今週の説教「私を思い出してください」(ルカによる福音書23章39節から43節)

【今週の予定】

3/13()聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)、韓国語講座(初級、13:00-14:00、中級14:00-15:30)、劇団稽古(19:00-22:00)

✜3/14()聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準、19:30-20:30)

✜3/15()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

✜3/16()牧師週休日、それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

3/18()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(ハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、中高生会(江古田教会、12:00-15:00)、掃除(12:00-12:30)

 

 

🎤3/18()の説教:尾崎牧師

聖書・ルカによる福音書2344節から49

説教題「十字架の死」

賛美歌122323820830457529765-12940-5

 

📅5月までのイベント

318()12時から15時半 中高生会(江古田教会に参ります)

321(水・祝)、24()両日とも14時から15時 イースター・チャリティー演劇

330()19時から20時 受難日礼拝

331()14時から16時 子どもイースター祝会

41()10時半から12時 イースター礼拝

同日12時から15時 イースター祝会(一品持ち寄り愛餐会後、祝会)

415()12時から15時半 中高生会

422() 教会設立記念日

513() 母の日

519()10時から12時 子ども会

520() バーベキュー(光が丘公園、兼中高生会)

 




「私を思い出してください」

 

 

ルカによる福音書2339節から43

 

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

 

 

イエス様と一緒に二人の罪人が十字架につけられました。

 

三本の十字架がこの場所に立っています。

 

イエス様が真ん中で、右と左に犯罪人です。

 

そこで、片方の犯罪人がイエス様をののしります。

 

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。

 

お前はメシアだと言っていますが、もちろんこの人はこんなことを信じているわけではありません。

 

ただ、十字架につけられていることに不満があって、怒りがあって、関係のないイエス様に自分の不満と怒りをぶつけているんですね。

 

関係のない人に怒りをぶつけることを「八つ当たり」と言いますが、まさにそれですね。

 

八つ当たりです。

 

そして、この時のこの犯罪人の言葉ですが、このすぐ前の場面の、議員たちや兵士たちの言葉と同じなんですね。

 

そんなすごい力があるんだったら自分を救ってみろと言うんですね。

 

人を救えるなら自分を救えるはずだということですね。

 

それは人間の常識にはかなっていることなんですが、イエス様が今ここで自分を救ってしまうと、人は誰も救われなくなってしまいますね。

 

そのことを今までにもイエス様は語っておられたんですが、誰も理解することができなかったことでした。

 

理解できないので、自分の常識に従って勝手なことを言うんですね。

 

ただここで、この犯罪人は、議員たち兵士たちとは違うことも言っていますよね。

 

「我々を救ってみろ」と言っています。

 

この人は犯罪人なんですが、自分はこの状況から救われていいと思っているんですね。

 

死刑になるような罪を犯したわけではないと思っているということかもしれません。

 

けれどもこの人は実際に死刑になっているわけです。

 

とにかく何か、死刑に当たることをしたわけです。

 

それなのに、自分は救われていいと思っているんですね。

 

自分の罪を理解していないんです。

 

あるいは、自分が罪を犯したことは理解していても、罪に対する言い訳をしているのかもしれません。

 

人は罪を犯す時、いろいろ言い訳をすることがありますね。

 

一番多いのは、「あの人が悪い」という主張ですね。

 

あの人が悪いから、自分はこういうことをしたんだ、ということですね。

 

あるいは、「世の中が悪い」と主張する場合もありますね。

 

自分が罪を犯したのを世の中のせいにするわけです。

 

また別の場合には、「他に方法がなかった」と主張する場合もありますね。

 

あるいは、もっと深い言い訳としては、「生まれた環境が悪かった」と主張する場合があります。

 

それだと自分自身を否定していることにもなるわけですが、「生まれた環境が悪かった」と主張する人にはそういうつもりはありません。

 

単に、親きょうだいのせいにしているんですね。

 

とにかく、罪を犯す人はしばしば言い訳をします。

 

言い訳をするというか、言い訳を用意している。

 

用意しておいた言い訳に基づいて罪を犯すんです。

 

ですから、罪が裁かれることになっても、自分は救われていいんだと、この犯罪人は「我々を救ってみろ」と言うんですね。

 

しかし、もう一人の犯罪人はそうではありませんでした。

 

同じように死刑にされている犯罪人なんですが、まったく違う受け止め方をしたんですね。

 

41節でこんなことを言っています。

 

「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」。

 

今の自分の状況は罪の報いだと認めているんですね。

 

一人目の犯罪人は自分の罪というものを意識していなかったんです。

 

