今週の説教「誕生」(新約聖書・マタイによる福音書1章18-25節)

⛪今週の予定

6/4()牧師週休日

6/5()聖書を読む会(10:30-12:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)

6/6()牧会事例研究会(牧師、みずほ台、16:00-17:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

6/7()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

6/8()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

6/9()ヤング・サマー・バイブル・キャンプの下見(牧師、奥多摩、13:30-)

6/10()試問会(9:30-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(長老の任職、就職式、10:30-12:30)、お茶会(12:30-13:00)、埼玉西部地区役員研修会、運営委員会、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除

 

 

🎤6/10()の説教

聖書・マタイによる福音書21節から12

説教題「別の道を通って」

賛美歌・148323853140226765-12940-5

 

📅9月までの教会の行事

617()父の日・ユース集会(江古田教会にて)

715()ユース集会(当教会にて、716日に江古田教会で夏祭り)

811()夏休みこどもお楽しみ会

819()献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会

916()ユース集会(会場未定)

929()バザー

 

📅9月までの中大会の行事

612()14()大会役員修養会(豊橋市)

73()東部中会第一回臨時中会

729()連合長老会例会・連合執事会例会

812()14()東部中会青年会夏期修養会

812()埼玉西部地区815集会、運営委員会

814()17()全国高校生会「サマーデイズ2018

823()25()ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください)

828()30()東部中会学生会夏期修養会

917(月・祝)東部中会信徒修養会

923()埼玉西部地区講壇交換(尾崎純牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)

930()連合長老会例会、連合執事会例会

 


誕生

 

マタイによる福音書118-25

 

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

 

 

 

 

今日はいよいよイエス様に名前が付けられる場面ですね。

 

イエスという名前が付けられました。

 

名前を付けたのは誰だったかというと、神様ということになりますね。

 

ヨセフが夢の中で天使を見て、その天使がイエスという名前にしろと言ったわけです。

 

「天使」は原文では「伝令」ということですので、神様からの伝令の通りに名前を付けたんですね。

 

これは、どうしてヨセフとマリアが名前を付けなかったのかと思いますけれども、名前というのは聖書ではいつも、上の者が下の者に付けるんですね。

 

ですので、イエス様は神の子ですから、神の子の名前をヨセフやマリアが付けるということになるとおかしなことになってしまうわけです。

 

そこで、どういう名前にするのか、ということは神様がお決めになられたんですね。

 

ただ、今日の場面はヨセフが中心になっていますけれども、ヨセフが単に神様に従ってだけで、ヨセフの心は穏やかだったかというと、とんでもないですね。

 

なにしろ、最初の18節に大変なことが書かれていますよね。

 

マリアは、聖霊によって身ごもったというんです。

 

ヨセフはそのことをマリアから聞かされたでしょうか。

 

それは書かれていないので分かりません。

 

ただ、仮にマリアがヨセフに対して、「聖霊によって身ごもりました」と言ったとしても、誰がそれを信じるでしょうか。

 

普通に考えたら、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。

 

信じられるはずはありません。

 

ヨセフもそうです。

 

ヨセフも信じなかったんですね。

 

19節で、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていますね。

 

縁を切るしかないと決心したということは、信じていないということです。

 

信じろという方が無理なんです。

 

ただ、ヨセフは「正しい人」だったんですね。

 

考えてみますと、ヨセフはここで、マリアを訴えることもできます。

 

ひそかに縁を切るなんていう方法ではなく、もう堂々と訴えて、自分は間違っていないと主張することもできたんですね。

 

そうなると、訴えられたマリアは死刑になります。

 

けれども、ヨセフはそうはしなかったんですね。

 

ひそかに縁を切る。

 

それはヨセフが、マリアの命とお腹の子の命を守りたいと考えたということです。

 

自分の名誉を守るよりも、命を守りたい。

 

たとえ自分を裏切った相手であっても、守りたい。

 

それが「正しい人」と呼ばれている理由でしょうね。

 

マリアを訴えることだって、正しいと言えば正しいことです。

 

けれどもヨセフはそうはしなかった。

 

自分を犠牲にしてでも、命を守ろうとしたんです。

 

ヨセフはそのような人でした。

 

これは、イエス様の父としてヨセフが選ばれたことが良く分かる話ではないかと思うんですね。

 

正しい人と聞きますと、私たちは、間違ったことを認めない人をイメージするでしょう。

 

それはヨセフもそうでした。

 

間違ったことが起こったと思った時、そういうことが何もなかったかのようにふるまうことはできませんでした。

 

しかし、この人は、間違ったことを認めないという時に、自分の立場だけで考えることはしないんですね。

 

自分のことも相手のことも同じように考えて、もっとも良い方法を探すことができるんですね。

 

自分にかたよっていない人なんです。

 

本当の意味でフェアな人なんですね。

 

イエス様の言葉に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉がありますが、まさにそんな感じですね。

 

自分も他の人も、同じように考えることができるからこそ、こういう結論が出せたんですね。

 

その本当の意味で、ヨセフは正しい人でした。

 

考えてみると、ヨセフはイエス様に似ていると思うんですね。

 

イエス様も、間違ったことを認めません。

 

罪を認めません。

 

罪があっても、まあ仕方ないか、で通り過ぎてしまうような人ではありません。

 

しかし、罪に対して罰をくだすためにイエス様はいらしたわけではないですね。

 

そこもヨセフと同じです。

 

ヨセフと同じく、自己犠牲なんですよね。

 

私が代わりに罰を受けるよ、と。

 

ご自分を犠牲にしてでも、私たちを守りたいんです。

 

それがヨセフであり、イエス様なんですね。

 

