
✜6/4(月)牧師週休日
✜6/5(火)聖書を読む会(10:30-12:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)
✜6/6(水)牧会事例研究会(牧師、みずほ台、16:00-17:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜6/7(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜6/8(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)
✜6/9(土)ヤング・サマー・バイブル・キャンプの下見(牧師、奥多摩、13:30-)
✜6/10(日)試問会(9:30-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(長老の任職、就職式、10:30-12:30)、お茶会(12:30-13:00)、埼玉西部地区役員研修会、運営委員会、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除
🎤6/10(日)の説教
説教題「別の道を通って」
賛美歌・148、32、38、531、402、267、65-1、29、40-5
📅9月までの教会の行事
✜7月15日(日)ユース集会(当教会にて、7月16日に江古田教会で夏祭り)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
✜9月16日(日)ユース集会(会場未定)
✜9月29日(土)バザー
📅9月までの中大会の行事
✜6月12日(火)~14日(木)大会役員修養会(豊橋市)
✜7月3日(火)東部中会第一回臨時中会
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会
✜9月17日(月・祝)東部中会信徒修養会
✜9月23日(日)埼玉西部地区講壇交換(尾崎純牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)
✜9月30日(日)連合長老会例会、連合執事会例会

誕生
マタイによる福音書1章18-25節
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
今日はいよいよイエス様に名前が付けられる場面ですね。
イエスという名前が付けられました。
名前を付けたのは誰だったかというと、神様ということになりますね。
ヨセフが夢の中で天使を見て、その天使がイエスという名前にしろと言ったわけです。
「天使」は原文では「伝令」ということですので、神様からの伝令の通りに名前を付けたんですね。
これは、どうしてヨセフとマリアが名前を付けなかったのかと思いますけれども、名前というのは聖書ではいつも、上の者が下の者に付けるんですね。
ですので、イエス様は神の子ですから、神の子の名前をヨセフやマリアが付けるということになるとおかしなことになってしまうわけです。
そこで、どういう名前にするのか、ということは神様がお決めになられたんですね。
ただ、今日の場面はヨセフが中心になっていますけれども、ヨセフが単に神様に従ってだけで、ヨセフの心は穏やかだったかというと、とんでもないですね。
なにしろ、最初の18節に大変なことが書かれていますよね。
マリアは、聖霊によって身ごもったというんです。
ヨセフはそのことをマリアから聞かされたでしょうか。
それは書かれていないので分かりません。
ただ、仮にマリアがヨセフに対して、「聖霊によって身ごもりました」と言ったとしても、誰がそれを信じるでしょうか。
普通に考えたら、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。
信じられるはずはありません。
ヨセフもそうです。
ヨセフも信じなかったんですね。
19節で、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていますね。
縁を切るしかないと決心したということは、信じていないということです。
信じろという方が無理なんです。
ただ、ヨセフは「正しい人」だったんですね。
考えてみますと、ヨセフはここで、マリアを訴えることもできます。
ひそかに縁を切るなんていう方法ではなく、もう堂々と訴えて、自分は間違っていないと主張することもできたんですね。
そうなると、訴えられたマリアは死刑になります。
けれども、ヨセフはそうはしなかったんですね。
ひそかに縁を切る。
それはヨセフが、マリアの命とお腹の子の命を守りたいと考えたということです。
