今週の説教「十字架の王」(新約聖書・ルカによる福音書23章32節から38節)

【今週の予定】

✜3/5()牧師週休日

3/6()聖書を読む会(10:30-12:00)、韓国語講座(初級、13:00-14:00、中級14:00-15:30)、牧会事例研究会(みずほ台、16:00-17:30)

3/7()見積業者訪問(11:00-12:00)、見積業者訪問(14:00-15:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

3/8()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

✜3/9()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

3/11()学び会(9:00-10:00)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、埼玉西部地区伝道の集い(上福岡教会、14:30-16:30)、掃除 ※ゴスペル練習は休会となります。

 

🎤3/11()の説教:尾崎純牧師

聖書・新約聖書ルカによる福音書2339節から43

説教題「私を思い出してください」

賛美歌・14832383581857531165-12740-5

 

 

🎪5月までのイベント

311()14時半から16時半 埼玉西部地区伝道の集い(上福岡教会)

318()12時から15時半 中高生会(江古田教会)

321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

330()19時から20時 受難日礼拝

331()14時から16時 子どもイースター祝会

41()10時半から12時 イースター礼拝

●同日12時から15時 イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

415()12時から15時半 中高生会

422() 教会設立記念日

513() 母の日

520() バーベキュー(光が丘公園、兼中高生会)

 




「十字架の王」

 

ルカによる福音書2332節から38

 

32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 

 

 

 

 

とうとうイエス様が十字架につけられました。

 

場所は、「されこうべ」と呼ばれている場所ですね。

 

されこうべというのは頭の骨のことです。

 

そして、これはマルコによる福音書の方に書かれているんですが、されこうべのことをこの土地の人たちは「ゴルゴダ」と言ったんですね。

 

この「ゴルゴダ」がラテン語になりますと、私たちがゴスペル・スクールで歌っている賛美歌にあります「カルヴァリー」という言葉になります。

 

とにかくまあ、この場所はされこうべ、頭の骨、と呼ばれていました。

 

それは、見た感じそのように見える、丸い丘のようなところだったのかもしれませんし、人を死刑にする場所だったからそういう名前が付けられたのかもしれません。

 

いずれにせよ、何とも残酷なことですね。

 

イエス様はこういうふうに呼ばれている場所で十字架につけられるんです。

 

そして、本当にこの場所で命を落とすわけです。

 

十字架につけられたのはイエス様だけではありません。

 

イエス様が真ん中で、右にも左にも十字架につけられた人が一人ずついました。

 

三人が十字架につけられたわけですが、イエス様が真ん中です。

 

どうしてでしょうか。

 

イエス様の頭の上には、札が掲げられていました。

 

その札には、「ユダヤ人の王」と書かれていたんですね。

 

それだったら真ん中がふさわしいということでしょうね。

 

「ユダヤ人の王」というのは、イエス様を訴えた人たちが言っていたことでした。

 

このイエスという男は、自分が王であると言った。

 

そういうふうに言ってイエス様を訴えたんですね。

 

要するに、このイエスという男は、自分が王になって、この国をひっくり返そうとしているとんでもない人間だ、と訴えたわけです。

 

イエス様はそんなことを一度も言ったことはありません。

 

けれども、その訴えの通り、イエス様の頭の上に、この札が掲げられることになったんですね。

 

これはヨハネによる福音書の同じ場面を見てもらうと分かるのですが、ピラトが書かせたものです。

 

しかし、今日のページの上の段を見ますと分かりますけれども、ピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとしたんですね。

 

ピラトはイエス様に罪がないと考えていましたから、何とかしてイエス様を解放しようとしたんです。

 

けれども、人々は「十字架につけろ」と叫び続けました。

 

ピラトはその声に負けてしまったんですね。

 

そうなったことはピラトとしては納得がいかなかったことでしょう。

 

そこで、「ユダヤ人の王」と書いた札を掲げました。

 

これは、「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちに対する仕返しなんですね。

 

「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちにとっては、「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられることは納得がいかないことです。

 

この人たちはイエス様のことを憎んでいるわけですから、当然、イエス様が自分たちの王であるなんて認めません。

 

ヨハネによる福音書を見ますと、この時、ユダヤ人たちは、ピラトに対して、言葉を書きかえるように求めています。

 

「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書きかえるように求めたんですね。

 

自分でそう言っただけだと書いてくれと求めたわけです。

 

けれども、ピラトはその願いを聞き入れませんでした。

 

