
⛪今週の予定
✜3/26(月)埼玉西部地区教師会(川越教会、11:00-14:30)
✜3/27(火)聖書を読む会(新約聖書・ヨハネによる福音書、10:30-12:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)
✜3/28(水)聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準、19:30-20:30)
✜3/29(木)牧師週休日、コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜3/30(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、受難日礼拝(19:00-20:00)
✜3/31(土)子どもイースター祝会(14:00-16:00)
✜4/1(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、イースター礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、イースター祝会(13:00-15:30)、掃除
🎤4/1(日)の説教:尾崎牧師
説教題「復活の朝」
賛美歌・115、32、38、326、327、76、65-1、27、40-5
📅5月までのイベント
✜4月15日(日)ユース集会(12:00-15:00)
✜4月22日(日)教会設立記念日
✜5月13日(日)母の日
✜5月19日(土)子どもお楽しみ会(10:00-12:00)
✜5月20日(日)バーベキュー(光が丘公園、兼ユース集会、12:00-15:30)
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「試練の中で」
ルカによる福音書23章50節から56節
50さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、51同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。52この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、53遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。54その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。55イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、56家に帰って、香料と香油を準備した。
イエス・キリストは十字架で命を落としました。
この後、キリストの体はローマの兵隊たちによって、十字架で処刑された死刑囚のための共同の焼き場に投げ込まれることになります。
しかしここで、行動した人がいました。
ヨセフという議員ですね。
議員というのは国会議員のことです。
72人しかいない国会議員の一人なんです。
この人がどういう人であったのか、くわしいことは分かりません。
ただ、この人はおそらく大急ぎで、ピラトのところに行きました。
ピラトというのはローマ帝国から派遣されていた役人で、イスラエルを支配していた総責任者です。
ヨセフはその人のところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。
ここままではキリストの遺体は共同の焼き場に投げ込まれてしまうことになります。
そんなことはさせたくない。
きちんと、自分が葬ってあげたい。
きちんとしたお墓に入れてあげたい。
そういう思いで、このヨセフという人はピラトのところに行きました。
どうしてそこまでしようとするのでしょうか。
人間の目には、もう終わったことですね。
キリストは十字架にかけられて命を落としました。
普通に考えれば、もうこれ以上、何も起こらないんです。
ですけれどもこの人は、キリストの遺体を引き取って、お墓に納めてあげたいと願ったんです。
その理由は、一つには、今日の51節に書かれていますが、この人は国会議員であったのですが、「同僚の決議や行動には同意しなかった」ということがあるでしょうね。
同僚の国会議員たちはありもしない罪でキリストを訴えて、ピラトを動かして、キリストを死刑にさせました。
けれども、この人はそれに同意していなかったんです。
しかし、同意していなかったというのは微妙な言い方です。
はっきりと反対していたというわけではなさそうです。
