
✜5/29(火)東部中会婦人会総会・修養会(東京恩寵教会、10:30-16:00※9:30に練馬春日町駅集合)、韓国語講座(中級・14:00-15:30)
✜5/30(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜5/31(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜6/1(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)
✜6/2(土)牧師週休日
✜6/3(日)試問会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(長老・執事の任職、就職式、10:30-12:30)、食事会(12:00-13:00)、小会・執事会(13:00-15:30)、掃除
🎤6/3(日)の説教
説教題「誕生」
賛美歌・122、32、38、351、402、392、231、81、65-1、27、40-5
📅8月までの教会の行事
✜6月3日(日)と10日(日)長老執事の試問、任職、就職式
✜7月15日(日)ユース集会(光が丘、7月16日に江古田教会で夏祭り)
✜8月11日(土)夏休みお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会

「系図というもの」
マタイによる福音書1章1-17節
2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
今日の個所はクリスマスの時にもよく読まれる個所ですね。
今までにも何度か説教をしてきましたし、皆さんももう何度も読んできた個所ではないかと思います。
そうなると、語る側としてもなかなかチャレンジなことになるわけなんですが、しかし、今日からマタイによる福音書の説教に入るということで、この個所を外すというわけにもいかないわけです。
ただ、聖書は神の言葉で、神の言葉というのは永遠の言葉ですね。
一度読んだらそれでもういい、それでもうおしまいということではないですね。
永遠の約束なんです。
ですから、そのつもりで読んでいきたいですね。
そして、これは昔、聞いた話なんですが、ある年配の牧師がある教会に招かれて説教をしたんだそうです。
けれども、そこでやった説教というのを、その先生はその教会で、以前にしたことがあったんだそうです。
それを忘れていて、同じ個所から同じ説教をしてしまったんですね。
説教を聞いていたある青年が、礼拝が終わった後、その先生のところに行って、言ったんだそうです。
「先生、今日の説教はこの前してくださった説教と同じでしたね」。
そうすると先生はその青年にこう言いました。
「じゃあ君は私がこの前言ったことができるようになったのか」。
青年は答えました。
「なっていません」。
そうすると先生は言いました。
「君ができるようになるまで、私は何度でも言うぞ!」。
……ということですので、何度でも語りたいと思います。
皆さんが今日の御言葉を本当に心の中に納めてくださって、その御言葉を生きることができるようになるように、しっかりお伝えしたいと思います。
とは言いましても、系図なんですね。
良く分からない名前がどんどんどんどん出てくるんですね。
この系図というものが聖書の中には時々出てきます。
旧約聖書にも結構出てくるんですね。
もう何なのか分からないくらい、こんな感じで、人の名前がズラーッと並ぶんですね。
一体どうして、こんな、意味があるとも思えないようなページがあるのかなあと思いますが、まず、この「系図」という言葉ですが、旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、「物語」という意味にもなる言葉なんですね。
聖書というと、神について書かれた本であるということもできますが、そこに人の物語が織り込まれている。
聖書は神と人との物語なんですね。
神は人間を無視しないんです。
人間に付き合ってくださるんですね。
一人一人に向き合ってくださるのが聖書の神なんですね。
系図に記されている一人一人にそれぞれの人柄があり、それぞれの人生があったことでしょう。
その一人一人をつないで、この系図という物語ができてくるんですね。
この系図の中には有名な人もそうでない人もいます。
それでも、神様は無視しない。
