かを求められているんじゃないんです。
信仰というのは、イエス様の祈りによって守られているものだということですね。
私たちに信仰があるというのも実はそうだということです。
イエス様が祈ってくださって、私たちの信仰が守られている。
それも、イエス様は、ペトロがこれからどうなるか分かっておられて、これからご自分を見捨てるということが分かっていて、それでも、ペトロのために祈ってくださるんですね。
これは励まされますね。
イエス様は私たちのためにも祈ってくださっています。
もうそれは絶対に間違いのないことなんです。
イエス様が私たちのために祈ってくださって、守ってくださる。
それを信じることが信仰なんですね。
続けて、イエス様はペトロに言っておられます。
「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
ペトロは、どんなふうに試練の中にいる兄弟たちを励ましたでしょうか。
どういう言葉でペトロが励ましたのかは聖書には書かれていませんけれども、弟子としての覚悟というような話ではなかったでしょうね。
イエス様が逮捕されて、十字架にかけられて、試練の中で、弟子たちは部屋にカギをかけて閉じこもっていました。
イエス様の弟子だということで、自分も逮捕されるかもしれない。
それが怖くて、隠れていたんですね。
けれどもこの時、弟子の中には、イエス様を信じるのをやめて、自分の町に帰ろうとしていた人たちもいたんです。
でも、ペトロと他の弟子たちは、自分の町に帰ろうとはしなかったんですね。
考えてみると、逮捕されたくないというのだったら、そこから逃げ出した方がいいに決まっています。
どうして逃げ出さなかったのか。
ペトロが何とかして励ましていたのではないかと思いますね。
そして、そこに、隠れて閉じこもっている部屋に、イエス様が来てくださった。
イエス様が来てくださって、一人ひとりを励ましてくださった。
自分の町に帰ろうとしていた弟子たちにも現れてくださって、立ち直らせてくださった。
イエス様がなしてくださるんです。
試練にあって、倒れてしまいそうになったとしても、信仰が守られるように祈ってくださって、そして、
出会ってくださって、立ち直らせてくださる。
それがイエス様なんです。
私たちも、試練にあうことはあります。
というより、試練にあわない人というのはまずいないのではないでしょうか。
その人その人に与えられる試練というのは誰にでもあることだと思います。
けれども、今日私たちは聞きましたね。
そもそも、どんな試練も、神様の許しの中で起こっているんです。
どんな悪いことが起こったとしても、それは神様の御心の中で起こっていることなんですね。
すべてを支配しておられるのは神様なんです。
そして、神の子イエス様は、その神様に祈ってくださっているんですね。
どうか私たちを守ってくださるようにと祈ってくださっているんです。
ですから私たちは試練にあった時にも、希望を持っていいんですね。
試練にあった時には、どうぞ思い出してください。
その時もあなたは神様の御手の中にいます。
そして、イエス様は、あなたのために祈ってくださっています。
今試練の中にある方は、どうぞそのことを心に留めてください。
そして、このペトロが、イエス様の祈りに守られて、後になって、どれくらい大きな神様の働きをするようになっていったのか、どうぞそのことを心に留めてください。
ペトロが特別だったのではありません。
ペトロには何も、特別な点はありません。
ただ、ペトロは神様に愛されていた。
そしてそれは、私たちひとりひとりも同じなんです。
イエス様に代わってお願いいたします。
どうぞそのことを心に留めてください。