
✜6/25(月)埼玉西部地区教師会(当教会、11:00-15:00)
✜6/27(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜6/28(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜6/29(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)
✜6/30(土)牧師週休日
✜7/1(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、小会・執事会(13:00-15:00)、掃除
🎤6/24(日)の説教
説教題「イエスの洗礼」
賛美歌・113、32、38、211、575、289、65-1、29、40-5
📅8月までの教会の行事
✜7月15日(日)ユース集会(当教会にて。7月16日[月・祝]に江古田教会で夏祭り)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
📅8月までの中大会の行事
✜7月3日(火)東部中会第一回臨時中会
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会

前触れ
マタイによる福音書3章1-12節
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「蝮の子らよ」と洗礼者ヨハネが人々に語りかけています。
これは大変な言葉ですね。
マムシというのは蛇です。
そして、蛇というのは聖書ではサタンを指す言葉にもなりますね。
お前たちはサタンの子だ、と洗礼者ヨハネは言っているんですね。
でも、この時洗礼者ヨハネの前にいた人たちって、「ファリサイ派やサドカイ派の人々」なんですよね。
この人たちって、指導者たちですよ。
ユダヤ教の先生たちです。
その人たちに向かって「サタンの子だ」なんて言うのはもう、ハラスメントですね。
モラル・ハラスメントです。
きっと、ユダヤ教の先生たちは大いに傷ついたんじゃないかと思うんですね。
モラハラっていうのは言っている本人に相手を傷つけるつもりがなくても、モラハラになるんだそうですね。
洗礼者ヨハネだってそれはそうですよね。
けれども、こう言われたユダヤ教の先生たちはどんな気持ちだったでしょうかね。
ただ、洗礼者ヨハネはもちろん、モラハラをしに来たわけではありません。
ついうっかり自分でも気づかない内に厳しいことを言ってしまって、すいません、なんて、そんなことではないんですね。
この人は、旧約聖書に書かれていた言葉を実現した人ですね。
今日の3節ですが、カギカッコの中に入っているところは、旧約聖書からの引用なんです。
旧約聖書のイザヤ書の40章3節からの引用です。
そこに出てくる「荒れ野で叫ぶ者」というのが洗礼者ヨハネのことですね。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われていますが、これから神様が来られるから、お迎えする準備をしようということですね。
洗礼者ヨハネ自身もこう言いました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
そこで、洗礼を授けていたんですね。
人々の罪を洗い清めていたんです。
「天の国は近づいた」って言われていますけれども、聖書では、「天」と「神」とは同じです。
そして、「国」という言葉は「支配」とも訳せるんですね。
ですから、天の国というのは神様の支配のこと。
神様が私たちの王になってくださるということです。
それは、天国っていう時にイメージしてしまうような、どこか分からない遠くの場所ではなくて、今私たちがいるこの場所で、神様が私たちの王になってくださるということなんですね。
その時は近いんです。
もうすぐ、神の子キリストが来てくださり、私たちの王になられる。
だから、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということなんですね。
そのために、「悔い改めよ」と洗礼者ヨハネは言ったんですが、この「悔い改める」という言葉は、旧約聖書の原文では「立ち返る」という言葉です。
何に立ち返るのかというと、神にですよね。
神様を自分の王にする。
神様は私たちの王になってくださる。
そういうことがここで言われているんですね。
こんなことが言われているということは、私たちは知らない内に自分を自分の王としてしまっているということかもしれませんね。
いえ、多くの人は自分が王様だとは思わないでしょうが、もし、心の中に、自分のことは自分で決めます、自分のことは自分でやりますっていう思いがあるとしたら、もし、心の中に、他の誰も立ち入ることを許さない場所があるとしたら、その部分では、私たちは自分が自分の王なんですよね。
そして、そういう部分というのは、私たちの誰にでもあるのではないかと思います。
ですから、今日のテーマは、神様を真の王として迎え入れる、ということですね。
この部分はお任せしますが、この部分は結構です、じゃなくて、神様を全く私たちの王としてお迎えすること。
それが今日のテーマです。
だから、今日の1節で、一番最初に「そのころ」と書かれていますよね。
これ、なんで「そのころ」なんだっていう話ですね。
だって、2章までのところでは、イエス様はまだ幼子です。
ほんの小さい子どもです。
ですけれども、3章では、もうこの洗礼者ヨハネがこんなふうに、人々に対して大きな働きをしている。