有名でないからと言って、カッコに入れて、何代省略というようにはしない。
この系図に出てくる人の後半の3分の1くらいは、聖書の他の箇所に名前が出てこない人です。
今ではもう誰も知らない人なんです。
でも、神様は見落とさないんです。
しっかり見てくださっている。
ですから、私たちも信じることができますね。
私たちも、見落とされていないんです。
神様の物語の中に、ちゃんと入れられている。
今こうやって、私たちは御言葉を聞いているわけですが、これがその証拠ですよね。
神は私たち一人一人に向き合って、付き合ってくださる。
これがこの系図の意味なんです。
そして、この系図が新約聖書の一番最初におかれているんですよね。
旧約聖書はいつの日か救い主がやってくるということを記しているわけなんですが、新約聖書はその救い主がイエスだと言っているわけです。
そして、この新約聖書の一番最初の1章1節が、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」ということなんですね。
「イエス・キリスト」と書かれていますが、「キリスト」というのは救い主のことです。
それが、16節に行きますと、「メシア」という言葉になっていますね。
キリストもメシアも同じ意味です。
メシアというのがもともとのヘブライ語です。
直訳しますと、油注がれた者という意味になります。
旧約聖書の時代には神様の働きをする人には頭から油を注ぐということがありまして、それで、神様の働きをする人のことを油注がれた者、メシアと呼ぶようになったんですね。
新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、メシアをギリシャ語に翻訳する時に「キリスト」という言葉を持ってきたんですね。
キリストという言葉は塗り薬の「軟膏」という意味の言葉なんですが、メシアの訳語としてそういう言葉をつかいました。
そのキリストはイスラエル人として生まれるとされていましたので、1章1節にはキリストが「アブラハムの子」だと書かれています。
「アブラハムの子」と言ったらイスラエル人のことなんですね。
そして、キリストはダビデ王の子孫だということが旧約聖書に言われていましたので、キリストは「ダビデの子」だと書かれています。
ですので、この系図は、キリストが旧約聖書の時代から待ち望まれてきた救い主だということを示すものなんですね。
この系図はアブラハムから始まっています。
神はアブラハムに語りかけまして、その言葉に従って、アブラハムは旅を始めました。
そういうと簡単そうに聞こえますが、その時、アブラハムには行先も知らされていなかったんです。
けれども、アブラハムは神の言葉に応えて旅を始めたんですね。
アブラハムは「信仰の父」とも呼ばれるようになる人ですけれども、信仰とは神の言葉を信じて行先の分からない旅をすることかもしれません。
ただ、神の言葉に従うアブラハムに、最初から祝福の約束は与えられていたんですね。
それを信じて旅立つ。
それまでの自分を捨てる。
自分を捨てて、神の側につく。
アブラハムはそうやって信仰の旅を始めたんでした。
けれども、この系図に記される全員がそうだったわけではありません。
この系図に出てくる名前はほとんど全員男性の名前なんですが、途中で4人、女性の名前が出てきています。
男性の名前だけで書くんだったらそうしてもいいのに、わざわざ女性の名前が出てきているんですね。
3節のタマルと5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻。
女性がそこだけ出てきているんです。
これには理由があります。
3節のタマルですが、この人はユダと結ばれてペレツとゼラを生んだんですが、ユダにとってタマルは息子の嫁なんです。
つまりタマルは自分の夫の父との間に子どもをもうけたんですね。
大変なことです。
ということはこの系図は、普通なら隠しておきたいようなことをわざわざ指摘しているんですね。
そんな系図、聞いたことがないですね。
神の系図は人の系図とは違うんです。
5節のラハブは遊女です。
そして、極めつけは6節のウリヤの妻、この人はバト・シェバという名前だったのですが、わざわざウリヤの妻と記されています。
ダビデは、ウリヤという人の妻を奪って自分のものにしたんです。
それだけでも大変なことですが、その後にダビデはウリヤを危険な戦場に送り、戦死させました。
