今週の説教「誇り」(新約聖書・ローマの信徒への手紙5章1-5節)

⛪今週の予定⛪

✙2/13()礼拝(9:00-10:00)韓国語講座(初級、13:00-14:00・中級、14:00-15:30)

✙2/14()聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準から、19:30-20:30)

✙2/15()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

✙2/16()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10)劇団稽古(19:00-22:00)、それぞれの置かれた場所での祈り(21:00-21:10)

✙2/17()牧師週休日

✙2/18()学び会(9:00-10:00)教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)礼拝(10:30-12:00)、中高生会(12:00-15:30)、掃除

 

🎤2/18()の説教:尾崎牧師

聖書・ルカによる福音書2326節から31

説教題「イエスの後ろから」

賛美歌・122323820839257530465-12740-5

 

📅4月までのイベント

218日(日)12時から15時半 中高生会

✙220()13時から15時 韓国語&韓国料理教室

✙318日(日)12時から15時半 中高生会

✙321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

✙330()19時から20時 受難日礼拝

✙331()14時から16時 子どもイースター祝会

✙41()10時半から12時 イースター礼拝

同日12時から15時 イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

✙415()12時から15時半 中高生会

✙422() 教会設立記念日


2月20日(火)13時から15時

 

 

韓国語講座&料理教室

 

いつもは500円で韓国語を学べますが、今回はプラス材料費1,000円で、韓国のおもちをつかった料理を一緒に作って食べましょう。

 

 

 

お料理上手なオモニのレシピも入手できて、韓国語も学べる大変お得な企画です。

 

 

 

材料の都合がありますので、15日(木)までにお申し込みください。




「誇り」

 

新約聖書ローマの信徒への手紙51-5

 

1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

 

 

 

 

今日取り上げた御言葉はとてもよく知られた御言葉なのではないかと思います。

 

特に今日の345節は人類の歴史の中でどれくらい多くの人たちを励ましてきたでしょうか。

 

私自身、この言葉には何度も励まされました。

 

今日はこの御言葉を共に味わいたいと願っています。

 

この御言葉に立って、皆さんに希望を生きていただきたいからです。

 

さて、パウロは今日の1節で、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから」ということで話を始めます。

 

信仰によって義とされる。

 

義という言葉は「神の前に正しい」という意味になります。

 

私たちは、信仰によって神の前に正しいとされた。

 

ということは逆に言いますと、私たちは神の前に正しくなかったわけです。

 

ですから、1節の後半に入ると、私たちは今は「神との間に平和を得て」いる、と話が続いていきますが、それまでは神との間にも平和がなかったんですね。

 

これは私には良く分かることなんですね。

 

信仰を持たなかった頃、神というものが何であるのか、そもそもそれを良く分かっていませんでしたけれども、とにかく、平和がなかったんですね。

 

もちろん、誰かとの関係が平和だ、とか、自分が置かれている環境がその時は平和だ、ということはあったんですが、誰かとの間に平和がある一方で、誰かとの間に平和はありませんでした。

 

また、自分が平和な状況に置かれていることがある一方で、平和でない状況、平和でない時期も多かったんですね。

 

というよりも、平和でない時期の方が多かったんです。

 

ですので、そもそも神が何なのか分かっていなかったわけですが、その時神との間に平和があるかと聞かれたとしたら、そんなことは絶対にないと言い切ったと思いますね。

 

しかし、考えてみますと、信仰をもって生きるようになってからも状況はある意味同じなんですね。

 

平和な時期は少ないですし、人との関係も平和でない関係というのはあります。

 

ただ、今は決定的に違うことがあるんですね。

 

それが、「神との間に平和を得ている」ということです。

 

状況がどうであろうと、人がどうであろうと、私と神との間には平和がある。

 

この、「神との間に」という言葉は、「神の前に」という言葉です。

 

私は神の前に安心して立つことができる。

 

これですね。

 

私たちは神の前に安心して立つことができる。

 

自分よりもはるかに大きな神の前に、安心して平和な心で立つことができる。

 

私は神に受け入れられている。

 

これがないなら大変ですよ。

 

私たちは身の回りの状況にゆるがされてしまう。

 

人間関係にゆるがされてしまう。

 

そういうことは今でもあるわけなんですが、しかし、私たちはどれだけゆるがされたとしても、神の前に立つ者である。

 

神に向かって真っすぐに立つ者である。

 

キリストのたとえ話にありましたね。

 

家を建てる時、砂の上に建てるなら、洪水になると家は倒れてしまいます。

 

しかし、地面を深く掘り下げて、岩の上に土台を置いて建てるなら、ゆるがされることはないんですね。

 

私たちは、何よりも確かな土台の上に立っているんです。

 

2節に入ると、そのことがまた別の言葉で言われています。

 

私たちは「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」たということですね。

 

これは1節の後半を言いかえたものですね。

 

神との間に今、平和を得ている。

 

それが、今の恵みということですね。

 

今、私たちは恵みの中に導き入れられている。

 

神は恵みの神。

 

神の前に平和に立つことこそが私たちを確かなものにする恵みなんですね。

 

そして、それは「キリストのお陰」であると言われています。

 

1節にも、「イエス・キリストによって」という言葉がありました。

 

私たちの努力によってではないんですね。

 

神の子キリストが私たちのところに来てくださって、私たちを神にとりなしてくださった。

 

だから私たちは神の前に立つことができるものとされた。

 

この1節と2節には「信仰によって」という言葉も繰り返し出てきていますが、これも同じことですね。

 

