今週の説教「悲しみの旅が」(新約聖書・ルカによる福音書24章13節から27節)

⛪今週の予定

4/9()牧師研修(韓国、12日〔木〕まで)

4/10()韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)

4/12()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

4/13()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

4/15()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、ユース集会(12:00-15:00)、掃除

 

🎤4/15()の説教

聖書・ルカによる福音書2427節から35

説教題「イースターばえ」

賛美歌・165323822632957532665-12440-5

 

📅6月までのイベント

【教会】

422()教会設立記念日

512()子どもお楽しみ会(14:00-16:00)

513()母の日

520()バーベキュー(兼ユース集会、12:00-15:30)

617()父の日・ユース集会

【中・大会】

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()大会役員修養会(14[]まで)

 


「悲しみの旅が」

 

ルカによる福音書2413節から27

 

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 

 

 

 

先週はイースターでしたので、礼拝が終わった後、午後から、お祝いの会をいたしました。

 

クリスマスの時にやっているのと同じようなことをしたんですね。

 

34人のチームに分かれて、ゲーム大会みたいなことをやりました。

 

その最初に、チームの名前をチームごとに決めてもらったんですね。

 

チームの名前はイースターと関係がある名前にしてくれるようにお願いして、ご自分たちでチームの名前を付けていただきました。

 

そうしますと、若い人たちのチームの名前が素晴らしかったんですね。

 

「イースターばえ」という名前が出てきたんです。

 

「イースターばえ」、分かりますかね。

 

インスタばえ、イースターばえ、なんですね。

 

インスタばえ、というのは、インターネットにインスタグラムというのがありまして、写真のとって、それをのせて、みんなに見てもらう、というものなんですね。

 

それがインスタグラム。

 

で、みんなに見てもらうわけですから、良く見えるもの、見栄えがいいものをのせたいですよね。

 

ですのでみんな、インスタばえのするものをのせたい。

 

インスタグラムにのせた時にきれいに見える、見栄えのいいものをのせたいわけです。

 

要するに、そういう見栄えのいい写真のことをインスタばえと言うんだそうです。

 

この言葉、結構流行しているみたいですね。

 

あるスポーツ新聞が1面に大きな文字で、インスラばえ、と書いたことがありました。

 

野球のピッチャーのことを紹介する記事だったんですが、インコースに投げるスライダーという変化球のことをインスラ、というんですが、そのボールが素晴らしいので、インスラばえ、と書いたんですね。

 

まあとにかく、インスタばえ、という言葉からイースターばえ、という言葉につなげたのは素晴らしいですね。

 

若い人たちは言葉に敏感ですね。

 

ただ、世の中の言葉には流行がありますけれども、聖書の言葉は永遠に変わらない神様の約束の言葉です。

 

神様の言葉の実現を求めていく中に、イースターばえのする日がやってくるんじゃないかなと思います。

 

しかし、先週の場面も今日の場面も、なんだかイースターばえしないですね。

 

先週読んだところも、今週読んだところも、喜びというのはないわけなんですね。

 

二人の弟子たちがおかしな方向に歩きだしていきますね。

 

今までエルサレムという町にいたんですが、そこから離れていくんです。

 

エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かっていきます。

 

この村はこの二人がもともと住んでいた村なのかもしれません。

 

もう、イエス様が死んでしまって、すべて終わってしまったから、もう家に帰ろう、ということでしょうか。

 

とにかく、今までいたところから離れていきます。

 

イエス様から離れていきます。

 

17節に、この二人は暗い顔をしていたと書かれていますけれども、もう本当に悲しかったんでしょうね。

 

悲しくて悲しくて、勝手にあきらめてしまって、イエス様から離れていくんです。

 

悲しみが人を間違えさせるんですね。

 

ただ、この時弟子たちは、イエス様のことを完全にもう忘れてしまったのではありませんでした。

 

ずっと黙って二人で歩いていたのではなくて、イエス様の話をしていたんですね。

 

どういう話をしているのかと言うと、19節に、こういう話をしていたんですという話が出ていますけれども、要するに、イエス様という素晴らしい人がいたけれども、権力者たちに殺されてしまった、そして、お墓の中からイエス様の遺体がなくなってしまった、という話ですね。

 

こうなりますと、この二人は復活を信じているのかと思ってしまいますが、信じていたのではありません。

 

信じていたんだったら、エルサレムから離れていくことはありませんね。

 

15節に、この二人は「話し合い論じ合って」いたと書かれていますけれども、要するにこの二人は、これはこういうことではないか、あれはこう考えたらいいんじゃないか、と議論していたんですね。

 

イエス様が十字架につけられてしまったのは権力者が裏で仕組んだことなんじゃないか、とか。

 

お墓に行った婦人たちの前に天使が現れたというのは、イエス様が生きていてほしいという婦人たちの気持ちが強くて、それで、婦人たちはありもしないものを見たんじゃないか、とか。

 