つまり、わざわざこの系図に出てくる女性の名前は、そこにある罪と恥を明らかにしているんです。
罪と恥の中に、この系図は記されているんです。
そして、4人の女性たちは4人とも外国人であったと考えられています。
イスラエル人は自分たちこそ神に選ばれた神の民であるということで自分たちの血を誇りますが、4人の女性たちは神の民イスラエルの一員ではなかったんですね。
これも、イスラエル人としては隠しておきたいことなんです。
しかしそのことが、わざわざ4人の名前を出して、書かれているんですね。
これは一体どういうことでしょうか。
それでいい、と神は言うんですね。
17節を見ると、この系図は、14代の名前が合計3セットになっているということが言われています。
14=7×2ですね。
そして聖書では、7は完全を表す数字です。
完全×2、ということですから、まったく完全ということなんです。
それも、それが3セットです。
これでいいんです。
これが人の現実なんだから、もうこれでいいんです。
これがキリストの系図なんですが、キリストは、人の罪をたどりながら来てくださるんですね。
罪や恥を避けたりはしないんです。
それを避けるというのなら、もうキリストは私たちのところには来ることはできないでしょう。
だとしたら系図なんて記しても何の意味もありません。
キリストは、隠しておきたいような罪や恥があったとしても、じゃあもう行きませんなんていうことにはなさらないんですね。
そしてこれはここに書かれている人たちだけの話ではありません。
罪と恥があるのは私たち全員です。
私たち全員に、隠しておきたいことがあるでしょう。
けれども、この系図を見ると、一人一人の名前がちゃんと記されて、それがキリストにたどり着いているんです。
罪と恥の中を、キリストは来てくださるんです。
それでいいんです。
それが人間の現実なんです。
むしろ、人をそこから救い出すため、キリストは来てくださるんですね。
そのために、キリストはこのような罪と恥の系図を、ご自分の系図として受け入れてくださるんですね。
このような系図を、ご自分の系図にしてくださるんです。
それでいいとおっしゃってくださるんです。
キリストは、そこまで、私たちに付き合ってくださるんです。
私たち一人一人の現実に付き合ってくださるんです。
一人一人の物語に付き合ってくださって、一人一人の物語を神の救いの物語にしてくださるんです。
系図というもの (家谱)
今日の個所はクリスマスの時にもよく読まれる個所ですね。
今天的内容是圣诞节时经常被读到的内容。
今までにも何度か説教をしてきましたし、皆さんももう何度も読んできた個所ではないかと思います。
至今已讲到过多次,我想大家也已经读过很多次这部分内容了吧?
そうなると、語る側としてもなかなかチャレンジなことになるわけなんですが、しかし、今日からマタイによる福音書の説教に入るということで、この個所を外すというわけにもいかないわけです。
这样的话对讲员而言也是很难的挑战,可是从今天起要开始马太福音的讲道,还是不能跳过这部分的内容。
ただ、聖書は神の言葉で、神の言葉というのは永遠の言葉ですね。
因为唯有圣经是神的话语,神的话语是永恒的。
一度読んだらそれでもういい、それでもうおしまいということではないですね。
并不是读了一遍就好了,读了一遍就结束了。
永遠の約束なんです。
而是永恒的约定。
ですから、そのつもりで読んでいきたいですね。
因此要一直读下去。
そして、これは昔、聞いた話なんですが、ある年配の牧師がある教会に招かれて説教をしたんだそうです。
曾经听到过这样的事情,某位年长的牧师受某教会邀请讲道。
けれども、そこでやった説教というのを、その先生はその教会で、以前にしたことがあったんだそうです。
可是,讲道的内容是这位牧师以前在这个教会讲过的。
それを忘れていて、同じ個所から同じ説教をしてしまったんですね。
可是他忘记了,于是在同一个地方进行了同样的讲道。
説教を聞いていたある青年が、礼拝が終わった後、その先生のところに行って、言ったんだそうです。
据说听了讲道的一个青年,礼拜结束后到牧师那边去说了。
「先生、今日の説教はこの前してくださった説教と同じでしたね」。
“牧师,今天的讲道和以前的讲道是一样的。”
そうすると先生はその青年にこう言いました。
于是牧师问这位青年:
「じゃあ君は私がこの前言ったことができるようになったのか」。
“那么我以前说的你做到了吗?”
