
✜6/19(火)火曜礼拝(9:00-10:00)、韓国語講座(初級・13:00-14:00、中級・14:00-15:30)
✜6/20(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜6/21(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜6/22(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)
✜6/23(土)牧師週休日
✜6/24(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、学び会(13:00-13:50)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、12:00-16:00)、掃除
聖書・ローマの信徒への手紙8章26-30節
説教題「とりなしてくださる」
賛美歌・29、38、463、81、65-1、28、40-5
🎤6/24(日)の説教:尾崎純牧師
説教題「前触れ」
賛美歌・115、32、38、463、575、441、65-1、27、40-5
📅8月までの教会の行事
✜7月15日(日)ユース集会(当教会にて。7月16日[月・祝]に江古田教会で夏祭り)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
📅8月までの中大会の行事
✜7月3日(火)東部中会第一回臨時中会
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会

「クリスマスの背後で」
マタイによる福音書2章13-23節
13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
先週、三日間、大会役員修養会で愛知県の豊橋市に行ってまいりました。
修養会ですから、そこで何か会議をして決議をするということはなかったんですが、いろいろな先生がいろいろな話をしてくださって、たくさんのことを知ることができました。
中でも、私の心に一番残っているのはハラスメント(嫌がらせ)についてというレクチャーでして、自分は今まであまり真剣にこういうことを考えてこなかったなあと反省させられました。
ハラスメントというのは、「自分が大丈夫なら大丈夫というわけではありません。大事なのは、私が向かい合っている他者であり、その人の思いです」とその先生はおっしゃいました。
これは私たちは皆気を付けるべきことですね。
自分にとって普通でも、相手にとってはひどく傷つけられることというのはあるわけです。
私たちは皆、そのことを知っているはずですよね。
相手にとって普通のことであっても、自分はそのような言葉を聞きたくない、という言葉を聞いたことがない人はいないはずですね。
大事なのは、相手にとってどうなのか、という感覚を持っているかどうか。
もし、その感覚がないのなら、私たちもどこかで誰かにハラスメントをしてしまっているかもしれない。
しかも私はその時、それに気づかずにそういうことをしてしまっているかもしれない。
講演をなさった牧師先生が配ってくださったレジュメに、こういう言葉がありました。
「教会はカナリアのようにならなければならない」。
なるほど、と思わされますね。
カナリアというのは空気に敏感な鳥ですね。
ですので、ガスが出ているかもしれないような洞窟の中ですとかに入っていく時には、鳥かごに入れたカナリアを連れて入りますね。
テレビなんかでご覧になった方もいるかもしれませんけれども。
そんなふうに、敏感でなければならない。
敏感といっても、びくびくしているということではなくて、相手にとってどうであるのかを認識するということですね。
認識した上で、対応の仕方はまたいろいろあるんでしょうけれども、まず、相手にとってどうなのかということを認識するということ。
これが大事なんだと思いますね。
さて、今日の聖書の場面ですけれども、まあ、このヘロデという王様は、そういう感覚が一切ないような人ですね。
