今週の説教「復活の朝」(新約聖書・ルカによる福音書23章56節後半から24章12節)

⛪今週の予定

4/2()牧師週休日、劇団稽古(犬山教会での上演のため、19:00-22:00)

4/3()聖書を読む会(新約聖書・ヨハネによる福音書、10:30-12:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)

4/4()牧会事例研究会(16:00-17:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター信仰基準、19:30-20:30)

4/6()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、第1回東部中会定期会(横浜中央教会、10:00-7日〔土〕15:00)

4/9()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、小会(13:00-15:30)、掃除

 

🎤4/8()の説教:尾崎牧師

聖書・ルカによる福音書2413節から35

説教題「悲しみの旅が」

賛美歌・1203238657532532765-12940-5

 

📅6月までのイベント

415()ユース集会(12:00-15:00)

422()教会設立記念日

512()子どもお楽しみ会(14:00-16:00)

513()母の日

520()バーベキュー(光が丘公園、兼ユース集会、12:00-15:30)

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()大会役員修養会(14[]まで)

617()父の日・ユース集会

 


「復活の朝」

 

ルカによる福音書2356節後半から2412

 

56婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

 

1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 

 

 

 

 

婦人たちは安息日の土曜日には休んだと書かれています。

 

安息日というのは仕事を休んで心を神様に向ける日ですが、その通りにしたということですね。

 

しかし、安息日というのはもともとそういう日ですので、わざわざそんなことをここに書かなくても良いわけです。

 

そんなことをわざわざ書いているのは、婦人たちにはしたかったことがあるからです。

 

次の日、日曜日に、婦人たちは香料を持って墓に行きます。

 

イエス様の墓です。

 

婦人たちはイエス様の体に香料をぬってあげたかったんですね。

 

遺体に香料をぬるというのが、この時代のお葬式の仕方でした。

 

イエス様はもうすでに、金曜日に、十字架から降ろされてお墓に入れられていたんですが、遺体に香料をぬる時間がなかったんですね。

 

イエス様が十字架で命を落としたのは午後3時のことです。

 

今日の場面の直前の場面ですが、その後、ヨセフという人がイエス様の遺体を引き取る許可をもらって、ヨセフはそれから十字架の場所に戻ってイエス様の遺体を降ろして、布でくるんで、お墓まで運んで、お墓の中に入れたわけですが、ヨセフはこの仕事を午後6時までにしなければならなかったんですね。

 

この場面はちょうど今の季節のことですから、午後6時くらいになると日が沈みます。

 

そして、この地方では日が沈んだら一日が終わって、新しい一日が始まります。

 

つまり、日が沈んだら新しい日になって、土曜日、安息日になってしまうんです。

 

安息日には仕事はしてはいけませんから、ヨセフは6時までに、とにかくイエス様の遺体をお墓の中に入れなければならなかったんです。

 

ヨセフには香料を持ってきて、遺体に香料をぬる時間はなかったのでしょう。

 

しかし、イエス様にずっと従ってきた婦人たちは、イエス様を墓に納める様子を見ていました。

 

それで、安息日が終わったらイエス様のお体に香油をぬってさしあげようと考えて、香油を準備したのです。

 

けれども、安息日の間にそういう仕事をすることはできません。

 

婦人たちも安息日には休みました。

 

その日、婦人たちはどんな気持ちで過ごしたでしょうか。

 

何しろ、自分がずっと従ってきたイエス様が死んだのです。

 

もう自分がイエス様のためにできることは何もありません。

 

それこそ、遺体に香料をぬってあげることくらいしか、できることはないのです。

 

そして、遺体に香料をぬってあげたとしても、イエス様が死んだことに変わりはないのです。

 

婦人たちはこの日、自分の力のなさを一日中悲しんでいたのではないかと思います。

 

そんな一日が終わって、朝になりました。

 

婦人たちは朝早くにお墓に向かいます。

 

もう何の希望もなくなってしまいましたが、これだけはできる、ということをするために、朝早くにお墓に向かいました。

 

しかし、お墓にはイエス様の遺体が見当たりません。

 

その時の婦人たちの気持ちはどんなだったでしょうか。

 

もうこれだけしかできることがない。

 

でも、できることをしてさしあげたい。

 