自分は救われていい人間だと思っていたんです。

 

けれども、二人目の犯罪人は自分の罪を意識しています。

 

そして、その罪は人に対する罪ではありません。

 

神に対する罪なんですね。

 

40節でこう言っていることから、それが分かります。

 

この人はこう言っていますね。

 

「神をも恐れないのか」。

 

この人は神を恐れているんです。

 

この人はどんな罪を犯して十字架につけられることになったんでしょうか。

 

それは、この場面だけからでは分かりません。

 

ただ、この人は一人目の犯罪人に、「我々」と呼びかけていますよね。

 

そして、一人目の犯罪人も、自分自身とこの人を指して、「我々」と言っていました。

 

ということは、この人たちは一緒になって罪を犯したのかもしれません。

 

そして、一人目の犯罪人には罪の意識がなかったんです。

 

ということは、この人たちは、悪いことをしたとは言っても、正しいことをしているつもりで犯罪をしたということなのかもしれません。

 

例えばなんですが、イエス様の代わりに釈放されたバラバという人がいましたね。

 

イエス様を釈放するか、バラバを釈放するかという話になった時、その場にいた人たちはみな、バラバを釈放することを求めました。

 

だとすると、このバラバという人は、ローマ帝国に対する反乱を起こしたということで逮捕された人だったのかもしれません。

 

自分たちの国を支配しているローマ帝国を打ち倒すために活動していたのが、バラバという人であった可能性があります。

 

そうなりますと、今十字架につけられている二人の犯罪人も、何かそういう、これは正しいと自分たちは考えていることを実行して、そして捕まってしまったということなのかもしれません。

 

だったらなおさら、言い訳できそうな話です。

 

けれども、この二人目の犯罪人は、言い訳しないんです。

 

神の前に立つんです。

 

そして、自分の罪を認めるんですね。

 

どうして、十字架の上みたいな場所で、この人は神に心を向けることができたんでしょうか。

 

40節の最後を見てください。

 

この人はこういうことを言っています。

 

「同じ刑罰を受けている」。

 

自分たちは、イエス様と同じ刑罰を受けている。

 

イエス様が、自分たちと、同じ刑罰を受けておられる。

 

それは、イエス様が罪を犯したからではありません。

 

41節でこの人は言っていますね。

 

「この方は何も悪いことをしていない」。

 

何も悪いことをしていない方が、罰を受けておられる。

 

どうしてこの人は、イエス様が何の罪もないのに十字架にかかることになったということを知っているのでしょうか。

 

それはこの人が、イエス様の横にいて、十字架の上でのイエス様の言葉を聞いていたからではないでしょうか。

 

34節でイエス様は祈りましたね。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

この人は、この言葉を聞いていたんだろうと思うんです。

 

この祈りの言葉は、罪を犯してしまった人にはできませんよね。

 

罪を犯していないのに、自分は十字架につけられる。

 

そのような状況で、自分を十字架につけた人たちのために、赦しを祈っているんです。

 

それも、神様のことを父と呼んで、神様に赦しを祈っているんです。

 

これを聞いたこの人は驚いたでしょうね。

 

神の子が、罪もないのに、十字架につけられている。

 

この人はものすごくストレートにイエス様の言葉を聞いたんですね。

 

ストレートに御言葉に聞いて、ストレートに罪を認めたんですね。

 

だからこそ、この人はイエス様にこのように言うことができます。

 

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。

 

罪を認めることは絶望ではないんですね。

 

罪を認めるのは、神の言葉を聞いたからです。

 

だからその時、その場所には、神がおられる。

 

だからこそ、赦しを求めることができます。

 

ましてこの人は、イエス様が罪を赦す方であることを知っています。

 

イエス様は十字架の上で、自分を十字架につける人のために罪の赦しを祈っておられました。

 

イエス様は、自分を十字架につける人間であっても、裁いたりはなさらないんです。

 

だからこそ言えるんですね。

 

「わたしを思い出してください」。

 

十字架にかかっている、このみじめなわたしのことも覚えていてください。

 

私も御国に、一緒に連れて行ってください。

 

この私は、裸で十字架にかかっているみじめな私です。

 

しかし、神の言葉をストレートに聞いて、罪を認めた私です。

 

そして、この人、本当に偉いです。

 

この人は、「十字架から降ろしてください」とはお願いしなかったんです。

 

この人が自分の罪を認めているからです。

 

ですので、罪に対する罰は当然のこととして受け入れているんです。

 

裁きを受け入れること。

 

それが自分の罪を認めるということです。

 

この人はその上で、本当の救いを求めたんですね。

 

