今週の説教「系図というもの」(新約聖書・マタイによる福音書1章1-17節)

⛪今週の予定

5/29()東部中会婦人会総会・修養会(東京恩寵教会、10:30-16:009:30に練馬春日町駅集合)、韓国語講座(中級・14:00-15:30)

5/30()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

5/31()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

6/1()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)

6/2()牧師週休日

6/3()試問会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(長老・執事の任職、就職式、10:30-12:30)、食事会(12:00-13:00)、小会・執事会(13:00-15:30)、掃除

 

🎤6/3()の説教

聖書・マタイによる福音書118節から25

説教題「誕生」

賛美歌・12232383514023922318165-12740-5

 

📅8月までの教会の行事

63()10()長老執事の試問、任職、就職式

617()父の日・ユース集会(江古田)

715()ユース集会(光が丘、716日に江古田教会で夏祭り)

811()夏休みお楽しみ会

819()献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会


「系図というもの」

 

マタイによる福音書11-17

 

1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 

2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6エッサイはダビデ王をもうけた。

 

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

 

12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 

17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 

 

 

 

 

今日の個所はクリスマスの時にもよく読まれる個所ですね。

 

今までにも何度か説教をしてきましたし、皆さんももう何度も読んできた個所ではないかと思います。

 

そうなると、語る側としてもなかなかチャレンジなことになるわけなんですが、しかし、今日からマタイによる福音書の説教に入るということで、この個所を外すというわけにもいかないわけです。

 

ただ、聖書は神の言葉で、神の言葉というのは永遠の言葉ですね。

 

一度読んだらそれでもういい、それでもうおしまいということではないですね。

 

永遠の約束なんです。

 

ですから、そのつもりで読んでいきたいですね。

 

そして、これは昔、聞いた話なんですが、ある年配の牧師がある教会に招かれて説教をしたんだそうです。

 

けれども、そこでやった説教というのを、その先生はその教会で、以前にしたことがあったんだそうです。

 

それを忘れていて、同じ個所から同じ説教をしてしまったんですね。

 

説教を聞いていたある青年が、礼拝が終わった後、その先生のところに行って、言ったんだそうです。

 

「先生、今日の説教はこの前してくださった説教と同じでしたね」。

 

そうすると先生はその青年にこう言いました。

 

「じゃあ君は私がこの前言ったことができるようになったのか」。

 

青年は答えました。

 

「なっていません」。

 

そうすると先生は言いました。

 

「君ができるようになるまで、私は何度でも言うぞ!」。

 

……ということですので、何度でも語りたいと思います。

 

皆さんが今日の御言葉を本当に心の中に納めてくださって、その御言葉を生きることができるようになるように、しっかりお伝えしたいと思います。

 

とは言いましても、系図なんですね。

 

良く分からない名前がどんどんどんどん出てくるんですね。

 

この系図というものが聖書の中には時々出てきます。

 

旧約聖書にも結構出てくるんですね。

 

もう何なのか分からないくらい、こんな感じで、人の名前がズラーッと並ぶんですね。

 

一体どうして、こんな、意味があるとも思えないようなページがあるのかなあと思いますが、まず、この「系図」という言葉ですが、旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、「物語」という意味にもなる言葉なんですね。

 

聖書というと、神について書かれた本であるということもできますが、そこに人の物語が織り込まれている。

 

聖書は神と人との物語なんですね。

 

神は人間を無視しないんです。

 

人間に付き合ってくださるんですね。

 

一人一人に向き合ってくださるのが聖書の神なんですね。

 

系図に記されている一人一人にそれぞれの人柄があり、それぞれの人生があったことでしょう。

 

その一人一人をつないで、この系図という物語ができてくるんですね。

 

この系図の中には有名な人もそうでない人もいます。

 

それでも、神様は無視しない。

 

有名でないからと言って、カッコに入れて、何代省略というようにはしない。

 

この系図に出てくる人の後半の3分の1くらいは、聖書の他の箇所に名前が出てこない人です。

 

今ではもう誰も知らない人なんです。

 

でも、神様は見落とさないんです。

 

しっかり見てくださっている。

 

ですから、私たちも信じることができますね。

 

私たちも、見落とされていないんです。

 

神様の物語の中に、ちゃんと入れられている。

 

今こうやって、私たちは御言葉を聞いているわけですが、これがその証拠ですよね。

 

神は私たち一人一人に向き合って、付き合ってくださる。

 

これがこの系図の意味なんです。

 

そして、この系図が新約聖書の一番最初におかれているんですよね。

 

旧約聖書はいつの日か救い主がやってくるということを記しているわけなんですが、新約聖書はその救い主がイエスだと言っているわけです。

 

そして、この新約聖書の一番最初の11節が、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」ということなんですね。

 

「イエス・キリスト」と書かれていますが、「キリスト」というのは救い主のことです。

 

それが、16節に行きますと、「メシア」という言葉になっていますね。

 

キリストもメシアも同じ意味です。

 

メシアというのがもともとのヘブライ語です。

 

直訳しますと、油注がれた者という意味になります。

 

旧約聖書の時代には神様の働きをする人には頭から油を注ぐということがありまして、それで、神様の働きをする人のことを油注がれた者、メシアと呼ぶようになったんですね。

 

