今週の説教「その人は犯罪人の一人に数えられた」(新約聖書・ルカによる福音書22章35節から38節)

【今週の予定】

●11/27()葬儀(南浦和教会、11:00-17:00)1216()17()、両日とも14時から15時にかけて催される第4回クリスマス・チャリティー・演劇に向けての劇団稽古(19:00-22:00)

●11/28()聖書を読む会(旧約聖書・ヨナ書、10:30-12:00)、劇団稽古(19:00-22:00)

●11/29()牧師健康診断(10:20-11:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

●11/30()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●12/2()牧師週休日

●12/3()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、小会(13:00-15:30)、掃除

 

★12/3()の説教:尾崎純牧師

聖書・イザヤ書71節から17

説教題「おとめが身ごもって、男の子を産む」

 


1118日に催されました第二回チャリティー・バザーにおきまして、ご来場の皆様から51,660円をお預かりいたしました。収益は全額、被災地の復興支援センターにお届けさせていただきます。皆様のご厚意に感謝いたします。


こどもクリスマス会(かい)

12月(がつ)9日(にち)(土(ど))午後(ごご)2時(じ)から4時(じ)

クリスマスのお話(はなし)を聞(き)いて、歌(うた)を歌(うた)って、ゲームをして楽(たの)しもう!おかしもあるよ。お父(とう)さんお母(かあ)さんといっしょでも大(だい)かんげいです。お金(かね)はかかりません。


【第4回 クリスマス・チャリティー演劇】

皆さまのご来訪、心よりお待ちしております!

◇日時
 12月16日(土)&17日(日) 両日とも14時から15時

◇場所
 光が丘キリスト教会
 東京都練馬区春日町4-37-26
 TEL 03-3577-1044
 Mail info@shining-hill.org
 Web https://www.shining-hill.org/
 地下鉄大江戸線「練馬春日町」駅徒歩8分
 地下鉄大江戸線「光が丘」駅徒歩10分
 地下鉄副都心線・有楽町線「平和台」駅徒歩20分
 
◇タイトル
 「意地悪ばーさん」
 脚本:能登千春(光が丘キリスト教会員・劇団座長)
 演出:斉藤可南子

◇あらすじ
 教会の仲良し3人組。その内の2人は介護職員。2人の同僚に、いつも独りぼっちの女性がいる。3人は彼女を教会に誘うことを決意するが彼女は思いの外、かたくなで一向にはかどらない。はたして彼女は心を開くのだろうか?

◇劇団
 兎団
 練馬区を拠点に活動する劇団。
 80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

◇劇団問合せ先
 oukaissou@yahoo.co.jp
 080-3323-9944
 https://usagidan.amebaownd.com/

◇チケット
 予約800円・当日1,000円・小学生以下500円
 収益は被災地の児童養護施設に全額寄付されます。
 チケットについては光が丘キリスト教会までお問合せください。


クリスマス礼拝

 2017年12月24日(日)10:30-12:00

キリストの誕生を教会でお祝いしましょう。

 

キャンドル・サービス 

2017年12月24日(日)19:00-20:00

電灯を消して、ろうそくの明かりで礼拝します。

 

あなたのお越しをお待ちしています。

(小さなお子さんのための母子室もあります)


その人は犯罪人の一人に数えられた

 

ルカによる福音書2235-38

 

35それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、36イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。37言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」38そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

 

 

 

 

 

夏ごろにパソコンが壊れまして、そのあとずっと教会のパソコンを使わせていただいていたんですが、最近になってようやく自分のパソコンを買いました。

 

前の自分のパソコンも、教会のパソコンも同じメーカーの製品で、今回買ったのも同じメーカーの製品ですので、まあまあ使いやすいんですが、使いだしてすぐに気づいたことには、キーの位置が教会のパソコンと少し違うので、しょっちゅう間違ったキーを押してしまうんですね。

 

要するに、もう、教会のパソコンのキーの配置が私の体にしみこんでしまっているんですね。

 

それで、しょっちゅう打ち間違いをしてしまうんですね。

 

そこでふっと考えるのは、イエス様のことですね。

 