お墓に遺体がなくなっていたのは、誰かが持ち出したんじゃないか、持ち出したとしたら、あの人じゃないか、とか。

 

そういう話をしていたんじゃないかなあと思いますね。

 

とにかく、議論をしていたとは言っても、元気に言葉をやり取りしていたわけではありませんね。

 

暗い顔で、暗い声で、ポツポツ話をしていたんじゃないかと思います。

 

もうこうなると、イエス様の弟子とは言えませんね。

 

いや、この二人にそんなことを言ったとしたら、先生が死んだのにどうしろって言うんだ、と怒られるかもしれませんけれども、この二人は、もう全部終わってしまったと思っているんです。

 

けれども、終わっていないんですね。

 

イエス様が終わらせないんです。

 

イエス様がこの二人に近づいてきます。

 

そして、一緒に歩きはじめます。

 

18節を見ますと、「エルサレムに滞在していながら」という言葉がありまして、イエス様もエルサレムの方から来たということのようですから、要するにイエス様はこの二人を後ろから追いかけてきたんですね。

 

イエス様は、勝手にあきらめた弟子たちを後ろから追いかけてきて、一緒に歩いてくださるんです。

 

けれども、不思議なことに、二人にはそれがイエス様だとは分からなかったと言うんですね。

 

これはどういうことなのかなあと思いますが、16節に、「二人の目は遮られてい」たと書かれていますね。

 

実際の目ではなくて、心の目ということなんでしょうけれども、さえぎられていた。

 

ここのところを原文で読みますと、このさえぎるという言葉が支配されるというような言葉なんですね。

 

弟子たちは何に支配されていましたか。

 

悲しみに支配されていました。

 

ですから、ここのところは、私たちの悲しみがイエス様をさえぎってしまうということを言っているのかもしれません。

 

この弟子たちは深く悲しんでいました。

 

そして、もうすべてが終わってしまったと絶望して、イエス様から離れていく旅をしていました。

 

悲しみが、人をイエス様から離れさせる場面なんです。

 

だから、悲しみがイエス様をさえぎって、イエス様を分からなくさせていた、悲しみがイエス様をさえぎってしまったということを聖書は言いたいのかもしれません。

 

それはこの二人の弟子たちにとって良かったのかもしれないとも思いますね。

 

もしここで、この二人に、これがイエス様だと分かったらどうなるでしょうか。

 

二人はびっくりして大喜びしますね。

 

けれども、反省はしないでしょう。

 

自分が今、イエス様から離れていっていることを反省はしないですね。

 

とにかく大喜び、というだけになるんじゃないですか。

 

この後、イエス様は、この二人と話をしますね。

 

聖書からご自分について説明したんですね。

 

そして、その話を聞いて、この二人は反省させられたと思うんです。

 

この二人の理解は、間違っているところがありました。

 

イエス様はその間違いを直すために、今は、二人の目をさえぎっておられるんじゃないかと思うんですね。

 

びっくりして大喜び、ということではなくて、しっかり理解させるために、二人の目をさえぎったんじゃないかと思うんです。

 

そして、イエス様のことを知るということは、この目にイエス様がどう見えるかなんて関係ないですね。

 

キリストはこの目で見るものではないですね。

 

それは大事なことではない。

 

大事なことは、キリストをどう理解するかです。

 

そう思っておられるから、イエス様は、二人の目をさえぎったんじゃないでしょうか。

 

イエス様は、何にも知らないふりをして、「その話は何のことですか」なんて話しかけますね。

 

二人の内の一人が答えますけれども、話を聞いていると、キリストが十字架につけられたことは、エルサレム中に知れ渡ったことのようですが、イエス様はそれでも知らないふりをされます。

 

イエス様はまず、弟子に話をさせようとするんですね。

 

弟子の理解を確かめるんです。

 

弟子は、イエス様のことを説明して、イエス様は預言者だったと言いますね。

 

預言者というのは神様から言葉を預かって、それを人々に伝える人のことですから、イエス様は預言者であるというのは間違ってはいません。

 

権力者がイエス様を十字架につけたと言いますが、それも間違っていません。

 

けれども、21節、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。

 

これはどうでしょうか。

 

イスラエルはこの時、ローマ帝国という大きな国に支配されていました。

 

そのローマ帝国からの解放です。

 

弟子たちは、それを期待していたんです。

 

それを期待して、イエス様に従っていたんですね。

 

その期待は、弟子たちの勝手な期待でした。

 

勝手な期待が期待外れに終わってしまって、勝手に絶望することになったんです。

 

けれども、十字架につけられてから「もう今日で三日目になります」と弟子は言います。

 

「三日目」と聞いたら私たちは三日目に復活するというイエス様が予告なさっておられた言葉を思い出しますが、弟子たちは復活ということはまったく信じていないんですね。

 

このすぐ後の22節を見ますとこの弟子たちはお墓に行った婦人たちから、「三日目に復活する」という天使が話していたことをちゃんと聞いていたはずなのに、それでも信じないんですね。

