今週の説教「キリストにあやかる」(新約聖書・ローマの信徒への手紙6章1節から11節)

「キリストにあやかる」

 

ローマの信徒への手紙61節から11

 

1では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

 

 

 

 

最初のところで、いきなり何か大胆なことが言われていますね。

 

「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。

 

こんなこと考えますか、という感じですね。

 

ただ、よく考えてみると、なるほどと思わせられる部分もあります。

 

自分の罪が分かれば分かるほど、救いの恵みが大きく感じるということはあると思うんですね。

 

むしろ、自分の罪、自分が神に背いているということ、そういう性質が自分にあるということ、それが分からなければ、神様がそれでもなお私たちを愛してくださっているという恵みは分からないわけです。

 

そういうことですから、こういう屁理屈を言う人が出てきてもおかしくはないですね。

 

「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。

 

そうした方が、神様の恵みが良く分かる、ということを言いたいわけなんですね。

 

ですけれどもこれは、そういうことを言ってキリスト教を批判する人がいたということなんですね。

 

素直な気持ちでそう言っているんじゃないんです。

 

それだとこんなことになってしまうじゃないか、ということで、こんなことを言ってキリスト教を批判したんですね。

 

ただ、批判する人は何も意地悪をするつもりでこんなことを言っているのではありませんでして、まじめなつもりなんですね。

 

批判していたのはユダヤ教の人たちでした。

 

ユダヤ教というのは神の言葉を守ったかどうかがすべてです。

 

しかし、キリスト教は、神の言葉を守ったら救われる、守らなかったら救われないということではなくて、神様は神の言葉を守れない罪人を救ってくださる方なんだ、と言ったんですね。

 

けれどもそれをユダヤ教は受け入れませんでして、もしそんなことがあるんだったら、こういうことになってしまうじゃないか、人は誰も良いことをしようなんて思わなくなるじゃないか、むしろそれだと人間がダメになってしまうじゃないか、と言って批判したんですね。

 

私たちはこんな屁理屈は言わないかもしれません。

 

しかし、これは私たちの問題でもあります。

 

考えてみれば、私たちは、自分の罪を本気で見つめることをあまりしないのではないかと思うんです。

 

神様が罪人であるこの私を救ってくださった。

 

そうなりますと、私たちの気持ちとしては喜びが中心になりますので、わたしたちが自分の罪に無自覚になってしまうということはありうることだとおもうんですね。

 

けれども、そんな私たちに今日の御言葉は語りかけます。

 

新しい視点を与えるんですね。

 

それが、私たちは罪に対して死んでいるということですね。

 

ここで洗礼の話がなされていますが、洗礼という言葉は原文では「どっぷり浸かる」というくらいの意味の言葉で、一般的につかわれた言葉です。

 

今は洗礼の際にほんのわずか頭にしずくをかけるだけ、という教会も多いのですが、この手紙が書かれた時代には、洗礼というのは文字通り、全身を水に沈めて行われました。

 

そして、聖書では、水というのは死のイメージになります。

 

ノアの時代に大洪水が起こって、大水が押し寄せて箱舟に乗った人と生き物以外、すべての生き物が命を落としたという物語がありますけれども、水というのは死のイメージなんです。

 

ですので、全身水につけられるというのはこれは一度死ぬことなんですね。

 

けれども、そこから上がってくるわけです。

 

そして、新しく生き始めるんですね。

 

6節に「わたしたちの古い自分」が死んだということが書かれていますけれども、私たちは一度死んで、新しく生まれ直したんですね。

 

それは、罪に対して死んだんです。

 

それは、6節に書かれている通り、もう私たちが罪に支配されていないということです。

 

これは逆に言うと、死ななければ罪から抜け出すことができないほど、私たちにとって罪は根深いものであるということにもなりますが、とにかくそれはもう済んだことなんですね。

 

古い自分はもういない。

 

死んだんです。

 

私たちは、今や新しく生まれ直しました。

 

そのことが良く分かる表現が5節です。

 

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と言われていますが、「一体になる」という言葉は直訳すれば「共に植えられる」という言葉です。

 

私たちは苗木として、新しく植えられたんですね。

 

そこがスタート・ラインなんです。

 

洗礼はキリストの「死の姿にあやかる」ことであるわけですが、死んで終わりではないんですね。

 

古い自分に死んで、新しく生き始めるんです。

 

だとするなら、キリストの「復活の姿にもあやかれるでしょう」ということになるんですね。

 

ただ、私たちは、それをなかなか自分で感じることはできないでいます。

 

古い自分に死んで、まったく新しいスタートを切ったかと言われたら、なかなかそうだとは言えない部分があります。

 

けれども、11節にこう書かれています。

 

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。

 

そのように考えなさい、なんですね。

 

私たちはそのことをなかなか実感できないかもしれません。

 

しかし、そのように考えなさい、なんです。

 

それが事実だ、ということですね。

 

実感できなくても事実なんだ、と言うんです。

 

私たちは、自分の実感によってではなくて、神の次元でのその事実を受け入れることが求められているんです。

 

私たちが新しくされたということは、私たちは自分たちではまったく実感できないことかもしれません。

 

けれども、最初から、実感しなさい、実感できなければいけなさいとは言われていないんですね。

 

むしろ、自分の実感によって生きるのではなく、神の次元での事実を生きていくように求められている。

 

それが古い自分に死んで新しく生きるということです。

 

私たちはもう、罪に支配されていません。

 

私たちは古い自分に死んだんですから、罪はもう、今新しく生きている私たちを支配することはできません。

 

私たちの実感としては、いえこれは事実そうでもありますが、確かに罪が私たちの内にあって、それはもうものすごい力で私たちを支配しようとしているように感じますけれども、罪の支配から神の支配に移し替えられた私たちを、罪が再び支配することはありません。

 

私たちは今や、キリストと一体になって生きています。

 

そのキリストは、罪との戦いにもうすでに勝利してくださったんですね。

 

そのキリストと共に新しく植えられたんですから、私たちが罪に敗れて枯れてしまうなんていうことはないんですね。

 

その、神の事実に支えられて、私たちは残された罪と戦っていくんです。

 

勝利を約束された戦いを、生涯、戦い続けていくんです。