今週の説教「心を新たに」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章1節から2節)

⛪今週の予定

5/14()牧師週休日

5/15()礼拝(9:00-10:00)

5/16()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

5/17()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

5/18()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

✜519()江古田、高島平、光が丘の三教会の役員と役員候補者の勉強会(江古田教会、13:00-15:30)

5/20()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(10:15-10:25)、ペンテコステ礼拝(10:30-12:00)、バーベキュー(12:00-15:30)、掃除

 

🎤5/15()の説教

聖書・ローマの信徒への手紙61節から11

説教題「キリストにあやかる」

賛美歌・29385188165-12840-5

 

🎤5/20()の説教:尾崎純牧師

聖書・使徒言行録21節から4

説教題「聖霊が与えられるということ」

賛美歌・122323820857534365-12940-5

 

📅8月までの教会の行事

520()ペンテコステ礼拝・バーベキュー(兼ユース集会、12:00-15:30)

63()10()長老執事の試問会、任職、就職式

617()父の日・ユース集会

715()ユース集会

811()夏休みお楽しみ会

819()献堂記念日(礼拝の中で証をしてくださる方を募集します)・ぶどう狩り・ユース集会

 

📅8月までの中大会の行事

529()東部中会婦人会総会・修養会

610()埼玉西部地区役員研修会、第2回運営委員会

612()14()大会役員修養会(豊橋市)

73()東部中会第一回臨時中会

729()連合長老会例会・連合執事会例会

812()14()東部中会青年会夏期修養会

812()埼玉西部地区815集会、第3回運営委員会

814()17()全国高校生会「サマーデイズ2018

823()25()ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください)

828()30()東部中会学生会夏期修養会

 


「心を新たに」

 

ローマの信徒への手紙121節から2

 

1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 

 

 

 

 

先週も新約聖書の手紙から説教をいたしましたが、今日も手紙を選びました。

 

どちらも、パウロが書いた手紙ですね。

 

ところが先週、私が説教の中でパウロについての説明をいたしませんでしたので、午後の小会の時に役員さん方から、未信者の方はパウロのことを知らないのではないかというお話をいただきました。

 

私はパウロというのは世界史の教科書にも名前がのっているし、長嶋茂雄くらいのものではないかと申し上げたのですが、いや、そこまでではないだろうということでしたので、改めまして、このパウロという人についてお話をしてみます。

 

まず、この人は、キリストとだいたい同じくらいの時代に生まれました。

 

けれども、すぐにキリストに従うようになったわけではありませんでして、もともとはキリストの教会を迫害していた人です。

 

どうしてそんなことをするのかと言いますと、この人はユダヤ教のエリートだったんですね。

 

ガマリエルという当時一番のユダヤ教の先生のもとで学んだ人で、非常に頭の良い人でした。

 

この人は後にクリスチャンになりましたので、世界で一番有名なクリスチャンになったわけですが、ある人は、「クリスチャンにならなかったとしても、パウロは歴史に名を残しただろう」と言っています。

 

それくらい能力的に優れた人であったわけです。

 

ユダヤ教の中で将来を期待されてもいたと思いますが、30過ぎでそれまでのすべてを捨ててクリスチャンになり、60歳くらいまで伝道して、世界中に教会を建てました。

 

ただ、長嶋茂雄と似ているところがありまして、外国語が苦手だったんですね。

 

パウロは手紙を書く時にギリシャ語で書いたんですが、そのギリシャ語がちょっと、というかだいぶん下手なギリシャ語なんですね。

 

無理をせずに自分の言葉であるヘブライ語で書けば良かったんじゃないかとお思いになるかもしれませんが、ギリシャ語というのは今の英語です。

 

当時、非常に広い範囲で通用した言葉なんですね。

 

ですので、いろいろなところにある教会に手紙を書くにあたっては、ギリシャ語が一番都合が良かったんですね。

 

ただ、そのギリシャ語に問題がありまして、場所によっては、ヘブライ語の語順でギリシャ語の単語が並んでいるようなところもあります。

 

パウロが筆をとって手紙を書いたのではなくて、パウロが口でしゃべって、それをそばで聞いている人がそのまま紙に書いたんですけれども、実はギリシャ語の間違いがたくさんあるんですね。

 

言葉でしゃべるだけでこれだけの内容の話ができるわけですからやはり大変優秀な人なんですが、パウロにとってギリシャ語は外国語で、外国語となるとパウロも苦手だったんですね。

 

長嶋さんも外国語は苦手ですね。

 

ある年、長嶋さんが巨人の監督をしていたんですが、夏あたりになって、なんだかもう、今年は優勝できなさそうだということになった。

 