自分の名誉を守るよりも、命を守りたい。
たとえ自分を裏切った相手であっても、守りたい。
それが「正しい人」と呼ばれている理由でしょうね。
マリアを訴えることだって、正しいと言えば正しいことです。
けれどもヨセフはそうはしなかった。
自分を犠牲にしてでも、命を守ろうとしたんです。
ヨセフはそのような人でした。
これは、イエス様の父としてヨセフが選ばれたことが良く分かる話ではないかと思うんですね。
正しい人と聞きますと、私たちは、間違ったことを認めない人をイメージするでしょう。
それはヨセフもそうでした。
間違ったことが起こったと思った時、そういうことが何もなかったかのようにふるまうことはできませんでした。
しかし、この人は、間違ったことを認めないという時に、自分の立場だけで考えることはしないんですね。
自分のことも相手のことも同じように考えて、もっとも良い方法を探すことができるんですね。
自分にかたよっていない人なんです。
本当の意味でフェアな人なんですね。
イエス様の言葉に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉がありますが、まさにそんな感じですね。
自分も他の人も、同じように考えることができるからこそ、こういう結論が出せたんですね。
その本当の意味で、ヨセフは正しい人でした。
考えてみると、ヨセフはイエス様に似ていると思うんですね。
イエス様も、間違ったことを認めません。
罪を認めません。
罪があっても、まあ仕方ないか、で通り過ぎてしまうような人ではありません。
しかし、罪に対して罰をくだすためにイエス様はいらしたわけではないですね。
そこもヨセフと同じです。
ヨセフと同じく、自己犠牲なんですよね。
私が代わりに罰を受けるよ、と。
ご自分を犠牲にしてでも、私たちを守りたいんです。
それがヨセフであり、イエス様なんですね。
やっぱりそのあたりで、ヨセフがイエス様の父親に選ばれたということでしょうね。
これは私自身も考えさせられますね。
「正しい」ということを考える時、私たちは立ち止まって考えるべきだと思うんです。
正しいことをする時にこそ、やり方を考えなければいけませんね。
本当に正しいのか、フェアなのか。
相手を自分自身と同じように愛しているか。
もっと言うと、私たちは皆罪人なんですから、正しいことをする時には、自己犠牲があって初めて本当に正しいと言える、ということかもしれません。
正しさ、というのは振りかざすようなものではないんですね。
その意味で、ヨセフは本当に正しい人でした。
しかし、今日の話はそこでは終わりません。
答えを出したヨセフの夢の中に、天使が現れたんですね。
天使はヨセフに、マリアと結婚するようにと言います。
そして、子どもに名前を付けるようにと言うんですね。
名前はもう決まっているんですが、その名前を付けることはヨセフがするように、ということですね。
名前を付けるというのは、自分の子どもとして認めるということでした。
つまりヨセフは、生まれてくる子供を、誰の子なのか分からない子としてではなく、自分の子として育てなさいと言われたんですね。
これはヨセフにとって大変なことですね。
ヨセフは自分を犠牲にして、ひそかに縁を切ろうと決心していたんですが、これはもっと大きな自己犠牲です。
何しろ、マリアのお腹の中の子どもは、ヨセフとは血のつながりがないんです。
ヨセフには受け入れられないくらいの大きな自己犠牲です。
犠牲を払って決心した自分の考えと全然違うことなんです。
ここでヨセフは何も言わずに、言われたとおりにしました。
そのおかげで、イエス様は無事に生まれてくることができ、父親が誰なのか分からない子ではなく、ヨセフの子どもとして、育てられることになったんですね。
このことにも考えさせられますね。
これは私たちにもあることかもしれません。
私たちも、自分を犠牲にすることがありますが、しかし、自分が犠牲を払っても、それ以上の犠牲が求められることがあるかもしれないということです。
自分はこのようなかたちで犠牲を払おうと考えた。
しかし、それよりもはるかに大きな犠牲を払うことになってしまった。
そういうことというのは私たちにも起こってこないとは限りません。
それはヨセフだけのことで、自分には起こらないなんて、誰にも言えません。
ただ、その時、何が起こっているかということですね。
ヨセフはこの時、何をしたと言えるでしょうか。
ヨセフのおかげでイエス様は生まれてくることができました。
そして、ヨセフのおかげで、イエス様は父親が誰か分からない子にならずにすんだんです。
そして、その子イエスはやがて、ヨセフ以上に自分を犠牲にする形で、多くの人を救うことになります。
