今週の説教「回心とは何か」(新約聖書・使徒言行録9章1-9節)

【今週の予定】

12/9()こどもクリスマス会(14:00-16:00)

12/10()アドベント(待降節第2)、学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除

★12/10()の説教:尾崎牧師

聖書・マタイによる福音書118節から25

説教題「神は我々と共におられる」


こどもクリスマス会(かい)

12月(がつ)9日(にち)(土(ど))午後(ごご)2時(じ)から4時(じ)

クリスマスのお話(はなし)を聞(き)いて、歌(うた)を歌(うた)って、ゲームをして楽(たの)しもう!おかしもあるよ。お父(とう)さんお母(かあ)さんといっしょでも大(だい)かんげいです。お金(かね)はかかりません。


【第4回 クリスマス・チャリティー演劇】

皆さまのご来訪、心よりお待ちしております!

◇日時
 12月16日(土)&17日(日) 両日とも14時から15時

◇場所
 光が丘キリスト教会
 東京都練馬区春日町4-37-26
 TEL 03-3577-1044
 Mail info@shining-hill.org
 Web https://www.shining-hill.org/
 地下鉄大江戸線「練馬春日町」駅徒歩8分
 地下鉄大江戸線「光が丘」駅徒歩10分
 地下鉄副都心線・有楽町線「平和台」駅徒歩20分
 
◇タイトル
 「意地悪ばーさん」
 脚本:能登千春(光が丘キリスト教会員・劇団座長)
 演出:斉藤可南子

◇あらすじ
 教会の仲良し3人組。その内の2人は介護職員。2人の同僚に、いつも独りぼっちの女性がいる。3人は彼女を教会に誘うことを決意するが彼女は思いの外、かたくなで一向にはかどらない。はたして彼女は心を開くのだろうか?

◇劇団
 兎団
 練馬区を拠点に活動する劇団。
 80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

◇劇団問合せ先
 oukaissou@yahoo.co.jp
 080-3323-9944
 https://usagidan.amebaownd.com/

◇チケット
 予約800円・当日1,000円・小学生以下500円
 収益は被災地の児童養護施設に全額寄付されます。
 チケットについては光が丘キリスト教会までお問合せください。


クリスマス礼拝

 2017年12月24日(日)10:30-12:00

キリストの誕生を教会でお祝いしましょう。

 

キャンドル・サービス 

2017年12月24日(日)19:00-20:00

電灯を消して、ろうそくの明かりで礼拝します。

 

あなたのお越しをお待ちしています。

(小さなお子さんのための母子室もあります)


回心とは何か

 

使徒言行録91-9

 

1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 

 

 

 

 

今日の聖書の箇所には「サウロの回心」というタイトルが付けられていますね。

 

「サウロの回心」。

 

心を回す。

 

180度回す、という感じでしょうかね。

 

回心という言葉には、心を回すという字だけではなくて、心を改めるという字もありますし、悔いる心と書いて悔心という字もあるんですけれども、心を回す、なんですね。

 

それまでの自分を悔いるのではない。

 

それまでの自分を改めるのでもない。

 

心の向きを変えるのが回心なんだ、ということですね。

 

しかし、そうは言っても心の向きを変えるというのは簡単なことではありません。

 

それまでの長い間、生きてきた中で、言ってみれば私たちの心の向きというのはもう固まっているわけですよね。

 

それは結局は何を目指してきたのか、ということですけれども、私たちの人生の大きな目標が変わるなんていうことは、簡単に起こることではないでしょう。

 

それはもう、大変なことです。

 

楽なことではないはずです。

 

では、今日の御言葉はそれについて、何を私たちに教えてくれるでしょうか。

 

御言葉に聞きたいと思います。

 

まず、今日は、サウロという人の回心が語られているわけなんですが、この人は後になってパウロと呼ばれるようになります。

 

世界中に教会を建てあげていった大伝道者ですね。

 

このパウロはあちらの町からこちらの町へ旅をしながら教会を建てあげていきましたけれども、一つの町にずっといるわけではありませんでしたから、昔自分が建てた教会とか自分の弟子たちに後になってから手紙を送ることもありました。

 

新約聖書にはそのような、パウロが書いた手紙がたくさん収められています。

 

パウロは別に自分が聖書を書こうというつもりはなかったでしょうけれども、後になって、もうこれは神の言葉をしっかりと伝えている素晴らしい文章だということになって、その手紙が聖書に収められるようになったんですね。

 

まあそれくらい、このパウロという人は大きな働きをした人です。

 

ただ、今日の箇所ではサウロという名前になっていますよね。

 

これがパウロのもともとの名前なんです。

 

けれども、4節を見ますと、イエス様はサウロではなくてサウルと呼びかけていますね。

 

これは一体何なんだということになりますけれども、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語でサウルという名前なんですが、そのサウルという言葉を、当時、広い範囲でつかわれていたギリシャ語に移しますと、サウロと発音するんですね。

 

ですので、ここにイエス様がわざわざ「サウル」と呼びかけているのは、つまりは、この時イエス様はギリシャ語ではなくてヘブライ語で話しかけたんだということです。

 

ヘブライ語というのはユダヤ人にとっては神の言葉なんですが、その言葉で話しかけたんですね。

 

ただ、話しかけているこの内容はどうでしょうか。

 

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。

 

サウロはキリストの教会を迫害していたんですね。

 

これは、サウロが自分自身のことを振り返って語っている箇所を見ると分かります。

 

