今週の説教「まなざし」(新約聖書・ルカによる福音書22章54節から62節)

⛪今週の予定⛪

●1/23()聖書を読む会(ヨハネによる福音書から、10:30-12:00)、韓国語講座(初級、13:00-14:00・中級、14:00-15:30)

●1/24()聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準から、19:30-20:30)

●1/25()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●1/27()牧師週休日

●1/28()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)2018年度定期会員総会(13:00-15:00)、掃除

 

1/28()の説教

聖書・ルカによる福音書2263節から71

説教題「偽りの裁判」

賛美歌・12032381629830065-12740-5

 

 

⛪41日までのイベント⛪

123日(火)12時から15時 韓国訪問団

321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

331()14時から16時 子どもイースター祝会

41()10時半から12時 イースター礼拝 同日12時から イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

 





「まなざし」

 

 

ルカによる福音書2254節から62

 

54人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。56するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。57しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。58少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。59一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62そして外に出て、激しく泣いた。

 

 

 

 

 

一昨日、テレビを見ていますと、面白いニュースが流れていました。

 

「開運! なんでも鑑定団」という番組のことを皆さんご存知でしょうか。

 

自分の家にお宝があるという人たちがそれをテレビ局に持ち込んで、専門家に鑑定してもらって、値段を付けてもらう、という番組なんですね。

 

もう20年以上も放送されている番組ですから、見たことのある人も多いのではないかと思います。

 

ですけれども、その番組のことが問題になっているんですね。

 

その番組に中国の茶碗が出てきまして、その茶碗の値段を鑑定したところ、2,500万円という大変な値段が付いたんですね。

 

その茶碗は中国で作られた茶碗なんですけれども、茶碗としての完全な形では日本にしか残っていなくて、それも、日本に3つしかないということなんだそうです。

 

そして、3つの茶碗はどれも国宝、国の宝ということになっているんだそうです。

 

けれども、番組ではその茶碗が本物だということで2,500万円の値段が付いたんですが、テレビを見ていた他の専門家たちが、あれは偽物だ、と言い出したようです。

 

そして、この前の金曜日には、あれは自分が作って売ったんだ、ということを言う人がテレビに出てきました。

 

中国の陶芸家の方なんですけれども、あれは自分が作ったもので、自分はそれを1,400円で売った、と言っているんですね。

 

その中国の陶芸家の方は1万個以上、その茶碗を作って売ったそうです。

 

それで、テレビに出てきた茶碗の写真と、その人が作った茶碗の写真を比べてみると、なるほど、よく似ているんですね。

 

しかし、そうなりますと困りますね。

 

2,500万円なのか、1,400円なのか。

 

どちらが正しいんでしょうか。

 

そのテレビ番組には茶碗だけではなくて、絵とかコレクション・グッズとか、本当にいろいろなものが出てくるんですけれども、茶碗、焼き物というのは本物か偽物かを見分けるのが一番が難しいんだということを昔、番組の司会者が言っていました。

 

番組の司会者は専門家ではないんですけれども、いろいろなものが出てきて、専門家が、これは本物、あれは偽物、と説明しているのを聞いていると、だんだん自分でも、本物か偽物なのかを当てることができるようになるんだそうです。

 

そして、自分が頭の中で付けた値段と大体同じくらいの値段が付くということになるんだそうです。

 

けれども、焼き物は分からないんだそうですね。

 

今回の茶碗も本物なのか偽物なのか、どうなんでしょうね。

 

そして、思うんですが、モノも言わない、何も考えていない茶碗が本物なのか偽物なのかを見抜くのがそんなに難しいんだとすれば、人を見抜くというのは一体どれくらい難しいんでしょうか。

 

茶碗を見抜くことができる人が世の中にほとんどいないとすれば、人間を見抜くことができる人が世の中に何人くらいいるんでしょうか。

 

人間を見抜くのは本当に難しいですね。

 

人間は自分でも自分のことが分かっていません。

 

今日の聖書の話はそういう話ですね。

 

けれども、イエス様は人間を見抜いておられる。

 

今日の聖書の話はそういう話です。

 

今日の場面ですが、イエス様が逮捕された後の話ですね。

 

イエス様は裁判を受けるために大祭司の家に連れていかれます。

 

その後を、「ペトロは遠く離れて従った」んですね。

 

「従った」と書かれています。

 

この言葉は、ペトロが弟子になった時にもつかわれた言葉です。

 

ペトロは、まだ、弟子なんです。

 

でも、イエス様から「遠く離れて」いるんですね。

 