 

24節を見ますと、この弟子たちは、ペトロが後からお墓に行ってイエス様の遺体がないことを確かめたということも知っています。

 

それでもやっぱり信じないんですね。

 

ある意味、この人たちはごく普通の人だと思いますね。

 

天使であろうが仲間であろうが、人が言うことよりも自分の考えを大事にする。

 

誰の言葉よりも、自分の考えを大事にする。

 

自分の考えに合わないものは受け入れない。

 

その意味で、ごく普通の人たちです。

 

だいたい、とにかくイエス様は自分たちの目の前で死んだんだから、それは間違いないんだから、お墓に遺体がなかったとしても、大きなことではない。

 

この弟子たちはそう考えたでしょうね。

 

ただ、自分の考えを第一にしていたのでは、自分の考えを超えるものを理解することはできません。

 

自分の考えが一番大事なんだったら、神を理解することはできないんです。

 

弟子たちはそれを反省しなければいけません。

 

こんなのでは、最初から弟子とは言えないんです。

 

けれども、そんな弟子とも言えないような弟子であったそしても、イエス様は一緒に歩いてくださって、話をしてくださるんですね。

 

それも、後ろから追いかけてきて、話をしてくださるんです。

 

これは、いろいろなかたちで私たちにも起こっていることではないかと思うんです。

 

私たちも、自分の考えを一番にしてしまうことがあります。

 

自分ではそう気づいていないかもしれませんが、そういう時が一番危ないですね。

 

これはこうだろう、これはこうするのが当然だろうと私たちが思う時、たいていそれは、他の人から見たら、まして神様から見たら、自分の考えを一番にしてしまっている時ですね。

 

それは必ずしも間違っているわけではないのかもしれませんが、その時、私たちの目はもっと大事なものからさえぎられているんです。

 

この二人がそうですよね。

 

この二人の考えたことは、必ずしも間違ってはいません。

 

けれども、自分の考えを一番にしているその時には、イエス様は見えないんです。

 

そのことをイエス様は、「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言っていますけれども、それは誰にでも当てはまります。

 

私たちが私たちである限り、毎日そうだと言ってもいいでしょう。

 

けれども、その私たちを、イエス様は追いかけてきてくださる。

 

私たちには、それがイエス様だとは分かりません。

 

けれども、イエス様が私たちを追いかけてきてくださって、私たちに話をしてくださっていることというのはあるんじゃないかと思うんですね。

 

これは気を付けておきたいですね。

 

そして、この時、イエス様は弟子たちに聖書からご自分のことを説明してくださったと27節に書かれています。

 

イエス様はここで、何か奇跡を行って、その奇跡の力で弟子たちを信じさせたとか、そういうことではないんですね。

 

ご自分のことを聖書から説明してくださったんです。

 

言葉で伝えてくださるんですね。

 

無理やり信じさせるようなやり方はなさらないんですね。

 

ただ、イエス様の説明を聞いて、それで、この二人の目がさえぎられていたのが見えるようになったということではなかったんですね。

 

けれども、この二人には、確かにある出来事が起こりました。

 

次の場面ですが、29節を見ると、この二人はイエス様に、一緒に泊まってくださいとお願いしたんですね。

 

まだ相手がイエス様だとは分かっていないんですが、イエス様を愛する思いを与えられているんです。

 

そして、32節を見ますと、イエス様の説明を聞いた時、私たちの心は燃えていたと言っていますね。

 

暗く沈んでいた心に、火が付けられたんです。

 

聖書の言葉に耳を傾ける時には、そういうことが起こるんですね。

 

この二人が、二人で「話し合い、論じ合ってい」た時にはなかったことです。

 

二人で話していた時には、二人は暗い顔をしていたんです。

 

けれども、そんな絶望の中にあった二人にも、聖書の言葉は心に火をつけてくれるんですね。

 

この二人は、自分の言葉を語り合っていました。

 

自分の言葉というのは自分を超えるものではありません。

 

ですから、自分の言葉を語っても、それで私たちが絶望から立ち上がることができるわけではありません。

 

ただ、自分の言葉を語るのをやめて、黙って神の言葉を聞く時、私たちはイエス様を愛するようになる。

 

心が燃やされる。

 

大事なのは、自分の言葉を語るのをやめて、神の言葉を聞くことができるかどうかなんです。

 

その神の言葉を語るために、イエス様は私たちを毎日追いかけてくださっています。

 

語りかけてくださっています。

 

目がさえぎられている私たちにはそれがイエス様だとは分かりませんけれども、毎日、私たちを正しい道に戻すために、語りかけてくださっています。

 

その言葉に聞きましょう。

 

自分の言葉を語るのをやめて、神の言葉に聞きましょう。

 

その時、私たちはイエス様を愛するようになります。

 

心が燃やされます。

 

新しい力が与えられるのです。