開いていただかなくても構いませんが、新約聖書の258ページ、使徒言行録の223節で、パウロは自分のことをこんなふうに言っているんですね。

 

「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」。

 

キリキア州のタルソスというのは今のトルコの南東の辺りです。

 

この人はイスラエルで生まれたのではないんですね。

 

けれども、育ったのはエルサレムで、そしてそこで、ガマリエルというユダヤ教の先生のもとで聖書を学んだんですね。

 

このガマリエルという人も使徒言行録の534節に登場してくるんですが、ユダヤ教の先生の中でもトップクラスの人で、国会議員もつとめていた人なんですね。

 

そのガマリエルの弟子であったわけですから、パウロもエリートです。

 

そうであったからこそ、キリスト教会を迫害していたんですね。

 

ユダヤ教というのは、ユダヤ教のルールを守ったかどうかが全てです。

 

けれども、キリストはユダヤ教のルールであります律法をひたすら守ることよりも、心を神様に向けること、心を神様に向けて、神と人とを愛することを教えましたから、これはもうパウロとしては受け入れられません。

 

自分が一生懸命やっているのに、それをないがしろにしている。

 

パウロにはそうとしか思えません。

 

ましてパウロはその道のエリートでしたから、なおさらキリスト教会を憎んだでしょうね。

 

今日の2節ですが、パウロはユダヤ教のトップである大祭司に逮捕状を書いてもらって、キリスト教会をたたきつぶすためだけに、町から町へと旅をします。

 

一体何人くらいのクリスチャンがこの人に逮捕されたでしょうか。

 

こんな人に、回心の時が訪れます。

 

とんでもない出来事が起こりますね。

 

今日の34節ですが、天からの光がパウロを照らしますと、パウロは地面に倒されました。

 

そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえました。

 

7節を見ると、他の人たちにも声は聞こえたけれども、誰の姿も見えません。

 

ただこの不思議な出来事ですが、ここで一番注目したいのは、「なぜ、わたしを迫害するのか」というこの言葉です。

 

「なぜ、教会を迫害するのか」ではないんですね。

 

「なぜ、クリスチャンを迫害するのか」でもないんです。

 

「なぜ、わたしを迫害するのか」。

 

パウロが迫害しているのは教会であり、クリスチャン一人一人なんですが、この声は、教会は自分自身である、クリスチャンとは私自身であると言っているんですね。

 

パウロはこれに対して、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。

 

「なぜクリスチャンを迫害してはいけないのですか」と聞いたのではありません。

 

「なぜ教会をつぶしてはいけないのですか」と聞いたのでもありません。

 

「あなたはどなたですか」。

 

パウロはこの方に向き合ったのです。

 

答えが返ってきました。

 

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。

 

イエス様がパウロに出会ってくださったということだったんですね。

 

わたしとあなたという関係がここで結ばれています。

 

それだけではありません。

 

続けて、声が聞こえます。

 

「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。

 

この時、パウロは命を取られていてもおかしくはなかったのではないでしょうか。

 

それくらいのことをやってきた人です。

 

あるいは、自分がやっていたことに気づいたパウロがここで自殺してしまってもおかしくはないと思います。

 

けれども、そのパウロに、イエス様は役割を与えてくださるんですね。

 

もう立てないようなところから、立ち上がらせてくださるんです。

 

パウロの目は見えなくなっていました。

 

これは、パウロがこれからなすべきことが、自分の目で見て判断するものではないということです。

 

そしてこの目は、パウロがなすべきことを知らされた時、再び見えるようにされるのです。

 

その時から、パウロは何を見るようになったでしょうか。

 

これまでパウロは人を見ていました。

 

人が律法を守っているかどうか。

 

パウロの目は人をチェックする厳しい目でした。

 

けれども、再び見えるようになってからは、今までは見えていなかった神の真実を、神の現実、神様のお働きに目を向けるようになっていくのです。

 

まさに回心ですね。

 

目が変わった。

 

それは心が変わったということです。

 

180度変えられたんです。

 

自分で変えたわけではありません。

 

神様が変えてくださったんです。

 

私たちの回心も、考えてみればそのようなものではなかったでしょうか。

 

こんな劇的な場面があったわけではないかもしれませんが、それまで見えていたはずの目を見えなくされるような経験、イエス・キリストに頭をガツンとやられて、その時の自分が打ち倒されるという経験があって、そこから立ち上がらせられて、それまでは見ていなかったものに目を向けるようになっていった。

 

そんな経験があったのではないでしょうか。

 

だからこそ、私たちは、この教会という場所に集っているのではないでしょうか。

 

この場所は特別な場所です。

 

今日、私たちは聞きましたね。

 

教会はイエス様ご自身なんです。

 

そして、私たちはイエス様ご自身なんです。

 

私たちにとってそれはどうかと思うことがあったとしても、イエス様にとってはそうなんです。

 

この出来事を通して、パウロは変えられました。

 

それまではサウロと名乗っていましたが、パウロと名乗るようになります。

 

サウロというのはイスラエルの昔の王様の名前です。

 

それに対して、パウロというのは、ギリシャ語で「小さい者」という意味の言葉です。

 

キリストに出会った小さい者が、大きな働きをなしていく。

 

そのことを聖書は私たちに約束してくれているんです。

 

私たちは皆小さい者ですが、私たちはキリスト自身です。

 

私たちにできないことはありません。

 

そのことを信じ、そのことを受け入れましょう。