今週の説教「イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章1節から17節)

【今週の予定】

●12/27()牧師週休日

●12/31()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、掃除

●1/1(月)新年礼拝(11:00-12:00)

★12/31()の説教:尾崎純牧師

聖書・ルカによる福音書2239節から46

説教題「起きて祈っていなさい」

讃美歌・14832381849349765-12440-5


イエス・キリストの系図

 

マタイによる福音書11節から17

 

1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 

2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6エッサイはダビデ王をもうけた。

 

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

 

12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 

17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 

 

 

 

 

今ご覧いただいているのは新約聖書の第1頁です。

 

新約聖書はイエス・キリストについて書かれた書物ですが、イエス・キリストについてのお話は、この系図で始まるんですね。

 

新約聖書に対して旧約聖書は神の民イスラエルの物語ですが、実は旧約聖書の中には系図がちょくちょく出てきます。

 

ただそれは、その人の血筋を証明するためのものではありません。

 

では何のために系図が記されるのかと言いますと、神は系図の上に働くのだ、ということを示すためです。

 

神は系図の上に働きます。

 

つまり、神は人間の歴史の中に働くのです。

 

一人一人の中に働いていくのです。

 

聖書は、神は永遠なる方で、全知全能であるとしています。

 

しかし、神は人を無視したりはなさらないのです。

 

永遠なる方、全知全能の方でありながら、人と共にあるのが神なのです。

 

その意味で、聖書に系図が記されているのです。

 

系図は、神が人と共にあり、一人一人の人において働いてくださったことを記念するものなのです。

 

この系図のはてに、私たちもいることになります。

 

神は私たちの人生の中に働いてくださいます。

 

私たちの中に働いてくださいます。

 

しかし、そうは言っても、この系図には私たちの名前はありません。

 

(プロジェクター操作)

 

この系図には、イエス・キリストまでしか記されていないのです。

 

ただ、イエス・キリストという方はどういう方だったでしょうか。

 

神が人になられた方であると聖書は言います。

 

人と共にある神が、ご自身の存在としても人になられたのがイエス・キリストなのだと聖書は言います。

 

神は、私たちのもっと近くにいたいとお思いになられて、人になられたのです。

 

そして、そのキリストが今、私たちのそばにいてくださいます。

 

キリストは世を去る時、このような約束の言葉を残してくださいました。

 

「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」。

 

ですので、ここにキリストの名が記されているということは、私たちの名がここに記されているのと同じことなのです。

 

ただ、この系図には一つ引っかかることがあります。

 

キリストはマリアの子ではありますが、ヨセフの子ではありません。

 

しかし、ここに書かれておりますとおり、長々と書き記されたこの系図は、ヨセフの系図なのです。

 

この系図はイエス・キリストを生んだマリアの夫ヨセフの系図です。

 

見ての通り、ヨセフがイエス・キリストをもうけたとは書かれていません。

 

ヨセフはイエス・キリストの実の父ではないからです。

 

マリアとヨセフが結婚する前に、マリアが聖霊によってイエス・キリストを身ごもったと聖書は記しています。

 

人間の父と人間の母から普通に生まれてきたのでは、その子は普通の人間です。

 

しかし、神が人となられたのがキリストです。

 

ですので、普通の生まれ方では困るわけです。

 

そこで、聖霊によってマリアが身ごもる、ということになったわけですが、マリアがヨセフと結婚し、ヨセフはキリストを自分の子どもとして認知して、キリストを育てましたから、キリストはこの系図に連なり、名前を記されることになったのです。

 

ここにも、神が人と共に働く方であることが感じ取れると思います。

 

神は、人とのパートナーシップの中で働く方なんですね。

 

だからこそ、神であるにもかかわらず、人になってくださった。

 

人間の喜びも悲しみも味わってくださり、人としての人生を歩んでくださった。

 

16節には、このキリストのことがメシアと呼ばれています。

 

メシアというのは救い主という意味のヘブライ語で、これがギリシャ語になると「キリスト」になります。

 

