今週の説教「東方の学者たち」(マタイによる福音書2章1—12節)

【今週の予定】

●12/27()牧師週休日

●12/31()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、掃除

●1/1(月)新年礼拝(11:00-12:00)

★12/31()の説教:尾崎純牧師

聖書・ルカによる福音書2239節から46

説教題「起きて祈っていなさい」

讃美歌・14832381849349765-12440-5

 

 


東方の学者たち

 

マタイによる福音書2112

 

1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 

7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

 

 

 

 

今日の場面はイエス様がお生まれになられた場面です。

 

イエス様がお生まれになられて、何が行われたでしょうか。

 

礼拝が行われたんだと聖書は言うんですね。

 

東の方からやってきた学者たちがイエス様を礼拝をしたんです。

 

この学者たちはイエス様を礼拝するために、わざわざ遠くの外国から出かけてきたんですね。

 

学者たちは外国の人ですから、聖書のことは良く知らないはずなんですが、占星術の学者ですから星を見て、イエス様がお生まれになられたと知って、遠くの国から旅をしてきたんですね。

 

これがまあすごいことだと思うんです。

 

何しろ、この人たちは学者と言っても占星術の学者です。

 

今でも雑誌に星占いのページがあったり、テレビでも何々座の今週の運勢はどうのこうの、なんていうことが放送されていますけれども、要するにこの人たちは、星の動きに導かれて生きていこうという人たちですね。

 

星の動きに導かれて行こうって言うんですから、イエス様なんて本来はいらないような、そういう人たちです。

 

イエス様に導かれる必要なんてない、自分は星の動きに従うんだ、という人たちです。

 

けれども、この人たちはイエス様のところにわざわざやってきたんです。

 

そして、星が示した通り、イエス様がそこにいた、それだけでいい、ということではなくて、イエス様を礼拝したんですね。

 

ですので、今日の2節でこの学者たちはイエス様のことを、イエス様の名前を知らなかったので、「ユダヤ人の王」と言っていますけれども、イエス様のことを単にユダヤ人たちのリーダーだと思っていたわけではないですね。

 

もしイエス様のことをユダヤ人のリーダーだとしか思っていないんだったら、この学者たちは外国人なんですから、自分には関係のない話じゃないですか。

 

でも、この学者たちはわざわざ外国からやってきたんですから、そして、礼拝までしたんですから、それはもう、イエス様がすべての人の救い主であるということが分かっているんですよね。

 

そして、この方を、イエス様を自分の王にしよう、という気持ちで礼拝したんですね。

 

これは私たちも心したいところですが、礼拝というのは、イエス様を自分の王として迎える、ということなんですね。

 

これがまず、今日の場面が伝えようとしていることですね。

 

だからこそ、イエス様を礼拝した時、学者たちは三つのささげものをささげました。

 

黄金と乳香と没薬ですね。

 

これは当時、どれも値打ちのあるものでした。

 

ただこれは、値段が高いものをささげたというだけのことではありません。

 

黄金と乳香と没薬は、どれも、占星術の大切な道具であったと言われています。

 

ですので、この学者たちは、もうここで、自分の生き方を変えているんですね。

 

今までの生き方を捨てているんです。

 

今までは、星に導かれて生きてきました。

 

けれども、これからは、もう占星術はやらない。

 

星の動きではなく、イエス様に導かれて生きていこう。

 

イエス様を自分の王にしよう。

 

それがこの時、この学者たちが決心していたことだったんですね。

 

それに対して、王様であったヘロデはどうでしょうか。

 

ヘロデはユダヤの王様なのに、イエス様のところに行こうともしません。

 

それどころか、イエス様を殺そうと考えたんですね。

 

殺そうと考えたとまでは書かれていないじゃないかとお思いになるかもしれませんが、ヘロデ王は残酷だったことで歴史に名前を残している人です。

 

疑り深い人で、人の命を奪うことを何とも思わないような人です。

 

実際に、彼は、王になるまでに、何人もの家族や親戚の命を奪っています。

 

そればかりか、自分が死ぬ前には、エルサレムの有力者を全員殺したと伝えられています。

 

この人は、自分にとって邪魔になりそうな人はすべて殺す、という人だったんですね。

 

これも私たちが心に収めたいことですね。

 

聖書はこう言っているんです。

 

自分が王であろうとする人は、イエス様を王にすることはできない。

 

そして、イエス様を王にしない人は、イエス様を亡き者にしようとすることだってある。

 

実際に、ヘロデはすぐに行動に出ます。

 