ハラスメントどころではないですね。
とんでもないことをやったわけです。
今日の場面のすぐ前の場面で、占星術の学者たちがやってきまして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」なんて聞いてきたものですから、この王は自分の立場が危うくなるかもしれないと心配になって、こんな大変なことをしたわけです。
自分を守る。
ただそれだけのために、何十人もの小さい子どもを殺したんですね。
この出来事は歴史には記されていません。
しかし、それも分かるような気がします。
何しろ、このヘロデという人は、王になるために自分の親せきを何人も殺したような人です。
そして、この人が死ぬ前には、町の有力者を皆殺しにしたと言われています。
そんな人ですから、20人、30人の小さい子を殺すなんていうことは何でもないことです。
この人のことを知っている人からすると、わざわざ記録するほどのことでもないようなことなんですね。
しかし、これは大変なことです。
突然、理由なく、我が子を奪われた親たちの心はどうだったでしょうか。
今日の場面は言ってみればクリスマスの場面の続きですけれども、クリスマスの裏側で、実はこんな大変なことが起こっていたと聖書は言うんですね。
マリアとヨセフは、幼子イエスの命を守るため、ヘロデの手が届かないエジプトにまで逃げていかなければなりませんでした。
今の言葉で言いますと、一家は難民になったわけです。
そして、ヘロデが死んで帰ってきても、新しい王になったアルケラオという人は父であるヘロデと同じような人でしたから、ベツレヘムに戻ることはできませんでして、ナザレというところに行かなくてはならなかったんですね。
「今の自分を守りたい」。
それがヘロデの考えていたことでした。
そのために、大変なことを起こしました。
しかしこれはヘロデだけでしょうか。
ヘロデの周りにいた人たちも、同じだったのではないでしょうか。
今の自分を守りたい。
だから、ヘロデに逆らわなかった。
先週の場面で、国会議員たちはヘロデから、救い主はどこに生まれることになっているかと聞かれて答えますけれども、議員たちはヘロデが何をするか分かっていたはずです。
それなのに、あっさりと答えてしまう。
誰かが犠牲になるかもしれない。
でも、とにかく、今の自分を守りたい。
それはヘロデと同じなんですね。
だから、議員たちも、救い主が生まれたと聞いて、その場所を知ったのに、そこに行こうともしない。
そんなところに行ったらヘロデを怒らせることになるに決まっているから。
それに対して、占星術の学者たちは、幼子イエスのところに行って、黄金、乳香、没薬をささげたんでした。
この、黄金、乳香、没薬というのは、占星術の大事な道具であったとも言われています。
つまり、この人たちは、それまでの自分を捨てたんですね。
これはヘロデと正反対です。
今の自分を守りたいなんていう考えはなくて、それまでの自分を捨てて、ささげた。
嫌々そうしたんじゃないですね。
救い主を救い主だと信じたから、喜んでそうしたんですね。
それは、ヨセフも同じですね。
さらに一つ前の場面になりますが、ヨセフはマリアと縁を切ろうと決心していました。
けれども、神の言葉に従ったんですね。
自分を退けたんです。
自分の考えを捨てたんです。
しかし、ヨセフはそのためにこんな大変な目にあうことになりました。
救い主であるわが子が生まれたということが王に知られて、王が殺しに来る。
それまでの生活をすべて捨てて、難民になって、外国にまで逃げなくてはならなくなる。
聖書は言っているんですね。
神に従うからこそ、苦しみにあうということはあるんですね。
神に従った占星術の学者は喜びにあふれていました。
それはヨセフもそうだったでしょう。
そうでなければ、家族を捨てて逃げ出したでしょう。
けれども、神に従う道は、いつもいつも安全な道であるかというと、そうではないんですね。
神に従う道は神に用いられる道ですが、考えてみると、それは大変なことですね。
何かこう、暗闇の世の中で、小さな灯を守るような、そういう働きなんです。
