今週の説教「イエス誕生の次第」(新約聖書・ルカによる福音書2章1-7節)

【今週の説教】

 

●12/12()礼拝(聖餐式あり、9:00-10:00)、クリスマス演劇に向けての劇団稽古(19:00-22:00)

 

●12/13()牧会事例研究会(みずほ台、16:00-17:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

 

●12/14()エレベーター点検(12:00-13:00)、コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

 

●12/16()4回クリスマス・チャリティー演劇(14:00-15:00)

 

●12/17()アドベント(待降節第3)、学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、第4回クリスマス・チャリティー演劇(14:00-15:00)、掃除

 

12/12()の説教:尾崎牧師

 

聖書・ルカによる福音書21節から7

 

説教題「イエス誕生の次第」

 

★12/17()の説教:尾崎牧師

 

聖書・ルカによる福音書126節から38

 

説教題「イエス誕生の予告」



【第4回 クリスマス・チャリティー演劇】

皆さまのご来訪、心よりお待ちしております!

◇日時
 12月16日(土)&17日(日) 両日とも14時から15時

◇場所
 光が丘キリスト教会
 東京都練馬区春日町4-37-26
 TEL 03-3577-1044
 Mail info@shining-hill.org
 Web https://www.shining-hill.org/
 地下鉄大江戸線「練馬春日町」駅徒歩8分
 地下鉄大江戸線「光が丘」駅徒歩10分
 地下鉄副都心線・有楽町線「平和台」駅徒歩20分
 
◇タイトル
 「意地悪ばーさん」
 脚本:能登千春(光が丘キリスト教会員・劇団座長)
 演出:斉藤可南子

◇あらすじ
 教会の仲良し3人組。その内の2人は介護職員。2人の同僚に、いつも独りぼっちの女性がいる。3人は彼女を教会に誘うことを決意するが彼女は思いの外、かたくなで一向にはかどらない。はたして彼女は心を開くのだろうか?

◇劇団
 兎団
 練馬区を拠点に活動する劇団。
 80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

◇劇団問合せ先
 oukaissou@yahoo.co.jp
 080-3323-9944
 https://usagidan.amebaownd.com/

◇チケット
 予約800円・当日1,000円・小学生以下500円
 収益は被災地の児童養護施設に全額寄付されます。
 チケットについては光が丘キリスト教会までお問合せください。


クリスマス礼拝

 2017年12月24日(日)10:30-12:00

キリストの誕生を教会でお祝いしましょう。

 

キャンドル・サービス 

2017年12月24日(日)19:00-20:00

電灯を消して、ろうそくの明かりで礼拝します。

 

あなたのお越しをお待ちしています。

(小さなお子さんのための母子室もあります)


 

ルカによる福音書21-7

 

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

 

 

 

 

今日の場面を見ていて、自分自身が幼稚園の頃、ちょうどこの時期に幼稚園でクリスマスの演劇をやったことを思い出しました。

 

その演劇は今日の聖書の場面からではなくて、マタイによる福音書の方の、東の国から博士たちがやってきて生まれたばかりのイエス様に礼拝する場面なんですが、私はその、博士の役をやったんですね。

 

一歩前に進み出て、何かセリフも言ったんですが、内容までは覚えていません。

 

まあ、私のことはどうでもいいんですが、今日のこの場面も、私も出演したその演劇の場面の一つになってしました。

 

マリアさんがロバに乗っていて、ヨセフさんがたづなを引いて、町の宿屋を一軒一軒回って歩くんですけれども、どの宿屋も人でいっぱいで、泊るところがないんですね。

 

それももう、どの宿屋の主人も対応が冷たいんですね。

 

ヨセフさんがトントントン、と扉をノックして、「すいません、一晩だけでも泊めてもらえませんか」と頭を下げてお願いするんですが、宿屋の主人はぶっきらぼうな言い方であっさり断ってドアをバタンと閉めてしまうんですね。

 

だいたい子どもの演劇では、宿屋の主人はそんなふうな感じらしいですね。

 

ですけれどもこの場面が、実に感動的な場面として演じられたことがあったそうです。

 

いつのころのことなのかは知りませんが、アメリカの教会で、教会の子どもたちがこの場面を演じた時、ヨセフさんがトントントン、と宿屋のドアをノックしますね。

 

そうすると中から主人役の男の子が出てきて断るんですけれども、断って、ヨセフさんとマリアさんが去っていく、そうなりますともう宿屋の主人の男の子は我慢できなくなって、大声で、「ヨセフさん、マリアさん、行かないで。うちに泊まってください」と叫んだって言うんですね。

 

演劇を見ていた人たちは大笑いしながらも拍手喝采だったそうです。

 

ただ、この場面、実際のところどういう感じの場面だったんでしょうかね。

 

2017年前に、実際にこういうことがあったんでしょうか。

 

少し違うのではないか、という説があるんですね。

 

それは何かと言いますと、ここで「宿屋」と訳されている言葉は、普通には「客間」と訳す言葉なんですね。

 

「客間」、ゲストルーム。

 

宿屋ではなくて、普通の家の中にある、お客さんのための部屋ですね。

 

そして、この町、ベツレヘムは田舎の小さな町ですから、いわゆる宿屋というのはそんなになかったのではないかとも言われています。

 

ですから、マリアとヨセフは普通の家のゲストルームに泊まろうとした、と考えた方が自然です。

 

けれども、この時は住民登録のために多くの人が移動している最中ですから、ゲストルームを持っている家はどこでもお客さんでいっぱいで、誰もマリアとヨセフを泊めてくれなかった、ということですね。

 

マリアとヨセフには、この町に居場所がなかったんですね。

 

しかし、そもそも、この住民登録は、自分の先祖の町で行うことになっていたんです。

 