神というものは人を救うものであると一般的に理解されていると言えるでしょう。

 

けれども、この救い主は、魚を釣り上げて水槽に移すように、人を苦しいところから楽なところに移し替えるような方ではありません。

 

この救い主は私たちの人生において働いてくださる方なのです。

 

私たちの人生の重荷を共に担ってくださる方なのです。

 

そして、私たちの心を喜びと安らぎで満たしてくださり、私たちの人生の歩みが神につながるものであることを知らせてくださる方なのです。

 

この救いの約束は確かである、とこの系図は言います。

 

(プロジェクター操作)

 

この系図には、14代の名前が合計3セット、記されています。

 

この14という数字は7かける2ということです。

 

そして、7というのは聖書では完全を表します。

 

完全かける2、ですから、まったく完全、ということになるでしょうか。

 

それも、それが3セットです。

 

神があなたの人生において働いてくださる、神があなたと共にいてくださる、そのことは確かだ、とこの系図は言うのです。

 

それが私たちに対する神の約束なのです。

 

しかし、私たちはそのような神の約束にふさわしい者なのでしょうか。

 

私たちの心の中には神の御心にかなわない思いがあります。

 

私たちの中の誰一人をとっても、いつも神の御心にふさわしい者ではありません。

 

しかし、それで良いのだ、とこの系図は言います。

 

(プロジェクター操作)

 

この系図の中には、例外的に4人の女性の名前が記されています。

 

3節のタマル。

 

5節のラハブとルツ。

 

(プロジェクター操作)

 

そして、6節のウリヤの妻。

 

旧約聖書を読みますと、これらの女性についていくつかのことが分かってきます。

 

(プロジェクター操作)

 

まず、3節のタマルですが、この人はユダと結ばれてペレツとゼラを生んだのですが、ユダにとってタマルは息子の嫁なのです。

 

タマルは自分の夫の父との間に子どもをもうけたのです。

 

つまり、この系図は、普通なら隠しておきたいようなことをわざわざ指摘しているのです。

 

5節のラハブは遊女です。

 

(プロジェクター操作)

 

そして、6節のウリヤの妻、この人はバト・シェバという名前だったのですが、わざわざウリヤの妻と記されています。

 

もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、ダビデは、ウリヤという人の妻を奪って自分のものにしたのです。

 

そしてその後にダビデはウリヤを危険な戦場に送り、戦死させました。

 

つまり、わざわざこの系図に出てくる女性の名前は、そこにある罪と恥を明らかにしているんです。

 

罪と恥の中に、この系図はつづられているのです。

 

その中に、キリストは来てくださるのです。

 

人の罪をたどりながら、それを知ったうえで、キリストは私たちのところに来てくださるのです。

 

むしろ、そこに罪があると知っているからこそ、キリストは来てくださるのです。

 

キリストの救いは誰にでも及びます。

 

そのことは先ほどの4人の女性たちからもそう言うことができます。

 

4人の女性たちは4人とも外国人であったと考えられています。

 

イスラエル人は自分たちこそ神の民であると誇りますが、4人の女性たちは神の民イスラエルの一員ではなかったのです。

 

しかし、その女性たちによって、この系図は途切れることなくイエス・キリストにつながっていくのです。

 

だからこそ、今、私たちのところにもキリストはいてくださっている。

 

私たちはそう信じることができます。

 

私たちの誰も、この系図からもれてはいないんです。

 

キリストは今、私たちのところに来てくださっている。

 

そして、私たちにおいて働いてくださっています。

 

そしてこの、系図という言葉は、物語というふうにも訳すことができる言葉です。

 

人の系図に、神の御心がありました。

 

だとすると、私たちの人生は、私たちの物語は、神の物語でもあります。

 

神にとって私たちは、神の物語だと言えるほどに尊い。

 

それが神の御心です。

 

この、私たちそれぞれの、神の物語をこれからも生きていきましょう。

 

神は私たちと共におられて、私たちをより良い方へと導いてくださるはずです。

 

私たちは今日、そのような神の約束を聞いたのです。