暗闇はいつだって私たちの抱いている光を消そうと働きます。
そう考えれば、安全な時の方が珍しいと言っていいかもしれません。
けれども、聖書は言うんですね。
そんな中でも、神様の約束は実現して行っている。
18節の、かっこの中に入っている言葉は旧約聖書の言葉なんですが、それが実現したんだ、と言うんですね。
つまり、このことも、神様の救いの計画が前進するために起こったことなんだ、と聖書は言っているんですね。
「子どもたちがもういない」、ということで、今日起こったヘロデによる虐殺の出来事を指しているわけですが、この個所を旧約聖書で見ますと、その昔起こった、国を滅ぼされて、人々が連れ去られるという出来事を記している個所になります。
ここに書かれている「ラマ」というのはエルサレムの北のあたりで、人々はここに集合させられ、外国に連れていかれたんでした。
「ラケル」には子どもがもういない、ということですけれども、このラケルというのはイスラエルの先祖で、この人とこの人の姉のレアから、イスラエルの12の部族の先祖が生まれたんですね。
つまり、国を滅ぼされて、子どもたちは皆、外国に連れていかれたということを書いているんです。
しかし、どうしてここの個所を、このヘロデによる虐殺の場面を語る時に引用してきたのでしょうか。
引用されたこの個所は旧約聖書のエレミヤ書なんですが、今日引用されているところのすぐ後、エレミヤ書31章16、17節には、こういうことが書かれているんですね。
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
苦しみの向こうに希望がある。
苦しみは苦しみでは終わらない。
これから、救いの出来事が起こる、ということなんですね。
そして、エレミヤ書31章31節からのところでは、新しい契約について語られます。
新しい契約ということは古い契約があったわけですが、人々が神様と結んだ古い契約を人々は破りました。
神の言葉に従わなかったんですね。
そのために、国が滅ぼされて外国に連れていかれるという大変な目にあいました。
しかし、それで終わりではないんですね。
これから新しい契約が与えられるんです。
暗闇の中に光が与えられるんです。
その光がすでに与えられているのが占星術の学者たちですよね。
喜びにあふれて、それまでの自分を捨てて、違う生き方をしはじめた。
自分で自分を守る、そのためには何だってする、という生き方ではなく、自分を神にささげて、神に用いていただく。
そのような新しい生き方にこそ、喜びがあるんだ、と聖書は言うんですね。
これ、占星術の学者たちが何か特別な人ではないんですね。
この人たちだってもともとは、今の自分を守りたい、という人ですよ。
だって、そうじゃないんだったら、占星術なんてしないですから。
自分を守りたいという気持ちが普通の人より強い人だったかもしれない。
でも、自分をささげると、喜びにあふれる。
それが、この人たちがした礼拝だったんですね。
その礼拝を、私たちも今、しているんですよ。
私たちは、神に出会い、神の言葉を聞くためにここに来ました。
私たちだって、自分を退けたから、ここにいるんですね。
私たちにも今、光が与えられているんですね。
幼子イエスが私たちのふところにいると言ってもいい。
そのために大変な目にあうということはあるわけです。
ヨセフがそうでした。
しかし、今日、聖書が語っている大事なことは、どんな大変なことがあっても、神の救いの働きは約束の通りに実現していくということなんですね。
今日の23節にも、旧約聖書の言葉が引用されています。
世の暗闇に揺さぶられているような一家ですが、しかしそれでも、予定通りに、神様の働きは前に進んでいるんですね。
暗闇は深いです。
けれども、どんな暗闇も、光を消すことはできません。
光は暗闇を消すことができますね。
でも、暗闇は光を消すことはできないんです。
それどころか、光は広がっていこうとしていますね。
占星術の学者は外国人、異邦人です。
神の民イスラエルのメンバーではないんです。
あるいは、今日、一家は最後にガリラヤ地方のナザレに行って住みましたが、ガリラヤは辺境の地で、異邦人の土地だとみなされることもある場所でした。