そんな思いでお墓にやってきたのに、イエス様の遺体がなくなっているのです。

 

この時、婦人たちは絶望に突き落とされた気分だったのではないかと思います。

 

婦人たちは「途方に暮れてい」たと書かれていますが、もう本当に何もできることがなくなって、ただただ下を向いて立っていたのでしょう。

 

これがイースターの朝でした。

 

イースターの朝は、自分には何もできることがないと思わせられる朝だったのです。

 

喜びにあふれる朝ではありません。

 

自分にできることが何もなくなって、下を向いてしまうしかない朝だったのです。

 

しかしそこに、輝く衣を着た人が現れました。

 

これは天使ということでしょうね。

 

神様からの使いです。

 

天使は語りかけました。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。

 

復活の知らせです。

 

復活なさったんだから、もうお墓の中にはいないんだと知らされたのです。

 

ここで婦人たちは大喜びしても良かったはずです。

 

ですが、婦人たちはそういう反応をしなかったようです。

 

ですので、天使は話しつづけます。

 

「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

 

これは以前にイエス様が予告しておられたことですね。

 

イエス様はご自分が十字架にかけられることと、その後に復活することを前々から予告しておられました。

 

それも、イエス様はそのことを三度も予告しておられたんですね。

 

それを聞いて、婦人たちはイエス様の言葉を思い出したと書かれています。

 

しかし、これは不思議です。

 

自分がずっと従っているイエス様が殺されて、その後で復活するなんていうのは、大変な話です。

 

イエス様でなくても、誰かがそんな話をしたとしたら、そんな話、簡単に忘れられるはずはありません。

 

けれども、婦人たちはここで思い出したと書かれているんですね。

 

逆に言うと、今までは忘れていたということです。

 

こんな大変な話を、忘れようとしても忘れられないような話を、今まで完全に忘れていたんです。

 

どうして忘れてしまうんでしょうか。

 

実はこれには理由があります。

 

イエス様は前々から、ご自分が十字架にかかること、それから、復活することを予告しておられましたが、その場面を読みますと、弟子たちは理解できないようにされたということがそこに書かれているんですね。

 

つまり、イエス様は予告はしました。

 

予告はしましたが、弟子たちはそのことを理解できないようにされていたんです。

 

ですので、こんな大事な話を忘れてしまっていたんでしょうね。

 

聞いた時にはとんでもない話だとは思ったでしょうけれども、何だか良く分からない話ですので、しっかりと頭の中に残ってはいなかったんです。

 

イエス様が弟子たちにそのことを理解できないようにされたのは、弟子たちがそのことを理解してしまうと、弟子たちが何とかしてイエス様を守ろうとするからでしょうね。

 

それは当然のことです。

 

自分がずっと従ってきたイエス様が殺されるなんてことがあるとするなら、弟子は当然何とかしようとします。

 

けれども、イエス様は、人間に対する神様の怒りをご自分一人で引き受ける覚悟です。

 

人間が罪を犯している、つまり、神に背いている。

 

その人間に対する裁きをイエス様はご自分一人で引き受けます。

 

私が罰を受けますから、命を投げ出しますから、神様、どうか罪人たちをゆるしてやってください。

 

イエス様はそういうおつもりです。

 

そこでもし弟子がイエス様を守ろうとするなら、それはイエス様のじゃまをすることになります。

 

ですので、これからご自分が十字架にかかるということを弟子たちに理解させてはいけなかったんです。

 

それだったら最初から何も言わなければ良かったのかもしれませんが、前もって言っていなかったら、弟子たちは、イエス様が復活したとしても、あの時十字架にかけられたのは実はイエス様ではなかったのではないか、他の人が十字架にかけられたのではないかと考えるでしょう。

復活なんていうことを普通に信じろという方が無理です。

 

前もって復活するということを言われていたからこそ、後になって弟子たちは、復活ということを信じたのです。

 

後になって弟子たちは、そういうふうに自分たちがイエス様に配慮されていたことが分かったでしょうね。

 

イエス様は弟子たちのためにそこまでのことを前もって考えてくださるんですね。

 

復活なんていうことはそんなに簡単に受け入れられることではありませんから。

 

婦人たちもそうでした。

 

婦人たちは天使の話を聞いて思い出したわけですが、思い出したのなら大喜びしてもよさそうなものです。

 