つまりヨセフは、実はこの時、神の働きに参加していたんですね。
ですから、この場面を読んでいる私たちも信じていいですね。
私たちも犠牲を払うということがあります。
そして、予想していた以上の犠牲を払うということもあるでしょう。
しかしその時、私たちは何も無駄に犠牲になっているんじゃないんですね。
私たちが神の言葉に従って犠牲を払う時、私たちも神の働きに参加しているんですね。
そしてそれは、ただ私たちだけが犠牲を払うということではないんですね。
今日の場面ですが、このことは、イエス様にとってもこれは大きなチャレンジだったんじゃないですか。
ご自分自身を、マリアに、ヨセフにゆだねたんです。
神がご自分自身を人にゆだねたんですね。
つまり、神はかけているんです。
私たちが、この犠牲を払ってでも神の働きに参加してくれるはずだと、私たちにかけているんですね。
文字通り命をかけているんです。
ヨセフがそのチャレンジを引き受けた時、何が起こったでしょうか。
旧約聖書の言葉の実現ですね。
今日の23節ですが、神様はインマヌエルの神様なんですね。
神は我々と共におられるんです。
神様は、どこか高いところにおられて、私たちを見下ろしているような方ではないんですね。
神は私たちと共にいてくださる方なんです。
私たちに向かってご自分自身を投げ出してくださる方なんです。
そこにあって私たちは犠牲を払います。
そうする時、そこに、神の働きが前進することになるんですね。
逆に言うと、神は、今回ヨセフを選んだわけですが、神様は人のことをよく見ておられますよね。
まさに、この人こそは、という人を選んでくださる。
その犠牲を払うことができる人を神様はお選びになるんですね。
神様が見ておられるのは、ヨセフだけではありません。
私たちもです。
私たちのことも、神様は見ておられます。
そして、私たちを選ぶんです。
選ばれるのはヨセフだけで、私たちは選ばれないなんていうことはありませんね。
私たちもいつ選ばれるか分かりません。
選ばれて、犠牲を払いながら、神の働きを支えていくということは、私たちにだって、いつでも起こりうることです。
ただ、その時、神様は私たちをよくご覧になられて、私たちを選ぶんだということですね。
そこにある神様の御心、お分かりになりますでしょうか。
あなたにならできる。
神様は私たちにそう言っておられるんですね。
私があなたを見て、あなたを選んだ。
私の目にあなたは確かだ。
どうかこの犠牲を払ってほしい。
そして、私と一緒に働いてほしい。
あなたとなら、それができる。
神様は、私たちと一緒に働いていきたいと願っておられます。
その招きに応えましょう。
そこから、神様の救いの業が、またひとつ、前進するのです。
誕生
今日はいよいよイエス様に名前が付けられる場面ですね。
今天终于要说到给耶稣起名的部分了。
イエスという名前が付けられました。
起名耶稣。
名前を付けたのは誰だったかというと、神様ということになりますね。
要说是谁起的名,自然是神。
ヨセフが夢の中で天使を見て、その天使がイエスという名前にしろと言ったわけです。
约瑟在梦中梦见天使,天使说起名耶稣。
「天使」は原文では「伝令」ということですので、神様からの伝令の通りに名前を付けたんですね。
天使在原文中是传达命令的人,按照神的命令取了名字。
これは、どうしてヨセフとマリアが名前を付けなかったのかと思いますけれども、名前というのは聖書ではいつも、上の者が下の者に付けるんですね。
为什么约瑟和玛利亚没有取名字呢?在圣经中都是位高者给位低者取名字。
ですので、イエス様は神の子ですから、神の子の名前をヨセフやマリアが付けるということになるとおかしなことになってしまうわけです。
因此,因为耶稣是神的儿子,约瑟和玛利亚给神的儿子起名会感觉有点怪。
そこで、どういう名前にするのか、ということは神様がお決めになられたんですね。
所以起什么名字,这样的事由神决定。
ただ、今日の場面はヨセフが中心になっていますけれども、ヨセフが単に神様に従ってだけで、ヨセフの心は穏やかだったかというと、とんでもないですね。
虽说今天的部分是以约瑟为中心,约瑟也并不是因为单单顺从神而内心平静。
なにしろ、最初の18節に大変なことが書かれていますよね。
最开始的第18节,记着了不得的事情。
マリアは、聖霊によって身ごもったというんです。
玛利亚因圣灵感孕,
ヨセフはそのことをマリアから聞かされたでしょうか。
约瑟有没有从玛利亚那里听到这事呢?
それは書かれていないので分かりません。
因为没有写所以我们不知道,
ただ、仮にマリアがヨセフに対して、「聖霊によって身ごもりました」と言ったとしても、誰がそれを信じるでしょうか。
只是,假设即使玛利亚对约瑟说了因圣灵感孕,有谁会相信呢?