4節でヘロデは、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集め」ました。

 

これは、イスラエルの国会が召集されたということです。

 

なんと国会を開くわけです。

 

そして、メシアがどこに生まれると預言されているのか、確かめます。

 

議員たちは、旧約聖書のミカ書に書かれている預言を読み上げます。

 

ベツレヘムに、メシアが生まれるということですね。

 

すべての人を救う、すべての人の王がベツレヘムに生まれるということです。

 

そうするとヘロデは、占星術の学者たちを呼び寄せます。

 

それも、7節に、ひそかに呼び寄せた、と書かれています。

 

悪いことを考えているということですよね。

 

ヘロデは学者たちに、星が現れた時期を確かめます。

 

メシアが生まれたとは言っても、まだ生まれたばかりの赤ちゃんなのか、それとももう一人で歩けるくらいに成長しているのか分かりませんから、星が現れた時期を確かめるわけです。

 

ヘロデは、「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」なんて言っていますが、もちろんそんなつもりはありません。

 

この少し後の場面の16節でヘロデは、ベツレヘムのあたりにいた2歳以下の男の子をすべて殺してしまいます。

 

2歳以下の男の子を殺したということは、もしかすると、占星術師たちがその星を見つけたのは、2年くらい前のことだったということかもしれません。

 

いずれにしろ、ヘロデは最初から、イエス様の命を奪うつもりだったんです。

 

ヘロデは、今の自分を守ることだけを第一に考える、という人でした。

 

自分だけが王だ。

 

自分の邪魔になるものは誰であれ、生かしてはおかない。

 

ヘロデはそういう人でした。

 

しかしこれは、ヘロデだけが特別に悪い人だったのでしょうか。

 

私にはそうは思えないんですね。

 

民の祭司長たちや律法学者たちがこの場面に登場してきましたけれども、この人たちも、ヘロデと同じようなものです。

 

この人たちだって、イエス様を礼拝しに行かないじゃないですか。

 

イエス様を王にしようとしないじゃないですか。

 

まことの王がお生まれになられたということを知ったのに、それも、この人たちは聖書のことを良く知っている人たちなのに、イエス様のところに行こうともしない。

 

本当だったらこの人たちこそ、喜んでイエス様のところに行くべき人たちです。

 

どうして行かないんでしょうか。

 

ヘロデを恐れていたんでしょうね。

 

この人たちは、ヘロデがイエス様を殺そうとするだろうということが分かっていたんだと思います。

 

それなのに、自分がイエス様を礼拝したということが知られてしまうと、自分もどうなるか分かりません。

 

それで、この人たちは動こうとしなかった。

 

これはヘロデと同じだと思うんです。

 

ヘロデはイエス様を恐れた。

 

イエス様が出てくると自分の立場を危なくなるんじゃないかと恐れた。

 

自分がもう王様でいられなくなるんじゃないかと恐れた。

 

それで、何とかして自分を守ろうとした。

 

祭司長たちや律法学者たちはイエス様を恐れたわけではありませんけれども、ヘロデを恐れた。

 

それで、何とかして自分を守ろうとした。

 

そしてこれは、他の人々も同じですね。

 

3節に、エルサレムの人々というのが登場していますけれども、この町の人たちも、同様であった、つまり、不安を抱いたんだと書かれています。

 

まことの王がお生まれになられたというのに、喜ぶどころか不安になった。

 

ヘロデが恐ろしいから。

 

それで、イエス様を礼拝しに行こうなんて、考えもしない。

 

今の自分を守りたい。

 

それだけなんです。

 

そして、そういう人たちは、ヘロデも祭司長も律法学者も町の人たちも、イエス様を礼拝しないんです。

 

イエス様を自分の王にすることはないんです。

 

ヘロデだけでなく、祭司長も律法学者も町の人たちも、自分を守ることしか考えていない。

 

本当に自分を守るということを考えるんだったら、それこそ、救い主イエス様を王にするべきです。

 

けれども、そうすることができない。

 

どうしてでしょうか。

 

イエス様を王にするということは、学者たちがそうしたように、自分を明け渡すということです。

 

自分が自分の王になってしまっていたのでは、そうすることはできません。

 

自分のちっぽけな王国を守りたい。

 

そのことだけを考えているちっぽけな王であったのでは、イエス様を王にすることはできません。

 

イエス様を王にするということは、自分の王国をイエス様に明け渡すということで、それが礼拝するということなんですね。

 

私たちは、そのような礼拝をささげているでしょうか。

 

