今週の説教「まことの戦い」(新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章10節から18節)

⛪今週の予定

5/7()牧師週休日、IBUKI会議(横浜中央教会、19:00-21:00)

5/8()聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)

5/9()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

5/11()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

5/12()母の日こどもお楽しみ会(14:00-16:00)

5/13()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル自主練習(13:00-14:30)、掃除

 

 

🎤5/13()の説教:尾崎牧師

聖書・ローマの信徒への手紙121節から2

説教題「心を新たに」

賛美歌・157323834335257551865-12740-5

 

📅8月までの教会の行事

512()子どもお楽しみ会(14:00-16:00)

513()母の日

520()ペンテコステ礼拝・バーベキュー(兼ユース集会、12:00-15:30)

617()父の日・ユース集会

715()ユース集会

811()夏休みお楽しみ会

819()献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会

 

📅8月までの中大会の行事

519()三教会の役員と役員候補者の勉強会(江古田教会、13:00-15:30)

529()東部中会婦人会総会・修養会

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()大会役員修養会(14[]まで)

73()東部中会第一回臨時中会

729()連合長老会例会・連合執事会例会

812()東部中会青年会夏期修養会(14日[火]まで)

812()埼玉西部地区815集会、第3回運営委員会

814()全国高校生会「サマーデイズ2018(17[]まで)

823()ヤングサマーバイブルキャンプ(25[]まで。牧師出席。ご希望の方はお声をおかけください)

828()東部中会学生会夏期修養会(30[]まで)

 




「まことの戦い」

 

エフェソの信徒への手紙610節から18

 

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 

 

 

 

 

今日の御言葉は、私が朝、この礼拝堂で祈ることにしている御言葉なんですね。

 

朝には、この御言葉を読んで、皆さんにそれぞれにこの御言葉が実現するようにと祈っています。

 

聖書の言葉であるヘブライ語では「言葉」という単語は「出来事」という意味にもなりますので、この御言葉が現実の出来事になりますようにと祈っているんですね。

 

この御言葉によって皆さんが強められてほしいんですね。

 

今日のところでは、「強くなりなさい」とまず最初に言われていますけれども、私たちが強くなることが御心なんですね。

 

ただ、強くなりなさいと言いましても、それは自分の力で、ということではありません。

 

世の中で「強くなりなさい」と言われたらそれは自分で頑張って自分で強くなりなさいということですけれども、そうではなくて、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くなりなさいということなんですね。

 

私たちを強くしてくださる方に目を向けるように、ということなんです。

 

私たちの主人である神様に頼りなさいということですよね。

 

主に頼って強くしていただきなさいということです。

 

しかし、今さら改めてそう言われましても、という感じですよね。

 

神様に頼りなさいということは、言ってみれば、聖書のほとんどのページに書かれていることですね。

 

そういうふうに言っても言い過ぎではないと思います。

 

そう考えますと、この手紙を読んでいるエフェソの教会の人たちも、聖書を知っているんですから、そんなことをわざわざ言わなくてもいいんじゃないかという気もします。

 

それなのに、神様に頼りなさいと言われているんですね。

 

これは、神様に頼るということを頭で分かってはいても、本気で分かっていないということでそういうふうに言われているんでしょうね。

 

頼っているつもりはあるだろう。

 

頼っていると言える部分もあるだろう。

 

でも、もっともっと本気で頼り切りなさい。

 

そういうふうに言われているんだろうと思いますね。

 

そういうことというのはあると思うんですね。

 

これは私の友人の話ですけれども、私の友人で、空手をやっていた人がいるんですね。

 

高校時代ぐらいに町の道場で空手を始めたと聞いたと思うのですが、道場に通うようになると、最初は型を習って、それを身に付けたら、今度は試合形式の練習になるわけですね。

 

けれども、最初に試合形式の練習をした時に言われたんだそうですね。

 

全然本気でパンチを出していない、と言われたんだそうです。

 

本当はもっとパンチ力があるはずなのに、手加減してしまっているんですね。

 

本人は全然そんなつもりはないんです。

 

本気でパンチを出しているつもりです。

 

ですけれども、人が人を殴るというのは普段ではまったくありえないことですね。

 

ですので、無意識にセーブしてしまう。

 

本人としてはどう考えても本気でやっているつもりだけれども、実際には全然本気になれていない。

 

そういうことって、あると思うんですね。

 

私たちはみんな、目に見える世界で生きています。

 

ですので、目に見えるものが無意識に第一になってしまうということはありうることだと思うんですね。

 

そうなると、神に頼るなんていうこともなくなってしまう。

 

何とか目に見えるものの中でやっていこうというふうにしか考えなくなる。

 

そこまではならなかったとしても、目に見えるものが第一で、神に頼るのはその後でちょっと、なんていうことはあるかもしれない。

 

本人は神に頼っているつもりだけれども、それだと全然本気で頼っているということにはならないわけです。

 

そうじゃないよ、ということですね。

 

もっともっと本気で頼りなさい。

 

もっともっと本気で頼れるはずだ。

 

今日の御言葉は私たちをそう励ましているんですね。

 

これ、私たちみんなに当てはまる言葉だと思うんです。

 

私たちがそれぞれに神様に頼っている度合いは人によって違うでしょうけれども、どの人も、今よりももっと神様に頼ることができると思うんですね。

 

私たちがもっと目に見えない現実に心を向けていくことはできると思うんです。

 

何しろ、もとより、目に見えない世界の話です。

 

目に見えない現実に目を向けていくことしか出発点にならないわけです。

 