普通に考えたら、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。
正常思维的话只会认为是玛利亚背叛了约瑟。
信じられるはずはありません。
没人会相信圣灵感孕的。
ヨセフもそうです。
约瑟也是如此。
ヨセフも信じなかったんですね。
他也不相信。
19節で、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていますね。
在19节,写着约瑟决定偷偷地断绝关系。
縁を切るしかないと決心したということは、信じていないということです。
决定断绝关系也就是不相信的意思。
信じろという方が無理なんです。
要相信很难。
ただ、ヨセフは「正しい人」だったんですね。
只是约瑟是个正义的人。
考えてみますと、ヨセフはここで、マリアを訴えることもできます。
如果细想一下的话,约翰是可以起诉玛利亚的,
ひそかに縁を切るなんていう方法ではなく、もう堂々と訴えて、自分は間違っていないと主張することもできたんですね。
不是偷偷断绝关系,而是光明正大地提起诉讼,声明自己没有错也是可以的。
そうなると、訴えられたマリアは死刑になります。
如果这样的话,被起诉的玛利亚会被判死刑。
けれども、ヨセフはそうはしなかったんですね。
可是约瑟没有这样做。
ひそかに縁を切る。
而是偷偷断绝关系。
それはヨセフが、マリアの命とお腹の子の命を守りたいと考えたということです。
这是因为约瑟考虑到要保护玛利亚和肚子里孩子的命。
自分の名誉を守るよりも、命を守りたい。
相比保住自己的名声,他更想保住人命。
たとえ自分を裏切った相手であっても、守りたい。
即使是背叛自己的人,他也想要保护。
それが「正しい人」と呼ばれている理由でしょうね。
这就是他被称为正义的人的理由。
マリアを訴えることだって、正しいと言えば正しいことです。
起诉玛利亚虽说也是正当的,
けれどもヨセフはそうはしなかった。
但是约瑟没有这样做。
自分を犠牲にしてでも、命を守ろうとしたんです。
即使牺牲自己也想要保住他人的生命。
ヨセフはそのような人でした。
约瑟是这样的人。
これは、イエス様の父としてヨセフが選ばれたことが良く分かる話ではないかと思うんですね。
约瑟被选为耶稣的父亲就很好理解了吧?
正しい人と聞きますと、私たちは、間違ったことを認めない人をイメージするでしょう。
听到正义的人我们会想到那些不认同不正当的事情的那些人吧?
それはヨセフもそうでした。
约瑟也是这样。
間違ったことが起こったと思った時、そういうことが何もなかったかのようにふるまうことはできませんでした。
当不正当的事情发生的时候,他不能当作无所谓。
しかし、この人は、間違ったことを認めないという時に、自分の立場だけで考えることはしないんですね。
可是,虽然不认同不正当的事情,但并没有只考虑自身的立场。
自分のことも相手のことも同じように考えて、もっとも良い方法を探すことができるんですね。
自己和对方的处境同等考虑,寻求最好的解决办法。
自分にかたよっていない人なんです。
没有偏向自己。
本当の意味でフェアな人なんですね。
真正的意思应该是公正的人。
イエス様の言葉に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉がありますが、まさにそんな感じですね。
耶稣说过爱人如己这句话,就是这种感觉。
自分も他の人も、同じように考えることができるからこそ、こういう結論が出せたんですね。
正是因为把他人和自己同等考量,才能得出这样的结论。
その本当の意味で、ヨセフは正しい人でした。
这个意义上来说,约瑟是个正义的人。
考えてみると、ヨセフはイエス様に似ていると思うんですね。
细想一下的话,约瑟和耶稣很像吧。
イエス様も、間違ったことを認めません。
耶稣也不认同不正当的事情。
罪を認めません。
不认同罪恶。
罪があっても、まあ仕方ないか、で通り過ぎてしまうような人ではありません。
不是那种即便有罪,但是因为没办法就这样的算了吧的人。
しかし、罪に対して罰をくだすためにイエス様はいらしたわけではないですね。
可是耶稣并不是为了惩罚罪恶而来。
そこもヨセフと同じです。
这也和约瑟一样。
ヨセフと同じく、自己犠牲なんですよね。
和约瑟一样牺牲自己,
私が代わりに罰を受けるよ、と。
由我来代为受罚。
ご自分を犠牲にしてでも、私たちを守りたいんです。
即使牺牲自己也要守护我们。
それがヨセフであり、イエス様なんですね。
约瑟也是耶稣也是。
やっぱりそのあたりで、ヨセフがイエス様の父親に選ばれたということでしょうね。
因为这一点,约瑟被选作耶稣的父亲。
これは私自身も考えさせられますね。
这点让我深思。
「正しい」ということを考える時、私たちは立ち止まって考えるべきだと思うんです。
论到正义的事情,我们应该静下来思考。
正しいことをする時にこそ、やり方を考えなければいけませんね。
正因为是做正义的事情,必须要考虑做法。
本当に正しいのか、フェアなのか。
真的是正义的公平的吗?
