
⛪今週の予定⛪
✙2/12(月)2・11集会(新浦安教会、10:30-15:00)
✙2/13(火)礼拝(9:00-10:00)、韓国語講座(初級、13:00-14:00・中級、14:00-15:30)
✙2/14(水)聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準から、19:30-20:30)
✙2/15(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✙2/16(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10)、劇団稽古(19:00-22:00)、それぞれの置かれた場所での祈り(21:00-21:10)
✙2/17(土)牧師週休日
✙2/18(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、中高生会(12:00-15:30)、掃除
🎤2/18(日)の説教:尾崎牧師
聖書・ルカによる福音書23章26節から31節
説教題「イエスの後ろから」
賛美歌・122、32、38、208、392、575、304、65-1、27、40-5
🎤2/13(火)の説教:尾崎牧師
説教題「誇り」
賛美歌・29、38、342、81、65-1、28、40-5
📅4月までのイベント
✙2月18日(日)12時から15時半 中高生会
✙2月20日(火)13時から15時 韓国料理教室
✙3月18日(日)12時から15時半 中高生会
✙3月21日(水・祝)、24日(土)両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇
✙3月30日(金)19時から20時 受難日礼拝
✙3月31日(土)14時から16時 子どもイースター祝会
✙4月1日(日)10時半から12時 イースター礼拝
同日12時から15時 イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)
✙4月15日(日)12時から15時半 中高生会
✙4月22日(日) 教会設立記念日

2月20日(火)13時から15時
韓国語講座&料理教室
いつもは500円で韓国語を学べますが、今回はプラス材料費1,000円で、韓国のおもちをつかった料理を一緒に作って食べましょう。
お料理上手なオモニのレシピも入手できて、韓国語も学べる大変お得な企画です。
材料の都合がありますので、15日(木)までにお申し込みください。

「群衆の声」
ルカによる福音書23章13節から25節
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」17<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。†18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
今日のところではまず最初に、ピラトが、イエス様には罪がないと宣言しています。
先週お読みした場面でピラトはイエス様を取り調べたんですが、何の罪も見つけることができませんでした。
そこで、ピラトは地元の支配者であるヘロデのところにイエス様を送ったんですが、ヘロデもイエス様に罪を見出すことができません。
そこで、ヘロデはピラトにイエス様を送り返してきたんでした。
ヘロデとしては、私なんかよりもあなたの方が責任者なのだから、あなたがご自由に決めてください、というつもりでイエス様をピラトのところに送り返したんですが、これはピラトにしてみたら、ちょっと面倒な話だな、と思ったかもしれませんね。
ピラトとしてはイエス様に罪がないと思っているんです。
けれども、イエス様を訴えている人たちは、イエス様に罪があると言い張って、引き下がらないんですね。
イエス様を訴えていた人たちは祭司長たちと律法学者です。
祭司長にしても律法学者にしても、ユダヤ教の専門家ですね。
けれども、ピラトは外国の人ですから、ユダヤ教のことは分かりません。
ピラトとしては困ってしまったでしょうね。
ピラトはローマ帝国の役人です。
そのローマ帝国がイスラエルを支配していますので、その支配がうまくいくように働くのがピラトの仕事です。
つまりピラトは政治が仕事なんです。
それなのに、ユダヤ教の、宗教の話に巻き込まれてしまった。
罪がないと言っても誰も納得してくれない。
そこで、ピラトは今日、うまいこと言っていますね。
16節で、「鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。
ピラトとしては罪がないと思っているんですが、大変な騒ぎの原因になったんだから、このイエスという男を鞭で懲らしめるというところでどうだろうか、と提案したんですね。
つまりピラトは何とかしてイエス様を釈放したかったんですね。
ピラトはイエス様に罪がないと思っていますから、そういうふうに言ったわけです。
けれども、誰もそれに納得しないんですね。
18節ですが、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫びました。
このバラバという人は本当に罪を犯していた人ですけれども、そんな人を釈放しろと言うんですね。
なんでこんな話になるのかと言いますと、今日の聖書の箇所には、17節がないんですね。
16節の次が18節になってしまっていて、17節がありません。
しかしよく見てみますと、18節の前に十字架のようなマークがありますね。
これは十字架ではなくて短い剣なんだそうですが、これは、17節の文章がもともとの聖書にあったものなのかどうかわからないので、このルカによる福音書の一番後ろのページに17節をのせておきましたよ、ということなんですね。
これはどういうことなのかと言いますと、まず、ルカが書いた一番最初のもともとの聖書は残っていません。
けれども、昔の人たちがみんな手書きで書き写して、聖書は今に伝えられているんですね。
ただ、手書きですから、書き間違いということがありますね。
ですので、この17節が書かれている聖書もあれば、書かれていない聖書もあるんですね。
そして、そういうことを一生懸命研究した人が、この17節はもともとはなかった可能性が高い、後になってから書き加えられたらしいと考えたので、17節は抜いて、一番後ろのページに移動させたんですね。
そこで、この福音書の一番最後のページですが、162頁を開いて見ますと、一番後ろに23章17節とありまして、その文章がのっているんですね。
162頁を開いて見てください。
そこに、こういうことが書かれていますね。
