今週の説教「偽りの裁判」(ルカによる福音書22章63節から71節)

⛪今週の予定⛪

✙1/29()東部中会教師会(東京教会、13:30-17:00)

1/30()聖書を読む会(ヨハネによる福音書から、10:30-12:00)、韓国語講座(初級、13:00-14:00・中級、14:00-15:30)

1/31()聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準から、19:30-20:30)

2/1()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

2/3()牧師週休日

2/4()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、小会(13:00-15:00)、掃除

 

 

★2/4()の説教:尾崎純牧師

聖書・ルカによる福音書231節から12

説教題「沈黙せるキリスト」

賛美歌・141323863116765-12940-5

 

【41日までのイベント】

321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

330()19時から20時 受難日礼拝

331()14時から16時 子どもイースター祝会

41()10時半から12時 イースター礼拝 同日12時から イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

 





「偽りの裁判」

 

ルカによる福音書2263節から71

 

63さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。64そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。65そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

 

66夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、67「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。69しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」70そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」71人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

 

 

 

 

 

つい先日、ある人がミスをして、そのミスを怒ってしまったということがありました。

 

そのミスというのは、今になって考えると、怒るほどのことでもない、ほんの小さなことでした。

 

ほんの小さなことなのに、「なんだそれは」という感じで怒ってしまったんですね。

 

ですので、後になってから反省しました。

 

そして、考えました。

 

こういうことがないようにするにはどうすればいいのか。

 

まず、誰かに対して怒るというのは、自分は正しいと思っているからですね。

 

自分が正しくて相手が間違っていると思うから怒るんです。

 

けれども、相手にとっては、別にそれくらいいいじゃないかという思いがあるかもしれないですね。

 

つまり、どこまでがセーフでどこからがアウトになるのかは人によって違うわけです。

 

自分にとってはアウトでも、他の人にとってはセーフかもしれない。

 

自分にとってはセーフでも、他の人にとってはアウトかもしれない。

 

基準が厳しいから正しいということにはならないですし、基準がゆるいから正しいということにもならない。

 

ただ、人によって違うということですね。

 

だとしたら、大事なのは人を尊重することではないかと思ったんですね。

 

自分も相手も人なんだと。

 

人として尊重する。

 

ただ、それは大事なことですけれども、それでは解決しないんですね。

 

自分も相手も人なんですね。

 

相手だけじゃないんですね。

 

自分も尊重されるべきなんです。

 

そうなりますと、人間どうしても自分に味方してしまいますね。

 

そういう時、自分よりも相手に味方できるような人はほとんどいないでしょうし、自分も相手も人なんですから、そんなことをするのはおかしいとも言えますね。

 

ではどうすればいいんでしょうか。

 

自分を離れて神の側に立つことではないかと思うんです。

 

神に味方するんです。

 

神はこの時、何を求めておられるのか、と考える。

 

神の目線で考える。

 

そうすると、自分というのが遠ざかっていきますね。

 

そうなったら、相手を厳しく怒るというようなことはなくなるだろうと思うんですね。

 

神の側に立っている時だけ、私たちは、ふさわしい態度をとることができると思うんです。

 

そして、神の側に立つ時には、それまで抱えていた問題が小さく見えるということになるのではないかと思います。

 

1分間だけでも神の側に立つということに心を集中すると、もうそれだけで、なんでこんなことを本気で考えていたんだろう、と感じますね。

 

自分に味方しているとほんの小さなことでも何か自分の思い通りにならないことがあると大変な気持ちになりますけれども、それって損な生き方ですよね。

 

相手も自分に味方しているんだから、納得できるような結果にはならない。

 

神に味方する時だけ、私たちは落ち着いていられるんじゃないかと思います。

 

今日の場面のイエス様がそうじゃないですか。

 

イエス様につめよった人たちは心を高ぶらせているんですね。

 

その中で、イエス様だけが落ち着いています。

 

自分が暴力を受けているのに、これから死刑になろうとしているのに、静かです。

 

イエス様は逮捕される前に祈っていましたね。

 

「御心のままに行ってください」。

 

神様にそう祈った。

 

イエス様は神の側に立っているんですね。

 

だから平気なんです。

 

もしイエス様が自分に味方しているんだったら、逃げることもできます。

 

イエス様のことを憎んでいる人たちが捕まえに来ることをイエス様は前もって知っておられました。

 

どこに捕まえに来るのかも知っておられました。

 

だったら、とりあえず遠くに逃げればいいんです。

 

そして、捕まったとしても、裁判を受ける時に言い返すこともできますね。

 

イエス様は今までにもご自分のことを憎む人たちと議論をすることがありましたけれども、イエス様は議論の名人ですね。

 