ということは、このベツレヘムの町に、ヨセフの親せきは何人も住んでいたんじゃないですか。

 

自分の先祖の町なんですから。

 

別にその親せきの家にゲストルームなんてなくたって、泊めてくれたっていいじゃないですか。

 

それなのに、誰もヨセフとマリアを泊めてくれないんです。

 

これは、イエス様を身ごもった時の話が親せきの人たちに伝わっていたのかもしれませんね。

 

マリアは結婚前に聖霊によって身ごもったんですが、聖霊によって身ごもったと言われても、誰かそれを信じる人がいるでしょうか。

 

普通に考えたら、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。

 

そういう話が、親せきたちの間にも伝わっていたということなのかもしれません。

 

また別のことを申し上げますなら、この住民登録は、家族を代表して一人の人が行けばそれでいいということになっていました。

 

ヨセフ一人が行けばそれでよかったんです。

 

マリアまで行く必要はありません。

 

それなのにどうして、ヨセフはわざわざお腹の大きいマリアを連れて行ったんでしょうか。

 

これは、マリアが地元で周りからどういうふうに見られていたのかということを考えるとわかるような気がします。

 

きっと、マリアは、親兄弟や近所の人から冷たい目で見られていたと思うのです。

 

だからヨセフはマリアを残していくことができなかったのではないかと思います。

 

ヨセフとしては、もし自分がいない時にマリアが出産しなければならなくなった時、マリアのこと、生まれてくる赤ちゃんのことを親兄弟や近所の人たちに任せることはできなかった。

 

だから、ヨセフはマリアを連れて行ったのだろうと思うのです。

 

つまり、この二人には、地元にも居場所がなかったんです。

 

どこにも居場所がなかったんです。

 

クリスマスの出来事というのは、心温まる話ではありません。

 

つらく悲しい出来事なんです。

 

人の心の冷たさ、悲しさ。

 

その中に、キリストはお生まれになられたんです。

 

だとしたら、私たちとしては考えたいですね。

 

先ほど申し上げましたが、「宿屋に場所がなかった」のではなくて、「客間に場所がなかった」んです。

 

私たちは、宿屋の経営者ではありません。

 

そう考えますならこれは自分の問題ではないということになります。

 

けれども、そうではないんです。

 

客間に場所がなかったんです。

 

いま私たちは問われているんですね。

 

あなたは、イエス様をお迎えする準備ができていますか。

 

イエス様をお迎えする準備が、あなたの心に、できていますか。

 

別にゲストルームなんてなくたってかまいません。

 

イエス様が来られる時、あなたはあなたの心に、イエス様をお迎えできますか。

 

ここにいる方々の多くはできる、とお答えになるかもしれません。

 

しかし、このベツレヘムの人たちだって、これからマリアが生むのが神の子キリストだと分かっていたなら、何とかして自分のところに迎え入れたんじゃないですか。

 

でも、目の前の相手は、見た目にはごく普通の夫婦です。

 

そして、妻は身ごもっている。

 

そうなると、家に泊めるというのは何かと面倒ですよね。

 

神の子がきてくださるというふうには考えることもできなかった。

 

イエス様が神の子であるということがはっきりわかる形でイエス様がいらしてくださるのかどうかは分からないんです。

 

どんな形でイエス様は私たちの心のドアをノックしてくるのでしょうか。

 

私を通してかもしれませんね。

 

私にとっては、皆さんを通してかもしれない。

 

それも、忙しい中で、何だか面倒な状況を通してかもしれない。

 

それでも私たちはキリストを迎え入れることができるでしょうか。

 

ただ、ここで聖書が教えてくれていることは、私たちがたとえドアを閉ざしたとしても、キリストは来てくださったということです。

 

どこの家の客間も空いていなかった。

 

それでも、キリストは来られた。

 

私たちの側で迎える準備ができていなくても、キリストは来られる。

 

キリストのための場所が全くなかったこの世界にキリストは来てくださった。

 

けれども、そのことも益とされたんです。

 

キリストがお生まれになられたのは馬小屋だと言われています。

 

馬小屋に生まれたとは書かれていないんですが、生まれたばかりのイエス様が寝かされたのが飼い葉桶ですから、馬小屋に生まれたと言われるようになったんですね。

 

馬小屋というのは子どもを産むのにふさわしい場所ではありません。

 

けれども、逆に言えば、ふさわしい場所ではなかったからこそ、誰でもキリストに近づくことができます。

 

この後、羊飼いたちがこの救い主を訪ねてきますが、もしもこの救い主が皇帝の宮殿で生まれていたら、彼らは近づくことができなかったはずです。

 

宿屋で生まれていたとしても、自宅や親戚の家で生まれていたとしても、近づくことは難しかったでしょう。

 

けれども、私たちの救い主は馬小屋でお生まれになられました。

 

ですから、私たちは救い主に近づくことができます。

 

私たちは自分から、救い主に歩み寄っていくことができます。

 

自分が迎えることができなかった救い主に、歩み寄っていくことができます。

 

そして、羊飼いたちがそうしたように、救い主を礼拝することができます。

 

馬小屋でお生まれになられたイエス様の御心、お分かりになりますでしょうか。

 

私たちがイエス様を迎える準備をしていなかったとしても、イエス様は私たちを招いてくださっているんですね。

 

「私のもとに来なさい」、と私たちを招いてくださっているんですね。

 

そうして招かれて、今、私たちはここにいる。

 

救い主を礼拝している。

 

今この時、この場所にクリスマスがあるんです。

 

悔い改めと感謝をもってキリストを私たちの心に迎え入れましょう。

 

いえ、もうすでに、キリストは皆さんの中に来ておられます。