青年は答えました。
青年回答:
「なっていません」。
“没有。”
そうすると先生は言いました。
于是牧师说:
「君ができるようになるまで、私は何度でも言うぞ!」。
那不管多少遍我都要讲直到你做到为止。
……ということですので、何度でも語りたいと思います。
为此,我也是不管多少遍都想说。
皆さんが今日の御言葉を本当に心の中に納めてくださって、その御言葉を生きることができるようになるように、しっかりお伝えしたいと思います。
为了让大家能把今天的话语真正地记在心里,让神的话语运行在大家的里面,我想要好好的把今天的信息传达给大家。
とは言いましても、系図なんですね。
虽说如此,家谱中
良く分からない名前がどんどんどんどん出てくるんですね。
不怎么明白的人名大量地出现。
この系図というものが聖書の中には時々出てきます。
家谱在圣经中经常出现。
旧約聖書にも結構出てくるんですね。
旧约中也出现很多次。
もう何なのか分からないくらい、こんな感じで、人の名前がズラーッと並ぶんですね。
似乎不明所以,人名被一长溜地列举出来。
一体どうして、こんな、意味があるとも思えないようなページがあるのかなあと思いますが、まず、この「系図」という言葉ですが、旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、「物語」という意味にもなる言葉なんですね。
到底为什么会有这样并不没有什么意义的章节呢?首先,在旧约所使用的语言希伯来语中家谱是故事的意思。
聖書というと、神について書かれた本であるということもできますが、そこに人の物語が織り込まれている。
圣经可以说是写关于神的书,但是里面也穿插着人的故事。
聖書は神と人との物語なんですね。
圣经是神和人的故事。
神は人間を無視しないんです。
神不会忽略人。
人間に付き合ってくださるんですね。
他与人交通。
一人一人に向き合ってくださるのが聖書の神なんですね。
与每一个人交通的就是圣经中的神。
系図に記されている一人一人にそれぞれの人柄があり、それぞれの人生があったことでしょう。
家谱中记录的每一个人有各样的人品,各样的人生不是吗。
その一人一人をつないで、この系図という物語ができてくるんですね。
一个个人连接起来,就形成了家谱。
この系図の中には有名な人もそうでない人もいます。
家谱中有有名的也有无名的,
それでも、神様は無視しない。
然而神不会忽略他们的存在。
有名でないからと言って、カッコに入れて、何代省略というようにはしない。
虽说没有名气,并没有用括号括起来,写上此处省略几代。
この系図に出てくる人の後半の3分の1くらいは、聖書の他の箇所に名前が出てこない人です。
这个家谱中出现的后半部分大约三分之一的人都是圣经其他部分没有出现过的人物。
今ではもう誰も知らない人なんです。
是现在谁都不知道的人物。
でも、神様は見落とさないんです。
但是,神并没有忽视他们。
しっかり見てくださっている。
而是同样地看顾着。
ですから、私たちも信じることができますね。
因此,我们也可以相信,
私たちも、見落とされていないんです。
神也不会忽视我们。
神様の物語の中に、ちゃんと入れられている。
在神的故事中也的的确确有我们的存在。
今こうやって、私たちは御言葉を聞いているわけですが、これがその証拠ですよね。
现在我们如此听着神的话语,这就是证明。
神は私たち一人一人に向き合って、付き合ってくださる。
神眷顾我们每一个人,与我们每一个人交通。
これがこの系図の意味なんです。
这就是家谱的意义。
そして、この系図が新約聖書の一番最初におかれているんですよね。
因此,家谱放在新约圣经的最开始部分。
旧約聖書はいつの日か救い主がやってくるということを記しているわけなんですが、新約聖書はその救い主がイエスだと言っているわけです。
旧约圣经记载着有一天救世主会来,新约说到这位救世主就是耶稣。
そして、この新約聖書の一番最初の1章1節が、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」ということなんですね。
因此,新约一开头一章一节就是亚伯拉罕的后裔大卫的子孙耶稣基督的家谱。
「イエス・キリスト」と書かれていますが、「キリスト」というのは救い主のことです。
写的是耶稣基督,而基督就是救世主。
それが、16節に行きますと、「メシア」という言葉になっていますね。
