今週の説教「イエスの後ろから」(新約聖書・ルカによる福音書23章26節から31節)

【今週の予定】

✙2/19()一泊教師会(三浦半島、20[]まで)

✙2/20()韓国語講座&韓国料理教室(13:00-15:00)劇団稽古(19:00-22:00)

✙2/21()聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準から、19:30-20:30)

✙2/22()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

✙2/23()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、牧師休暇(31日[木]まで)

✙2/25()学び会(9:00-10:00)礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、長老執事と候補者の学び会(13:00-14:00)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 

🎤2/25()の説教:豊川修司先生

聖書・旧約聖書ミカ書66節から8

説教題「へりくだって神と共に生きる」

賛美歌113323835145943065-12940-5

 

 


📅4月までのイベントなど

220()13時から15時 韓国料理教室

318日(日)12時から15時半 中高生会

321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

330()19時から20時 受難日礼拝

331()14時から16時 子どもイースター祝会

41()10時半から12時 イースター礼拝

同日12時から15時 イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

415()12時から15時半 中高生会

422() 教会設立記念日





「イエスの後ろから」

 

ルカによる福音書2326節から31

 

26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。30そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

 

 

 

 

 

先日、妻の実家に行ってまいりまして、妻のお父さんからお話を聞いたんですね。

 

どういう話なのかと言いますと、妻の両親が結婚してしばらくのことです。

 

まだお二人とも若かった頃の話ですね。

 

ある日、妻のお母さんのご両親が、家にやってきたそうです。

 

妻のお母さんは料理をたくさん作ってもてなしたんですが、その時、料理をたくさん作ったはいいけれども、ご飯を炊くのを忘れてしまっていたんだそうです。

 

困ったことになってしまいました。

 

妻の父はそれで怒ったんだそうです。

 

まあ、そういうことになるでしょうね。

 

しかし、そうしますと、妻の母の母ですけれども、家にやってきた妻のお母さんのご両親の、お母さんですね、その人が、妻の父を別の部屋に呼んで、言ったんだそうですね。

 

「欠点も愛することができなければ一人前ではありません」。

 

そういうふうに言われたんだそうです。

 

そして、妻の父は、そのことが今でも強烈に頭に残っていると言っていました。

 

そして、私に対して言いました。

 

「ですので、私もあなたに申し上げます。欠点も愛することができなければ一人前ではありません」。

 

私はもう、頭を下げて「ははー」という感じだったんですが、そうですね。

 

その通りだと思うんです。

 

欠点も愛することができてはじめて一人前ですね。

 

自分にとって都合のいい面を愛するのは誰だってできますね。

 

ですので、欠点も愛せるようになって一人前ですね。

 

一人前、というのは、夫として一人前であり、クリスチャンとして一人前ということでしょうね。

 

いやそれにしても考えさせられました。

 

その人の良い面は愛するけれども欠点は愛さないというのなら、それは、相手を愛しているんじゃなくて、自分を愛しているのと同じことですね。

 

欠点も愛してはじめて、相手を愛していることになりますね。

 

考えてみれば、イエス様が今、表してしてくださっている愛というのは、そういう愛ですね。

 

人の罪を、欠点を、丸ごと引き受けてくださっているんですよね。

 

このお姿を見ると、私たちは問われますね。

 

あなたは、この方に従っていくことができますか。

 

この方のように生きることができますか。

 

私たちの欠点をも、イエス様は愛して、私たちは丸ごとイエス様に受け入れられている。

 

良い面も悪い面も、受け入れられている。

 

その私たちは、どれくらい、イエス様と同じことができているだろうか。

 

私たちはどれくらいイエス様に似ているだろうか。

 

反省してしまいますけれども、悔い改める中で、少しづつ前に進むしかないですね。

 

さて、今日の場面ですが、イエス様が引かれていきます。

 

十字架を背負わされて、自分が十字架にかかる場所まで、歩かされていきます。

 

自分がかかる十字架を自分で背負うというのが、十字架という罰の決まりでした。

 

イエス様もこの時、十字架を背負いました。

 

そして、ここには書かれていませんけれども、他の福音書には書いてあるんですが、十字架を背負わされる前に、イエス様はムチで打たれていました。

 

ムチと言っても私たちが普通に想像するようなものとは違います。

 