神の働きは、もう、今にもあふれ出ようとしている。
ではそこにおいて、キリストはどのような神の働きをなさるのでしょうか。
それが今日の15節ですね。
ここもカッコの中は旧約聖書の言葉です。
「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。
これは旧約聖書の前から2番目の本である、出エジプト記の出来事を指しています。
その昔、イスラエルの人々はエジプトで奴隷にされていたんですが、神様はモーセを選んで立てて、奴隷であったところから導き出したんですね。
まさにそのような働きをイエス様はすることになる、と言うんですね。
人々が、神に従うことができず、不安と恐れの奴隷、暗闇の奴隷であるところから、光の中へと導き出すんですね。
幼い頃のイエス様と両親のことを見ているだけで、もう、イエス様がこれからどういう働きをするのかが分かる、と今日の場面は言っているんです。
そして、今こうして礼拝している私たちも、その働きに関わっていくんですね。
その中で、苦しみはあります。
ヨセフはこんなことになるだなんて想像もしなかったんじゃないですか。
想像もしないようなことが起こることというのはあるんです。
ですけれども、今日の場面は何と言っていますか。
想像もしないような大変なことが起こったとしても、神様の働きは確かに前進していっているんだ、と言っているんですね。
ですから、私たちも、それを信じて、前に進みたいと思います。
どんな大変なことがあっても、幼子イエスと共にいたヨセフとマリアが守られたように、神様はイエス様と共なる私たちを必ず守り、救いの働きを前進させてくださいます。
クリスマスの背後
先週、三日間、大会役員修養会で愛知県の豊橋市に行ってまいりました。
上周因有大会成员的修养会去了爱知县的丰桥市三天。
修養会ですから、そこで何か会議をして決議をするということはなかったんですが、いろいろな先生がいろいろな話をしてくださって、たくさんのことを知ることができました。
因为是修养会,在那里并没有什么需要决议的事情,所以可以和各位老师交流,了解很多事情。
中でも、私の心に一番残っているのはハラスメント(嫌がらせ)についてというレクチャーでして、自分は今まであまり真剣にこういうことを考えてこなかったなあと反省させられました。
这中间,留给我印象最深的是关于harassment的讲演,让我反省到自己似乎至今为止都没怎么认真地思考过这件事。
ハラスメントというのは、「自分が大丈夫なら大丈夫というわけではありません。大事なのは、私が向かい合っている他者であり、その人の思いです」とその先生はおっしゃいました。
所谓Harassment,那位老师说并不是自己觉得没什么就没什么了,重要的是,自己面对的那个人,他的感觉。
これは私たちは皆気を付けるべきことですね。
这是我们大家都应该要注意的。
自分にとって普通でも、相手にとってはひどく傷つけられることというのはあるわけです。
即使对自己来说可能很普通的事,对对方来说却是很大的伤害。
私たちは皆、そのことを知っているはずですよね。
我们大家应该都知道这种情况吧。
相手にとって普通のことであっても、自分はそのような言葉を聞きたくない、という言葉を聞いたことがない人はいないはずですね。
即使是对对方来说很普通的事,自己却并不想听,没听到过的人应该没有吧。
大事なのは、相手にとってどうなのか、という感覚を持っているかどうか。
重要的是,是否能觉察到对方的感受。
もし、その感覚がないのなら、私たちもどこかで誰かにハラスメントをしてしまっているかもしれない。
如果,没有这种觉察力的话,我们不管在哪里不管对谁都有可能困扰。
しかも私はその時、それに気づかずにそういうことをしてしまっているかもしれない。
或许那个时候我无意中就做了这样的事。
講演をなさった牧師先生が配ってくださったレジュメに、こういう言葉がありました。
开讲的牧师老师分发的摘要上有这样的话:
「教会はカナリアのようにならなければならない」。
教会必须要成为金丝雀。
なるほど、と思わされますね。
让我觉得确实如此。