実際、国会議員たちがキリストを裁いた場面がありましたけれども、22章の66節からのところですが、別にそこでヨセフが何か言ったということは書かれていないんですね。
心の中で同意はしていなかったけれども、はっきりと反対したわけでもなかったんです。
しかし、今、このヨセフがとっている行動はとても大胆です。
ピラトのところに行って、死体を渡してもらう。
そういうことをしますと、同僚である国会議員たちを敵に回すことになります。
みんなで集まって取り調べをして、死刑にしてやろうということになったのに、なんだあいつは、自分たちがやっていることに反対するのか、ということになってしまいます。
敵に回してしまうのは同僚たちだけではないですね。
民衆もキリストを死刑にすることに賛成していましたから、この人は民衆も敵に回してしまうことになります。
議員にとって民衆を敵に回すことほど大変なことはありません。
議員というのは民衆から人気がある限りで、議員として働くことができます。
民衆が敵になってしまったら、もう議員としては務まらないということになってしまいます。
だからキリストを殺してしまおうと考えていた議員たちは、自分たちの人気がなくならないように、自分たちの手でキリストを死刑にするのではなく、キリストはローマ帝国に逆らったんだと嘘をついて、ローマ帝国に死刑にさせたんでした。
それくらい、議員というのは民衆をある意味、恐れるものです。
いつの時代でも議員というのはそうなんですね。
まして、十字架というのはローマ帝国の死刑の方法なんですが、ユダヤの人たちは、十字架で死刑にされた人は呪われていると考えました。
十字架で殺された人は特別に呪われていると考えたんですね。
どうしてかと言いますと、旧約聖書に、「木にかけられた死体は呪われている」という言葉があるからです。
しかし、このヨセフはその死体を渡してくれるように願い出たんです。
そうなりますと、ヨセフはその死体に触ることになります。
呪われたものに触ることになります。
そうなりますと、なおさら、同僚の議員たちや民衆は、ヨセフをどのように見るでしょうか。
ヨセフはもうここで、議員を辞めるつもりです。
議員を辞めてでも、キリストの遺体をきちんと葬ってあげたい。
ヨセフはそういう気持ちなんですね。
ヨセフはピラトに願い出て、ピラトに許可してもらいました。
ピラトはもともとキリストを死刑にすることに反対でしたから、特別にそうすることを許したんでしょう。
ただ、反対だったとは言っても、ピラトも民衆を恐れる政治家ですから、十字架に付けろという民衆の声に反対しきれなくて、キリストを十字架に付けることを許してしまったんですね。
とにかく、ヨセフはキリストの遺体を十字架から降ろして布で包みます。
そして、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めました。
ヨセフはキリストをきちんと葬ったのです。
ここで、キリストの遺体を納めたのは、まだ誰も葬られたことのないお墓だったと書かれていますけれども、これはどういうことなのかと言うと、お墓は一人で一つではなかったんですね。
大きな岩に横穴を掘って、そこに遺体を納めるんですが、お墓の中はある程度広くて、遺体がいくつも入るようになっていました。
そして、このお墓には、まだ誰も葬られていなかったということですね。
まだ新しいお墓だったんです。
これはどうしてかと言いますと、マルコによる福音書に書かれていることなんですが、このお墓は、ヨセフが自分のお墓にするために自分で買ったお墓だったからなんですね。
今も昔も生きているうちにお墓を買っておくという人はいるわけですけれども、ヨセフは、自分のために買っておいたお墓に、キリストの遺体を納めたんです。
ヨセフはどんな考えでそうしたのでしょうか。
お墓というのは普通、自分と家族が入るものです。
ヨセフにとってキリストは家族ではありません。
しかしどうして、まるで家族のように扱うのでしょうか。
この人は同僚の決議や行動には同意しなかった人です。
キリストを死刑にするのに心の中では反対していた人です。
けれどもこの人は、キリストを死刑にさせないために、何か具体的に強い行動をとった人ではなかったんです。
その人がどうしてそこまでするんでしょうか。
51節の最後のところに、この人は「神の国を待ち望んでいた」と書かれていますね。
この人は神の国を待ち望んでいた人だったんです。
「神の国」という言葉は、「神の支配」とも訳すことができる言葉です。
聖書は、この世は罪に支配されていると言います。
罪というのは神に背くことですね。
ただ、聖書は、いつかその罪の支配から解放されて、神の支配が実現すると約束しています。
このヨセフという人は、そうなることを願っていた人なんですね。