ピラトとしては、お前たちが勝手にやっていることだろう、という気持ちでしょうね。

 

ですので、自分の言うことを聞かなかったユダヤ人たちに対する仕返しのつもりで、「ユダヤ人の王」と書いたんです。

 

書きかえることはしなかったんです。

 

そう考えますと何とも残念な場面ですね。

 

ユダヤ人たちは嘘をついてイエス様を十字架につけた。

 

ピラトは嘘を叫ぶユダヤ人たちに負けてしまった。

 

でも納得がいかないのでユダヤ人たちに仕返しをした。

 

罪がまた別の罪を生み出しているような場面です。

 

どんどん間違った方向に向かっていくような、そんな場面なんです。

 

そんな中でイエス様は十字架につけられたんですが、ここでイエス様は何と言っていますか。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

イエス様は人々の赦しを祈ったんですね。

 

このイエス様の言葉はカッコに入れられていますけれども、これは、もともとの聖書にこの言葉があったかどうか分からないということです。

 

昔はコピー機がありませんでしたから、人の手で書き写して伝えていくんですけれども、人間のやることですから間違いが起こります。

 

もし、もともとの聖書が残っていれば、それを見て、正しいとか間違っていると決めることができますが、もともとのものは残っていませんから、人の手で書き写されたものを見比べて、多分これは正しい、とか、多分これは間違っている、とか判断することになります。

 

そういうことを専門に研究している学者がいまして、その人たちが、これはもともとの聖書にあったものなのかどうか分からないと考えたんですね。

 

あったのかなかったのか、どちらとも言えないということです。

 

けれども、今残っている書き写された聖書よりも、もう少し古い時代に書かれた手紙にこの言葉が出てきますので、やっぱりこれはイエス様の言葉であると考えていいと思うんですね。

 

まさに、イエス様のお気持ちを良く伝えてくれる言葉だと思うんです。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

自分が何をしているのか知らない、と言われています。

 

そうですね。

 

その通りです。

 

今日の場面までのところでも、自分が何をしているのか知らない人たちばかりでした。

 

ユダヤ人たちがイエス様を逮捕しに来た場面からしてそうですね。

 

イエス様を逮捕しに来た人たちは、武器を持って、大勢でやってきたんでした。

 

しかし、武器を持って大勢でやってくる必要があるでしょうか。

 

そこにいるのはイエス様と何人かの弟子たちだけです。

 

武器を持って大勢でやってくる必要はありません。

 

それなのに、そんなふうにしてやってくるのはこれは、イエス様の力を信じているということですよね。

 

イエス様には人間を超える力があると信じているんです。

 

だから、少ない数の人しかいないのに、武器を持って大勢でやってくるんです。

 

でもそれは、自分が何をしているのか分かっていないということですよね。

 

イエス様の力を信じているのに、イエス様を逮捕して殺してしまおうとしているんです。

 

そんなのおかしいですよね。

 

イエス様を逮捕しに来た人たちは、自分が何をしているのか知らないんです。

 

その場にいた裏切り者のユダはどうでしょうか。

 

ユダは、イエス様を逮捕しようとしている人たちに対して、これがイエス様だ、と示すしるしとして、イエス様に近づいてイエス様にキスをしようとしました。

 

キスというのは愛するしるしですね。

 

愛するしるしで裏切るんですね。

 

それってどうなんでしょうか。

 

もし、自分が正しいことをやっていると思うのなら、例えばですが、堂々と指さして、あの男がイエスだ、とでも言えばいいんじゃないですか。

 

それなのに、そうはしない。

 

これはイエス様がユダに対して言った言葉ですが、ユダは愛するしるしで裏切るんです。

 

自分のしていることが分かっていないんです。

 

その後、イエス様を逮捕した人たちは、イエス様をピラトのところに連れていって、嘘をついてイエス様を訴えます。

 

嘘をついて人を訴えることはしてはいけないと聖書に書いてあります。

 

それなのに、堂々とそうするんですね。

 

やっぱり、自分がしていることが分かっていないんです。

 

この人たちがやったことというのは、神の子を死刑にするということですから、もう一番重い罪ですね。

 

その罪に、誰も自分では気づいていない。

 

しかし、気づいてもよさそうなものなのに、どうして気づかないんでしょうか。

 

人間は自分の一番重い罪には自分で気づかないのかもしれません。

 

私たちの中にはいろいろな罪がありますが、重い罪ほど、私たちにとって当たり前のことだったり正しいことだと思い込んでしまっているのかもしれません。

 