到了16节,用了弥赛亚一词。
キリストもメシアも同じ意味です。
基督和弥赛亚是同一个意思。
メシアというのがもともとのヘブライ語です。
弥赛亚原来是希伯来语。
直訳しますと、油注がれた者という意味になります。
直译的话就是膏油者的意思。
旧約聖書の時代には神様の働きをする人には頭から油を注ぐということがありまして、それで、神様の働きをする人のことを油注がれた者、メシアと呼ぶようになったんですね。
在旧约时代要给为神做工的人头上抹膏油,而给那些为神做工的人抹膏油的被称为弥赛亚。
新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、メシアをギリシャ語に翻訳する時に「キリスト」という言葉を持ってきたんですね。
新约是用希腊语写的,把弥赛亚翻成希腊语的时候用了基督这个词。
キリストという言葉は塗り薬の「軟膏」という意味の言葉なんですが、メシアの訳語としてそういう言葉をつかいました。
基督这个词是外用药软膏的意思,被用作了弥赛亚这个词的翻译。
そのキリストはイスラエル人として生まれるとされていましたので、1章1節にはキリストが「アブラハムの子」だと書かれています。
基督作为以色列人出生,所以在一章一节中写着亚伯拉罕的后裔。
「アブラハムの子」と言ったらイスラエル人のことなんですね。
亚伯拉罕后裔的话就是以色列人。
そして、キリストはダビデ王の子孫だということが旧約聖書に言われていましたので、キリストは「ダビデの子」だと書かれています。
而基督是大卫子孙在旧约中就说到了,因为写着基督是大卫的后裔。
ですので、この系図は、キリストが旧約聖書の時代から待ち望まれてきた救い主だということを示すものなんですね。
因此,这个家谱是要显明基督是从旧约时代就渴慕的救世主。
この系図はアブラハムから始まっています。
这个家谱是从亚伯拉罕开始的。
神はアブラハムに語りかけまして、その言葉に従って、アブラハムは旅を始めました。
神的话临到亚伯拉罕,遵循着上帝的话语,亚伯拉罕开始了他的征程。
そういうと簡単そうに聞こえますが、その時、アブラハムには行先も知らされていなかったんです。
听起来似乎很简单,但是那个时候亚伯拉罕连目的地都不知道。
けれども、アブラハムは神の言葉に応えて旅を始めたんですね。
然而亚伯拉罕顺从神的话语开始了征程。
アブラハムは「信仰の父」とも呼ばれるようになる人ですけれども、信仰とは神の言葉を信じて行先の分からない旅をすることかもしれません。
亚伯拉罕被称为信仰之父,所谓信仰或许就是信神的话踏上未知的征程。
ただ、神の言葉に従うアブラハムに、最初から祝福の約束は与えられていたんですね。
单单遵从神话语的亚伯拉罕从一开始就得到了祝福的约定。
それを信じて旅立つ。
信此而启程。
それまでの自分を捨てる。
摈弃老我。
自分を捨てて、神の側につく。
放下自我,跟从神。
アブラハムはそうやって信仰の旅を始めたんでした。
亚伯拉罕如此开始了信仰之旅。
けれども、この系図に記される全員がそうだったわけではありません。
可是,并不是这个家谱中记载的所有人都如此。
この系図に出てくる名前はほとんど全員男性の名前なんですが、途中で4人、女性の名前が出てきています。
家谱中出现的人名大多都是男性,中间有四个人是女性。
男性の名前だけで書くんだったらそうしてもいいのに、わざわざ女性の名前が出てきているんですね。
即使只记录男的姓名也可以,却特地出现的女性的名字。
3節のタマルと5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻。
三节的他玛,五节的喇合和路得,6节的乌利亚的妻子。
女性がそこだけ出てきているんです。
女性只出现了这些。
これには理由があります。
这也是有理由的。
3節のタマルですが、この人はユダと結ばれてペレツとゼラを生んだんですが、ユダにとってタマルは息子の嫁なんです。
三节的他玛和犹大结合生了法勒斯和谢拉,对犹大来说他玛是儿媳妇。
つまりタマルは自分の夫の父との間に子どもをもうけたんですね。
也就是说他玛同自己丈夫的父亲生了孩子。
大変なことです。
很严重的事情。
ということはこの系図は、普通なら隠しておきたいようなことをわざわざ指摘しているんですね。
像这样一般会在家谱中掩盖起来的事情却特地指出来,
そんな系図、聞いたことがないですね。
这样的家谱没听过吧。