ほんの一言二言言うだけで、もう誰も何も言えなくなってしまう。

 

けれども、今日はそうしないんです。

 

イエス様は相手に服従しているのではありません。

 

自分に味方しているのでもありません。

 

神に味方しているんですね。

 

だからこんなに静かで落ち着いているんです。

 

私たちもそうありたいんですね。

 

クリスチャンという言葉は、キリストに属する者という意味の言葉から来ています。

 

私たちはキリストに属している。

 

だからこそ、キリストの姿に学ぼうと思います。

 

今日の最初の場面は、イエス様が暴行を受ける場面ですね。

 

イエス様は侮辱されて殴られるんですね。

 

そして、これが結構大変なことなんですが、ここのところの表現を原文で見ますと、そういうことを「しつづけた」という言い方なんですね。

 

殴られつづけたんです。

 

ののしられつづけたんです。

 

けれどもイエス様は一言も何も言いません。

 

逃げようともなさらない。

 

もちろん、暴力に暴力を返すということもない。

 

イエス様はまったくご自分に味方しないんです。

 

相手が罪を犯すのに任せているんです。

 

人が罪を犯している時、それ以上罪を犯させないということもとても大事なことですけれども、今回の場合はイエス様に特別な役割がありますね。

 

イエス様は人の罪を引き受けておられるんです。

 

「メシアなら言い当てることができるだろう」なんて言われていますよね。

 

言い当てることもできたでしょうけれども、今回は言い返さないんです。

 

ここで例えば相手の名前を言い当てたとしたら暴力は止むでしょうけれども、言い返しません。

 

今のイエス様は、人の罪を受け入れるんです。

 

そして、十字架に人の罪を持っていくんですね。

 

「神の子」が罪を裁かないんです。

 

神は正しい裁きをする方だと聖書には書かれていますけれども、裁かないんです。

 

十字架で人の罪を裁くんです。

 

人が裁かれないようにするためにです。

 

人ではなく、罪を裁くんです。

 

自分に味方していないから、そうすることができるんですね。

 

夜が明けると、最高法院が開かれました。

 

最高法院というのは国会です。

 

国会まで開いて、人々は自分のやっていることを正当化しようとするんですね。

 

「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」。

 

イエス様はそう聞かれました。

 

メシアというのは、昔から預言されていた救い主のことです。

 

もっと言うと、この人たちだってみんな、救い主を待ち望んでいました。

 

けれども、この質問はどうでしょうか。

 

「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」。

 

本当に相手が救い主かもしれないと思うんだったら、こんな質問はできません。

 

最初から信じるつもりがないんですね。

 

だからイエス様は言います。

 

「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」。

 

その通りなんです。

 

この人たちは、イエス様を死刑にするための理由を見つけたいだけなんです。

 

最初から結論が出ているんです。

 

そういう人に対して、イエス様は言うんですね。

 

「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」。

 

相手は言いなさいと言ってきたわけですが、言うか言わないかは問題ではありません。

 

言うか言わないかの問題ではなくて、イエス様がここで言っている通り、信じるか信じないかの問題なんです。

 

彼らは今、自分がイエス様を問いただしているつもりでいます。

 

でも、本当はイエス様から問いただされているんですね。

 

あなたがたには信じるつもりが最初からないじゃないか、だったら言っても仕方ない、と言われているんですね。

 

だから続けてイエス様は言いますね。

 

「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」。

 

イエス様は尋ねるんですね。

 

あなたは私を信じるか。

 

けれども、この人たちはそれに答えるつもりはないんです。

 

この人たちが聞きたいのは、イエス様を死刑にできるような言葉ですね。

 

こんなことを言うんだったらもう死刑にしてもいいと言えるような、そういう言葉を聞きたいだけなんです。

 

イエス様は十字架で、人ではなく、罪を裁こうとしています。

 

けれどもこの人たちは、イエス様という人を裁きたい。

 

人を裁くために、ありもしない罪を何とかして見つけようとしているんです。

 

イエス様とこの人たちは正反対なんです。

 

こうなるともう話しても仕方ありませんが、話しても仕方のない相手に対して、イエス様はどうなさるか。

 

神の側から語るんですね。

 

イエス様は言いました。

 

「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。

 

この「人の子」という言葉は、「私」という意味の言葉です。

 

私は神の右に座る。

 

右に座るというのは同じレベルということです。

 

私は神に等しい。

 

イエス様はそう言うんですね。

 

ご自分が救い主であると言ったんです。

 

事実をきちんと、淡々と言ったんですね。

 

それは何も、言い返したというようなことではありません。

 

ただ、事実をきちんと言ったんです。

 

説得するつもりでもなかったでしょうね。

 

説得できる相手ではありませんから。

 

ただ、事実を伝えるんです。

 