相手を自分自身と同じように愛しているか。
把对方和自己同等爱护了吗?
もっと言うと、私たちは皆罪人なんですから、正しいことをする時には、自己犠牲があって初めて本当に正しいと言える、ということかもしれません。
进一步说,因为我们是罪人,做正义的事情的时候,自我牺牲或许才称得上是真正的正义。
正しさ、というのは振りかざすようなものではないんですね。
正义无需大肆宣扬,
その意味で、ヨセフは本当に正しい人でした。
这点而言约瑟真的是正义的人。
しかし、今日の話はそこでは終わりません。
可是,今天的讲道到这里并没有结束。
答えを出したヨセフの夢の中に、天使が現れたんですね。
天使出现在已作出选择的约瑟的梦中
天使はヨセフに、マリアと結婚するようにと言います。
天使对约瑟说要和玛利亚结婚。
そして、子どもに名前を付けるようにと言うんですね。
而且说要给孩子起名。
名前はもう決まっているんですが、その名前を付けることはヨセフがするように、ということですね。
名字虽然已经定好了,却让约瑟来取名字。
名前を付けるというのは、自分の子どもとして認めるということでした。
取名字是要承认作为自己的孩子。
つまりヨセフは、生まれてくる子供を、誰の子なのか分からない子としてではなく、自分の子として育てなさいと言われたんですね。
也就是说不能把生下来的孩子作为没有父亲的孩子而是作为自己的孩子来养育
これはヨセフにとって大変なことですね。
这对约瑟来说是很为难的事情。
ヨセフは自分を犠牲にして、ひそかに縁を切ろうと決心していたんですが、これはもっと大きな自己犠牲です。
约瑟虽然已经决定牺牲自己,偷偷地断绝关系,但是这是更大的牺牲。
何しろ、マリアのお腹の中の子どもは、ヨセフとは血のつながりがないんです。
毕竟玛利亚肚中的孩子与约瑟毫无血缘关系。
ヨセフには受け入れられないくらいの大きな自己犠牲です。
对约瑟来说这样大的牺牲已经到了难以接受的程度。
犠牲を払って決心した自分の考えと全然違うことなんです。
和自己已经准备好的牺牲完全不同,
ここでヨセフは何も言わずに、言われたとおりにしました。
在这里约瑟什么也没有说,照天使说的那样做了。
そのおかげで、イエス様は無事に生まれてくることができ、父親が誰なのか分からない子ではなく、ヨセフの子どもとして、育てられることになったんですね。
多亏了这样,耶稣才能顺利诞生,不是作为没有父亲的孩子而是作为约瑟的孩子被养大。
このことにも考えさせられますね。
这也让我们深思
これは私たちにもあることかもしれません。
或许我们也遇到过
私たちも、自分を犠牲にすることがありますが、しかし、自分が犠牲を払っても、それ以上の犠牲が求められることがあるかもしれないということです。
我们有时也会牺牲自我,可是即使愿意牺牲,有时可能会被要求作出更大的牺牲。
自分はこのようなかたちで犠牲を払おうと考えた。
想着就牺牲这点吧,
しかし、それよりもはるかに大きな犠牲を払うことになってしまった。
可是,需要比这点大更多的牺牲。
そういうことというのは私たちにも起こってこないとは限りません。
这样的事情我们未必不会遇到。
それはヨセフだけのことで、自分には起こらないなんて、誰にも言えません。
谁都不能说这只是约瑟的事情,不会发生在我身上。
ただ、その時、何が起こっているかということですね。
这样的时刻,会发生什么呢?
ヨセフはこの時、何をしたと言えるでしょうか。
约瑟在这样的时刻,做了什么呢?
