今週の説教「イースターばえ」(新約聖書・ルカによる福音書24章28節から35節)

⛪今週の予定

4/16()牧師週休日

4/17()礼拝(9:00-10:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)

4/18()聖書を読む会(19:30-20:30)

4/19()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

4/20()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、コーヒーブレイク(宣教師の司会のもとで聖書を読んで自由に意見を出し合う試み、10:00-14:00、参加費〔昼食代込み1,000円〕)

4/22()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、信徒の学び会(13:00-13:50)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 

🎤4/17()の説教:尾崎純牧師

聖書・コリントの信徒への手紙一1520節から28

説教題「最初の人」

賛美歌・29383288165-12840-5

 

🎤4/22()の説教:尾崎純牧師

聖書・ルカによる福音書2436節から43

説教題「まさしくわたしだ」

賛美歌・122323820845732965-12740-5

 

📅7月までのイベント

【教会】

422()教会設立記念日

512()子どもお楽しみ会(14:00-16:00)

513()母の日

520()バーベキュー(兼ユース集会、12:00-15:30)

617()父の日・ユース集会

715()ユース集会

【中・大会】

429()連合長老会例会・連合執事会例会

519()三教会の役員と役員候補者の勉強会(江古田教会、13:00-15:30)

529()東部中会婦人会総会・修養会

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()大会役員修養会(14[]まで)

73()東部中会第一回臨時中会

729()連合長老会例会・連合執事会例会

 



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イースターばえ

 

ルカによる福音書2428節から35

 

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

 

 

 

 

ここのところ、聖書をずっと読んできまして、いろいろな人が出てきましたけれども、何と言うか、出てきた人たちはみんな一緒だったなあと思うんですね。

 

イエス様が逮捕されたあたりから、いろんな人が出てきて、いろんな人がいろんなことをしましたけれども、みんな、自分の罪が自分で分かってないんですよね。

 

思い返して、イエス様は十字架の上で、この人たちをゆるしてください、自分が何をしているのか、知らないのです、と祈ったんですけれども、その言葉は重いですね。

 

イエス様がそう祈らなければならないほど、私たちは、私たちの罪に気づいていないんですね。

 

私たちは人のことはよく気が付きますけれども、自分のことには気が付かないんでしょうね。

 

そこで私も先週、神様、私が気付いていない自分の罪に気づかせてください、と祈ってみました。

 

そうすると、私の妻に対する態度が良くないということに気づかされたんですね。

 

例えばなんですが、妻が植物を見て、目が出てきた、なんていうことを言うことがあるわけなんですが、私はちらっとそっちの方を見て、すぐに目線を元に戻して、別に何も、それに対してコメントしないんですね。

 

それはもう私にとっては普通になってしまっていて、それが罪だとは思っていなかったんですが、そういう自分の姿に気づかされました。

 

そういうこと、妻の言葉にきちんと反応していないというようなこと、気づいていないだけでたくさんあると思うんですね。

 

自分のことには気づかないんです。

 

人のことには良く気が付くんですね、私たちは。

 

今日も、朝、ある方に、日焼けしましたねと言われました。

 

そうなんです。

 

4日間、研修で韓国に行ってきまして、空気のいいところでもありまして、天気もよくて、日焼けしたんだと思います。

 

けれども、私は、妻からはそのことを言われていないんです。

 

妻は私を見ているんでしょうか。

 

いえ、私が妻を見ていないことを悔い改めなければならないんですが。

 

というよりも、私自身、自分が日焼けしたことに気づいていませんでした。

 

やっぱり、自分のことは自分では気が付かないんですね。

 

今日の場面の二人の弟子たちもそうだったんじゃないですか。

 

この弟子たちは、イエス様がお体がお墓にないということを婦人たちから聞いて、イエス様が復活を予告しておられた言葉も婦人たちを通して聞いたはずなのに、それなのに、勝手に絶望して、イエス様から離れていくんですね。

 

自分が何をしているのか、自分で分かっていないんです。

 

本当に勝手ですよね。

 

勝手に決めつけている。

 

だからイエス様は先週の場面でこの弟子たちに言いましたよね。

 

あなたがたは「物分かりが悪く、心が鈍い」。

 

これ、私たちにも当てはまるんだと思うんです。

 

