今週の説教「まさしくわたしだ」(新約聖書・ルカによる福音書24章36節から43節)

⛪今週の予定

4/23()LTIR会議(19:00-21:00)

4/24()聖書を読む会(10:30-12:00)、韓国語&韓国料理教室(13:00-15:00)

4/25()聖書を読む会(19:30-20:30)

4/26()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

4/27()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

4/29()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、連合長老会例会・連合執事会例会(13:00-13:50)、掃除

 

 

🎤4/29()の説教:尾崎純牧師

聖書・ルカによる福音書2444節から53

説教題「祝福しながら」

賛美歌・113323821048457540565-12940-5

 

📅7月までのイベント

【教会】

424()韓国語&韓国料理教室(13:00-15:00)

512()子どもお楽しみ会(14:00-16:00)

513()母の日

520()バーベキュー(兼ユース集会、12:00-15:30)

617()父の日・ユース集会

715()ユース集会

【中・大会】

429()連合長老会例会・連合執事会例会

519()三教会の役員と役員候補者の勉強会(江古田教会、13:00-15:30)

529()東部中会婦人会総会・修養会

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()大会役員修養会(14[]まで)

73()東部中会第一回臨時中会

729()連合長老会例会・連合執事会例

 




「まさしくわたしだ」

 

ルカによる福音書2436節から43

 

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 

 

 

 

 

弟子たちは復活について話していました。

 

そうすると、イエス様ご自身がいきなりその場に現れたんですね。

 

「あなたがたに平和があるように」とイエス様は言いました。

 

これは挨拶の言葉です。

 

「こんにちは」という言葉なんですね。

 

いきなり現れて「こんにちは」ですよ。

 

弟子たちはもう、びっくりしたでしょうね。

 

それも、「イエス御自身が彼らの真ん中に立」ったということですから、何かこう、この書き方だと、本当にいきなり現れたという感じですよね。

 

弟子たちは相当びっくりしたと思います。

 

「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と書かれています。

 

恐れおののいたんですよね。

 

気持ちは良く分かりますね。

 

ただ、「亡霊を見ているのだと思った」というのはどうでしょうか。

 

この「亡霊」という言葉は単に「霊」という言葉なんですが、要するに、イエス様が目の前に現れたのに、それは復活したということではなくて、「霊」だけがそこに現れたと思ったんですね。

 

「霊」だけがそこに現れて、そして、イエス様の映像だけを見させられている、みたいに思ったと言うんです。

 

これは不思議ですね。

 

だって弟子たちは今の今まで、イエス様が復活したという話をしていたんです。

 

それなのに、実際にイエス様が現れると、復活したということは考えられなくて、いや、そこにいるのはイエス様の「霊」なんだ、と思ってしまう。

 

これはちょっとどうなのかなあと思いますね。

 

ただ、考えてみると、これもある意味当然かと思うんですね。

 

イエス様は復活して、今までも弟子たちに出会ってくださっていたんですけれども、その復活の仕方ですよね。

 

二人の弟子は、夕食の席でイエス様からパンをもらったんですが、パンをもらったとたんにイエス様の姿が見えなくなったんですよね。

 

それだとうーん、復活と言っても、どんな感じなんだろう、と思ってしまいますよね。

 

元の通りではないような感じですよね。

 

ペトロにもイエス様は現れたようですが、イエス様はそれからずっとペトロと一緒にいたわけではないようです。

 

いずれにしても、イエス様は姿を消していたんですよね。

 

だとしたら、ここでまたいきなり現れるなんていうことがあったら、それこそ、亡霊だ、と思っても仕方ないですよね。

 

こんなふうに現れたり消えたりするイエス様は、弟子たちに一体何を伝えようとしておられるんでしょうか。

 

これは、イエス様の弟子たちに対する関わり合いの仕方が、復活の前と後で違うんだということではないかと思います。

 

弟子たちは今までずっとイエス様と一緒に生活してきたわけです。

 

ですけれども、復活して、またもとのように一緒に生活をするようになるかというと、それは違う。

 

復活の後はそういうことはもうないんですね。

 

この次の場面でイエス様は天に昇って行かれますけれども、一緒に生活するのはもうお終いなんです。

 

ということは、復活なさったとは言っても、目に見える仕方でのイエス様との関わりはもう終わるんですね。

 

だとしたら、大事なことは何でしょうか。

 

目で見ずに、信じる、ということですよね。

 

信仰ということです。

 

信仰の時代が始まろうとしているんです。

 

今までは一緒に生活して、イエス様の話を聞いて、イエス様に従ってきた。

 

これから、イエス様を信じて生きる。

 

目には見えないイエス様が、私たちのために私たちに見えないところで働いてくださっている。

 

そのことを信じる。

 

これから、そのような、信仰の時代が始まるんです。

 

考えてみると、目で見たから信じる、というのは信じるということではないですね。

 

目で見えるものは確かにそこに在るわけなので、それを信じるか信じないかということにはならないです。

 

信じるか信じないかということが問題になるのは、私たちがこの目で見ていない事柄についてですよね。

 

例えば、何か噂話を聞いたら、それを信じるか信じないかという話になりますね。

 

しかし、自分の目で確かめたことについては、信じるか信じないかは問題になりません。

 