パソコン対応の自分になっているのはいいとして、それと同じくらい、自分はイエス様に対応しているだろうか。

 

そんなことを考えました。

 

キーボードを見ないでパソコンの入力ができることをブラインドタッチと言いますけれども、それくらいイエス様に対応できるようになるのにはどれくらいの時間がかかるのかなあと思ったりしています。

 

そう考えますと、イエス様の弟子たちはどうだったんですかね。

 

どれくらいイエス様に一致していたんでしょうか。

 

今日の話も、弟子たちとイエス様の話です。

 

ただ、話を皆さんはどのようにお聞きになられますでしょうか。

 

イエス様が、つるぎを持っていきなさいと言っています。

 

つるぎが必要なのでしょうか。

 

イエス様は今まで、つるぎで何かをなしとげたことはありません。

 

けれども今、確かに、イエス様は弟子たちに対して、つるぎを取りなさいと言っているんですね。

 

これから、確かに大変なことが起こってきます。

 

もうこのページの下の段で、イエス様は裏切られて、そして、逮捕されてしまいます。

 

そして、最後には十字架につけられることになります。

 

大変なことです。

 

大変なことがこれから起こります。

 

しかし、どうしてつるぎが必要なのでしょうか。

 

今日、弟子たちはイエス様に対して、つるぎが二振りありますと答えていますけれども、そのつるぎは結局役に立ったでしょうか。

 

役に立たなかったんです。

 

聖書のこのページの下の段で、ユダがイエス様を裏切ります。

 

ユダが大勢の人をイエス様のところに案内してきたんですね。

 

その大勢の人はみんな、イエス様の敵です。

 

この人たちは人々の指導者であったわけですが、人々がみんなイエス様の方に行ってしまって、自分たちのところに来なくなったので、何とかしてイエス様をやっつけてやりたいと思っていた人たちです。

 

この時、弟子の一人がつるぎを振り下ろして、大祭司の手下の右の耳を切り落としました。

 

他の福音書を読みますと、この時つるぎを振り下ろしたのはペトロだったと書かれています。

 

自分こそが一番弟子だと考えていた、ペトロですね。

 

この人は、今こそ戦うべき時だと決心して、つるぎを振るったんです。

 

しかし、そこでイエス様はどうなさったか。

 

「やめなさい。もうそれでよい」と言って、「その耳に触れていやされた」んですね。

 

つるぎは役に立っていますか。

 

役に立ったとは言えないんですね。

 

それより何より、つるぎを持っていきなさいと言ったイエス様が、「やめなさい。もうそれでよい」と言っているんです。

 

何がいいんでしょうか。

 

弟子たちがつるぎを二振り見せた時にも、「それでよい」とイエス様は言いました。

 

何がいいんでしょうか。

 

つるぎは役に立っていないんです。

 

というより、イエス様の仕事を増やしただけです。

 

ペトロがつるぎを振り下ろしたから、イエス様は切り落とされた耳をいやさなければならなくなった。

 

余計な仕事が増えただけです。

 

そもそも、イエス様はご自分が逮捕されて十字架につけられることになることを、もうずいぶん前から分かっておられて、受け入れておられました。

 

それなのにどうしてつるぎを弟子たちに持たせようとなさったのでしょうか。

 

いえ、そもそも、と言うなら、今日、弟子たちは12人いたんです。

 

どうしてつるぎが二振りだけでいいんですか。

 

持って行かせるなら、一人一本持って行ったほうがいいんじゃないでしょうか。

 

それなのにイエス様は、「それでよい」と言われたんですね。

 

いえ、もっと言うなら、今日イエス様が言っておられますけれども、これはこの福音書の9章の最初のところと10章の最初のところの出来事ですが、財布も袋もはき物も持たなかったとしても、何も不足することはないんですね。

 

何にも持たなくたって、手ぶらで出かけて行っても、不足することはないんです。

 

イエス様に従って、イエス様が言われたとおりにするなら、何も足りないものはないんです。

 

必要なものは、その時その時与えられるんです。

 

神様が与えてくださるんです。

 