完全に無視してもいいんじゃないかと思いますが、そうはしなかったんですね。

 

これはもう本当にご立派な態度です。

 

何というか、このお姿はもう本当に尊いですね。

 

このような方のことを私のような者が語ってもいいのかと思うくらい、尊いお姿です。

 

しかし、この言葉を彼らは受け入れません。

 

彼らは、イエス様に何かを言わせて、そこに罪があるということにしたいだけなんです。

 

死刑にすることを最初に決めておいて、後から理由を付けようとしているんです。

 

本当のことを明らかにしようという考えが最初からないんです。

 

自分が考えている通りにしようとしているだけです。

 

こんなのは裁判ではありません。

 

でもこの人たちは、自分が何をしているのか分かっていません。

 

この人たちはイエス様のさっきの言葉を聞いて喜んだんじゃないかと思います。

 

私は神に等しいとイエス様は言いました。

 

そこで、彼らは質問します。

 

「では、お前は神の子か」。

 

人間が自分のことを神だと言うなんてとんでもないことです。

 

イエス様は言いました。

 

「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」。

 

これは変わった言い方ですね。

 

どういう意味になるのかと思いますが、この言葉は、まったくその通りです、という意味になる言い方なんです。

 

ただここで、まったくその通りだとは言わずに、こういう言い方をしたというのが面白いですね。

 

考えてみると、この人たちは、イエス様のことを信じているとも言えます。

 

イエス様を逮捕する時、この人たちは大勢でやってきましたね。

 

イエス様の弟子はこの時十一人しかいなかったのに、大勢でやってきたんです。

 

それも、武器を持ってやってきたんですね。

 

そんな必要があるでしょうか。

 

彼らは本当のところ、イエス様の力を信じていたんですね。

 

だから、それでも何とか負けないようにと大勢で武器を持ってやってくるんです。

 

「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」。

 

そうです。

 

この言い方の通りです。

 

彼らはある意味信じているんです。

 

それなのに、イエス様を死刑にしようとするんですね。

 

彼らは真正面から神に敵対しているんです。

 

そして、そのことに気付いてもいない。

 

そう考えますと、この場面は、とても深刻なことを私たちに言っているんじゃないかと思います。

 

私たち人は、神に味方することなんてできない者なんだと言われているようにも思うんです。

 

上の段で、弟子のペトロは、この人はイエス様を味方しているつもりだった人ですけれども、それを自分から否定して、姿を消しました。

 

見張りは殴って侮辱しました。

 

議員たちは無茶苦茶な裁判をやりました。

 

神の側についているのはイエス様だけなんです。

 

それを貫き通せるのはイエス様だけなんですね。

 

ペトロは貫き通せませんでした。

 

あるいは、議員の中に、イエス様を信じた人もいましたけれども、その人は今日、ここにいるはずですが、何をしていますか。

 

何もしていないんです。

 

黙って見ているだけです。

 

誰も、神の側に立ち続けることはできないんです。

 

しかし、話はそれで終わりではないんですね。

 

前の場面でペトロは姿を消しました。

 

ペトロはイエス様から離れました。

 

自分が一番弟子だと思っていたのに、自分からイエス様を否定した、惨めな罪人です。

 

そのペトロのところに、後になって、イエス様がやってきてくださるんですね。

 

そして、ペトロを立ち上がらせてくださるんです。

 

ペトロは惨めな罪人ですが、惨めな罪人だからこそ、立ち上がらせてくださるんじゃないでしょうか。

 

惨めな罪人ということは、自分に味方できないということです。

 

そのような人を、イエス様は、神の側につかせてくださる。

 

ですから、こう言うことができます。

 

私たちは今朝、説教の前に、罪の告白をしました。

 

ということは、イエス様はどこにおられるんでしょうか。

 

私たちのそばにおられるんです。

 

神の子イエス様が、私たちのそばにおられます。

 

ですから私たちは、今、現に、神の側にいるんです。

 

神の側につくというのはそういうことですね。

 

私たちが自分で歩いて行って、神の側につくんじゃないんです。

 

神が私たちに近づいてくる。

 

そうして私たちが神の側にいるということになるんです。

 

なっているんです。

 

イエス様は、私たちを、ペトロを見つめた時と同じ慈しみのまなざしで見ておられます。

 

私たちの罪も、私たち自身もイエス様はまるごと引き受けてくださっています。

 

私たちは惨めな罪人なんですが、それでいいんです。

 

だからイエス様は十字架にかかってくださったんですから、もうそれでいいんです。

 

十字架で私たちの罪は裁かれた。

 

だから私たち自身はゆるされた。

 

そのイエス様が私たちのところに来てくださっている。

 

私たちは、神の側にいるんです。