イエス様が打たれたムチは、木の棒の先に、皮のひもが何本もついていて、そして、その皮のひもには、とがった金属やとがった石がたくさんついている、というものです。

 

ですので、このムチで打たれると、体中傷だらけになります。

 

というか、血まみれになります。

 

内臓が飛び出して死んでしまうこともあったと言われています。

 

イエス様も今、血まみれです。

 

真っすぐ立つこともできないような状態です。

 

それなのに、十字架を背負わされます。

 

途中でイエス様はもう、十字架を背負えなくなったということでしょうか。

 

「シモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と26節に書かれています。

 

このシモンという人はただその場所にいただけなのに、十字架を背負うことになりました。

 

この人はたまたまここにいただけですね。

 

この人はキレネ人であると書かれていますが、キレネというのは北アフリカにある町です。

 

イスラエルとは全然違う場所ですね。

 

この人は遠くからやってきていたんです。

 

この町エルサレムでは大きなお祭りがありまして、ユダヤ人たちはそのお祭りをエルサレムでお祝いすることになっていましたから、この人はこの町に来ていたんでしょうね。

 

そうすると偶然、十字架で死刑にされる人が引かれていく場面に出会った。

 

この人は道に立って、イエス様が十字架を背負わされて引かれていくのを見ていたんでしょうね。

 

ところが、イエス様はこの人のいたあたりでもう歩けなくなった。

 

そうすると、このシモンという人は体が大きくて力が強そうだったからでしょうか、イエス様を引いていくローマの兵隊はこの人を見て、お前が代わりに十字架を背負えと命令したんですね。

 

誰もそんなことしたくありませんよね。

 

でも、ローマの兵隊に命令されたら、断ることはできません。

 

断ったらそれこそ逮捕されるかもしれません。

 

この人はイエス様の十字架を背負いました。

 

そうしたくてしたわけではありません。

 

たまたまそこにいて、たまたまそうすることになっただけで、本当はそんなことしたくはなかったんです。

 

その人は十字架を背負って、イエス様の後ろからついていくことになりました。

 

イエス様の後ろをついていくのは、このシモンという人だけではありませんね。

 

「民衆と嘆き悲しむ婦人たち」もイエス様の後を付いていきます。

 

民衆というのは、先週の場面で、イエス様を十字架に付けろと叫んだ人たちですね。

 

この人たちは自分たちが十字架に付けろと叫んだイエス様が十字架に付けられて死ぬのを見届けようと、イエス様の後を付いていきます。

 

この人たちは、イエス様が死ぬのをこの目で見たい、という人たちです。

 

「嘆き悲しむ婦人たち」はどうでしょうか。

 

この女の人たちは、嘆き悲しんでいるんです。

 

イエス様が死ぬのが悲しいということになるでしょうか。

 

けれども、この女の人たちは、長い間イエス様にずっと従ってきた、イエス様の弟子たちではありません。

 

どうしてかと言うと、28節でイエス様は後ろを振り向いて、この女の人たちに呼びかけているんですが、その時、「エルサレムの娘たち」と呼びかけているんですね。

 

エルサレムの娘たち、この町の娘たち。

 

これなんですね。

 

イエス様に従ってずっと一緒に旅をしてきた女性たちもいたわけですけれども、その女性たちはエルサレムの人たちではありません。

 

けれども、イエス様は、嘆き悲しんでいる女の人たちはこの町エルサレムの人たちだと言っているんです。

 

ではこの女の人たちは何なのかと言いますと、「泣き女」と言われる人たちです。

 

「泣き女」とは何なのかと言いますと、お葬式の時にわざと大声をあげて泣く、という役割の人のことです。

 

お葬式の時にはそういう役割の人がいたんですね。

 

ただ、普通のお葬式の時には葬式を出す人がこの「泣き女」を雇うのですが、死刑になる場合には泣き女を雇うことはできないことになっていました。

 

ですので、この「泣き女」たちは、誰かにお金をもらってこういうことをしているのではなくて、自分からそうしているんですね。

 

それは、イエス様が死刑にされるのを本当に嘆き悲しんでいるからではありません。

 

死刑にされる人のために大声で泣くことは、神様の前に良い行いをしたということになると考えられていたので、それで、この女の人たちは別に悲しくもないのに大声で泣いているんですね。

 