この人は、人が罪に支配されているのが終わって、神の支配が実現することを待ち望んでいたんです。
これはキリストが生きていた時に言っていたことでもあります。
キリストは、自分が来たことで、神の支配が始まったんだと言っておられました。
しかし、そのキリストは死んでしまったわけです。
ではどうしてヨセフは、今になって、キリストのお世話をしようとするのでしょうか。
おそらくこの人は、キリストが息を引き取る場面を見ていたんだろうと思いますね。
キリストが息を引き取った時、どういうことがその場所で起こったでしょうか。
このページの上の段の22章の47節ですが、百人隊長が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したんですね。
こんなことはありえないことです。
百人隊長というのはローマの兵隊で、キリストを十字架に付けた現場責任者です。
その人が神を賛美したんです。
賛美というのは神をほめたたえることです。
キリストを十字架に付けた人が、神をほめたたえているんです。
「本当に、この人は正しい人だった」と言っていますけれども、だとしたら、正しい人を殺してしまったこの人が、どうして神をほめたたえるんでしょうか。
ここに救いの出来事が起こっているんですね。
キリストを殺してしまった人にも救いはある。
そうなるともう、賛美するしかありませんね。
神の支配は、人を救うものなんです。
だから人は、自分がどうであれ、神を賛美する。
人間の目には救われるはずのないような人でも、神は救う。
人はもう、神を賛美するしかない。
それがその場面だったということです。
48節で、見物に集まっていた群衆も、胸を打ちながら帰っていきますね。
胸を打つというのは悲しみを表すジェスチャーです。
この人たちは、キリストを十字架に付けろと叫んだ人たちだったのに、ここで悔い改めているんです。
これもありえないことですね。
この人たちは、キリストを十字架に付けろと叫んだ人たちです。
そして、キリストが死ぬのをこの目で確かめてやろうと思ってこの場所にいた人たちです。
それなのに、悔い改めているんです。
悔い改めるというのは、神に立ち返るということです。
罪から離れて、神に立ち返ったということです。
ということはやっぱりこの人たちにも神の支配が及んでいるということですね。
人間の目にはこの人たちも救われるはずのないような人たちです。
けれども、神の力が及ぶと、人は変えられる。
神に立ち返る。
聖書はそう言うんですね。
ヨセフという議員は、この場面を見ていたんじゃないでしょうか。
だから、神の支配を待ち望んでいたこの人は、キリストを自分の墓に納めたのではないでしょうか。
キリストはもう何も語りません。
キリストはもう死んでしまったんです。
ですけれども、自分は確かに神の国の始まりを見た。
だからこの人は議員を辞めてもいいというつもりで、こういう行動に出たんですね。
議員ということは、人の支配です。
この人は人の支配に仕えていた。
けれども、神の支配を見た。
人の罪を超えて、人の罪をゆるす、人の心を変える、神の支配の力強さを見たんです。
キリストはもう動きません。
話をすることもありません。
けれども、十字架の場面に神の国の始まりを見出した人が、動いています。
十字架の救いの出来事に動かされている。
そしてそれは、弟子たちではありません。
弟子たちは、キリストが逮捕されると逃げ出しました。
十字架の場面にも姿を現しません。
ただ、十字架を見届けていたヨセフが動いています。
弟子たちは姿を消しましたが、十字架の出来事を見ていたヨセフは最前線に飛び出したんです。
神の支配は、人を動かしていくんですね。
何気なく書かれていますけれども、ヨセフがしたことは大変なことです。
議員にまでなった人が、議員を辞めてでも、できることを精一杯しようとしている。
たとえ人間の目にすべてが終わったかのように見えるところでも、神の支配は人を動かします。
動かされたのはヨセフだけではありませんね。
イエス様に従っていた婦人たちです。
男性の弟子は全員逃げ出したんですが、女性たちはヨセフについて行きます。
この女性たちは、上の段の最後の23章49節ですね、遠くに立ってということではありましたけれども、十字架の場面を見ていた人たちでした。
十字架の前に立つ人は動かされるんですね。
愛の働きに向けて動かされるんです。
ヨセフは自分の墓にキリストの遺体を納めました。
愛の働きですね。
婦人たちは今日の場面では、キリストの遺体が墓に納められたのを見ただけですが、家に帰って香料と香油を準備します。
これは、キリストの遺体に塗るためのものです。
遺体には香料と香油をぬって、それできちんと葬ったことになるわけです。