考えてみると恐ろしいことですけれども、それはそうかもしれませんね。

 

私たちは人の罪にはよく気が付きますが、自分の罪にはなかなか気が付きません。

 

それは、そういうことなのではないかと思うんですね。

 

自分の罪は自分にとっては常識みたいになってしまっている。

 

ただ、ここで大事なことは、その私たちのためにイエス様が祈ってくださるということです。

 

分かっていなくてしたことだから、どうか赦してあげてください。

 

イエス様は私たちのためにそう祈ってくださっているんです。

 

そして、その私たちのためにイエス様は今日、代わりに罰を受けてくださっているんです。

 

私たちは自分の罪に自分では気が付きません。

 

その罪のためにイエス様は祈ってくださるし、代わりに罰を受けてくださる。

 

ただ、その罪は、自分では気づいていないとは言っても、神の子イエス様が十字架にかからなければいけないほど、重い罪なんだということですね。

 

このことは心にとめておきたいと思います。

 

そして、今日の場面で、イエス様の祈りの言葉を真剣に聞いた人は誰もいません。

 

人々は何をしていますか。

 

「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」と書かれていますね。

 

死刑にされる人の服はくじを引いて分け合っていいことになっていました。

 

この人たちはもう、イエス様の言葉なんてどうでもいいという感じでしょうね。

 

ただで服がもらえる。

 

この人たちは自分の利益を見つめているんです。

 

自分の利益ということになると、他に心が向かわない。

 

本当に勝手です。

 

他の人たちはどうでしょうか。

 

「民衆は立って見つめていた」と書かれていますね。

 

この人たちは、イエス様が死ぬところをこの目で確かめたいんです。

 

この人たちは、「十字架につけろ」と叫んだ人たちです。

 

どうしてそんなことを叫んだのかと言うと、この人たちは、イエス様が、ローマ帝国の支配から自分たちユダヤ人を解放してくれることを期待していたんですね。

 

イエス様は一度もそんなことをすると言ってはいません。

 

この人たちが勝手に期待していただけです。

 

勝手な期待を抱いていただけなのに、イエス様がローマ帝国に逮捕されると、期待外れだった、期待を裏切られたと思って、イエス様を憎むようになったんですね。

 

勝手な期待を裏切られて、憎むようになる。

 

本当に勝手です。

 

続いて、「議員たちも、あざ笑って言った」と書かれています。

 

この議員たちはユダヤ人の国会議員たちなんですが、この人たちは今までずっと、イエス様を殺すチャンスをうかがっていた人たちです。

 

そして、とうとう彼らの願いが実現しました。

 

この人たちは大喜びしてイエス様をあざ笑ったのです。

 

この人たちは今までずっと、議論してもイエス様にやっつけられていましたから、とうとうこれで仕返しをすることができたと喜んでいます。

 

復讐の喜びと言いますか、そういう感じですね。

 

しかし、イエス様が議論してこの人たちをやっつけたというのは、そもそも、この人たちの方からイエス様に突っかかってきたからです。

 

それなのに、仕返しすることができたと喜んでいるのは、どうでしょうか。

 

自分たちの方に原因があるのに、この人たちは勝手にイエス様を悪者にしてしまっているんですね。

 

本当にどの人も勝手な人たちです。

 

ですので、言うことも勝手なことですね。

 

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。

 

議員たちはそう言いました。

 

他人を救ったのだと言っていますね。

 

イエス様が神の力で人を救ってきたことをどこかで聞いていたんでしょうね。

 

それなのに、お前は自分を救えないのか、だったらお前は救い主ではない、偽物だ。

 

そういうふうに言っているんですね。

 

兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言います。

 

お前は王なんかじゃない、お前は偽物だ。

 

これはおそらく、この場にいた民衆も同じことを考えていたでしょうね。

 

期待を裏切られたんですから、あんなのは偽物だと思っていたはずです。

 

勝手な人たちが、みんなしてイエスは偽物だと言っています。

 

そして、勝手な人たちは、イエス様に対して同じことを言っていますね。

 

自分を救ってみろということです。

 

本当に勝手ですね。

 

イエス様は自分を救いに来たわけではありません。

 

しかし、もし私たちが、この時に、この場所にいたとしたら、この場面をどう考えるでしょうか。

 

目の前で十字架にかかっているんです。

 

このイエスという人には、それほどの力はなかったのではないかとは思わないでしょうか。

 

人を救えるほどの神の力を持っているのなら、まず自分を守れるはずだとは思わないでしょうか。

 