カナリアというのは空気に敏感な鳥ですね。
金丝雀是对空气非常敏感的鸟。
ですので、ガスが出ているかもしれないような洞窟の中ですとかに入っていく時には、鳥かごに入れたカナリアを連れて入りますね。
因此,在进入有可能发生气体泄漏的洞穴中时,会带上放入鸟笼的金丝雀。
テレビなんかでご覧になった方もいるかもしれませんけれども。
或许有人在电视之类的地方看到过,
そんなふうに、敏感でなければならない。
这种情况必须要敏感
敏感といっても、びくびくしているということではなくて、相手にとってどうであるのかを認識するということですね。
虽说敏感,却不是担惊受怕,而是指要意识到对方的感受
認識した上で、対応の仕方はまたいろいろあるんでしょうけれども、まず、相手にとってどうなのかということを認識するということ。
既然意识到,那么就有很多相对应的处理方法,首先,要认识到对方的感受。
これが大事なんだと思いますね。
我觉得这点很重要。
さて、今日の聖書の場面ですけれども、まあ、このヘロデという王様は、そういう感覚が一切ないような人ですね。
今天的圣经内容当中,这个希律王丝毫没有这样的意识。
ハラスメントどころではないですね。
岂止是让人讨厌
とんでもないことをやったわけです。
简直就是做了骇人听闻的事情。
今日の場面のすぐ前の場面で、占星術の学者たちがやってきまして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」なんて聞いてきたものですから、この王は自分の立場が危うくなるかもしれないと心配になって、こんな大変なことをしたわけです。
前面的内容占星师们来到耶路撒冷问希律王那生下来作犹太人之王的在哪里?他担心可能会威胁到自己的地位,做了如此残忍的事。
自分を守る。
为保全自己。
ただそれだけのために、何十人もの小さい子どもを殺したんですね。
只是为了这,杀了几十个孩子。
この出来事は歴史には記されていません。
这事历史上没有记载。
しかし、それも分かるような気がします。
这点可以理解。
何しろ、このヘロデという人は、王になるために自分の親せきを何人も殺したような人です。
因为这个希律王为了作王连自己的亲人都杀。
そして、この人が死ぬ前には、町の有力者を皆殺しにしたと言われています。
而且,据说在他死前,将城里有权有势的人都杀了。
そんな人ですから、20人、30人の小さい子を殺すなんていうことは何でもないことです。
这样的人,杀二三十个孩子也不算什么。
この人のことを知っている人からすると、わざわざ記録するほどのことでもないようなことなんですね。
在熟知此人的那些人看来,这事没必要特地记录下来。
しかし、これは大変なことです。
可是
突然、理由なく、我が子を奪われた親たちの心はどうだったでしょうか。
对那些突然毫无理由被夺走孩子的父母来说,这是不得了的事情。
今日の場面は言ってみればクリスマスの場面の続きですけれども、クリスマスの裏側で、実はこんな大変なことが起こっていたと聖書は言うんですね。
今天的场景可以说是圣诞场景的延续,经上说其实圣诞的背后发生了很大的事情。
マリアとヨセフは、幼子イエスの命を守るため、ヘロデの手が届かないエジプトにまで逃げていかなければなりませんでした。
玛利亚和约瑟为了保护幼子耶稣的生命,逃离希律王的魔掌必须逃往埃及。
今の言葉で言いますと、一家は難民になったわけです。
用今天的话说就是一家成了难民。
そして、ヘロデが死んで帰ってきても、新しい王になったアルケラオという人は父であるヘロデと同じような人でしたから、ベツレヘムに戻ることはできませんでして、ナザレというところに行かなくてはならなかったんですね。
后来即使希律王死了,因为新的王亚基老是和他父亲一样的人,所以他们无法回到伯利恒,只好去了拿撒勒。
「今の自分を守りたい」。
保全现在的自己,
それがヘロデの考えていたことでした。
这事希律王所考虑的事。
そのために、大変なことを起こしました。
为了这,他做了很过分的事。
しかしこれはヘロデだけでしょうか。
可是这只是希律王吗?
ヘロデの周りにいた人たちも、同じだったのではないでしょうか。
他周围的人不也都是如此吗?