今日の聖書の場面には、イエス様を自分の王にする人と、自分を自分の王にしている人と、その二種類の人しか出てきませんね。

 

ここにある聖書のメッセージ、お分かりになりますでしょうか。

 

人間には、二通りの人間しかいないんですね。

 

イエス様を自分の王にする人と、自分を自分の王にしている人と、その二通りの人しかいないと聖書は言うんです。

 

もっと考えますなら、聖書は、人間はみんな同じだと言っていることにもなると思います。

 

今日、イエス様を自分の王にした学者たちですが、この人たちはもともとは占星術の学者だったんです。

 

星占いというのは、うまいこと生きていきたい、うまく自分を守りたい、何か自分の利益になることはないか、そういうつもりで見るものですよね。

 

ですので、この学者たちだって、もともとは自分のちっぽけな王国を守りたいというちっぽけな王だったんですね。

 

考えようによっては、この人たちは一番ちっぽけな王ですね。

 

星の動きを見てまで、自分を守ろうとするわけですから。

 

けれども、そういう人たちだって、イエス様を王にすることはできると聖書は言っているんですね。

 

誰だってイエス様を王にして、イエス様から恵みを受けることはできる。

 

今日の場面はそう言っているんです。

 

そして、今礼拝をしている私たちは今日の場面を読んで、よく考えなければなりません。

 

礼拝というのは形だけの礼拝では意味がないんですね。

 

ヘロデだって、8節で、「わたしも行って拝もう」なんて言っているじゃないですか。

 

もちろんヘロデはイエス様を礼拝するつもりはありません。

 

けれども、「わたしも行って拝もう」なんて言うということは、この人も、神様を礼拝すること自体は、することがあったんですよね。

 

けれども、形だけの礼拝であったのでは意味がないんです。

 

学者たちはどういう礼拝をしましたか。

 

黄金と乳香と没薬をささげたんです。

 

それまでの自分をイエス様に明け渡したんです。

 

私たちは、同じ礼拝をしているでしょうか。

 

イエス様に自分を明け渡して、これからはイエス様に導かれていくんだ、イエス様を王にするんだ、そういう礼拝をしているでしょうか。

 

そして、今日の場面から、今礼拝をしている私たちこそ、もっと重大なことを読み取らなくてはいけません。

 

今日、礼拝をしなかった人たちは、イスラエルの人なんです。

 

イスラエルの人というのは神に従う神の民ですね。

 

それなのに、礼拝しなかった。

 

それに対して、礼拝したのは外国人です。

 

聖書のことも良く知らないはずの人たちです。

 

これは重大なことだと思いますね。

 

分かっているはずの人たちが、分かっていないんです。

 

分かっていないはずの人たちが、分かっているんです。

 

私たちはどうでしょうか。

 

私たちも、聖書を読んでいます。

 

説教を聞いています。

 

けれども、分かっていますか。

 

本当に分かっていますか。

 

分かっているつもりになっているだけだったということがあるんだ、と聖書は言っているんです。

 

今日の場面では、分かっているはずの人たちが、分かっていなかったんです。

 

私たちはこの聖書のメッセージに向き合わなくてはなりません。

 

一言で言います。

 

あなたは、本当に、イエス様を自分の王にしていますか。

 

イエス様を前にするとき、人は二つに分けられるんですね。

 

自分が王であることをやめて、イエス様を王にする人と、自分が王でありつづけようとする人に分けられます。

 

分かっているはずなのに分かっていない人と、分かっていないはずなのに分かっている人に分けられます。

 

聖書はそのことを鋭く語っています。

 

イエス様を前にするとき、このように人間が分けられていくということは、神様の御心でした。

 

占星術の学者たちは自分の国で星を見て、メシアが生まれたことを知ったと書かれています。

 

けれどもこの星は、最初から最後までずっと道案内をしてくれていたわけではなかったようですね。

 

もし、この星が最初から最後までずっと道案内をしてくれていたとしたら、この人たちはわざわざヘロデのところにやって来て、メシアはどこに生まれることになっているのかと質問することはなかったはずです。

 

東の国で見えていた星は、いったん消えてしまったのでしょうか、それとも、もう道案内をしてくれなくなったのでしょうか。

 

けれども、メシアはベツレヘムに生まれると聞いて、学者たちがベツレヘムに向かって出発すると、また星が道案内をしてくれるんですね。

 

星が見えたり隠れたりする、道案内をしてくれたり、してくれなかったりするんです。

 

