今週の説教「おとめが身ごもって、男の子を産む」(旧約聖書・イザヤ書7章1節から17節)

【今週の予定】

●12/4()牧師週休日

12/5()聖書を読む会(旧約聖書・ヨナ書、10:30-12:00)

12/6()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

12/7()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

12/9()こどもクリスマス会(14:00-16:00)

12/10()アドベント(待降節第2)、学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除

★12/10()の説教:尾崎牧師

聖書・マタイによる福音書118節から25

説教題「神は我々と共におられる」

 


こどもクリスマス会(かい)

12月(がつ)9日(にち)(土(ど))午後(ごご)2時(じ)から4時(じ)

クリスマスのお話(はなし)を聞(き)いて、歌(うた)を歌(うた)って、ゲームをして楽(たの)しもう!おかしもあるよ。お父(とう)さんお母(かあ)さんといっしょでも大(だい)かんげいです。お金(かね)はかかりません。


【第4回 クリスマス・チャリティー演劇】

皆さまのご来訪、心よりお待ちしております!

◇日時
 12月16日(土)&17日(日) 両日とも14時から15時

◇場所
 光が丘キリスト教会
 東京都練馬区春日町4-37-26
 TEL 03-3577-1044
 Mail info@shining-hill.org
 Web https://www.shining-hill.org/
 地下鉄大江戸線「練馬春日町」駅徒歩8分
 地下鉄大江戸線「光が丘」駅徒歩10分
 地下鉄副都心線・有楽町線「平和台」駅徒歩20分
 
◇タイトル
 「意地悪ばーさん」
 脚本:能登千春(光が丘キリスト教会員・劇団座長)
 演出:斉藤可南子

◇あらすじ
 教会の仲良し3人組。その内の2人は介護職員。2人の同僚に、いつも独りぼっちの女性がいる。3人は彼女を教会に誘うことを決意するが彼女は思いの外、かたくなで一向にはかどらない。はたして彼女は心を開くのだろうか?

◇劇団
 兎団
 練馬区を拠点に活動する劇団。
 80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

◇劇団問合せ先
 oukaissou@yahoo.co.jp
 080-3323-9944
 https://usagidan.amebaownd.com/

◇チケット
 予約800円・当日1,000円・小学生以下500円
 収益は被災地の児童養護施設に全額寄付されます。
 チケットについては光が丘キリスト教会までお問合せください。


クリスマス礼拝

 2017年12月24日(日)10:30-12:00

キリストの誕生を教会でお祝いしましょう。

 

キャンドル・サービス 

2017年12月24日(日)19:00-20:00

電灯を消して、ろうそくの明かりで礼拝します。

 

あなたのお越しをお待ちしています。

(小さなお子さんのための母子室もあります)


おとめが身ごもって、男の子を産む

 

イザヤ書71節から17

 

1ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。2しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。3主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、4彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。8アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)9エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」10主は更にアハズに向かって言われた。11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」13イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。15災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。16その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。17主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

 

 

 

 

 

クリスマスを待ち望む季節になりました。

 

今日はこのイザヤ書7章から、クリスマスにお生まれになられたイエス様とはどういう方なのかを考えてみたいと思います。

 

このイザヤ書はイエス様の時代よりも700年前に書かれた本なのですが、このイザヤ書の714節ですね。

 

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。

 

この御言葉を覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

この御言葉が、マタイによる福音書に出てきますね。

 

開いていただかなくてもかまいませんが、マタイによる福音書の123節にこの言葉が書かれています。

 

マタイは、700年前に書かれたこのイザヤ書の御言葉はイエス様のことだ、イエス様にふさわしい、イエス様にぴったりだ、と考えたんです。

 

だからマタイは、自分がイエス様の誕生について書く時、クリスマスのことを書く時に、このイザヤ書の御言葉を書いたんですね。

 

直接にはこのイザヤ書7章の男の子は、イザヤ書8章の3節に出てくる、イザヤ自身の子どものことを指していると考えられます。

 