私たちも、自分のことを自分で分かっていない。

 

神の目で見たら、私たちだって「物分かりが悪く、心が鈍い」でしょうね。

 

ただ、そのような弟子たちをも、イエス様は後ろから追いかけてきて、話を聞いてくださり、話をしてくださるんですね。

 

弟子たちの話は、淡々と事実だけを話したという感じですよね。

 

何だか分からないけれども、でもまあ、とにかく終わったことだ、という感じですね。

 

勝手に決めつけているんです。

 

婦人たちから話を聞いたのに、イエス様の予告しておられたことも思い出したはずなのに、受け入れない。

 

それに対して、イエス様は、聖書から、ご自分のことを説明してくださるんですね。

 

そうすると、その聖書の説明、神の言葉の説明を聞いて、二人の弟子の心は燃やされるんですね。

 

イエス様がなさったのは説教ですね。

 

聖書からご自分のこと、イエス様のことを説明するというのはつまりは説教です。

 

二人の弟子は、説教を聞いて燃やされました。

 

この弟子たちは、エルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。

 

エルサレムからエマオは11キロです。

 

歩いて3時間ですね。

 

どれくらいの時間、この弟子たちがイエス様の話を聞いていたのか分かりませんけれども、しばらくは話を聞いて、心が燃やされました。

 

ところが、そこで、目的の村についてしまいました。

 

ここで、イエス様の様子が不思議ですね。

 

イエス様は「先へ行こうとされる様子だった」ということなんです。

 

イエス様は、最初は、この村に泊まるつもりはないという感じだったんですね。

 

ただ、ここに出てくる「様子だった」という言葉は、「振りをした」という言葉です。

 

イエス様はそういう振りをしただけなんですね。

 

本心ではないんです。

 

ただ、弟子たちにはそれが振りであるとは分からなかったでしょう。

 

そもそも、先週の場面に出てきましたけれども、弟子たちは目がさえぎられていましたから、それがイエス様だということも分かっていなかったんですね。

 

知らない人なんです。

 

だったら当然、どこに向かっている人なのかも分かりません。

 

ただ、先へ行こうとするイエス様を二人は「無理に引き留めた」んですね。

 

二人は聖書の話をもっと聞きたかったんです。

 

そして、家に入りますね。

 

これは、この弟子たちの家だということでしょうね。

 

ということは、この二人は夫婦だったのかもしれません。

 

そう考えますと、この弟子たち二人のうち、一人の名前はクレオパだ、と先週の場面に書かれていましたけれども、もう一人の名前が出ていない理由が分かるような気がします。

 

夫婦だったら、二人で一組ですから、一人の名前だけ言っておけばそれで分かります。

 

夫婦だったから、もう一人の弟子の名前は紹介されていなかったのかもしれません。

 

とにかく、弟子たちはイエス様を家に迎え入れました。

 

そうすると、面白いですね。

 

まるでイエス様がこの家の主人のようです。

 

イエス様が二人に食事を分け与えてくださるんですね。

 

食事を分け与えるのは家の主人の仕事です。

 

ですけれども、それをイエス様がしてくださるんですね。

 

私たちが、誰かを家に入れたら普通はもてなしの心配をするんですけれども、心配しなくていいっていうことですよね。

 

イエス様が主人になってくださって、パンを分け与えてくださる。

 

私の家であったとしても、イエス様が主人としてわたしたちをもてなしてくださるんです。

 

それにしてもこの様子は最後の晩餐の場面を思い出しますね。

 

最後の晩餐の時になさってくださったのと同じようにしてくださっています。

 

最後の晩餐の席で、イエス様は、パンとぶどう酒に意味を与えてくださり、その上でそれを弟子たちに分け与えてくださいました。

 

パンは、これから裂かれる私の体である、ぶどう酒は、これから流される私の血である。

 

パンは私の肉である、ぶどう酒は私の血である。

 

それを分け与えてくださるんですから、最後の晩餐の席でイエス様がなさってくださったことというのは、イエス様が、ご自分の命を与えてくださったということですよね。

 

弟子たちはイエス様がもうその数時間後には逮捕されて、そのすぐ後に殺されてしまうなんていうことを知らなかったんですが、何も知らない弟子たちにも、イエス様はご自分の命を与えてくださるんです。

 

そして、今日、その場面が繰り返されます。

 