ですが、喜んでいません。

 

どうしてそれが分かるのかと言いますと、「墓から帰って、十一人の弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせた」と書かれていますけれども、これは喜んではいなかったということです。

 

「一部始終を知らせた」と書かれていますが、それは、最初から最後まで、全部説明したということです。

 

お墓に行ったら、お墓をふさいでいた石が転がしてあって、天使が現れて、こういう話をした、と、一から十まで全部を説明したのです。

 

もし喜んでいたら、そんな話し方はしません。

 

大喜びで、「イエス様が復活しました。前から言っておられた通りです」と叫ぶんじゃないでしょうか。

 

そうはならなかったんですね。

 

自分が見たこと聞いたことを信じていいのか分からない。

 

だから、最初から最後まで説明するんです。

 

これが人間なんですね。

 

神の言葉よりも、自分の常識を大事にしてしまう。

 

自分の常識と違うものを受け入れることがなかなかできない。

 

それは、婦人たちから話を聞いた弟子たちも同じでした。

 

弟子たちにはこの婦人たちの話が「たわ言のように思われた」んですね。

 

まったくばかばかしい話だとしか思えなかったんです。

 

婦人たちから話を聞いた時、弟子たちも、イエス様から言われていたことを思い出していたはずです。

 

けれども、まったく信じることができないんです。

 

面白いことに、ここのところで弟子たちのことが「使徒たち」と書かれていますね。

 

使徒というのは原文では「遣わされた者」という言葉です。

 

イエス様によって、いろいろなところに遣わされていく者。

 

それが使徒です。

 

実際、弟子たちは、後になって世界中に出かけていって、世界中に教会を建て上げていくんですね。

 

けれども、この時には、弟子たちは、こうだったんです。

 

イエス様から前もって話を聞いていたのに、復活したという話を聞いても、まったく受け入れられなかったんです。

 

けれどもここで、ペトロが走り出しました。

 

走ってお墓に向かいました。

 

そして、お墓の中をのぞくと、イエス様の遺体を包んでいた布がありました。

 

布しかなかったのです。

 

イエス様はおられなかったのです。

 

ペトロは驚きました。

 

しかし、驚いたということはどういうことでしょうか。

 

そもそも、ペトロが墓に向かって走っていったというのはどういうことでしょうか。

 

ペトロは婦人たちから話を聞いています。

 

婦人たちは最初から最後まで全部、話をしました。

 

ということは、天使たちがした話も、全部、婦人たちが伝えてくれたはずです。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」。

 

この天使の言葉をペトロは聞いていたはずです。

 

それなのにどうしてペトロはお墓に行こうとするんでしょうか。

 

イエス様を探すというのなら、どこか他の場所に探しに行くべきです。

 

それなのにお墓に行こうとするのは、ペトロとしては、婦人たちの話が本当かどうか確かめたかったからです。

 

ということは、イエス様が復活したということを心から信じていたというわけでもなかったのです。

 

だからこそ、実際に婦人たちが言ったとおりだと知って、驚いているのです。

 

もしペトロが婦人たちの話を信じていたのなら、驚きません。

 

驚くよりも喜ぶはずです。

 

と言いますか、婦人たちの話を信じていたのなら、そもそも、お墓には行きません。

 

どこか別の場所にイエス様を探すでしょう。

 

しかし、ペトロは走ってお墓に向かったのです。

 

どうしてペトロはここでお墓に向かって走り出したんでしょうか。

 

ペトロは婦人たちの話を信じていたわけではありません。

 

けれども、ペトロは、どうしてもイエス様に会いたかったんです。

 

三日前、イエス様が逮捕された時、ペトロは、引かれていくイエス様の後を遠く離れてついて行きました。

 

そして、裁判が行われる場所にもぐりこみます。

 

しかし、その場所でペトロは、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子ではないかと言われて、それを否定してしまうんですね。

 

三度も、自分はイエスの弟子ではないと言ってしまうんです。

 

その時、イエス様は振り返ってペトロを見つめました。

 

ペトロが三度、イエス様の弟子であることを否定してしまうことを、イエス様は前もって予告しておられました。

 

その通りになったんですね。

 

イエス様に見つめられた時、その時になってペトロはイエス様から前もって予告されていたことを思い出しました。

 

そして、外に出て、激しく泣きました。

 