気を付けていただきたいところですが、これは、信仰という私たちの精神的な努力によってということではありません。

 

私たちの努力によってではないんですね。

 

キリストが私たちを神の前へと招いてくださっている。

 

それを受け入れることが信仰ということです。

 

ですからこれは、何か私たちが高度な精神修養を積んだとか、そういうことではないんですね。

 

感謝して招きにこたえるか、招きをこばむか。

 

私たちはこばまなかったんですね。

 

それだけです。

 

1節の最初に「わたしたちは信仰によって義とされた」という言葉がありましたけれども、私たちの誰が、自分が神の前に正しいと言えるでしょうか。

 

これはパウロが繰り返し言ってきたことですけれども、私たちの誰も、神の目に正しい者ではないんですね。

 

知っていて犯す罪があります。

 

おそらくそれ以上に、知らずに犯している罪があります。

 

それでも、私たちは信仰によって義とされた。

 

神がそれでもなお私たちを愛してくださって、私たちをみもとに招いてくださって、私たちは神の前にこうして進み出た。

 

これは逆に言うと、私たちは自分の力では何もできない者であるということです。

 

私たちは、神に正しいと認めていただけるようなことは何もできない。

 

だからこそ神が私たちを招くんですね。

 

だから今、私たちは神の前に確かなんです。

 

そして、私たちが確かにされる神の恵みは現在だけのものではないんですね。

 

未来にも及びます。

 

2節の最後ですが、「神の栄光にあずかる希望」とありますが、希望というのは未来のことですね。

 

私たちが神の栄光にあずかるのは、私たちが未来に、神のみもとに行く時のことです。

 

現在だけでなく、未来にも希望がある。

 

私たちの生き死にを超えて、私たちは神の前に立ちつづける。

 

どんなものも、私たちを神の前から引きはがすことはできない。

 

だからこそ、3節ですが、苦難も誇りとすることができるんですね。

 

ここに見られる苦難という言葉は、信仰があるからこその苦難を表す言葉です。

 

私たちは信仰があるからこそ苦しむことがあります。

 

この手紙が書かれた時代には迫害ということがありましたし、そういうことがなかったとしても、信仰があるからこそ、信仰がなければ気にしなかったようなことを気にして苦しんでしまうということは誰にでもあると思います。

 

しかし、信仰に立っているからこその苦難は、苦難では終わらないんですね。

 

私たちはそのような苦難を通してきたえられるんです。

 

ますます神様に近づくんです。

 

ここに出てきます「忍耐」という言葉も、「練達」という言葉も、信仰の上での言葉です。

 

「忍耐」について言いますと、イエス様の言葉に、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉がありますね。

 

「練達」という言葉については、これは精錬するという言葉なんですが、金属が火によって精錬されるように、信仰がきたえあげられることを指す言葉です。

 

信仰があるからこその苦しみは、私たちが耐え忍んでふみとどまる力を身に付けさせ、私たちを鍛え上げるんですね。

 

それによって私たちはますます希望を確かにされるんです。

 

ますます神に近づく者となるのです。

 

そして、その希望は裏切られないんです。

 

5節ですが、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。

 

私たちにはすでに、聖霊が与えられている。

 

洗礼を受けた時に、神の霊が与えられている。

 

私たちは神の前に立っているだけではなくて、私たちの中に神がおられる。

 

聖霊は神の愛を注ぎます。

 

神の愛はどんなものですか。

 

何もできない私たちをご自身のもとに引き寄せてくださる愛です。

 

私たちは何もできなくていいんです。

 

というより、苦難にあって私たちにできることは実際のところほとんどないと言ってもいいのではないでしょうか。

 

それでも、神は私たちの内におられる。

 

神が私たちの内に働く。

 

神の愛を注いで、私たちをますます神に引き寄せる。

 

そう信じるなら、苦難は理由のない苦しみではなくなります。

 

私たちは苦しみの中でも希望に生きる訓練を受けるていることになるのです。

 

人の目に希望が見えないような状況というのはあります。

 

しかし、私たちはそこでもなお希望を生きる。

 

神が私たちの内におられるから、私たちにはそうすることができると言われているのです。

 

もうこれは普通の生き方とは全く違う生き方です。

 

パウロは、23節で、誇りということを言いますね。

 

希望を誇りにする。

 

苦難をも誇りとする。

 

これは人間の誇りではないんですね。

 

人間は誇りがなくては生きていけません。

 

しかし、パウロほど人間の誇りを否定した人はいません。

 

何より、今日見たとおり、私たちは何もできない者だからこそ、キリストによって義とされ、平和を与えられ、恵みに入れられたんです。

 

人間は神の前では何も誇れません。

 

パウロはかつては自分を誇る人であったことでしょう。

 

パウロはユダヤ人たちの中でエリートでした。

 

しかし、パウロはその誇りをすべて捨てた人ですね。

 

今パウロが誇っているのは神の愛なんです。

 

何もできない私たちを救う神の愛を、パウロは自分のことのように誇っているんです。

 

自分のことのように誇っていいんです。

 

神の愛によって自分が救われたからです。

 

そして、私たちの内にその神がおられるんですから。

 

私たちは私たちの側にいないんです。

 

私たちは神の側にいる。

 

いつも、神の側にいる。

 

これを誇るんです。

 

自分はこれだと言っているんですね。

 

そのパウロの気持ちを心に刻みたいと思います。

 

私たちの希望は、どんなことがあっても、私たちをあざむくことはありません。

 

神が真実な方だからです。