けれどもマタイは、イエス・キリストはまさにここに記されているこの男の子なんだと言うんですね。

 

では一体どういう意味でイエス・キリストがこの男の子なのか、見ていきたいと思います。

 

そしてそのことが私たちにとってどういう意味があるのか、考えてみたいと思います。

 

 

 

今日はイエス様について知りたいので、細かい事は言わないで、大事な所だけを拾いながら読んでいきたいと思います。

 

まず、このイザヤ書7章が描いている状況ですけれども、12節を見ると、エルサレムが外国から攻撃されそうになっていることがわかります。

 

そうすると、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」というのが2節の後半ですね。

 

大変な困難を前にして、激しく心を揺さぶられたわけです。

 

こういったことは私たちにも起こってきます。

 

もうダメかもしれない、と思って、激しく心を揺さぶられることは誰にでもあることでしょう。

 

そうなるともう私たちは、森の木々が風に揺れ動くようにされてしまう。

 

心も体もじっとしていられなくなってしまう。

 

考えもまとまらなくなってしまう。

 

けれども、そのような時、神様が私たちからは隠れたところで動いてくださるんですね。

 

それが3節からです。

 

神様はイザヤに対して、アハズという王様に会いに行きなさいと命じます。

 

神様は心を乱している王様に直接働きかけたりはしないんですね。

 

人を用いて働かれるんです。

 

神様は王様のところに、人を行かせます。

 

そしてその時に、シェアル・ヤシュブという名前の息子を連れて行くように命じています。

 

この「シェアル・ヤシュブ」という言葉は、「残りの者は帰ってくる」という言葉です。

 

「残りの者は帰ってくる」。

 

聖書で「残りの者」と言ったら、信仰に留まる人のことで、「帰ってくる」と言ったら、神様のもとに帰ってくることですので、そういう名前の子どもを連れて行け、ということは、神様としては、取り乱している王様に対して、神様の方に向き直りなさいと言っていることになります。

 

このようなことが言われるのには理由がありました。この王様は神様に信頼していなかったんですね。

 

イザヤがどこでこの王様に出会うのかというと、「上貯水池からの水路の外れ」です。

 

ここまでこの王様が出てくることを神様は知っておられたから、イザヤに対してその場所に行きなさいと命じたわけです。

 

この場所はエルサレムの町の外れです。

 

ここから水が湧き出していて、その水をエルサレムの中に引き込んでいたんですね。

 

町を敵に囲まれてしまった時に水がなくなると大変ですから、この王様はこの場所を確認しに来たんでした。

 

つまり、この王様にとってこの貯水池こそが命の源であったわけです。

 

私たちも心を乱してしまった時、同じような行動をするのではないでしょうか。

 

神様に頼るよりも先に、目に見えるものにしがみつこうとする。

 

けれども神様はその場所にも来てくださるんですね。

 

まるで先回りするようにして、その場所に来てくださる。

 

そしてその場所で、この王様は、神の言葉を聞くことになります。

 

ここに自分の命がかかっていると思っていたその場所で、神の言葉を聞くのです。

 

神の言葉こそ本当の命の源なんです。

 

イザヤはこの王様に対してこういうことを言いました。

 

4節ですが、「落ち着いて、静かにしていなさい」。

 

このメッセージを王様はどのように聞いたでしょうか。

 

今にも国が滅んでしまいそうなのに、落ち着いて、静かにしていることはできません。

 

静かにしていられなかったからこそ、命の源だと考えていたこの場所にやってきたんです。

 

神様は続けて語ります。

 

10節です。

 

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。

 

しるしを求めなさいと言われています。

 

しるしというのは神の業のこと、もっとはっきり言うと奇跡のことです。

 

目に見える、神の業を求めなさい。

 

神様はそう言うんですね。

 

取り乱して、目に見えるものに自分の命がかかっているとしか考えられなくなっている時に、神様はそう言うんです。

 

あなたは今、目に見えるものに頼ることしか考えていない。

 