「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」。
こういう決まりがあったということなんですね。
そして、今はちょうどユダヤ教のお祭りの時なんです。
ですので人々は「バラバを釈放しろ」と叫んだんですね。
ただ、どうしてこのバラバという人を釈放してほしいんでしょうか。
今日のページに戻って23章19節を見ますと、バラバは大変な人ですね。
「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」人です。
暴動と殺人ですよ。
こんな人を釈放するのは危険ではないですか。
けれども、人々は、声を合わせてバラバを釈放しろと言うんですね。
ということはもしかするとこのバラバという人は、ユダヤ人に対する暴動と殺人で逮捕されたのではなくて、ユダヤ人を支配しているローマ帝国に対する暴動と殺人で逮捕された人だったのかもしれませんね。
それだったらバラバはユダヤ人たちにとって一生懸命頑張ってくれた人ですから、自分たちの仲間ですから、釈放してほしいと考えてもおかしくないですね。
逆に言って、今、人々はその男を殺せ、イエス様を殺せ、と叫んでいるわけですが、この人々というのがどういう人々だったかと言うと、ユダヤ教のリーダーたちだけではないですね。
13節を見ますと、祭司長たちと議員たちと民衆だったと書かれています。
いつの間にかここに民衆という人たちが現れているんです。
しかし、ユダヤ教のリーダーたちはイエス様のことを嫌っていましたけれども、民衆はどうでしたかね。
民衆はイエス様の話を聞きたいとみんな思っていたんですね。
だからユダヤ教のリーダーたちは、自分の手でイエス様を殺すことができなかったんです。
自分の手でイエス様を殺してしまうと、自分たちの人気が下がりますから。
だから、ユダヤ教のリーダーたちはイエス様をピラトのところに連れていって、ピラトに殺させようとするんですね。
とにかくそれくらい、イエス様は民衆に人気があったんです。
それなのに今、その民衆がイエス様を殺せと叫んでいるんですね。
これは、もしかすると、ユダヤ教のリーダーたちが民衆に対してイエス様のことを悪く言ったのかもしれませんね。
たとえば、皆さんが期待していたあのイエスという男は何もできないままローマ帝国に逮捕されましたよ、というようなことを言ったのかもしれません。
民衆は、自分たちを支配しているローマ帝国という外国が出ていってくれることを願っていました。
だから、ローマ帝国に力で立ち向かったバラバを釈放してくれと願うんです。
そういう人たちに対して、イエス様は何もできないままローマ帝国に逮捕された、と言いますと、もう本当にがっかりするでしょうし、期待していたのに裏切られたという気持ちにもなるでしょうね。
だから今、民衆はこんなに激しくイエス様を殺せと叫んでいるのではないかと思うんですね。
それでもピラトはイエス様を釈放しようとして呼びかけ続けていますが、人々は誰も聞きません。
次のページですが、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けるんですね。
十字架というのは木でできていますよね。
木に人間をつりさげて死刑にするのが十字架です。
そして、木につるされた死体は呪われている、という言葉が旧約聖書の中にあります。
つまり、民衆は言っているんですね。
あのイエスという男は呪われている。
イエスは神の子なんかではない、神に見捨てられているんだ。
民衆はそう考えているんですね。
ピラトはそれに対してもまた、釈放しようと呼びかけますが、人々はますます大きな声で、イエス様を十字架につけるように要求します。
そして、ピラトはその声に負けて、言われたとおりにしてしまうのです。
人間の弱さがここに現れていますね。
真実を貫き通せるほど人間は強くないということを聖書は言っています。
しかしそれは、ピラトだけの責任ではありませんね。
民衆は、自分の期待が裏切られたと感じて、十字架につけろと叫びました。
民衆はローマ帝国を力で打ち倒してくれることをイエス様に期待していました。
それは勝手な期待ですね。
イエス様は人間の力で何かをしようという方ではありません。
勝手な期待だったんです。
ですけれども、その期待が裏切られたと感じて、十字架につけろと叫んだ。
イエス様を呪った。
「民衆」という言葉は原文で見ますと、信じる人を意味する言葉です。
神様を信じる人。
その人たちが神の子を呪っているんです。
そして、前のページの18節では、人々は、「その男を殺せ」と叫んでいますが、ここに出てくる「殺せ」という言葉は、「取り除け」という言葉です。
自分たち、神様を信じる人たちの中から、その男を取り除け。
そういうふうに叫んでいる。
ただここで、私たちは考えなければならないと思うんですね。
この民衆というのは、神様を信じる人ということなんです。
ということは、私たちにもそれは当てはまるんですね。
今、私たちは神様に問われているんです。
信じる人であるはずのあなたは、イエス様を心の中から取り除いてしまっていることはないか。
愛と真実にとどまることができずに、人を呪う気持ちになることはないか。
愛のない言葉、真実のない言葉を口にすることはないか。
愛のない行い、真実のない行いをすることはないか。
私たちは今、神様にそう問われています。
けれども、ここで、イエス様は何も言わないんですね。
黙って人々の罪を引き受けておられます。
人々の呪いも引き受けておられます。
愛と真実にとどまりつづけることができない私たちのために、イエス様だけが愛と真実にとどまってくださっているんです。
そして、今日、一人の人がゆるされましたね。
バラバです。
本当はこの人こそ十字架につけられるはずの人でした。
ですけれども、この人は今日、釈放されました。
このバラバという人も、私たちです。
私たちは、イエス様が私たちの罪を引き受けてくださって、十字架にかかってくださったからこそ、罪をゆるされました。
バラバもそうです。
イエス様が十字架にかかってくださったから、この人は釈放されました。
私たちはバラバなんです。
民衆でもあります。
愛と真実にとどまりつづけることができない者です。
しかし、私たちはバラバでもあります。
ゆるされているんです。
イエス様の命と引き換えにです。
そのために、私たちがゆるされるために、今、イエス様は何も言いません。
恐ろしい叫び声の中で、イエス様は沈黙しておられます。
今のこのイエス様の姿に、神の愛が現れています。
イエス様は神の愛そのものなんです。
その神の愛そのものが、私たちを包んでいるんです
私たちに、神の愛と神の真実があります。
私たちは、神様に愛されていて、ゆるされている。
神の愛と神の真実の中を生きていきましょう。
現に私たちは、神の愛と真実に生かされているのです。