今の自分を守りたい。
保全现在的自己。
だから、ヘロデに逆らわなかった。
所以没有背他而行。
先週の場面で、国会議員たちはヘロデから、救い主はどこに生まれることになっているかと聞かれて答えますけれども、議員たちはヘロデが何をするか分かっていたはずです。
上周的场景,祭司和文士们回答了希律王问的救世主出生在什么地方,其实他们应该是知道希律王想干什么的。
それなのに、あっさりと答えてしまう。
即使如此,还是爽快地回答了。
誰かが犠牲になるかもしれない。
或许会有人成为牺牲品。
でも、とにかく、今の自分を守りたい。
但是不管怎样先要保全自己。
それはヘロデと同じなんですね。
这点和希律王相同。
だから、議員たちも、救い主が生まれたと聞いて、その場所を知ったのに、そこに行こうともしない。
因此他们听到救世主诞生了,也知道地点在哪里,却不想去。
そんなところに行ったらヘロデを怒らせることになるに決まっているから。
因为去了那里肯定会惹怒希律王。
それに対して、占星術の学者たちは、幼子イエスのところに行って、黄金、乳香、没薬をささげたんでした。
与此相反,占星师们去了耶稣那里,并献上了黄金乳香没药。
この、黄金、乳香、没薬というのは、占星術の大事な道具であったとも言われています。
据说这些是占星重要的道具。
つまり、この人たちは、それまでの自分を捨てたんですね。
也就是说,这些人把自己所有的舍弃了,
これはヘロデと正反対です。
这与希律正好相反。
今の自分を守りたいなんていう考えはなくて、それまでの自分を捨てて、ささげた。
不是考虑保全现在的自己,而是舍弃自己将自己摆上,
嫌々そうしたんじゃないですね。
丝毫没有不情愿。
救い主を救い主だと信じたから、喜んでそうしたんですね。
因为相信救世主真的就是救世主,所以大大欢喜。
それは、ヨセフも同じですね。
约瑟也是同样如此。
さらに一つ前の場面になりますが、ヨセフはマリアと縁を切ろうと決心していました。
再前面的场景是约瑟打算和玛利亚断绝关系。
けれども、神の言葉に従ったんですね。
但还是听从了神的话语。
自分を退けたんです。
放下自我,
自分の考えを捨てたんです。
放弃自己的想法。
しかし、ヨセフはそのためにこんな大変な目にあうことになりました。
可是约瑟因此遭遇了厄运。
救い主であるわが子が生まれたということが王に知られて、王が殺しに来る。
王知道了他的孩子作为救世主降生,追杀过来了。
それまでの生活をすべて捨てて、難民になって、外国にまで逃げなくてはならなくなる。
于是放弃了现在的生活,成了难民,不得不逃往国外。
聖書は言っているんですね。
圣经上说:
神に従うからこそ、苦しみにあうということはあるんですね。
因为顺从神而遭遇苦难。
神に従った占星術の学者は喜びにあふれていました。
顺从神的占星师们大大欢喜,
それはヨセフもそうだったでしょう。
约瑟也是如此。
そうでなければ、家族を捨てて逃げ出したでしょう。
如果不是的话,早就舍弃家人跑了。
けれども、神に従う道は、いつもいつも安全な道であるかというと、そうではないんですね。
可是,顺从神这条路,并不是一直都平安的。
神に従う道は神に用いられる道ですが、考えてみると、それは大変なことですね。
顺从神,为神所用,仔细想想的话,其实是非常了不起的事情。
何かこう、暗闇の世の中で、小さな灯を守るような、そういう働きなんです。
是在这黑暗的人世间,为守护小小的灯火而做工。
暗闇はいつだって私たちの抱いている光を消そうと働きます。
黑暗总想着有一天要灭了我们内心的光明。
そう考えれば、安全な時の方が珍しいと言っていいかもしれません。
这样想的话,或许可以说处于安全期的人是相当少的。
けれども、聖書は言うんですね。
但是圣经上说:
そんな中でも、神様の約束は実現して行っている。
即使是在患难中,神的约定也会应验。
18節の、かっこの中に入っている言葉は旧約聖書の言葉なんですが、それが実現したんだ、と言うんですね。
18节,引号中的话引自旧约圣经,这些都应验了。
つまり、このことも、神様の救いの計画が前進するために起こったことなんだ、と聖書は言っているんですね。
总之,这事也是为了推进神救恩计划而发生的,经上是这样说的。
「子どもたちがもういない」、ということで、今日起こったヘロデによる虐殺の出来事を指しているわけですが、この個所を旧約聖書で見ますと、その昔起こった、国を滅ぼされて、人々が連れ去られるという出来事を記している個所になります。
“孩子们都不在了,”虽然是指今天所发生的孩子被希律残酷杀害的事,但是如果看旧约部分的话,记载的是以前所发生的国家被灭,人们被虏的事情。
ここに書かれている「ラマ」というのはエルサレムの北のあたりで、人々はここに集合させられ、外国に連れていかれたんでした。
这里的拉玛是耶路撒冷北部,人们被集合到那里,流放到国外去。
「ラケル」には子どもがもういない、ということですけれども、このラケルというのはイスラエルの先祖で、この人とこの人の姉のレアから、イスラエルの12の部族の先祖が生まれたんですね。
说拉结的孩子已经不在了,这个拉结是以色列的祖先,她和她姐姐利亚生了以色列12个支派的祖先。
つまり、国を滅ぼされて、子どもたちは皆、外国に連れていかれたということを書いているんです。
写的是当时国家被灭,孩子们被流放到国外的事情。
しかし、どうしてここの個所を、このヘロデによる虐殺の場面を語る時に引用してきたのでしょうか。
可是为什么这个部分引用到了希律王残杀孩子的部分呢?