でもそのとき、長嶋さんは言ったんですね。

 

Never give upしてはならない!」。

 

……ちょっと意味が分かりづらいですね。

 

長嶋さんが英語が苦手なのは実は若い頃からでして、長嶋さんは学生時代は立教大学で野球をしていたんですが、4年生になって、巨人に入団することが決まったのに、4年生の長嶋さんは何と、1年生の英語のテストにまだ合格できていなかったんですね。

 

けれども、巨人に入団が決まっている選手を大学が卒業させないわけにいきませんから、大学の先生はものすごく簡単な問題を出したんです。

 

I live in Tokyoを過去形にしなさい」。

 

普通に考えますと、「I lived in Tokyo」ですね。

 

ですけれどもそこで、長嶋さんは一生懸命考えて、こう答えたんですね。

 

I live in Edo」。

 

長嶋さんは天才ですね。

 

もう、この人のことが嫌いな人っていないんじゃないですか。

 

関西出身で阪神ファンの私でも長嶋さんは好きですね。

 

そこへいくと、パウロは長嶋さんと似ていないんですね。

 

パウロはどうやらイエス様の直接の弟子たちから良く思われていなかったらしいんです。

 

エルサレムにやってきたパウロが逮捕されたことがあったんですが、それは大騒ぎになって、エルサレム中の人がそのことを知ったらしいんですが、イエス様の直接の弟子だった人たちは誰も助けに来ないんですね。

 

完全に見捨てられているんです。

 

どうしてそんな冷たい態度をとられたのかと言いますと、イエス様の直接の弟子たちは、キリスト教徒になるためには、いったん、ユダヤ教徒にならなければいけないと考えたんです。

 

ユダヤ教のルールをきちんと守った上で洗礼を受けてクリスチャンになるべきだと考えたんですね。

 

パウロは、そういうふうには考えなかった。

 

そこで、対立することになってしまったんですね。

 

しかし、対立、と言いましても、どうやら互角だったわけではないようでして、パウロが書いた手紙を見る限り、パウロは相当に追い詰められていたようです。

 

しかし、その後の歴史を見ますと、神が選んだのはパウロだったんですね。

 

新約聖書の三分の二はパウロが書いた手紙です。

 

そして、パウロの伝道に始まって、世界中に教会が建てられて、今ここにも教会が建っているんですね。

 

それに対して、イエス様の直接の弟子たちもエルサレムに教会を建てたわけですが、その教会は今に残っていないんです。

 

今、エルサレムにキリスト教会がありますが、それはずっと後の時代に建てられたものなんですね。

 

神様が選んだのはパウロだったんです。

 

パウロの伝道によって、教会は世界中に広がったんです。

 

そのパウロが今、キリストに結ばれた仲間たちに語っています。

 

「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」。

 

パウロは神の憐れみによって語るんですね。

 

この憐れみという言葉は聖書の専門用語です。

 

憐れみという言葉は、聖書では、何よりもまず神についてつかわれる言葉なんですね。

 

神は憐みの神なんです。

 

この憐れみという言葉は内臓という言葉が元になってできた言葉で、要するに、相手のことを思いやるあまり、自分まで胸が苦しくなるような状態を指す言葉なんですね。

 

つまり、神様にとっては私たちのことが自分のことなんです。

 

そのような神の憐れみに沿って、パウロは語ります。

 

パウロを通して神が憐れみをもってこうしなさいと勧めるんですね。

 

この「勧める」という言葉は、もともとは「そばに呼ぶ」という言葉です。

 

頭ごなしにこうしなさいということではなくて、そばに呼んでさとしてくれるんですね。

 

この言葉は聖書の他の箇所では、また別の言葉で訳されています。

 

勧めるではなく、「励ます」と訳されている場所があるんですね。

 

神の言葉は単に勧めるだけではなくて、「励ます」ものでもあるんですね。

 

やっぱり、頭ごなしなものではないんですね。

 

聞く人は励まされて、そうすることができるように力を与えられるんです。

 

この言葉にはさらに違う訳し方もあります。

 

「慰める」と訳されているところがあるんですね。

 

再び立ち上がることができるように慰められる言葉なんです。

 

そのような言葉をパウロは語ります。

 

まず、あなたがたの体を神に「献げなさい」と言われています。

 

この「献げる」という言葉の元々の意味は「そばに置く」ということです。

 

そばに置いて、相手のものとして自由に使ってもらうことですね。

 

自分の体を神に献げるというのも、自分自身を神に用いていただくことです。

 

ですので、ここは気を付けたいですね。

 

