今週の説教「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(新約聖書・コリントの信徒への手紙二5章16、17節)

【今週の予定】

●1/1()新年礼拝(11:00-12:00)

●1/3()牧師週休日(4日[木]まで)

●1/6()公現日

●1/7()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、クリスマス片付け、掃除

 

★1/7()の説教:尾崎牧師

聖書・ヨハネによる福音書151-10

説教題「わたしたちは何者か」

賛美歌・14132382114037665-12740-5

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」

 

コリントの信徒への手紙二51617

 

16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

 

 

 

 

 

新しい年を迎えました。

 

皆さんそれぞれに、心の中に新しい希望があるのではないかと思いますね。

 

何か新しいことをしたい、とか、これまでの自分を脱ぎ捨てて心新たに生きていきたい、とか、そういう思いがおありかと思います。

 

そこで、今年は新年に当たってこういう御言葉を選ばせていただきました。

 

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

 

新年に聞くにふさわしい御言葉ではないかと思います。

 

これを、私たち一人一人が、自分の言葉にしたいですね。

 

こんなふうに新しい年を生きていきたいですね。

 

こう言える自分でありたい。

 

こう言える年にしたい。

 

しかし、現実問題、私たちを取り巻く現実というのは、年が明けたからと言ってそうそう変わることはないわけです。

 

と言いますか、暦の上では新しい年になりましたけれども、私たち自身は別に何も変わってはいないんですね。

 

では、この言葉を書きましたパウロという人は、一体どうしてこんなふうに宣言できるんでしょうか。

 

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

 

こんなことを堂々と宣言できるなんて、よほど何か大きな変化があったはずですが、そんな大きな変化を経験することはめったにありません。

 

と言いますか、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」、古いものが消えていってしまって、それまでになかった新しいものが生まれてきた、だなんて、何があったらそこまでのことを言えるんでしょうか。

 

パウロが考えているのは、17節の前半ですね。

 

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。

 

キリストと結ばれることによって、私たちは全く新しくされるんだ、それまでになかった自分が新たに造られるんだ、とパウロは言っているんです。

 

しかし、どうしてキリストと結ばれると新しいということになるんでしょうか。

 

この、「キリストと結ばれる」という言葉は、原文では、「キリストの中にある」という言葉です。

 

キリストの中にあるならこの私は全く新しい私なんですね。

 

なるほど、それはそうかもしれません。

 

しかし、キリストの中にある、と言われても、それが具体的にどういうことなのか、何だかはっきりしませんね。

 

これはどういうことなのか、ここで16節を見ますと、ヒントになることが書かれています。

 

パウロはこの16節で、「肉に従って」という言葉を繰り返し使っていますね。

 

そして、16節を見ますと、肉に従うというのは古いことなんだということになりそうです。

 

この「肉」という言葉は、聖書では、人間とか、人間の行いを指してとか、人間の能力を指してつかわれる言葉です。

 

だからまあ、聖書で「肉」と言ったら「人間の次元で」、ということですよね。

 

それに対して、「キリストの中にある」ということなんです。

 

つまり、「キリストの中にある」というのは「人間を超えた次元で」ということですね。

 

だとするなら、キリストの中にあるなら全く新しいというのは納得がいく話です。

 

しかし、一体どうやって、私たちは人間を超えた次元に行くことができるんでしょうか。

 

人が神にでもなることができるんでしょうか。

 

この世の宗教にはいろいろなものがありますけれども、つまるところすべて、人が神になろうとすることですね。

 

人が頑張って修行をして、徳を積んで、神になろうとすること。

 

それがこの世の宗教ですね。

 

けれども、聖書は人間が神になれるとは言いません。

 

むしろ、人はどうしたって神にはなれないと言うんですね。

 

では、そんな私たちが「キリストの中にある」ということは、どのようにして起こるんでしょうか。

 

これはパウロに聞いてみたいですね。

 

パウロは自分がキリストの中にあると言っているんですが、どのようにしてそういうことが起こったんでしょうか。

 

パウロがキリストを求めてキリストにたどり着いたのではありません。

 

キリストがパウロに出会ってくださったんですね。

 

キリストの方からパウロに、ご自分を示してくださったんです。

 

聖書には、神が人に出会ってくださる場面がいくつかありますが、いつもそうです。

 

いつも、神の側から人に出会ってくださるんですね。

 

人の側からは神の領域に近づけませんが、神が人のところにまで降りてきてくださるんですね。

 

ですから、キリストの中にある、というのは、キリストがこの私に出会ってくださって、語りかけてくださる、そして私たちがその言葉に留まる、ということです。

 

それが新しい生き方なんですね。

 

人間の次元にとどまる古い生き方に対して、神の御心の中に留まる、新しい生き方。

 

それは、それまでには全くなかった、新しくゼロから創造された生き方なんだ、とパウロは言うんです。

 

しかし、私たちはどのようにして、そのような新しい生き方をしていくことができるんでしょうか。

 

聖書を読むと、神は様々な仕方で人に出会ってくださり、人に道を示してくださることがありますね。

 

そして、神が人に言葉を与えてくださる時、一番多いのが、人を通して神が語ってくださるという場面です。

 

ですから、私たちとしては、人の言葉の中に神の言葉を聞き取ることができるかどうか、そこにかかっているんですね。

 

相手が何気なく言った言葉にハッとさせられることがあります。

 

もしかしたらそれは神の言葉かもしれない。

 

なんとも思わない言葉だけれども、その同じ言葉を、何人もの別の人の口を通して聞くこともあります。

 

それも神の言葉かもしれない。

 

祈り終わった瞬間に、電話がかかってくることがあります。

 

もしかしたらそこで、私たちは神の言葉を聞くことがあるかもしれない。

 

とにかく、私たちとしては、神の言葉をキャッチできるようなアンテナを張っておきたいんですね。

 

これは聖書を読む時にもです。

 

神の言葉を読む時、それが今、自分自身に語りかけられている言葉かもしれない。

 

そして、その言葉を自分の内に収める時、私たちは、神の中にあるんですね。

 

それが、新しくされるということなんです。

 

古い自分が過ぎ去って、消えていって、まったく新しい自分が創造される。

 

自分が本当の意味で新しくなるのは、このことによってなんだ、人間の次元に留まるのではなくて、神の次元に入ることによってだ、とパウロは言うんです。

 

新しい年が始まりました。

 

皆さん、心の中に新しい希望を抱いておられることでしょう。

 

そんな時だからこそ、どうぞ、アンテナを張ってください。

 

神の言葉をキャッチしてください。

 

神の中を生きていってください。

 

神は恵みの神です。

 

新しい生き方をしていく中で、多くの恵みをいただいてまいりましょう。

 

新年が皆様にとって良い年となりますように、お祈りいたします。