これからは、目に見えないことを信じることができるかどうかの時代。

 

聖書は、この場面を描くことによって、これから信仰の時代がやってこようとしていることを予感させているんですね。

 

もっと言うと、神が求めるのは、一緒に具体的に生活することよりも信仰である、ということになるでしょう。

 

そちらの方が、人と神との関わり方においては大事なことだということですよね。

 

むしろ、弟子たちには今までそれがなかったんです。

 

イエス様が一緒にいてくださるからもうこれで安心。

 

自分たちは大丈夫。

 

それだけだった。

 

だから、イエス様が逮捕されると逃げ出したんですね。

 

イエス様が十字架にかけられて死刑にされたら、もうすべて終わってしまったとばかりに、自分の町に帰っていこうとしたんです。

 

目で見ている限り、人間はそういう者でしかないと聖書は言っているんですね。

 

ただ、この場面はそれだけの話ではないですね。

 

イエス様は今日の場面で、弟子たちの考え違いを正そうとしておられます。

 

弟子たちは、イエス様の霊が肉体なしに現れたと思ったんでした。

 

それに対して、イエス様は言いますね。

 

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。

 

私は、肉体をもって復活したと言うんです。

 

そして、弟子たちに手と足を見せるんですね。

 

おそらくその手と足には十字架につけられた時の釘の跡があったことでしょう。

 

けれども、弟子たちがまだ不思議がるので、イエス様は焼き魚を食べたんです。

 

肉体が復活したんだ、と言いたいんですね。

 

そのために、食べ物を食べて見せるということまで、なさったんですね。

 

けれども、これは不思議な気がします。

 

これからは信仰が大事だというのに、どうしてここまで復活をアピールするんでしょうか。

 

これは、イエス様が今日、最初におっしゃった言葉に注目してみると、分かるような気がします。

 

イエス様は今日、最初に、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

 

これはイエス様の話した言葉、ヘブライ語では、あいさつの言葉です。

 

ただ、新約聖書はギリシャ語で書かれているんです。

 

だとしたら、この福音書を書いたルカは、ここに、ギリシャ語のあいさつをの言葉を書けばそれで良かったはずです。

 

けれどもここには、ギリシャ語でそのまま、「あなたがたに平和があるように」と書かれているんです。

 

この言葉は単なるあいさつの言葉ではないっていうことですよね。

 

イエス様は、弟子たちに平和があるようにと本気で願っておられるということなんです。

 

平和という言葉は神の恵みを意味する言葉です。

 

イエス様は弟子たちに、神の恵みが与えられることを本気で願っておられる。

 

復活したイエス様が言いたかったことはそれなんだ、という感じですよね。

 

復活という出来事は人間の理解を超えています。

 

その復活なさったイエス様は、神の恵みが弟子たちに与えられることを願っておられる。

 

そう思ってイエス様の言葉を聞きますと、何かこう、それまでよりももっと強く、この言葉が響いてきますよね。

 

「こんにちは」というだけの言葉ですけれども、それは誰もが口にする言葉ですけれども、復活なさったイエス様まで、この言葉を口にする。

 

人間の理解を超える方が、この言葉を口にする。

 

これって、神の恵みも、人間の理解を超えて大きいんだ、ということですよね。

 

私たちには理解できないような素晴らしい出来事が、私たちが信仰をもつ時には、起こってくる。

 

聖書が今日私たちに伝えてくれるのは、そういうことだと思います。

 

そうなると私たちは生き方が変えられますね。

 

私たちは、考えもしないような大きな神の恵みが実現することを信じて待ち望むんです。

 

それは私たちの力ではできないことですから、私たちは待ち望むという生き方をすることになります。

 

それは、イエス様と一緒に具体的に生活をするということとは違うんです。

 

けれども、イエス様は今、そのような、信仰を生きる中で神の恵みが実現していく人生へと、私たちを招いておられるんですね。

 

だから、「あなたがたに平和があるように」と言ったんですし、復活したことを強くアピールしたんです。

 

私たちの人生の歩みの中で、今日の弟子たちのように、疑いが起こってくることはあるだろうと思います。

 

けれども、そのような弟子たちのために、イエス様は今日、魚を食べて見せてくださったんですよね。

 

疑いが芽生えても大丈夫です。

 

イエス様が信じさせてくださるということです。

 

そして、疑う者にも、恐れて戸惑う者にも、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるんです。

 

そしてそれは、私たちの日常の中で起こるんですね。

 

この場面は弟子たちの家の中で起こっています。

 

弟子たちは、イエス様がこの時ここに来てくださるなんて思ってもいなかったでしょう。

 

でも、そのような場所にも来てくださるんです。

 

来ると思っていないような場所でも、イエス様は来てくださる。

 

仲間たちと集まっているだけの場所にも来てくださる。

 

自分の家にも来てくださる。

 

一人でいる時にも来てくださるでしょう。

 

そうして、私たちを祝福してくださるんです。

 

祝福されるのは礼拝の時だけではないんですね。

 

イエス様がいらっしゃる時、いつでも、どこでもなんです。

 

信仰の出来事は生活の中のどこででも起こるんです。

 

そのような、信仰という生活の中に、私たちは置かれているんです。

 

生活の中で、イエス様の言葉を聞きましょう。

 

「あなたがたに平和があるように」。