やっぱりそのあたりで、ヨセフがイエス様の父親に選ばれたということでしょうね。

 

これは私自身も考えさせられますね。

 

「正しい」ということを考える時、私たちは立ち止まって考えるべきだと思うんです。

 

正しいことをする時にこそ、やり方を考えなければいけませんね。

 

本当に正しいのか、フェアなのか。

 

相手を自分自身と同じように愛しているか。

 

もっと言うと、私たちは皆罪人なんですから、正しいことをする時には、自己犠牲があって初めて本当に正しいと言える、ということかもしれません。

 

正しさ、というのは振りかざすようなものではないんですね。

 

その意味で、ヨセフは本当に正しい人でした。

 

しかし、今日の話はそこでは終わりません。

 

答えを出したヨセフの夢の中に、天使が現れたんですね。

 

天使はヨセフに、マリアと結婚するようにと言います。

 

そして、子どもに名前を付けるようにと言うんですね。

 

名前はもう決まっているんですが、その名前を付けることはヨセフがするように、ということですね。

 

名前を付けるというのは、自分の子どもとして認めるということでした。

 

つまりヨセフは、生まれてくる子供を、誰の子なのか分からない子としてではなく、自分の子として育てなさいと言われたんですね。

 

これはヨセフにとって大変なことですね。

 

ヨセフは自分を犠牲にして、ひそかに縁を切ろうと決心していたんですが、これはもっと大きな自己犠牲です。

 

何しろ、マリアのお腹の中の子どもは、ヨセフとは血のつながりがないんです。

 

ヨセフには受け入れられないくらいの大きな自己犠牲です。

 

犠牲を払って決心した自分の考えと全然違うことなんです。

 

ここでヨセフは何も言わずに、言われたとおりにしました。

 

そのおかげで、イエス様は無事に生まれてくることができ、父親が誰なのか分からない子ではなく、ヨセフの子どもとして、育てられることになったんですね。

 

このことにも考えさせられますね。

 

これは私たちにもあることかもしれません。

 

私たちも、自分を犠牲にすることがありますが、しかし、自分が犠牲を払っても、それ以上の犠牲が求められることがあるかもしれないということです。

 

自分はこのようなかたちで犠牲を払おうと考えた。

 

しかし、それよりもはるかに大きな犠牲を払うことになってしまった。

 

そういうことというのは私たちにも起こってこないとは限りません。

 

それはヨセフだけのことで、自分には起こらないなんて、誰にも言えません。

 

ただ、その時、何が起こっているかということですね。

 

ヨセフはこの時、何をしたと言えるでしょうか。

 

ヨセフのおかげでイエス様は生まれてくることができました。

 

そして、ヨセフのおかげで、イエス様は父親が誰か分からない子にならずにすんだんです。

 

そして、その子イエスはやがて、ヨセフ以上に自分を犠牲にする形で、多くの人を救うことになります。

 

つまりヨセフは、実はこの時、神の働きに参加していたんですね。

 

ですから、この場面を読んでいる私たちも信じていいですね。

 

私たちも犠牲を払うということがあります。

 

そして、予想していた以上の犠牲を払うということもあるでしょう。

 

しかしその時、私たちは何も無駄に犠牲になっているんじゃないんですね。

 

私たちが神の言葉に従って犠牲を払う時、私たちも神の働きに参加しているんですね。

 

そしてそれは、ただ私たちだけが犠牲を払うということではないんですね。

 

今日の場面ですが、このことは、イエス様にとってもこれは大きなチャレンジだったんじゃないですか。

 

ご自分自身を、マリアに、ヨセフにゆだねたんです。

 

神がご自分自身を人にゆだねたんですね。

 

つまり、神はかけているんです。

 

私たちが、この犠牲を払ってでも神の働きに参加してくれるはずだと、私たちにかけているんですね。

 

文字通り命をかけているんです。

 

ヨセフがそのチャレンジを引き受けた時、何が起こったでしょうか。

 

旧約聖書の言葉の実現ですね。

 

今日の23節ですが、神様はインマヌエルの神様なんですね。

 

神は我々と共におられるんです。

 

神様は、どこか高いところにおられて、私たちを見下ろしているような方ではないんですね。

 

神は私たちと共にいてくださる方なんです。

 

私たちに向かってご自分自身を投げ出してくださる方なんです。

 

そこにあって私たちは犠牲を払います。

 

そうする時、そこに、神の働きが前進することになるんですね。

 

逆に言うと、神は、今回ヨセフを選んだわけですが、神様は人のことをよく見ておられますよね。

 

まさに、この人こそは、という人を選んでくださる。

 

その犠牲を払うことができる人を神様はお選びになるんですね。

 

神様が見ておられるのは、ヨセフだけではありません。

 

私たちもです。

 

私たちのことも、神様は見ておられます。

 

そして、私たちを選ぶんです。

 

選ばれるのはヨセフだけで、私たちは選ばれないなんていうことはありませんね。

 

私たちもいつ選ばれるか分かりません。

 

選ばれて、犠牲を払いながら、神の働きを支えていくということは、私たちにだって、いつでも起こりうることです。

 

ただ、その時、神様は私たちをよくご覧になられて、私たちを選ぶんだということですね。

 

そこにある神様の御心、お分かりになりますでしょうか。

 

あなたにならできる。

 

神様は私たちにそう言っておられるんですね。

 

私があなたを見て、あなたを選んだ。

 

私の目にあなたは確かだ。

 

どうかこの犠牲を払ってほしい。

 

そして、私と一緒に働いてほしい。

 

あなたとなら、それができる。

 

神様は、私たちと一緒に働いていきたいと願っておられます。

 

その招きに応えましょう。

 

そこから、神様の救いの業が、またひとつ、前進するのです。