引用されたこの個所は旧約聖書のエレミヤ書なんですが、今日引用されているところのすぐ後、エレミヤ書31章16、17節には、こういうことが書かれているんですね。
被引用的部分是耶利米书31章15节,后面的16,17节这样写着:
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
“耶和华如此说:你禁止声音不要哀哭,禁止眼目不要流泪,因你所作之工,必有赏赐,他们必从敌国归回。这是耶和华说的。耶和华说:你末后必有指望,你的儿女必回到自己的境界。”
苦しみの向こうに希望がある。
苦难之后有盼望,
苦しみは苦しみでは終わらない。
苦难不会在苦难中终结,
これから、救いの出来事が起こる、ということなんですね。
之后会有救恩。
そして、エレミヤ書31章31節からのところでは、新しい契約について語られます。
耶利米书31节开始写的是新的约定。
新しい契約ということは古い契約があったわけですが、人々が神様と結んだ古い契約を人々は破りました。
有新约定就有旧约定,人违背了和神所立的旧约定,
神の言葉に従わなかったんですね。
没有听从神的话语。
そのために、国が滅ぼされて外国に連れていかれるという大変な目にあいました。
因此,遭到了灭国并流亡的厄运。
しかし、それで終わりではないんですね。
可是这并未终结。
これから新しい契約が与えられるんです。
从此赐下了新约。
暗闇の中に光が与えられるんです。
光照进了黑暗里。
その光がすでに与えられているのが占星術の学者たちですよね。
已经得到赏赐的是占星师们。
喜びにあふれて、それまでの自分を捨てて、違う生き方をしはじめた。
大大欢喜,舍弃老我,开始了新的生活。
自分で自分を守る、そのためには何だってする、という生き方ではなく、自分を神にささげて、神に用いていただく。
不是由自己来保守自己,为此什么都可以做,而是把自己献给神,为神使用。
そのような新しい生き方にこそ、喜びがあるんだ、と聖書は言うんですね。
经上说这样的新生活,充满了喜乐。
これ、占星術の学者たちが何か特別な人ではないんですね。
占星师并不是什么特别的人,
この人たちだってもともとは、今の自分を守りたい、という人ですよ。
他们原先也是想要保全自己的人,
だって、そうじゃないんだったら、占星術なんてしないですから。
如果不是这样的话也就不是占星师了。
自分を守りたいという気持ちが普通の人より強い人だったかもしれない。
可能比一般人更想要保全自己,
でも、自分をささげると、喜びにあふれる。
但是一旦献上了自己后,就大大欢喜,
それが、この人たちがした礼拝だったんですね。
这便是他们的敬拜。
その礼拝を、私たちも今、しているんですよ。
这样的敬拜我们现在也正在进行着。
私たちは、神に出会い、神の言葉を聞くためにここに来ました。
我们为了遇见神,想听神的话语来到了这里。
私たちだって、自分を退けたから、ここにいるんですね。
我们也是放下了自我,来到了这里。
私たちにも今、光が与えられているんですね。
我们现在也被获得了光明。
幼子イエスが私たちのふところにいると言ってもいい。
也可以说幼子耶稣在我们的怀中。
そのために大変な目にあうということはあるわけです。
因此可能会遭到厄运,
ヨセフがそうでした。
约瑟也是如此。
しかし、今日、聖書が語っている大事なことは、どんな大変なことがあっても、神の救いの働きは約束の通りに実現していくということなんですね。
可是今天圣经中所讲的最重要的是不管如何糟糕的境遇,神的救恩必定按照约定应验。
今日の23節にも、旧約聖書の言葉が引用されています。
今天23节也引用了旧约圣经中的话。
