
「とりなしてくださる」
ローマの信徒への手紙8章26、27節
26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
私たちは弱い、と言われています。
確かに、私たちは何をするにも限界がありますから、私たちはしばしば弱さを感じることがあります。
いろいろな弱さを私たちは感じますね。
体調が悪い時には体の弱さを感じないわけにはいきませんし、仕事や勉強やスポーツをしていて、能力の弱さを感じることもあります。
もしかすると、いろいろな場所で、自分の立場の弱さを感じることもあるかもしれません。
ただここでは、私たちは弱い、そして、弱いから「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言われています。
どうして、弱いとどう祈るべきか分からないのでしょうか。
私たちは、弱いからこそ祈りますね。
自分が弱さを感じる時にこそ、私たちは祈ります。
信仰のない人であっても、たとえば、海の上で漂流することになったら祈るでしょう。
私たちは弱い時こそ祈るはずなのです。
これは一体どういうことを言っているのかと言いますと、この「どう祈るべきか」という言葉は、「何を、ふさわしく祈るか」という言葉なんですね。
つまり、ここで言われているのは、私たちが、本当の意味で「何を」祈るべきか分かっていない、本当の意味で「ふさわしく」祈れていないということなんです。
つまり、弱いというのは信仰の弱さなんですね。
信仰が弱いから、的外れな祈りをしている、ということなんです。
私たちはなかなか自分ではそのことに気づきませんが、確かにそれはそうかも、と思わせられる話があります。
生まれつき目が見えない人が物乞いをしていた。
そこにやってきたイエス様は、その人に聞くんですね。
「何をして欲しいのか」。
そういうふうに、生まれつき目が見えなくて物乞いをしていた人に聞いたんです。
「何をして欲しいのか」。
この質問、どうなんでしょうね。
目が見えるようになりたいに決まっているじゃないか、と思ってしまいます。
実際にその人は、「見えるようになりたいのです」と答えたんですが、考えてみると、この答えは良い答えだなあと思うんですね。
もし、目が見えるようになったら、この人はもう物乞いはできませんよね。
働いて、自分で生活していかなければならなくなります。
生まれつき目が見えないんですから、今まで働いたことはなかったでしょうに、目が見えるようになったら、ある意味で、今までよりも大変な人生になります。
そう考えたら、「食べ物が欲しい」とか、「家が欲しい」とか、「お金が欲しい」と答えても良かったんじゃないかと思うんですね。
それだったら、別にイエス様でなくたって、親切な人なら何とかしてくれるかもしれない。
でも、この人には信仰があったんですね。
だからこそ、イエス様に、「見えるようになりたい」とお願いすることができた。
信仰がないんだったらその場限りの願い事しかしなかったでしょう。
でも、信仰があったからこそ、本質を願うことができた。
そう考えますなら、私たちの祈りはどうでしょうか。
私たちは、その場限りの願い事をしていないでしょうか。
本質を祈っているでしょうか。
どこかそこら辺の人にお願いするんじゃなくて、神に対して祈るにふさわしく、祈っているでしょうか。
それが、「ふさわしく祈る」ということなんでしょうね。
ただ、なかなかふさわしく祈ることができない私たちのために、助けがあると言うんですね。
「“霊”」という言葉が出てきていますけれども、このように、霊という言葉に点々のカッコが付けられている場合は、神の霊を表します。
原文には単に霊と書かれているだけなんですが、それが神の霊を指す場合には、この点々のカッコに入れて翻訳しているんですね。
神の霊は神に対してふさわしく祈れない私たちの弱さにおいて助けてくださるというんですね。
そしてこの「助ける」という言葉は三つの言葉をくっつけて一つにした言葉なんですが、元の三つの言葉は、「一緒に」、「身代わりになって」、「背負う」という言葉です。
それが助けるということなんだ、ということですね。
神の霊は私たちと一緒に祈ってくださる。
私たちに成り代わって祈ってくださる。
私たちを背負って祈ってくださる。
そのようにして、私たちを助けてくださる。
まるでイエス様ですね。
そのような神の霊が、私たちと共にいてくださっているんです。
そして、私たちを神様にとりなしてくださるんですね。
神様と私たちの間を良い状態にしてくださるんです。
私たちの願いが神に届けられ、神が私たちの願いに応えてくださるようにしてくださるんです。
ただそれは、神の霊にとっても楽なことではないんですね。
神の霊の祈りは、「言葉に表せないうめき」だと言われています。
私たちも自分の弱さの中でうめいているんですよね。
祈りを失って、うめくということがあります。
あるいは、的外れな祈りしかできなくて、いつまでも本質的には変わらなくて、うめくということがあるかもしれません。
その私たちと一緒に、私たちに成り代わって、私たちを背負って、神の霊はうめくんですね。
神はそれを聞くんです。
神は、「人の心を見抜く方」だと言われていますね。
ただ、祈りにおいて神がご覧になるのは私たちの心ではありません。
神は、「“霊”の思いが何であるかを知っておられます」と言われています。
神は人の心を見抜く方ですが、その方がご覧になるのは“霊”の思いなんですね。
「“霊”の思い」はどのようなものでしょうか。
神と人をとりなそうという思いです。
そのためにうめくほどの必死の思いです。
十字架の上のキリストのように、人を神にとりなして、神の霊はうめいているんですね。
神の霊が、そこまでしてくださると言われているんです。
そのような神の霊を、私たちは与えられています。
このことを心にしっかりと収めたいですね。
私たちは弱い。
弱いので、ふさわしく祈ることができないかもしれない。
けれども、その私たちの弱さを、神の霊は背負ってくれる。
私たちと共に、私たちのために、うめいてくれる。
そのうめきを、神は聞き逃さない。
私たちは、神のそのような働きにあずかっているのです。