その人に対して、イエス様は言います。

 

イエス様も、「十字架から降ろしてあげよう」とは言いませんね。

 

イエス様はこう言いました。

 

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

この人のストレートなお願いに対して、ストレートに答えてくださるんです。

 

ストレートに聞いて、きちんと罪を認めて、ストレートにお願いしたら、ストレートに返ってくるんです。

 

これが神と人間との関係だ、と聖書は言っているんですね。

 

ただこの時、二人目の犯罪人がお願いした言葉と、イエス様が答えた言葉は少し違っていますね。

 

犯罪人はこうお願いしました。

 

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。

 

イエス様が、イエス様の国、神の国に行く時には、私も一緒に連れて行ってください、という感じですよね。

 

この人は、神の国というのは行くものだと思っているんです。

 

ここではないどこかへ行くものだと思っているんですね。

 

でも、聖書にはそんな言い方は出てきません。

 

神の国は行くものではないんですね。

 

聖書では神の国は来るものなんですね。

 

神の国は向こうからこちらにやってくるものなんです。

 

ですので、この人がイエス様にお願いしていることは、言い方として間違えていることになります。

 

けれども、イエス様は約束してくださるんですね。

 

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

そう言ってくださいました。

 

楽園というのは旧約聖書の一番最初の『創世記』に出てくる、いわゆるエデンの園のイメージですね。

 

神と人が共にあるイメージです。

 

『創世記』の物語では、その後、人が罪に落ちて神と共にいられなくなってしまうんですが、今、イエス様は言います。

 

「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。

 

「わたしと一緒に」なんですね。

 

この犯罪人は、結局のところ、私を救ってくださいとお願いしているんですが、救いというのは、天国というようなどこにあるのか分からない所に行くことではないんですね。

 

救いというのは、イエス・キリストと共にいるということなんです。

 

神と人が共にある。

 

それが救いなんです。

 

そして、今日何度も出てきたこの「犯罪人」という言葉は、原文では「悪いことをした人」という言葉です。

 

単に、「悪いことをした人」という言葉です。

 

私たちの中に誰か、悪いことをしたことのない人がいますか。

 

私たち皆、この人に当てはまるんです。

 

犯罪人は二人いましたね。

 

二人とも、私たちなんです。

 

私たちも一人目の人も、自分は正しいと思っている。

 

罰を受けることに不満があります。

 

怒りがあります。

 

言い訳をすることがあります。

 

八つ当たりをすることがあります。

 

自分は救われていいと思っている。

 

つまり、自分の罪を理解していない。

 

聖書は私たちに、そう言っています。

 

ただ、二人目の人は、神の言葉を聞いたんですね。

 

それも、ストレートに聞いた。

 

だからその時、神が罪を赦す方であることを知った。

 

そして、自分の罪を認めた。

 

その上で、赦しを願った。

 

この二人目も私たちです。

 

私たちもこの人と同じだったから、洗礼を受けてクリスチャンになったんですね。

 

神の言葉をストレートに聞いて、きちんと罪を認めて、ストレートにお願いしたら、ストレートに返ってくる。

 

神が私たちと共にいてくださるようになる。

 

イエス様はストレートに答えてくださるんですね。

 

私たちはそれを信じたんです。

 

この二人目の人は一人目の人と大きな違いはありません。

 

この人は特別に立派な人だったわけではないでしょう。

 

熱心に求めていたから救われたということでもありません。

 

もともと、自分の罪を悔いていたわけでもありません。

 

ただ、神の言葉を聞いたかどうかの違いです。

 

だからこそ、こう言うことができますね。

 

この二人目の人に起ったことは誰にでも起こるんです。

 

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

そう言っていただけるようになるようにと、招かれているんです。

 

神の言葉に真っすぐに聞きましょう。

 

その時、私たちは自分の罪を知ることになります。

 

ただ、私たちがまっすぐに聞いているのなら、私たちは、罪に対する罰を当然のこととして受け入れることができます。

 

そして、イエス様に願うことができます。

 

罰からの救いではない、本当の救いを願うことができます。

 

本当の救い、それは、イエス様が共にいてくださることです。

 

神が共にいてくださることです。

 

私たちは、大きな不満を感じることがあります。

 

大きな怒りを感じることもあります。

 

その時、言い訳をすることもあれば、八つ当たりをすることもあります。

 

けれども、そんな、もう人間の目にどうしようもないような状況でも、イエス様は私たちに神の言葉を聞かせてくださいます。

 

今ここにおられる神の言葉に、真っすぐに向き合いましょう。

 

その時、救いの出来事が起こります。