イエス様はそのことを約束してくださって、送り出してくださるんですね。

 

そして今、イエス様はわざわざその時のことを思い起こさせているじゃないですか。

 

それなのに、つるぎを取りなさいと言うんですね。

 

ここのところのイエス様の言葉はちょっと分かりにくい翻訳になっていますが、ここでイエス様が言っているのは、財布を取りなさい、袋も持ちなさい、財布も袋も持っていない者は服を売りなさい、そうして、とにかくつるぎを買いなさい、ということなんですね。

 

つるぎを持たなくてはならないと確かに言っておられるんですね。

 

どうしてイエス様がこんなことを言うんでしょうか。

 

これは、弟子たちが今どういう気持ちでいるのか、ということがヒントになるのではないかと思います。

 

今日の場面の直前の場面で、ペトロは弟子としての覚悟を示していました。

 

ペトロは大変な覚悟をしていましたね。

 

私はどこまでもイエス様に従います。

 

牢屋に入れられても死んでもかまいません。

 

そういう覚悟を宣言していました。

 

ただその覚悟がどうなったのかと言いますと、イエス様が逮捕された後、ペトロはイエス様の裁判が行われている場所に行くんですけれども、その場所で、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子じゃないかと言われて、いや私はあんな人のことは知らないと答えてしまうんですね。

 

ただ、大事なことは、イエス様は最初から覚悟なんていうものを求めておられないんですね。

 

私たちは何かこう、どんなことをするのでも覚悟をもって取り組むことが大事だと考えることがありますし、覚悟して決心して生きている人を見ると立派な人だなあと思ってしまいますけれども、イエス様はそんなことを思ってはおられないんです。

 

もしイエス様が、覚悟が大事だと思うんだったら、ペトロが覚悟を示したときに、いやいや、あなたの覚悟はまだまだ足りないよ、とか言うんじゃないですか。

 

イエス様はそんなことは言わないんです。

 

代わりに何と言ったのかというと、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」と言ったんですね。

 

大事なのはここですね。

 

イエス様が祈ってくださっている。

 

弟子のために祈ってくださっている。

 

弟子たちは、私たちは、イエス様の祈りに守られている。

 

イエス様の祈りに支えられている。

 

だから弟子たちは倒れることがない。

 

覚悟を見せるのが弟子じゃないんです。

 

イエス様に祈られるのが弟子なんです。

 

イエス様の祈りに支えられているのがイエス様の弟子なんです。

 

それなのにペトロは覚悟を示したんですね。

 

覚悟というのは、自分の意志で、自分の力で頑張りとおしますということです。

 

そうじゃないんです。

 

イエス様が祈って支えてくださっているんです。

 

それなのに、自分の意志で、自分の力でというなら、これはもう、イエス様の祈りをふみにじっていることになります。

 

それはもう、イエス様とまったく関係のない道を行くことなんですね。

 

だからイエス様は言うんです。

 

つるぎを取りなさい。

 

あなたがたは、私とは別の道を行こうとしている。

 

私と別の道を行くなら、つるぎが必要になるだろう。

 

つるぎを抜いて、人の命を奪おうとするようになっていくだろう。

 

だから、つるぎを取りなさい。

 

今のあなたがたにはつるぎがふさわしいのだ。

 

イエス様はそういうおつもりなんですね。

 

でもそれは、決してイエス様が望んでおられたことではありません。

 

今のあなたがたにはそれがふさわしい。

 

そうお考えになられて、だったらつるぎを取りなさい、ということなんですね。

 

ただ、それはイエス様の弟子としてふさわしいことではありませんから、つるぎは二振りで十分だ、ということなんですね。

 

要するに、イエス様は弟子たちのことをよくわかっておられるのに、弟子たちはイエス様のことを何にもわかっていないんですね。

 

弟子たちはイエス様の祈りを無視して、イエス様と無関係の道を行こうとしている。

 

イエス様に従うなら、何も不足はないのに、必要なものはその時その時必ず与えられて、守られて、支えられるのに、そのことを体験していたはずの弟子たちが、自分の意志で、自分の力で、イエス様と別の道を進んでいこうとしている。