弟子たちはイエス様からパンをいただきます。

 

そうすると、何が起こったでしょうか。

 

弟子たちは、「目が開け」たんですね。

 

今まではさえぎられていて、それがイエス様だと分からなかったけれども、目が開けて、それがイエス様だったんだと分かったんです。

 

不思議な出来事です。

 

しかし、この不思議な出来事は大事なことを教えてくれていると思います。

 

ここで教えられているのは、信仰というものがどのようにして与えられるものであるのかということですね。

 

信仰は、人から話を聞くことで与えられるものではありません。

 

弟子たちは、婦人たちの話を聞いたけれども、何も信じなかったんです。

 

自分たちの考えを論じ合うことによって信仰が与えられるのでもありません。

 

弟子たちは、イエス様のことをあれこれと論じ合っていたんですが、その時は、「暗い顔をして」いたと書かれていましたね。

 

人間の考えを論じ合っても信仰には至らないんです。

 

人間の考えではなく、聖書の言葉、神の言葉を聞いても、それは同じことです。

 

この二人はイエス様から聖書の説明を聞いたんです。

 

そうすると、心が燃えました。

 

神の言葉をもっと求めるようになりました。

 

もっと説教を聞きたくて、イエス様を自分の家に無理に引き留めるくらいでした。

 

ですけれども、説教を聞いても、それがイエス様だとは分からなかったんですね。

 

大事なのは、イエス様の命をいただくことなんです。

 

頭で理解するだけでは信仰にはなりません。

 

心で感じるだけでも信仰にはなりません。

 

大事なのは、体験なんですね。

 

信仰は体験によるものなんです。

 

体で味わうんです。

 

イエス様がご自分の命を与えてくださるという信仰の体験をすることなんです。

 

それは、私たちが求めていくことではありません。

 

イエス様が与えてくださるんですよね。

 

ただ、そのために、説教で準備するんです。

 

この弟子たちの目が開かれたのは、イエス様からパンをもらったからでしたが、そもそもそういうことになったのは、この二人がイエス様を無理に引き留めたからですね。

 

どうして引き留めたのかと言うと、心が燃やされていたからです。

 

相手がイエス様だとは分かっていないんですが、御言葉を聞きたい、と強く願った。

 

御言葉に情熱を傾けるようになっていた。

 

それが心が燃やされるということですね。

 

説教だけが大事なのではありません。

 

説教をいくら聞いても、必ずしも信仰が芽生えるということではありません。

 

ただ、説教は私たちの心に火をつける。

 

説教を聞くと私たちは神の言葉を求めるようになっていきます。

 

それが、イエス様を引き留めて、イエス様の命をいただくことにつながっていくんです。

 

大事なのは、説教を聞いたその後ですね。

 

イエス様を引き留めることです。

 

イエス様は引き止めることができるんですね。

 

イエス様を引き留めることの大切さを、今日の御言葉は伝えています。

 

イエス様は無理に一緒に私たちのところに押しかけてきたりはなさらないんです。

 

だから、先へ行こうとする振りをなさるんですね。

 

ということは、私たちが自分から招くことが大切なんです。

 

そして、私たちが自分から招くなら、イエス様が主人になってくださって、私たちをもてなしてくださる。

 

命を分け与えてくださる。

 

目を開かせてくださるんです。

 

目が開けると、二人には、イエス様「の姿は見えなくなった」と書かれていますね。

 

この二人は、イエス様の命をいただいたんです。

 

だとしたら、もうこの上、イエス様を目で見る必要はありません。

 

目で見なくても、失われることのない復活の命、イエス様の命に生かされているんです。

 

それが決定的に大事なことですね。

 

命というのは誰にとっても一番大切なものですが、そもそも、命なんていうものは目に見えないですよね。

 

私たちの姿かたちは目に見えるんです。

 

ただ、目に見えるものは目に見えないもので支えられています。

 

私たちは、私たちの目に見えない命というものによって支えられている。

 

目に見えないものの方が大切なんです。

 

目に見えないものに心が開かれることこそが決定的なことなんですね。

 

考えてみると、私たちは見えなかったものが少しづつ見えるようになる、という仕方で成長してきたのではないでしょうか。

 

いないいないばあって、分かりますかね。

 