ですから、今日の場面はなかなかすごい場面です。

 

イエス様が引かれていって、その後ろを、イエス様の代わりに十字架を背負った人がついていって、またその後ろをたくさんの人たちがついていくわけですけれども、その中に、イエス様に従っていきたいと思っている人は一人もいないんですね。

 

後ろからついていく人たちは、イエス様のことは別にどうでもいいと思っているか、それとも、イエス様が死刑になるのを見届けたいと思っているか、そのどちらかなんです。

 

たくさんの人がイエス様の後を付いていくんですが、誰も本当の意味でイエス様に従ってはいないんですね。

 

けれども、不思議なことに、今日の27節には、「イエスに従った」と書かれています。

 

「従った」という言葉は、誰かがイエス様の弟子になる時につかわれる言葉ですけれども、今日の場面にはイエス様の弟子は一人もいないのに、それなのに、「従った」という言葉がつかわれているんですね。

 

不思議なことですね。

 

今日の場面は、イエス様の弟子はいないのに、そこにいる人たちがまるでイエス様の弟子であるかのように書いているんです。

 

ということはこれは、今日の場面を見れば、イエス様の弟子とはどのようなものであるのかが分かるということでしょうか。

 

誰もイエス様の弟子ではありませんが、ある意味、この人々の姿は、弟子とは何かを現しているということでしょうか。

 

そうかもしれません。

 

キレネ人のシモンは十字架を背負ってイエス様についていきますね。

 

これはイエス様の言葉を思い出します。

 

923節にこういうイエス様の言葉がありました。

 

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 

キレネ人のシモンは無理やり十字架を背負わされただけですが、それは、実はイエス様の言葉の通りにすることだったんですね。

 

十字架を背負ってイエス様に従う。

 

それが、イエス様の弟子のすることなんです。

 

人間にはみんな、神に逆らう罪があって、そして、聖書は、罪に対する罰は死なんだと言います。

 

十字架を背負ってイエス様に従うというのは、自分が死ぬべき罪人であることを認めて、その上で、イエス様の後をついていく、ということですね。

 

イエス様についていくのにふさわしいのは、自分には罪がないと思っている人ではないんですね。

 

イエス様はそんなことを言わなかった。

 

自分に罪があるということを知っている人こそ、イエス様の弟子にふさわしいんです。

 

イエス様はそう言ったんです。

 

このキレネ人シモンという人の場合は無理やりそうさせられたんでした。

 

したくてしたわけではありません。

 

けれどもある意味、十字架を背負ってイエス様に従うその姿は、イエス様の弟子の姿なんですね。

 

そして、この人は、マルコによる福音書では、「アレクサンドロとルフォスとの父」であると書かれています。

 

どうしてそんなことを書くんでしょうか。

 

「アレクサンドロとルフォス」という人たちは、キリスト教会の中で良く知られた人たちだったということになりますね。

 

だから、この人が「アレクサンドロとルフォスとの父」だと書かれているんです。

 

「アレクサンドロとルフォス」という人たちは、有名なクリスチャンになったんです。

 

ということは、その父親であるキレネ人シモンも、後に、本当にイエス様に従うイエス様の弟子になったんじゃないでしょうか。

 

この人は今は無理やり十字架を背負わされて、イエス様の後をついていっているだけですが、後になって、本当にイエス様の弟子になったと思うんですね。

 

この人にとって十字架の道は最初、災いの道でした。

 

こんなことをさせられて大変な迷惑だと思ったはずです。

 

けれども、その十字架の道が、この人にとって、命の道、救いの道になっていったんですね。

 

十字架を背負ってイエス様に従うのは楽なことではありません。

 

けれどもその道は、命の道、救いの道なんですね。

 

では、「嘆き悲しむ婦人たち」はどうだったでしょうか。

 

イエス様はこの人たちに、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と呼びかけていますね。

 

この人たちは、それが良い行いをすることだと思って、嘆き悲しんでいるんですが、イエス様はその人たちに対して、「自分と自分の子供たちのために泣け」と言うんですね。

 

どうしてかと言うと、次の29節ですが、人々が「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るからです。

 

イスラエルの人たちにとって子どもを生んで育てることは神様の祝福でした。

 

けれども、そういう人の方が幸いだ、という日が来る、とイエス様は言うんですね。

 