 

けれども、そのような弟子たちをイエス様はそれでも見捨てないで、受け入れておられる。

 

胸がつまります。

 

そして、ここで、今日の37節で、イエス様はこんな弟子たちに対して、ご自分のことを話しておられます。

 

「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。

 

そうです。

 

これからイエス様は逮捕されて、十字架につけられます。

 

犯罪人として死刑にされます。

 

ここで、そういうふうに書かれている、と言われていますけれども、これは、聖書に書かれている、ということです。

 

このことが書かれているのは旧約聖書のイザヤ書です。

 

イザヤ書は、イエス様の時代よりも700年も前に書かれました。

 

700年も前から、神様がつかわしてくださる救い主はこういう方なんだよ、ということが言われていたんですね。

 

旧約聖書のイザヤ書53章の最後、1150ページの下の段に今日イエス様が言った言葉があります。

 

イザヤ書53章の12節の真ん中あたりに、今日イエス様が言った言葉があります。

 

「彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ」。

 

今日のイエス様の言葉と翻訳が少し違っていますが、イエス様はこのイザヤ書53章の言葉がご自分のことであると言ったんですね。

 

この言葉を、今日の弟子たちと話の流れの中で聞きますと、イエス様を犯罪人として捕まえに来る人がいるから、それに備えてつるぎを取りなさい、と言っているように聞こえます。

 

弟子たちはそういうふうに聞いたことでしょう。

 

だからペトロは、イエス様が逮捕されそうになると、つるぎを振り回したんです。

 

けれども、イエス様はそういうことが言いたかったわけではありません。

 

イエス様は弟子たちに合わせて、イザヤ書53章から、こういう言葉を語っておられますけれども、イザヤ書53章に書かれているのはそんなことではないんですね。

 

今お読みした5312節の、その後のところを読みますと、こういうことが書かれています。

 

「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。

 

つるぎを振るうなんてことじゃないんです。

 

自分を投げうって、神に背く人々の過ちを背負って、神に背く人々を神様にとりなしてくださる。

 

イエス様が本当に弟子たちに気付いてほしかったのはこのことなんですね。

 

53章の3節にはこういう言葉があります。

 

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」。

 

4節にはこうあります。

 

「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み」。

 

そのようにして、ご自分で引き受けてくださる方なんですね。

 

私たちを引き受けてくださる方なんです。

 

それがイエス様のくださる救いなんです。

 

こういう方だからこそ、覚悟を決めて、イエス様と無関係の道に行こうとしている弟子たちのことをも祈ってくださり、守ってくださるんですね。

 

つるぎを振り回して暴れるような弟子のために、祈ってくださるんですね。

 

弟子のことを、私たちのことを、背負ってくださる方だから。

 

だから私たちは信じていいんですね。

 

イエス様は今も、私たちのために祈ってくださっています。

 

だから私たちには、財布も袋もはき物も、何も持たなくても、不足することはありません。

 

覚悟もつるぎも、必要ありません。

 

むしろ私たちが、これは必要だろう大事だろうと思っていたものに頼らなくなる時、イエス様は私たちを大いに恵みで満たしてくださる。

 

と言いますか、その時に、イエス様が私たちを恵みで満たしてくださっていることに気付く。

 

そしてその時、大事だと思っていたものが、必要のないものであったことに気付く。

 

それがイエス様の道ですね。

 

私たちは今、その道に立っています。

 

右にも左にもそれずに、真っすぐにこの道を行きましょう。

 

たとえ道をそれたとしても、弟子たちがそうされたように、正しい道に引き戻されるんですから、だったら、もう、この道を行きましょう。

 

弟子たちは遠回りしただけです。

 

覚悟を決めて、でもその道で失敗して、絶望して、そこにもう一度イエス様が来てくださって、元の道に戻された。

 

つらい思いをするためだけに、遠回りしたようなものです。

 

弟子たちの失敗に学ばせていただいて、わたしたちはまっすぐに行きましょう。

 

イエス様が後ろから支えてくださいます。

 

支えてくださっています。