ペトロは、最後の晩餐の席で、今開いていただいているページの2ページ前ですけれども、33節で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております」と言っていました。

 

「牢に入っても死んでも良い」なんて、立派なことを言っていたんですね。

 

けれども、今、ペトロは、「遠く離れて」とぼとぼとイエス様の後を付いていくんです。

 

イエス様と自分の間が、遠く離れてしまったんですね。

 

それは今に始まったことではありませんでした。

 

先週の場面から、もう、イエス様とペトロは遠く離れてしまっていたんです。

 

先週の場面で弟子の一人が敵に対して剣を振るいましたね。

 

この福音書には名前が書かれていませんけれども、剣を振るったのはペトロです。

 

ペトロは、剣でどうにかしようとしたんです。

 

しかし、イエス様のこれまでの道のりは、剣でどうにかしようとすることだったでしょうか。

 

イエス様が剣を振るってどうにかしようとしたことがあったでしょうか。

 

もうこの時、ペトロは、イエス様から遠く離れてしまっていたんです。

 

しかも、ペトロは、イエス様に、「主よ、剣で切りつけましょうか」と聞いていました。

 

けれども、ペトロはイエス様の返事を待たずに、自分の判断で剣を振るったんです。

 

ペトロは、イエス様に従っているつもりで、自分に従っていたんです。

 

そのペトロにイエス様は「やめなさい」と言いました。

 

ペトロは「なんで? どうして?」と思って、ぼうぜんとして立ちすくんだでしょうね。

 

ペトロはイエス様に従っているつもりでした。

 

それなのに、「やめなさい」と言われたんです。

 

ここでペトロは気づいたでしょうか。

 

ペトロはイエス様とは違うやり方で、イエス様の返事を待たずに、何とかしようとしました。

 

ペトロは自分のやり方、自分のタイミングで何とかしようとしていたんです。

 

私たちにもそういうことがあります。

 

私の場合はせっかちですから、何でも急いですぐにやりたいということがあったんですけれども、そのことは先週お話いたしましたけれども、とにかく、誰にでも、自分のスタイルというものがあります。

 

そして、自分のスタイルというのは、私自身が今までの自分はまずかったということに気付かないできてしまったように、もうそれは自分にとっては当たり前になってしまっているわけです。

 

ペトロの場合もそうだったでしょうね。

 

この人は弟子たちの中で一番年上だったと言われていますから、自分が前に出て何とかしなければという思いは強かったでしょうね。

 

それがこの人のスタイルです。

 

けれども、聖書が教えてくれているのは、自分のスタイルで行く、というのは、イエス様から遠く離れてしまうことなんだということですね。

 

その私たちに、イエス様はストップをかけます。

 

ストップをかけてくださる、と言った方がいいと思いますが、しかし、そうすると私たちは、どうしていいか分からなくなります。

 

ペトロがそうでした。

 

ペトロは、弟子であることをやめたわけではありません。

 

しかし、イエス様から遠く離れて、後をつけることしかできなかったんです。

 

そして、大祭司の家の中庭に入りますけれども、ここでペトロは自分がイエス様の弟子であることを3度も否定してしまうんですね。

 

「わたしはあの人を知らない」、「いや、そうではない」、「あなたの言うことは分からない」、そんなふうに言ってしまうんですね。

 

イエス様にストップをかけられて、自分が何であるのかが分からなくなっていたペトロでしたが、ここでペトロは自分からイエス様の弟子であることを否定してしまうんですね。

 

ペトロは、イエス様に従っているつもりの時は強気でした。

 

牢に入っても死んでも良いというくらいの気持ちでした。

 

けれども、自分のスタイルを通せなくなると、こんな弱い人になってしまうんですね。

 

ここでペトロが言った言葉は、本当にペトロの言葉なのかと思うくらい、弱々しい言葉ですね。

 

「わたしはあの人を知らない」、「いや、そうではない」、「あなたの言うことは分からない」。

 

これが人間なんだと聖書は言うんですね。

 

自分の思い通りに言っている時は強くても、自分の思い通りにならないところでは弱いんですね。

 

これも、ペトロだけのことではないですね。

 

誰にでも当てはまることではないかと思います。

 

ただ、この時、ペトロが3度目に自分がイエス様の弟子であることを否定した時、ニワトリが泣きました。

 

イエス様は振り向いてペトロを見つめました。

 

ペトロは、イエス様から、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出しました。

 

そして外に出て、激しく泣きました。

 

胸がつまるような場面です。

 