どうしてでしょうか。

 

次の30節で、「人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める」と言われています。

 

山に向かって、我々の上に崩れ落ちてくれ、と言うのは、もう今すぐに死にたいということです。

 

丘に向かって、「我々を覆ってくれ」というのも、これはそういうふうにして自分たちを守ってくれということではなくて、もう今すぐに死にたいということです。

 

これは旧約聖書のホセア書108節からの引用なんですが、神様の裁きがくだると、人はみなそういうふうに思い始めるということです。

 

それくらい、神の裁きは厳しいんだということなんです。

 

ですから、今、イエス様は言っているんですね。

 

あなたがたは神の裁きを受ける。

 

そうなったら、子どもはいない方がいいと思うだろう。

 

そういうふうにイエス様は言っているんですね。

 

31節では、「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」と言われています。

 

「生の木」というのはそこに命があるわけですね。

 

これはイエス様のことを指しています。

 

けれども、イエス様も、このように苦しんでおられる。

 

だとしたら、「枯れた木」である、罪人であるあなたがたはいったいどうなるのだろうか。

 

どれくらいひどいことになるだろうか。

 

イエス様はそう言うんですね。

 

つまり、イエス様はここで、この女の人たちに対して、私のことを人ごとみたいに見て、嘆き悲しんでいるふりをするんじゃなくて、自分の罪に気づきなさいと言っているんですね。

 

自分の罪深さを嘆き悲しみなさいと言うんです。

 

そしてそれが、イエス様の弟子であるということですよね。

 

考えてみれば、イエス様は、悔い改めて神に立ち返りなさいという言葉で、伝道を始められました。

 

ですので、大事なのは、この女の人たちが嘆き悲しんでいるように、私たちも、まず自分の罪を嘆き悲しむことなんです。

 

そして、嘆き悲しみながらも、イエス様の後をついていくことなんです。

 

そうする時に、悲しみは悲しみでは終わらないんですね。

 

イエス様はこの後、十字架にかかってくださいます。

 

この場面まで、イエス様はずっと、人々の罪を何も言わずに引き受けてくださっていました。

 

そして、ご自分には罪がないのに十字架にかかってくださるんです。

 

私たちに代わって罰を受けてくださるんです。

 

ですから、私たちは十字架を背負ってイエス様に従いますが、私たちはその十字架にはかからないんですよね。

 

イエス様が私に代わって十字架につけられてくださるんです。

 

ですから、自分の罪を嘆き悲しみながら、自分の十字架を背負ってイエス様に従っていくというのは、自分が神様にゆるされていること、自分がもう救われていることを見つめていくことなんですね。

 

悲しみだけではないんですね。

 

大きな喜びがあります。

 

大きな安心があります。

 

それが十字架の道なんです。

 

そして、思い返してみると、イエス様は、1941節で、この町エルサレムに入る前に、イエス様はエルサレムのために泣いてくださっていました。

 

エルサレムの人々のことを思って泣いたんですね。

 

イエス様は先だって、泣いてくださる。

 

先だって、私たちのことをご自分のことのように思ってくださるんです。

 

そして、私たちのために、最後には命まで投げ出してくださる。

 

身代わりになってくださる。

 

それほどまでに私たちのことを愛してくださっているんです。

 

ただ、この時にはまだ誰も、イエス様が何をなさってくださるのかは分かっていませんでした。

 

弟子たちだって分かっていませんでした。

 

ですから、弟子たちはこの場面に姿を現しませんね。

 

十字架の救いは、地上ではイエス様だけが分かっておられたことです。

 

人間がこの時点でいくら考えても分からないことです。

 

これは神の知恵なんですね。

 

そして、神の力なんです。

 

人間には最初からできない方法なんです。

 

神の知恵、神の力、だからこそ、十字架は神の栄光だと聖書は言うんですね。

 

その考えもつかないような大きな力が、私たちを包んでいます。

 

ですから私たちはむしろ、喜んで泣いていいんですね。

 

考えられないようなことが起こったんですから。

 

私たち自身にですよ。

 

私たちは今、命の道に立っている。

 

イエス様に従っていきましょう。

 

イエス様から離れず、イエス様の後をついていきましょう。

 

自分の罪を悲しむことはあるでしょう。

 

けれども、考えられないような大きな喜びがそこにはあるのです。