ヨセフのおかげでイエス様は生まれてくることができました。
多亏了约瑟,耶稣才能降生。
そして、ヨセフのおかげで、イエス様は父親が誰か分からない子にならずにすんだんです。
也是因为约瑟,耶稣并没有成为连父亲是谁都不知道的孩子。
そして、その子イエスはやがて、ヨセフ以上に自分を犠牲にする形で、多くの人を救うことになります。
而这个孩子不久以后作出了比约瑟更大的牺牲得以拯救很多的人。
つまりヨセフは、実はこの時、神の働きに参加していたんですね。
也就是说约瑟这样的时刻参与了神的做工。
ですから、この場面を読んでいる私たちも信じていいですね。
因此,读这部分内容的我们也该知道
私たちも犠牲を払うということがあります。
我们也需要牺牲,
そして、予想していた以上の犠牲を払うということもあるでしょう。
而且有时需要作出比预想的更大的牺牲
しかしその時、私たちは何も無駄に犠牲になっているんじゃないんですね。
可是到那时,我们不会白白的牺牲,
私たちが神の言葉に従って犠牲を払う時、私たちも神の働きに参加しているんですね。
我们遵从神的话语作出牺牲时,是参与了神的做工。
そしてそれは、ただ私たちだけが犠牲を払うということではないんですね。
不只是我们作出了牺牲,
今日の場面ですが、このことは、イエス様にとってもこれは大きなチャレンジだったんじゃないですか。
今天的圣经部分即使对耶稣来说不也是很大的挑战吗?
ご自分自身を、マリアに、ヨセフにゆだねたんです。
他把自己交给了约瑟和玛利亚,
神がご自分自身を人にゆだねたんですね。
神把自己交托给了人,
つまり、神はかけているんです。
也就是说神住在了人的里面。
私たちが、この犠牲を払ってでも神の働きに参加してくれるはずだと、私たちにかけているんですね。
要是我们宁愿牺牲也要参与神的做工的话,我们就住进了我们的里面。
文字通り命をかけているんです。
字面意思就是得着了生命。
ヨセフがそのチャレンジを引き受けた時、何が起こったでしょうか。
约瑟接受这个挑战的时候发生了什么呢?
旧約聖書の言葉の実現ですね。
他应验了旧约中的预言。
今日の23節ですが、神様はインマヌエルの神様なんですね。
今天的23节,神是以马内利的神,
神は我々と共におられるんです。
神与我们同在,
神様は、どこか高いところにおられて、私たちを見下ろしているような方ではないんですね。
神是至高的但并没有看轻我们,
神は私たちと共にいてくださる方なんです。
神与我们同在。
私たちに向かってご自分自身を投げ出してくださる方なんです。
为了我们献出自己,
そこにあって私たちは犠牲を払います。
所以我们也要做出牺牲,
そうする時、そこに、神の働きが前進することになるんですね。
推进神的做工
逆に言うと、神は、今回ヨセフを選んだわけですが、神様は人のことをよく見ておられますよね。
反过来说,虽然这一次选了约瑟,却一直在观察着我们。
まさに、この人こそは、という人を選んでくださる。
拣选合适的人,
その犠牲を払うことができる人を神様はお選びになるんですね。
神拣选会做出牺牲的人。
神様が見ておられるのは、ヨセフだけではありません。
神不只观察约瑟,
私たちもです。
我们也是。
私たちのことも、神様は見ておられます。
神也观察我们。
そして、私たちを選ぶんです。
然后拣选我们。
選ばれるのはヨセフだけで、私たちは選ばれないなんていうことはありませんね。
不会只选约瑟而不选我们。
私たちもいつ選ばれるか分かりません。
我们不知道什么时候被拣选,
選ばれて、犠牲を払いながら、神の働きを支えていくということは、私たちにだって、いつでも起こりうることです。
被拣选,做出牺牲,为主做工,这样的事情,至于我们是随时都会发生的事情。
ただ、その時、神様は私たちをよくご覧になられて、私たちを選ぶんだということですね。
只是这是神长久观察我们之后做的选择,
そこにある神様の御心、お分かりになりますでしょうか。
明白神的用心了吗?
あなたにならできる。
要是你的话就一定行。
神様は私たちにそう言っておられるんですね。
神这样对我们说,
私があなたを見て、あなたを選んだ。
我观察你然后拣选了你,
私の目にあなたは確かだ。
在我眼里就是你没错。
どうかこの犠牲を払ってほしい。
希望你可以做出牺牲,
そして、私と一緒に働いてほしい。
和我一起做工,
あなたとなら、それができる。
如果和你一起的话,就可以。
神様は、私たちと一緒に働いていきたいと願っておられます。
神希望我们和他一起做工。
その招きに応えましょう。
回应呼招吧,
そこから、神様の救いの業が、またひとつ、前進するのです。
从此,神的救恩计划又向前进了一步。