しかし、どうしてペトロはイエス様から言われていたことを、イエス様に見つめられるまで思い出さなかったんでしょうか。

 

イエス様は確かに、2ページ前の34節で、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」ということをペトロに予告していました。

 

34節は最後の晩餐の場面です。

 

今日の場面から、まだほんの数時間前の話です。

 

どうしてペトロは、一番最初に自分がイエス様の弟子ではないかと言われて、「知らない」と答えた時に、自分で気づかなかったんでしょうか。

 

ニワトリが鳴いた時にも、ペトロは気づかなかったんです。

 

ペトロが気付いたのは、イエス様が振り向いて自分を見つめたからです。

 

イエス様に気付かせていただくまで、自分では気づかなかったんです。

 

それくらい、自分が分からなくなって、弱くなっていたということですね。

 

ペトロはイエス様から遠く離れて、イエス様の言葉も忘れてしまっていたんです。

 

イエス様から離れると、イエス様の言葉も忘れてしまうんですね。

 

しかし、その私たちに、イエス様はまなざしを向けてくださるんですね。

 

これは忘れないでください。

 

私たちがイエス様から遠く離れてしまっても、私たちはなお、イエス様のまなざしの中にあるんです。

 

そして、この時のイエス様のまなざしはどのようなものだったでしょうか。

 

ペトロは激しく泣きましたけれども、それは、この時のイエス様のまなざしが厳しいまなざしだったからでしょうか。

 

ペトロを責めるようなまなざしで、イエス様はペトロを見つめたんでしょうか。

 

そうではないでしょうね。

 

イエス様は2ページ前のところでペトロがイエス様のことを知らないと言ってしまうことを予告した時、それに先立って32節で、こう言っていました。

 

「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った」。

 

イエス様はペトロにそう言っておられました。

 

これからペトロがご自分を見捨てることを分かっておられた上で、そう言ってくださったんですね。

 

そのイエス様が、ペトロを責めるなんていうことはないですね。

 

イエス様がペトロを見つめた時、イエス様は一言も何も言いませんでした。

 

しかし、ペトロは、そのイエス様のまなざしに、こんな自分のために祈ってくださるイエス様の慈しみを見たんじゃないですか。

 

ただ、ペトロは、そのイエス様の弟子であることを自分から3度も否定してしまいました。

 

イエス様はそれでもなおペトロを見捨てないんですね。

 

イエス様とのつながりをペトロは断ち切ろうとしました。

 

けれども、イエス様は、ペトロとのつながりをそれでもなお持とうとされるんですね。

 

ここに言葉は一切ありません。

 

しかし、こんな深い場面があるでしょうか。

 

イエス様は一言も話さず、ただ、ペトロを慈しみのまなざしの中に置いてくださっています。

 

自分から断ち切ってしまったとしても、なおつないでくださる。

 

それを示すのは、もう言葉ではないんですね。

 

イエス様は、「それではだめだ」とペトロを批判したのではありません。

 

逆に、「もっと頑張りなさい。もっとしっかりしなさい」と励ましたのでもありません。

 

ただ、ペトロを、慈しみのまなざしの中に受け入れたのです。

 

先日、私たちの教会も加入している東部中会の冊子が送られてきました。

 

「まじわり」という冊子で、その中で、いろいろな方が聖書のこと、信仰のことを書いているんですが、ある人がその中に、「傾聴」ということを書いていました。

 

「傾聴」という言葉は聞きなれない言葉かもしれませんが、耳を傾ける、という時の傾けるという言葉と聴くという言葉、視聴率の聴という言葉ですけれども、耳を傾けてただじっと聴く、という意味の言葉です。

 

その「傾聴」ということについて、ある人が書いていました。

 

その中で、一つの言葉が心にとまりました。

 

黙って自分の話を聞いていただいて、批判も評価もされないことで、この私でいいのだ、と体で実感できる。

 

その人はそういうことを書いていました。

 

考えてみると私たちは、人に話を聞いてもらうことはありますけれども、話を聞いてもらうと、それだけでは終わらなくて、批判されることもあれば評価されることもあるわけなんですね。

 

それはもちろんありがたいことですし、時として本当にプラスになることなんですが、しかし、批判されたり評価されたりしますと、私たちはもう、この私でいいのだ、と感じることはできないですね。

 

批判された時はもちろんそうですけれども、評価されたとしても、それは、話している相手が、私の考えや私の行動をほめているんです。

 

私そのものを評価しているんじゃないんですね。

 

私をそのまま受け入れてくれているんじゃないんです。

 

ですから、もし、私がその人にとって都合が悪いことをしてしまったら、その人は私を批判するでしょうね。

 