自分自身を献げるというのは、自分から自分の意志で奉仕していく、というのとは違うんです。

 

自分が自分のものではなく、神のものになることなんですね。

 

ああいうことをして神様に奉仕したい、こういうことをして神様に奉仕したいと考えるのでは、自分を神様に献げたことにはなりません。

 

私たちがどういうふうに用いられるのかは神様が決めるんです。

 

神様に主権がある。

 

自分がメインで奉仕していくんじゃないんですね。

 

神様に自分の主権を献げるんです。

 

自分が良いと思うことをするというのでは、献げたことにはなりません。

 

自分の考えに気を付けることが大切です。

 

自分が考えていることを神様の御心だと勘違いしてはいけないんですね。

 

だからここで、自分自身をいけにえとして献げなさいと言われていますね。

 

いけにえというのは、動物を殺して神様に献げることです。

 

命をささげるんです。

 

ただし、私たちは、「生けるいけにえ」だということですね。

 

生きている自分を神に献げるんです。

 

動物を殺して献げるように、自分の主権をなきものにして献げるんですね。

 

その上で、御心のままに用いていただくんです。

 

神のものとされた新しい自分として生きていく、ということですね。

 

それが「聖なる」ものとなるということです。

 

「聖なる生けるいけにえ」と言われていますが、「聖なる」という言葉が聖書でつかわれるときには、清く正しいという意味ではありません。

 

聖書で「聖なる」という言葉がつかわれたら、「神のもの」ということです。

 

自分のものではないということですね。

 

神のものであり、神のために用いられるものなんですね。

 

それでこそ、献げたことになるわけです。

 

そのことを、神は喜ばれると書かれています。

 

そしてそれが、私たちがなすべき「礼拝」なんだということですね。

 

礼拝というのは、神に自分を献げることなんですね。

 

私たちは日曜の朝、こうしてこの場所に集まって礼拝をしていますけれども、礼拝というのは、人生に一つの場面を付け加えるだけのことではないんですね。

 

私たちの生き方が全く新しくされることが礼拝なんです。

 

今まで自分を生きてきた。

 

これからはその生き方を止めて、自分をすべて神に献げて、神に生かされていく。

 

自分が180度変えられることが礼拝なんです。

 

しかし、そうなりますと、自分がそういう礼拝をささげることができているか、不安になってしまいますね。

 

ただ、パウロは2節でこう語っています。

 

「自分を変えていただき」なさい。

 

変えていただきなさい、何ですね。

 

自分で自分を変えなさい、ではないんです。

 

変えていただく。

 

神様に変えていただくんです。

 

神様が私たちをそのようにしてくださるんですね。

 

私たちは、変えていただかなければなりません。

 

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言われていますね。

 

この「倣ってはなりません」という言葉は、「型にはめられてはいけない」というような言葉なんですね。

 

この世は私たちを型にはめようとします。

 

そこから変えられなさいということですね。

 

こちらは、「形を変えられる」という感じの言葉がつかわれていまして、これは、新しい別の型にはめるということではなくて、中身の変化が外に現れるという意味合いの言葉です。

 

世の中の方にはめられたところから、神様に取り扱っていただいて、内側から変えていただきなさいということですね。

 

神様が私たちをそのように取り扱ってくださるんだから、それを願い求めなさいということです。

 

私たちは、自分で自分を変えることはできないんですね。

 

そもそも、自分で自分を変えるというのなら、それは自分を献げていないということになりますね。

 

だからこそ、主権者である神様にしていただきなさいということなんです。

 

私たちは変えられて初めて、神を知りはじめることになります。

 

私たちは、そもそも神のことが分かっていないんですね。

 

それどころか、「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」も分かっていない。

 

何も分かっていないんです。

 

だからこそ、自分の思っていることや願っていることを、これが神さまの御心だと思い込んでいてはならないんです。

 

私たちは、そう思い込むくせがあります。

 

けれども私たちは、何も分かっていないんです。

 

だからこそ、私たちは神様に自分を献げる必要があります。

 

生き方が丸ごと新しくされる必要があるんです。

 

ただそれは恐ろしいことではありません。

 

パウロはこの言葉を、神の憐れみによって勧めています。

 

ですからそこには、励ましがあり慰めがあります。

 

神の憐れみがあります。

 

なにも恐れることはないんですね。

 

そして、まさにそのように自分を献げて生きたパウロだからこそ、神様に大いに用いられたんですね。

 

そのパウロが私たちに言います。

 

「心を新たにして自分を変えていただきなさい」。

 

自分自身を、神様に献げましょう。

 

神様は私たち一人一人においても、素晴らしい業をなしてくださることでしょう。