そのことがあった後、今日の場面まで、ペトロは姿を現しません。

 

ペトロは自分自身に絶望して何もできなくなっていたのでしょう。

 

落ち込んでしまって、家の中にずっといて、食事も満足にしていなかったのではないでしょうか。

 

何しろペトロはイエス様に対して、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言していたのです。

 

それなのに、イエス様の弟子であることを三度も否定することになってしまったんです。

 

絶望して、死にたいくらいの気持ちだったのではないでしょうか。

 

普通に考えれば、ペトロはもう、イエス様に会う資格はありません。

 

それなのにどうして、ペトロは走り出したんでしょうか。

 

ペトロがイエス様の弟子であることを三度否定した時、イエス様は振り向いてペトロを見つめました。

 

そのイエス様のまなざしですね。

 

イエス様は怒ってペトロをにらみつけたんでしょうか。

 

そうではないでしょうね。

 

イエス様はそうなることを前もって分かっておられました。

 

その上で、ペトロをそばに置いていてくださったんです。

 

イエス様はそういう人間であるペトロを、前々から受け入れておられたんです。

 

イエス様のまなざしに、ペトロも、そのことが分かったんじゃないですか。

 

自分はこんな情けない人間だと初めて知った。

 

しかし、イエス様は自分のことを前々から知っておられた。

 

知った上で、自分をそばに置いていてくださっていた。

 

そうは言っても、ペトロは、取り返しのつかないことをしてしまいました。

 

その時には、ペトロは外に出て激しく泣きました。

 

絶望して、家の中に閉じこもりました。

 

けれども、ペトロの頭の中には、イエス様のあのまなざしがあったんだと思うんです。

 

自分のことをすべて知った上で受け入れてくれていた、あのまなざしが頭の中にあったんです。

 

だから、ペトロは、とにかく墓に向かって走り出しました。

 

婦人たちの話を信じていたわけではありません。

 

けれども、とにかくイエス様に会いたかった。

 

お墓でペトロは、婦人たちの話が本当だったと知ります。

 

そのことに驚きます。

 

喜びはしません。

 

イエス様を見捨てたペトロは、たとえイエス様が復活したとしても、大喜びというわけにはいきません。

 

ペトロはただ、家に帰ります。

 

イエス様を探そうとまではしません。

 

これがイースターの朝の出来事でした。

 

イースターの朝は、喜びの朝ではありません。

 

婦人たちにとっては、途方に暮れてしまって、自分には何もできることがないと思わせられる朝でした。

 

使徒たちにとっては、神の言葉よりも、自分の常識を大事にしてしまって、喜ぶことができなかった朝でした。

 

ペトロにとっては、確かめに行ったものの、喜ぶわけにもいかない朝でした。

 

イースターは、自分の力のなさを思い知らされる日なのです。

 

神の言葉を受け入れることができない日です。

 

自分の弱さから抜け出せない日です。

 

しかし、イエス様は、人間がそのような者であることを前もって分かっておられます。

 

その上で、行動してくださいます。

 

この後、イエス様の方から、弟子たちを訪ねてくださるのです。

 

そして、途方に暮れている弟子たちを再び立ち上がらせてくださる、復活させてくださるのです。

 

ですから大事なのは、イエス様が私たちのところに来てくださるということです。

 

そのことが決定的に大事なことです。

 

だから、教会では、毎週日曜日に礼拝をするのです。

 

私たちは、イエス様が復活なさったこの日曜日の朝、イエス様に向かい合う礼拝の時を持つのです。

 

イエス様に出会うためです。

 

途方に暮れることがある私たちです。

 

神の言葉よりも自分の常識を大事にしてしまう私たちです。

 

弱さから抜け出せない私たちです。

 

けれども、イエス様は、私たちのことを良く知っておられて、前もって考えてくださっています。

 

そして、一番良い時に私たちに出会ってくださいます。

 

それはいつになるでしょうか。

 

今、弟子たちにそのことが分からないように、私たちもそれがいつになるのかは分かりません。

 

ただ、イエス様は、一番ふさわしい時に私たちに出会ってくださって、ご自身が復活するだけでなく、私たちを再び立ち上がらせてくださるのです。

 

そのイエス様に信頼して、イエス様が来てくださるのを待ちましょう。