世の暗闇に揺さぶられているような一家ですが、しかしそれでも、予定通りに、神様の働きは前に進んでいるんですね。
虽然是在这黑暗的人世间风雨飘摇的一家子,可是即便如此,也是按照约定,神的做工在进行着。
暗闇は深いです。
虽然周围充斥着黑暗,
けれども、どんな暗闇も、光を消すことはできません。
但是不管怎样的黑暗,光明始终不会消失。
光は暗闇を消すことができますね。
光可以驱散黑暗
でも、暗闇は光を消すことはできないんです。
而黑暗却不能赶走光明。
それどころか、光は広がっていこうとしていますね。
非但不能,光明在扩散开去。
占星術の学者は外国人、異邦人です。
占星师是外国人异邦人。
神の民イスラエルのメンバーではないんです。
并不是神的子民以色列人。
あるいは、今日、一家は最後にガリラヤ地方のナザレに行って住みましたが、ガリラヤは辺境の地で、異邦人の土地だとみなされることもある場所でした。
再看这一家子最后住的地方加利利的拿撒勒,加利利是边境地区被视为异邦人的地盘。
神の働きは、もう、今にもあふれ出ようとしている。
神的做工正在向外扩张。
ではそこにおいて、キリストはどのような神の働きをなさるのでしょうか。
那么这里的基督要做什么呢?
それが今日の15節ですね。
15节,
ここもカッコの中は旧約聖書の言葉です。
引号中也是旧约的内容。
「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。
“我从埃及召出我的儿子来”
これは旧約聖書の前から2番目の本である、出エジプト記の出来事を指しています。
这是指旧约第二部分出埃及记的事情。
その昔、イスラエルの人々はエジプトで奴隷にされていたんですが、神様はモーセを選んで立てて、奴隷であったところから導き出したんですね。
以前,以色列人在埃及为奴,神拣选摩西带领以色列人出为奴之地。
まさにそのような働きをイエス様はすることになる、と言うんですね。
难不成是决定让耶稣也做这样的事。
人々が、神に従うことができず、不安と恐れの奴隷、暗闇の奴隷であるところから、光の中へと導き出すんですね。
人们不顺从神,做了不安和恐惧的奴仆也做了黑暗的奴仆,要让耶稣带这些人出黑暗入光明。
幼い頃のイエス様と両親のことを見ているだけで、もう、イエス様がこれからどういう働きをするのかが分かる、と今日の場面は言っているんです。
今天的内容就是要告诉大家:只要看到幼时的耶稣和他的双亲,就能明白耶稣今后的做工。
そして、今こうして礼拝している私たちも、その働きに関わっていくんですね。
而现在在这里敬拜的我们,也与这做工相关。
その中で、苦しみはあります。
这中间也会有磨难。
ヨセフはこんなことになるだなんて想像もしなかったんじゃないですか。
约瑟不也没想到会遭遇这样的事情吗?
想像もしないようなことが起こることというのはあるんです。
是会有意想不到的事情发生。
ですけれども、今日の場面は何と言っていますか。
可是,今天的内容是怎么说的呢?
想像もしないような大変なことが起こったとしても、神様の働きは確かに前進していっているんだ、と言っているんですね。
即便发生意想不到的遭遇,神的做工依然切切地在进行着,是这样说的。
ですから、私たちも、それを信じて、前に進みたいと思います。
因此,我们也要相信如此,要向前行。
どんな大変なことがあっても、幼子イエスと共にいたヨセフとマリアが守られたように、神様はイエス様と共なる私たちを必ず守り、救いの働きを前進させてくださいます。
不管是怎样的境遇,就如同保守与幼子耶稣同在的约瑟和玛利亚那样,神必定会保守与耶稣同在的我们,让救恩前行。