ここで、悪魔なんていう話が始まっていますね。

 

悪魔というのは聖書の原文では「逆らう者」という言葉です。

 

神に逆らう者ということですね。

 

神に逆らう力が私たちに働くことがあると言うんですね。

 

それが現実なんです。

 

神に逆らう思いが私たちを神から引き離すというのは現実にあることです。

 

目に見える事柄ばかりを追い求めたために、信仰を失ってしまう人がいます。

 

信仰を持っていると言いながら、目に見える事柄ばかりを追い求める人がいます。

 

それは戦いに負けているんですね。

 

その現実とどう戦っていくか。

 

これが、まさに戦いなんだということですね。

 

何しろ、神の武具を身に付けなさいと言われています。

 

武具を身に付けるっていうのはもう、本当に戦いだということです。

 

ただ悪魔と戦うとは言っても、悪魔祓いのような何か特別なことをするわけではないんですね。

 

神の武具を身に付ける。

 

戦いに当たって、武具を身に付ける。

 

言ってみればそれは普通のことですね。

 

そしてそれは、私たちの力で戦うというのではないですね。

 

「神の」武具を身に付けなさいと言われています。

 

神の武具を身に付けて、神に頼って、神の力で戦うんです。

 

それだけのことしか書かれていません。

 

それだけで大丈夫だ、ということですね。

 

ここに、神の武具がずらずらっと並べられていますけれども、まず自分を守るものとして、五つの武具があるということですね。

 

帯、胸当て、履物、盾、兜です。

 

これらがそれぞれ、「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」なんですね。

 

守るための武具がこの五つです。

 

では攻撃は、と言いますと、攻撃するものとしては一つだけなんですね。

 

霊の剣、これは神の言葉だということですね。

 

守るのには五つあるけれども、攻撃するのは一つだけなんです。

 

しっかりと自分を守りなさいということですね。

 

この戦いは激しい戦いなんだということです。

 

私たちはまず、しっかりと自分を守らなくてはならない。

 

そこで、守るためのこの五つの武具の中身を見てみますと、「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」ですね。

 

これらは、どれもこれも、聖書を通して私たちにすでに与えられているものです。

 

ですから、武具は今から探してくるものではないんですね。

 

今から自分で作るものでもないんです。

 

言ってみれば、私たちがもう知っているものです。

 

神の武具というのはもうすでに神が与えてくださっているものなんですね。

 

ただ、それを身に付けろということなんです。

 

足にも腰にも胸にも手にも頭にも、全身に身に付けるんですね。

 

聖書とは身に付けるものなんだということですね。

 

本気で身に付けるものなんです。

 

聖書を置いて、時々読むということではなくて、いつも聖書の言葉が自分と共にあるようにということですね。

 

逆に言うと、それを身に付けてよい、と言われていることになりますね。

 

あなたは神の言葉にふさわしいと言われているんです。

 

そして、ここのところは、全部旧約聖書からの引用です。

 

「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」がそれぞれ帯、胸当て、履物、盾、兜であるというのは、全部旧約聖書に書かれていることです。

 

ですのでこれは、オーソドックスな信仰を持ちなさいと言われているということですね。

 

それで十分なんだということなんです。

 

ただし、改めてそれをしっかりと身に付けなさいということですね。

 

そして、神の言葉はそのまま、攻撃のツールにもなりますね。

 

神の言葉は霊の剣なんです。

 

神の言葉に私たちは守られます。

 

そしてその神の言葉は、神に逆らう力にとっては剣なんですね。

 

守る力だけでなく、戦う力にもなる。

 

それが神の言葉なんです。

 

そして、それらの武具を身に付けた上で、「祈りなさい」と言われています。

 

神に祈るというのは神の助けを求めるということですね。

 

ただここで、「“霊”に助けられて」祈りなさいと言われています。

 

神の霊の助けがなければ、私たちは祈ることすらできないということですね。

 

しかしだからこそ、神の霊がそこでも助けてくださるんだということです。

 

そして、ここに書かれているように、どのような時でも根気よく祈ることができるならそれは、そこに神の霊の助けがあるということで、だとしたら、身に付けた神の武具で十分に勝つことができるんですね。

 

そして、最後の祈りまで合わせて、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣、祈りの全部で七つですね。

 

聖書で7という数字は完全を意味する数です。

 

もうこれで完全なんです。

 

神の御言葉を身に付けて、神の霊に助けられて祈るなら、もうそれで完全なんです。

 

そして、今日のところでは、三回、「立つ」という言葉がつかわれていますね。

 

この戦いにおいて、私たちは、攻撃にあってうずくまっていたところから立ち上がることができるんです。

 

そして、今日の最後のところですが、他の人たちのために祈りなさいと言われていますね。

 

この御言葉で祈っていきたいと思います。

 

自分のためにも、それだけでなく、人のためにも祈っていきたいと思います。

 

そのようにして、「強くなりなさい」と言われているんですね。

 

私たちがそのようにするとき、本当の意味で強く生きることができる。

 

生きていく中で、マイナスの考えやマイナスの感情に支配されてしまいそうになる時があります。

 

「恐れ」とか、「不安」とか、「あきらめ」とか、「怒り」とか。

 

いろんなマイナスの感情が私たちの中にわき起こってくることがあります。

 

まさに私たちは「暗闇の世界」にいるんです。

 

けれども、御言葉を身に付けて祈るなら、怖いものはないんですね。

 

神の言葉はどんなものよりも強いんです。

 

私たちは、神の言葉と祈りによって必ず勝利することを約束されているんです。