それによって、学者たちはヘロデのところに来ることになって、そのために、人間というのは二つにきれいに分けられるんだということが明らかになっていく。

 

これは神様のメッセージなんですね。

 

私たちは、自分を自分の王にしているんでしょうか。

 

それとも、イエス様を王にしているんでしょうか。

 

私たちがイエス様を王にするなら、私たちはそれまでの自分を捨てて、自分を明け渡して礼拝することになります。

 

そして、大事なことは、そうする時、私たちの心の中にあるのは喜びなんだと聖書は言うんですね。

 

今日の学者たちは何も、いやいやそれまでの自分を捨てて、無理をしてイエス様を王にしたということではありません。

 

10節を見てください。

 

学者たちは喜びにあふれたんです。

 

そして、礼拝したんです。

 

それに対して他の人たちはどうでしたか。

 

心の中に何がありましたか。

 

不安だったんです。

 

つまり、こういうふうに言うことができますね。

 

不安ではなく、喜びを生きていきなさい。

 

神様は私たちを、そのように招いてくださっているんですね。

 

イエス様を王にしない時、自分を自分の王にする時、心の中には不安がある。

 

自分で自分を守らなくてはなりませんから、そして、自分で自分を守り切れるかどうかは分かりませんから、当然不安をベースにして生きていくことになる。

 

けれども、イエス様を王にする時には、心の中に喜びがあるんだよ、と聖書は言うんです。

 

喜びがベースの生き方になる。

 

それまでも喜びというものを感じることはあったわけですけれども、喜びというものをベースにして生きていくことになる。

 

今日の聖書の言葉はそういうことを語っているんですね。

 

ですので、今日の場面で聖書は、あなたはイエス様を王にしていますか、と私たちに問いかけてきたわけですが、その問いかけはこう言いかえることができますね。

 

今、礼拝している皆さんの心の中に、喜びがありますか。

 

救い主がこの私のところに来てくださったという喜びがありますか。

 

喜びがあるのならそれは、私たちがイエス様を王にしているということです。

 

自分自身をイエス様に明け渡しているということです。

 

自分を明け渡すなんて言うとなんだか大変そうですけれども、考えてみれば、それは、神様イエス様が私たちにもうすでにしてくださったことですね。

 

イエス様がこの世にお生まれになったということ、それは、神様が私たちのためにご自分の独り子をささげてくださったということです。

 

そして、最期には、イエス様は私たちのために命まで差し出してくださったんですね。

 

神様ご自身が、ご自分自身をすべて捨てて、私たちにすべてをささげてくださったんですね。

 

ですから私たちはこの場所で、この礼拝の中で、イエス様と向かい合って、私たちもイエス様もお互いに、自分自身をささげあっているんですね。

 

自分自身をささげられる相手というのは、自分にとって最も大事な相手ですよね。

 

私たちにとってイエス様が一番大事。

 

イエス様にとっては私たちが一番大事。

 

そういうことなんです。

 

私たちとイエス様はお互いに、自分自身をささげあい、仕えあっている。

 

それがこの、礼拝という場所なんですね。

 

そして、その礼拝が終わると、どうなるか。

 

歩む道が変えられるんですね。

 

今日の場面の最後のところの学者たちです。

 

彼らには、夢でお告げがありました。

 

「ヘロデのところに帰るな」ということですね。

 

ヘロデは、「見つかったら知らせてくれ」と彼らにお願いをしていたんでした。

 

けれども、彼らはヘロデのところに戻りません。

 

「別の道を通って」帰っていくんですね。

 

これはもしかすると、自分を危険にさらすかもしれない行いです。

 

後からヘロデが怒って何をするか分かりません。

 

けれども、学者たちは、自ら進んでそうするんですね。

 

学者たちはおびえながらその道を行ったでしょうか。

 

そうではないと思いますね。

 

現実に危険があるかもしれないわけですけれども、この人たちはやっぱり喜びの中を、その道を歩いて行ったと思うんです。

 

聖書は言っています。

 

どんな現実があろうとも、イエス様を王にするなら、その喜びはなくならない。

 

どんな現実も超える喜びを、イエス様は与えてくださる。

 

そのことを聖書は約束してくれているんですね。

 

そして、その喜びの中で、歩む道が変えられます。

 

それまでの道は、自分を自分の王にする道でした。

 

でもこれからはそうではない。

 

イエス様を王にする時、人は、神の示す道を行くようになるんですね。

 

私たちも、喜びにあふれて、その道を歩んでいきましょう。

 

その歩みは、もうここから、始まっています。