だったら、目に見える私の業を求めなさい。

 

深く陰府の方に、あるいは高く天の方に、しるしを求めなさい。

 

目の前の現実よりもはるかに深いところに、目の前の現実よりもはるかに高いところにしるしを求めなさい。

 

現実とは別の次元の、人間の次元ではない神の次元の業を求めなさい。

 

動揺して、神様を見失ってしまっても、神様の方から手を差し伸べてくださるんですね。

 

ということは、神様は、私たちを助けるために、ずっと私たちのことを見ておられるということなんです。

 

ずっと見ておられて、手を差し伸べるタイミングを見計らっておられるのが神様なんです。

 

それなのに王様の答えはどうでしょうか。

 

12節です。

 

「わたしは求めない。

 

主を試すようなことはしない」。

 

ちょっと聞くと、信仰深そうな言葉です。

 

なるほど確かに、神様にしるしを求めるというのは信仰的なことではないですね。

 

奇跡を見せてくださいというのは、神様を本当のところは信じていないということです。

 

奇跡を見たら信じますよと言うのは、この王様が言っている通り、神様をテストすることです。

 

けれども、今神様は何をしてくださっていますか。

 

神様は手を差し伸べてくださっているんです。

 

この王様は取り乱して、神様よりも目に見えるものにしがみつこうとしているのに、神様の方から手を差し伸べてくださったんです。

 

それなのにこんなことを言って突っぱねるというのは信仰の言葉ではありません。

 

そもそも、この王様は一度も神様に頼ろうとしなかったではないですか。

 

この王様の言葉は、信仰の言葉ではありません。

 

単に強がってこう言っているんですね。

 

信仰の言葉に見せかけてはいますけれども、そうではありません。

 

信仰があるように見せかけて強がってもっともらしいことを言っているだけなんです。

 

ただの言い訳なんです。

 

これが人の弱さです。

 

本当は取り乱していても、それを認めたくない。

 

そんな姿を人に見せたくない。

 

ましてこの人は王様です。

 

強くなければなりません。

 

しかしこれは、私たちとは関係のない話ではありません。

 

私たちも、自分自身を自分の王にしてしまっていないでしょうか。

 

そして私たちも、自分自身のことについては強くなければならないと心のどこかで思っていないでしょうか。

 

そして、もっともらしいことを言って強がって見せたことはなかったでしょうか。

 

そんな私たちは、神様の目にどのように映っているでしょうか。

 

それが13節の後半です。

 

それは私たちが神様にもどかしい思いをさせることなんですね。

 

私たちがもうダメかもしれないと思って、どうしようもなく動揺して、でもそんな弱い自分を認めたくなくて、強がってもっともらしいことを言う時、その時神様はもどかしい思いをしておられるんですね。

 

私たちの言い訳が、神様にはもどかしいんですね。

 

でも、それではいけない。

 

9節にこう書かれていました。

 

「信じなければ、あなたがたは確かにされない」。

 

この言葉はよく分かります。

 

信じていない王様は、まったく確かではありません。

 

そして、確かでないから強がらなければならなかったんです。

 

でも私たちは神の業を求めます。

 

目の前の現実よりもはるかに深いところから、はるかに高いところから、神様が働いてくださるのを求めます。

 

手を差し伸べてくださる神様のその手を、つかむんです。

 

そこに確かさがある。

 

私たちはもう、強がったりしない。

 

そんなことをする必要がない。

 

現実を超えた方に希望を置くんですね。

 

その方が、私のことを見ておられるから。

 

私に手を差し伸べてくださっているから。

 

私たちにはどうしても心が揺れ動くことというのがあります。

 

とても大きな出来事を経験した時や今まで経験のないことを経験した時には心が揺れ動くということはあります。

 

もしかすると、他の人には小さなことに見えても自分にとっては動揺することというのもあります。

 

けれども、私たちはそういう時、動揺しながらであっても神様に求めていいんですね。

 

私たちは今日聞きました。

 