神の系図は人の系図とは違うんです。
神的家谱和人的家谱是不同的。
5節のラハブは遊女です。
5节的喇合是妓女。
そして、極めつけは6節のウリヤの妻、この人はバト・シェバという名前だったのですが、わざわざウリヤの妻と記されています。
另外尤其是6节的乌利亚的妻子,此人名叫拔士巴,却特地记载为乌利亚的妻子。
ダビデは、ウリヤという人の妻を奪って自分のものにしたんです。
大卫把乌利亚的妻子占为己有,
それだけでも大変なことですが、その後にダビデはウリヤを危険な戦場に送り、戦死させました。
就这已经很过分了,但是后来大卫还把乌利亚派到危险的战场,让他战死了。
つまり、わざわざこの系図に出てくる女性の名前は、そこにある罪と恥を明らかにしているんです。
也就是说,特地在家谱中列出的这些女性,是要显明在这里的罪恶和耻辱。
罪と恥の中に、この系図は記されているんです。
家谱被记载在罪和耻辱中。
そして、4人の女性たちは4人とも外国人であったと考えられています。
而且,这四位女性都是外邦人。
イスラエル人は自分たちこそ神に選ばれた神の民であるということで自分たちの血を誇りますが、4人の女性たちは神の民イスラエルの一員ではなかったんですね。
以色列人因自己被神选为子民而以自己的血统为豪,而四位女性并不是神的子民以色列人。
これも、イスラエル人としては隠しておきたいことなんです。
这也该是以色列人想要掩藏的。
しかしそのことが、わざわざ4人の名前を出して、書かれているんですね。
可是却特地列出了这四人的名字记载在里面。
これは一体どういうことでしょうか。
这到底是怎么一回事呢?
それでいい、と神は言うんですね。
神说这样就好。
17節を見ると、この系図は、14代の名前が合計3セットになっているということが言われています。
看到17节,这个家谱14代为一组分三组。
14=7×2ですね。
14是2乘以7
そして聖書では、7は完全を表す数字です。
而在圣经中,7表示完整的数字。
完全×2、ということですから、まったく完全ということなんです。
完整乘以2是非常完整
それも、それが3セットです。
而且是三组。
これでいいんです。
这样就好。
これが人の現実なんだから、もうこれでいいんです。
因为这是现实,所以这样就好。
これがキリストの系図なんですが、キリストは、人の罪をたどりながら来てくださるんですね。
这是基督的家谱,基督是为人的罪而来
罪や恥を避けたりはしないんです。
无需掩盖罪恶和耻辱。
それを避けるというのなら、もうキリストは私たちのところには来ることはできないでしょう。
如果避开了这些,基督也就不会来到我么中间了,
だとしたら系図なんて記しても何の意味もありません。
记录家谱也就没有任何意义了。
キリストは、隠しておきたいような罪や恥があったとしても、じゃあもう行きませんなんていうことにはなさらないんですね。
即使有想要掩盖的罪恶和耻辱,基督也没有说不去了这样的话。
そしてこれはここに書かれている人たちだけの話ではありません。
这不仅仅是针对记载在家谱中的人
罪と恥があるのは私たち全員です。
而是针对我们所有的罪人。
私たち全員に、隠しておきたいことがあるでしょう。
我们所有人都有想要掩盖的事吧,
けれども、この系図を見ると、一人一人の名前がちゃんと記されて、それがキリストにたどり着いているんです。
然而,看到这个家谱,每一个人的名字都被好好地记下来了,直到基督到来,
罪と恥の中を、キリストは来てくださるんです。
基督来到罪恶和耻辱中。
それでいいんです。
这样就好
それが人間の現実なんです。
这就是人类的现实
むしろ、人をそこから救い出すため、キリストは来てくださるんですね。
可以说为了要把人类从罪恶中救出来,基督才来。
そのために、キリストはこのような罪と恥の系図を、ご自分の系図として受け入れてくださるんですね。
因此,基督把这样的罪恶耻辱的家谱作为自己的家谱接受了,
このような系図を、ご自分の系図にしてくださるんです。
这样的家谱作为自己的家谱。
それでいいとおっしゃってくださるんです。
说这样就好。
キリストは、そこまで、私たちに付き合ってくださるんです。
基督至此为与我们连接
私たち一人一人の現実に付き合ってくださるんです。
与我们每一个人连接
一人一人の物語に付き合ってくださって、一人一人の物語を神の救いの物語にしてくださるんです。
与每一个人的故事连接,把每一个人的故事都作为神的救恩。