批判されても、評価されても、この私でいいのだ、ということにはならないんです。

 

そして、考えてみますと、私たちに一番足りていないのは、この私でいいのだ、という感覚ではないかと思います。

 

私たちは生まれてからずっと時には批判され、時には評価されてきました。

 

また私たち自身、時には人を批判し、時には人を評価してきました。

 

私たちは批判と評価の中でしか生きてきていないんです。

 

だからこそ、批判も評価もされない、それは、ありのままのその人を受け入れることで、それこそが私たちにとっては本当にありがたいことではないかと思うんですね。

 

この時イエス様は一言もしゃべりませんでした。

 

一言もしゃべらずに、ペトロのすべてを受け入れて、ペトロを慈しみのまなざしの中に置いてくださったんです。

 

だからこそ、ペトロは、外に出て激しく泣くしかありませんでした。

 

ペトロの体験は、単に自分は弱かった、というようなことではありません。

 

イエス様はペトロがご自分のことを知らないということを分かっていました。

 

だからこそイエス様はペトロのために祈ってくださっていました。

 

そのイエス様の慈しみを、ペトロはイエス様のまなざしの中に見ました。

 

しかし、そのイエス様の弟子であることを、ペトロは3度、自分の口で否定したのです。

 

そういう取り返しのつかないことをペトロはしてしまったんです。

 

ペトロにとって自分の罪深さは、もうどうにも言い訳ができないようなものでした。

 

ペトロはここで完全に絶望したと思います。

 

ペトロは自分のすべてを否定したと思います。

 

そして、外に出て、激しく泣いたんです。

 

ペトロが泣いたのは、ただ単に、こんな自分でも愛してくださるイエス様のまなざしを見たからではありません。

 

それだけだったら、ペトロはここで一回思い切り泣いて、泣き止んだら立ち直ることができます。

 

ペトロが激しく泣いたのは、自分の罪深さを知ったからです。

 

ペトロは絶望しました。

 

ですから、ここで立ち直ることはできません。

 

ペトロはそのまま姿を消します。

 

完全にイエス様から離れたんです。

 

イエス様を捨てたんです。

 

ペトロは裏切り者になりました。

 

そして、十字架の時も、ペトロはその場所に姿を現さないんです。

 

ペトロは立ち上がることができませんでした。

 

本当に惨めな罪人です。

 

しかし、その惨めな罪人というのが、ペトロの真実の姿なのです。

 

ですから、ペトロは自分ではどうしようもないのです。

 

しかし、十字架の後、復活したイエス様が、そのペトロに出会ってくださるんです。

 

十字架の死と復活がペトロを復活させたんです。

 

ペトロが復活するためには、イエス様が十字架で死んで、復活してくださらなければならなかったんです。

 

イエス様は、このような惨めな罪人のために、そこまでなさってくださるんです。

 

私たちも心したいと思います。

 

私たちが今立っているのは、イエス様が信仰がなくならないように祈ってくださったからなんです。

 

私たちが今立っているのは、復活したイエス様がそれでもなお、私たちに出会ってくださるからなんです。

 

そして、イエス様が私たちのために祈ってくださるその祈り、祈りというのは言葉ですが、私たちは、イエス様が神様に対してどのように祈ってくださっているのか、その言葉は知りません。

 

また、復活したイエス様が私たちに出会ってくださる時、その時、イエス様が私たちにどんなことをおっしゃるのかは問題ではありません。

 

言葉の問題ではないんです。

 

大事なのは、イエス様の慈しみのまなざしが私たちに向けられていること。

 

無言の、ありのままの私たちをすべて受け入れるまなざし。

 

私たち自身でも受け入れられないこともある私たちをも受け入れてくださるまなざし。

 

私たちは、ただただそのまなざしの中に置かれているんです。

 

ですから、これはもう、私たちがどうであるとか、自分のことをどう思っているとかそういう話ではないんです。

 

私たちなんて惨めな罪人に過ぎません。

 

今日見てきたとおり、私たちはペトロと同じです。

 

信仰なんてないんです。

 

あるつもりでいるだけです。

 

そして、強い時は強いけれども、弱い時はとことん弱い。

 

しかし、その私たちを、イエス様は、深い深い慈しみのまなざしの中に置いていてくださっているんです。

 

何も言わずにイエス様は私たちを受け入れてくださっているんです。

 

そのイエス様のまなざしを感じてみてください。

 

そのまなざしは、これからもずっと、私たちに向けられています。

 

今も、これからもです。