動揺している私たちに、「この私を求めなさい」と言ってくださるのが神様なんです。

 

「しるしを求めなさい」と言ってくださるのが神様なんです。

 

手を差し伸べるタイミングをいつも見計らってくださっているのが神様なんです。

 

私たちはその時、動揺しても、それを隠して強がって言い訳をしてしまうかもしれません。

 

ですけれども、たとえそうしたとしたって、それで終わりではないんです。

 

神様の方から私たちにしるしを与えてくださるんですね。

 

14節です。

 

「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。

 

今日の王様はしるしを求めませんでした。

 

言い訳をして、神様にもどかしい思いをさせました。

 

けれども、そんな人にもしるしが与えられました。

 

しるしを求めない者にも神様はしるしを与えてくださるんですね。

 

神様はご自分から離れてしまっている者をも愛してくださるんです。

 

インマヌエルというのは神は我々と共におられるという意味です。

 

神様はもどかしい思いをしておられるのに、それでも、それだからこそ、私たちと共にいてくださる。

 

もどかしくて、もう目を離していられないから、だから私たちのそばにぴったりと付いていてくださるんです。

 

神様は私たちがどこにいても私たちと共にいてくださいます。

 

マタイによる福音書の最後の言葉を思い出します。

 

「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」。

 

神様は私たちから遠く離れたところにおられるのではありません。

 

深いところにおられるのでも、高いところにおられるのでもありません。

 

私たちが今いる場所とは別の次元におられるのではありません。

 

今ここにいてくださっているんです。

 

私たちがここにいるから。

 

もどかしい思いをさせてしまう私たちですが、その私たちといつも一緒にいてくださるんです。

 

神様がこの私をいつも見ていてくださって、手を差し伸べてくださって、それだけでなく、一緒にいてくださっている。

 

そうなると、4節ですね。

 

「落ち着いて、静かにしていなさい」。

 

神様が共におられるから、私たちは、落ち着いて、静かにしていられる。

 

神様は、私たちが神様をまったく信頼して、落ち着いて、静かにしていることができるようにしてくださる。

 

私たちが揺り動かされないようにしてくださる。

 

それがインマヌエルの神様なんですね。

 

インマヌエルの神様が、私たちをそういうふうに確かにしてくださるんです。

 

落ち着くことができない状況、静かにしていることができない状況はいくらでも私たちの周りに起こってきます。

 

私たちはいつも自分自身と戦わなければなりませんし、試練や誘惑とも戦わなければなりません。

 

たとえ自分では静かにしていたくても、周りにいる人がそれを許してくれません。

 

そう考えると、落ち着く暇なんてありません。

 

けれども、私たちは落ち着いていていいんですね。

 

神様が共にいてくださるからです。

 

たとえ目の前にどんな困難な状況があるとしても、神様が私たちと一緒にいてくださる。

 

私たちを救ってくださる方が、私たちの隣にいつもいてくださる。

 

そうするとどうなるか。

 

4節の後半です。

 

私たちの前に立ちはだかっていたはずの大問題はもう、「燃え残ってくすぶる切り株」に過ぎないんですね。

 

私たちには神様が共にいてくださるから、私たちの目の前にどれだけ大きな炎が迫ってきたとしても、それは、燃えているのかいないのかわからないくらいのものでしかないんですね。

 

問題が起こったとき、私たちがその問題を見つめれば見つめるほど、問題は大きくなります。

 

けれどもそこでもし私たちが共にいてくださる神様に心を向けるなら、問題はもう問題ではなくなるんですね。

 

それが確かにされるということなんです。

 

そのためにインマヌエルの神様が私たちのところに来てくださいました。

 

それがクリスマスです。

 

今年も、私たちはそのクリスマスを祝います。

 

動揺することのあった一年でした。

 

強がることもあった一年でした。

 

けれども、そんな私たちにまた、クリスマスの季節が巡ってきました。

 

落ち着いて静かにしていましょう。

 

神様が共にいてくださいます。