それが常識的な考え方だということにならないでしょうか。

 

やっぱりそういうふうに考えるということはあると思うんですね。

 

人を救えるくらいだったら、自分を救えるはずだ。

 

それくらいの力はあるはずじゃないのか。

 

それは非常識な考え方ではありませんよね。

 

例えば、今の日本では、それも東京では、たいていの駅前に塾とか予備校がありますよね。

 

塾とか予備校の先生になるために大切なのは、自分が良い大学を出ていることなんだそうです。

 

一般的な会社に入るよりも、塾とか予備校の先生になる方が、良い大学を出ているということが大事なんだそうです。

 

人を良い大学に入れるというんだったら、まず自分が良い大学を出ているはずだ、ということですよね。

 

その考え方は、誰も間違っているとは言えません。

 

けれどもそれは人間の常識ですね。

 

人間の考えなんです。

 

人間の考えに、神は収まらないんです。

 

むしろ、人間の頭の中に収まるんだったら、その程度のものは神ではないですよね。

 

そもそも、神が人になられた、ということを言っているのは聖書だけしか私は知りません。

 

神が人になられて、人の代わりに罰を受ける。

 

人の罪をすべて神が引き受けてくださる。

 

こんなのは人間の常識にはありません。

 

だから、この時には誰もわからなかったんです。

 

弟子たちもみんな、これはダメだと思って逃げ出してしまったんです。

 

イエス様が言ったとおりですね。

 

人間は「知らない」んです。

 

人間は神を知らないんです。

 

ただ、ここで聖書は大事なことを言っていますよね。

 

神を知らない人間が、人間の常識に従う時、神を殺すことになるんですね。

 

今日の場面、誰一人、自分が間違ったことをしているとは思っていませんよ。

 

常識に従っているつもりです。

 

常識に従っている人たちが、常識に従って、神の子を十字架につけたんですね。

 

そして、常識に従って、自分を救ってみろと言うんです。

 

でも、イエス様はご自分は救いません。

 

イエス様は今、何をしているでしょうか。

 

私たちのために救いの業を成してくださっているんですね。

 

それは何からの救いでしょうか。

 

罪からの救いです。

 

ローマ帝国からの救いではありません。

 

イエス様はもっと大きなことのために、私たちが神のもとで生きつづけるために、命を投げ出してくださっているんです。

 

人間が神に背を向けてしまう、自分の勝手で、自分の常識で、神を殺してしまう、そういう罪というものからの救いです。

 

罪に対する罰が死ですが、イエス様は、何も言わずに人々の罪を引き受けて、人々の代わりに罰を受けてくださっている。

 

罪と死からの救いです。

 

一番大きな救いです。

 

イエス様にしかできない救いです。

 

そのような、神の子イエス様にしかできないことを、人間の考えを超えた大きな救いの業を成してくださっているんですね。

 

今ここにいる私たちはそのことを知っています。

 

一番大事なこのことを知っています。

 

自分が何をしているのかも知らない私たちです。

 

でも、一番大事なことは確かに知っているんです。

 

イエス様が何に命をかけてくださったか、そのことを私たちは知っているんです。

 

ただ、一つのことだけは心にとめておきたいと思います。

 

イエス様が十字架にかかられたのは、私たちが、「知らない」からです。

 

私たちの知らないところ、自分では気づかないところに、イエス様を十字架につけるような大きな罪があるんです。

 

その罪に対する罰を受けてくださるためにイエス様は十字架にかかってくださったんです。

 

今日の場面に出てきた人たちは、神の子が自分たちの罪を引き受けて十字架にかかってくださっていることに気付いていません。

 

この人たちは結局、神を知らなかった。

 

神を自分の常識の中に落とし込んでしまっていた。

 

救い主というのなら、自分にとって都合の良い存在だろうとしか思っていなかった。

 

そして、私たちにも同じ罪があります。

 

気づいていない罪があります。

 

自分にとっては常識、自分にとっては当たり前になってしまっている罪があります。

 

その罪がイエス様を十字架につけるんです。

 

しかし、イエス様はその十字架にかかってくださいます。

 

罪の赦しの十字架は、私たちに気付かないところにも立っているんです。

 

私たちに気付かないところでも、イエス様は十字架にかかってくださっているんです。

 

そのことを知りたいと思います。

 

そうすれば私たちは、今までよりもほんの少し謙遜になることができると思うのです。

 

それが、私たちが神のもとで生きるということではないかと思うのです。