ヨセフはそれをしなかったわけですが、これは手抜きをしたということではないでしょう。
ヨセフには時間がなかったんですね。
十字架でキリストが死んだのは午後3時です。
今日の54節に、「安息日が始まろうとしていた」と書かれていますけれども、ユダヤでは日が沈むと一日が終わって、新しい一日が始まります。
ちょうど今の時期のことですから、日が沈むのは午後6時くらいでしょうか。
午後6時くらいからは次の日で、その日は安息日です。
安息日には仕事をしませんから、遺体を葬るという仕事は、6時までに終えなくてはなりません。
それまでにヨセフは急いでピラトのところに行って、許可をもらって、十字架の場所に戻って、遺体を布で包んで、お墓に運んで、遺体をお墓に納めなくてはなりません。
こうなりますと、香料と香油を準備する時間はなさそうです。
ただ、キリストの遺体をお墓に納めるのを見ていた婦人たちが、香料と香油を遺体にぬっていないことに気付いて、家に帰って香料と香油を準備したんですね。
ですので婦人たちがしたこともヨセフがしたことと同じですね。
愛の働きなんです。
十字架に救いを見た人は、愛の働き、キリストへの奉仕へと動かされていくんですね。
ただ、ヨセフの働きも婦人たちの働きも、もうあまり意味がないものであるとも言えます。
人間の目で見るなら、あまり意味のあるものではありませんよね。
もうキリストが死んでしまった後でどうするか、ということですから、それをしてもしなくても、大きな違いはなさそうなものです。
人間の目で見たらそうなんです。
ヨセフも婦人たちも、自分たちが何か大きなことをしているとは思っていなかったでしょう。
けれども、この人たちのしたこと、これからしようとしていることは、大きな働きになっていきます。
キリストはこれから復活しますが、もしヨセフが遺体を自分の墓に納めなかったとしたらどうでしょうか。
その場合、キリストの遺体は死刑囚の共同の焼き場で焼かれて捨てられることになります。
そうなりますと、キリストが復活したとしても、復活の証拠がなくなってしまいます。
この後、キリストが人々の前に現れたとしても、それを見た人々は、十字架で死んだのはキリストではなく別の人だったと思うことでしょう。
ヨセフがキリストの遺体を引き取って墓に納めてくれたからこそ、キリストは復活したと証言することができます。
そして、ヨセフがキリストをきちんとお墓に納めてくれて、婦人たちがそれを見ていて、婦人たちが後から香料と香油をキリストの体に塗るためにそのお墓に行ったから、その時、婦人たちはキリストの遺体がなくなっていることを発見できたんですね。
第一発見者になることができた。
ですので、キリストの復活を証言するためには、このヨセフの働きと婦人たちの働きはどうしても必要なものだったんです。
ヨセフと婦人たちがいなかったら、後になってキリストが人々の前に現れたとしても、もう誰も相手にしませんね。
ですから、ヨセフも婦人たちも、自分では考えもしなかったような大事な働きをすることになったわけです。
ですから、こう言うことができます。
十字架の救いを見て、愛の働き、キリストへの奉仕をするようになった人は、考えもしなかったような大きな働きをすることになるんですね。
たとえ自分ではそう思っていなくても、自分では、もう自分にはこれくらいのことしかできないと思っていたとしても、それが人の目に、本当にどうでもいいような働きにしか見えないとしても、人が神の救いの業、神の支配に仕える時、その働きはなくてはならない大事な働きになるんですね。
私たちがやっているのもそういうことなんです。
私たちはこの教会で、この十字架の前で、礼拝をささげて、教会の中でキリストに仕えます。
教会の中だけでなく、教会の外でも愛の業を行っていきます。
そうする時、その私たちの働きは、たとえ人の目には小さい働きにしか見えなくても、神様に大きく用いられるんです。
私たちがしているのは、そういうことなんです。
私たちの小さな働きを、神様は大きく用いてくださいます。
ですので、あきらめずに、できる範囲で、愛の働きをしていきましょう。
私たちには不完全な働きしかできないかもしれません。
でも、それでいいんですね。
今日、ヨセフも不完全な働きしかできませんでした。
遺体を墓に納めましたが、遺体に香油と香料をぬることはできなかったんです。
でも、そのことも用いられるんですね。
ヨセフが不完全な働きしかできなかったから、後から婦人たちがお墓に行くことになりました。
そしてその婦人たちが復活の発見者になったんです。
不完全な働きでもいいんです。
神様は必ず、私たちの働きを大きく用いてくださいます。
私たちは今日、その約束の御言葉を聞いたのです。