赤ちゃんに対してすることですけれども。

 

赤ちゃんの前で、向かい合って、そうすると、赤ちゃんは笑いますね。

 

しかしそこで顔を隠すと赤ちゃんは泣くんですね。

 

赤ちゃんは人の顔しか見ていないということでしょうね。

 

顔が見えなくなると、本当にその人がいなくなったと思って、泣いてしまいます。

 

でもそれは、顔が目に見えないだけですね。

 

その人がいなくなったわけではないんです。

 

私たちは成長して、もう今はそんなふうには考えないですね。

 

顔が見えなくても、その人がいなくなったわけではない。

 

顔が見えなくても、その人はそこにいる。

 

そして私たちはもっと成長して、姿も見えなくても、その人がどこかにいる、今はここにはいないけれども、いなくなったわけではない、そういうふうに考えることもできます。

 

それどころか、目には見えないけれども、今この人はこういう気持ちでいるんだろうな、とか、今は目には見えないけれども、この人は将来こうなるだろうな、とか、目には見えないけれども、今の時代はこうだな、ということすら考えることもできます。

 

そして今、聖書は、私たちがさらに成長して、命ということについてもっと目が開かれるようにと教えてくれているんですね。

 

私たちにとってその人の顔が目に見えないということが大きな問題ではないように、信仰の目が開かれたら、姿が目に見えないということはだいじなことではありません。

 

何しろ、イエス様からいただいたまことの命が私たちの内にあるんです。

 

それが決定的に大事なことですね。

 

それが聖書の信仰なんです。

 

ですので、月に一度、礼拝の中で行われる聖餐式で、パンとぶどうジュースを受け取るのは信仰を告白した人だけなんですね。

 

私たちは聖書を通して、パンとぶどうジュースはイエス様の命なんだということを教えられていますから、目が開かれて、そのことを受け入れた人にだけ、聖餐が与えられるんです。

 

聖餐を受け取ることは、私は目に見えない現実にも目が開かれていますということなんです。

 

そして、そうなった時、人は向きを変えられるんですね。

 

目に見えない現実が人を変えるんです。

 

二人の弟子は、すぐにエルサレムに戻りました。

 

来た道を引き返したんですね。

 

その道は、ついさっき、暗い顔をして悲しみの中を歩いていた道でした。

 

けれども、引き返す時、弟子たちはどんな気持ちで歩いたでしょうか。

 

悲しみの道が、喜びの道に変えられるんですね。

 

ただそれは、どこか別の場所に向かうことではありません。

 

弟子たちはエマオから他の場所に向かったのではありません。

 

エルサレムに戻ったんです。

 

一度はあきらめて投げ出した現実に戻ったんです。

 

目に見えるのは同じ場所です。

 

そこには、目で見た限りでは同じ現実が待っています。

 

しかし、まったく違っている点があります。

 

希望のなかった場所が、希望を抱く場所になるんですね。

 

そして、希望を分かち合う場所になるんです。

 

帰ってみると、他の弟子たちが、イエス様が「シモンに現れた」と言っています。

 

戻ってきた二人の弟子は、自分たちのところにもイエス様が現れてくださったことを話しました。

 

喜びを分かち合ったんですね。

 

私たちにも、同じことが起こります。

 

絶望させる現実があります。

 

あきらめて投げ出したくなることがあります。

 

けれども、イエス様は、ご自分の命を与えてくださり、絶望を希望に変えてくださるんですね。

 

どんな絶望も絶望するには及びません。

 

何しろ、私たちがいただくのは、イエス様の命、復活の命、死にも打ち勝つ命なんですから。

 

私たちには、絶望するほどのことはないんです。

 

それが、目に見えない神の現実なんですね。

 

こんなことは私のような者には起こらないとお考えになるでしょうか。

 

そんなことは言えないんです。

 

今日の二人は何も弟子たちの中で中心的な存在ではないですよ。

 

十二弟子の中にも入っていないんです。

 

たいして大事な人ではないと言えばそうなんです。

 

それでも、ご自分の弟子の誰一人、イエス様は見捨てません。

 

たとえイエス様を見捨てても、イエス様は見捨てません。

 

後ろから追いかけてきてくださるんです。

 

そして、引き留めるなら、命を与えてくださるんです。

 

私たちの主は、そのような方なのです。