新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、メシアをギリシャ語に翻訳する時に「キリスト」という言葉を持ってきたんですね。

 

キリストという言葉は塗り薬の「軟膏」という意味の言葉なんですが、メシアの訳語としてそういう言葉をつかいました。

 

そのキリストはイスラエル人として生まれるとされていましたので、11節にはキリストが「アブラハムの子」だと書かれています。

 

「アブラハムの子」と言ったらイスラエル人のことなんですね。

 

そして、キリストはダビデ王の子孫だということが旧約聖書に言われていましたので、キリストは「ダビデの子」だと書かれています。

 

ですので、この系図は、キリストが旧約聖書の時代から待ち望まれてきた救い主だということを示すものなんですね。

 

この系図はアブラハムから始まっています。

 

神はアブラハムに語りかけまして、その言葉に従って、アブラハムは旅を始めました。

 

そういうと簡単そうに聞こえますが、その時、アブラハムには行先も知らされていなかったんです。

 

けれども、アブラハムは神の言葉に応えて旅を始めたんですね。

 

アブラハムは「信仰の父」とも呼ばれるようになる人ですけれども、信仰とは神の言葉を信じて行先の分からない旅をすることかもしれません。

 

ただ、神の言葉に従うアブラハムに、最初から祝福の約束は与えられていたんですね。

 

それを信じて旅立つ。

 

それまでの自分を捨てる。

 

自分を捨てて、神の側につく。

 

アブラハムはそうやって信仰の旅を始めたんでした。

 

けれども、この系図に記される全員がそうだったわけではありません。

 

この系図に出てくる名前はほとんど全員男性の名前なんですが、途中で4人、女性の名前が出てきています。

 

男性の名前だけで書くんだったらそうしてもいいのに、わざわざ女性の名前が出てきているんですね。

 

3節のタマルと5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻。

 

女性がそこだけ出てきているんです。

 

これには理由があります。

 

3節のタマルですが、この人はユダと結ばれてペレツとゼラを生んだんですが、ユダにとってタマルは息子の嫁なんです。

 

つまりタマルは自分の夫の父との間に子どもをもうけたんですね。

 

大変なことです。

 

ということはこの系図は、普通なら隠しておきたいようなことをわざわざ指摘しているんですね。

 

そんな系図、聞いたことがないですね。

 

神の系図は人の系図とは違うんです。

 

5節のラハブは遊女です。

 

そして、極めつけは6節のウリヤの妻、この人はバト・シェバという名前だったのですが、わざわざウリヤの妻と記されています。

 

ダビデは、ウリヤという人の妻を奪って自分のものにしたんです。

 

それだけでも大変なことですが、その後にダビデはウリヤを危険な戦場に送り、戦死させました。

 

つまり、わざわざこの系図に出てくる女性の名前は、そこにある罪と恥を明らかにしているんです。

 

罪と恥の中に、この系図は記されているんです。

 

そして、4人の女性たちは4人とも外国人であったと考えられています。

 

イスラエル人は自分たちこそ神に選ばれた神の民であるということで自分たちの血を誇りますが、4人の女性たちは神の民イスラエルの一員ではなかったんですね。

 

これも、イスラエル人としては隠しておきたいことなんです。

 

しかしそのことが、わざわざ4人の名前を出して、書かれているんですね。

 

これは一体どういうことでしょうか。

 

それでいい、と神は言うんですね。

 

17節を見ると、この系図は、14代の名前が合計3セットになっているということが言われています。

 

147×2ですね。

 

そして聖書では、7は完全を表す数字です。

 

完全×2、ということですから、まったく完全ということなんです。

 

それも、それが3セットです。

 

これでいいんです。

 

これが人の現実なんだから、もうこれでいいんです。

 

これがキリストの系図なんですが、キリストは、人の罪をたどりながら来てくださるんですね。

 

罪や恥を避けたりはしないんです。

 

それを避けるというのなら、もうキリストは私たちのところには来ることはできないでしょう。

 

だとしたら系図なんて記しても何の意味もありません。

 

キリストは、隠しておきたいような罪や恥があったとしても、じゃあもう行きませんなんていうことにはなさらないんですね。

 

そしてこれはここに書かれている人たちだけの話ではありません。

 

罪と恥があるのは私たち全員です。

 

私たち全員に、隠しておきたいことがあるでしょう。

 

けれども、この系図を見ると、一人一人の名前がちゃんと記されて、それがキリストにたどり着いているんです。

 

罪と恥の中を、キリストは来てくださるんです。

 

それでいいんです。

 

それが人間の現実なんです。

 

むしろ、人をそこから救い出すため、キリストは来てくださるんですね。

 

そのために、キリストはこのような罪と恥の系図を、ご自分の系図として受け入れてくださるんですね。

 

このような系図を、ご自分の系図にしてくださるんです。

 

それでいいとおっしゃってくださるんです。

 

キリストは、そこまで、私たちに付き合ってくださるんです。

 

私たち一人一人の現実に付き合ってくださるんです。

 

一人一人の物語に付き合ってくださって、一人一人の物語を神の救いの物語にしてくださるんです。