この洗礼者ヨハネとイエス様は、半年しか年が違わないんです。
この時点で、イエス様ももう大人なんですね。
それなのに、今日の場面が「そのころ」という言葉で始まっているのは、2章と3章でテーマが同じだからですね。
2章では大変ひどい王様が出てきましたよね。
ヘロデ王です。
その人が王であったために、人々は不安の中で生きなければいけなかったですし、イエス様が来られるということでヘロデ王は恐れまして、イエス様かもしれない男の子を皆殺しにするなんていう、大変な事件も起こしていたんですね。
そんな王のもとにいたのでは、どうしようもありません。
でも、違っていたのが占星術の学者たちでしたね。
この人たちはイエス様を礼拝するために、遠く外国から旅をしてきたんでした。
この人たちだけは、喜びにあふれていたんですね。
ですので、誰を自分の王にするのか、イエス様を自分の真の王にしよう、これが2章と3章を貫くテーマなんです。
ただ、今日の洗礼者ヨハネの言葉は厳しいですね。
8節ですが、「悔い改めにふさわしい実を結べ」なんて言われています。
実を結んでいないから、「蝮の子らよ」と言われたんですね。
「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」なんて言っていますけれども、「だれが教えたのか」って、洗礼者ヨハネ自身ですよね。
ただ、そう言っているということは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたらもう大丈夫、ということではないということですね。
実を結ぶことが決定的に大事なんです。
では、実を結ぶとはどういうことなんでしょうか。
何か良い行いをすればいいんでしょうか。
行いということなら、ファリサイ派やサドカイ派はしっかりした人たちです。
でも、その人たちが今、叱られているんです。
行いではないんですね。
9節を見ますとどういうことなのかが分かってきます。
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。
これがまずいということのようですね。
「我々の父はアブラハムだ」。
そんなふうに思って、自分は大丈夫だと思い込んでいること。
それが、悔い改めにふさわしい実を結んでいないということなんでしょう。
アブラハムというのはユダヤ人の先祖です。
神がアブラハムを選んだのがユダヤ人の始まりです。
そして、ユダヤ人は、自分はアブラハムの子孫だから、神に選ばれている、神の救いにあずかる者だと信じていました。
それが、悔い改めにふさわしい実を結べていないということなんですね。
「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と洗礼者ヨハネは言いました。
誰の子孫かなんてそんなことは、石ぐらいのものだ、神の前には何の問題でもないのだ、ということですね。
そもそも、最初から自分は神の民だ、自分は大丈夫だと思っているのなら、悔い改める必要なんてないですよね。
それなら、洗礼を受けても形だけです。
けれども、洗礼者ヨハネは本気なんですね。
悔い改めが決定的に大事だと考えているんです。
この人はユダヤ人にも洗礼を授けていますけれども、洗礼というのはそもそも、外国人がユダヤ教徒になる時に受けるものなんです。
ユダヤ人は洗礼を受けなくていいと考えられていました。
それをユダヤ人にも受けさせているんですから、もうこの人としては、形だけじゃなくて、本当に悔い改めているかどうか、自分は大丈夫だなんて思いこんでいないかっていうということを、何よりも大事なことだと考えていたということなんですね。
これはイエス様もそうですよね。
4章17節でイエス様も同じことを言って、ご自分の働きを始めたんですね。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」ですよね。
形だけじゃない、本当の悔い改めですね。
本当に悔い改めたら、自分は大丈夫だなんて言えないですよね。
そうなっているかどうか。
それが大事なんです。
洗礼者ヨハネは、洗礼を受けに集まった人々に厳しい言葉で決断を迫っていますね。
10節から12節ですけれども、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。
悔い改めて、神様を本当に王にできなかったら、火に投げ込まれるんですね。
そして、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
これ、イエス様のことですね。
イエス様がこれから来られる。
そのイエス様が何をするのかというと、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」ということですね。
これは大変なことです。
すぐにでも悔い改めてイエス様をお迎えできるようにしなければいけません。
ですけれども、人々は結局悔い改めることができなかったんですよね。
良い実を結べなかったんです。
人々はイエス様を王として迎えるどころか、結局イエス様を十字架につけてしまいました。
けれども、イエス様が人々を切り倒して火に投げ入れたかというと、そうではないですよね。
これは洗礼者ヨハネも予想できなかったことでした。
イエス様は、人々が罪をあらわにしているのに、何も言わず、イエス様自身が命を投げ出してくださったんですね。
私たちの王は、私たちのために命を投げ出してくださる王なんです。
そのような方が、私たちの王としていらしてくださるんですね。
ただ、その方も、「悔い改めよ」と言っておられるんです。
おそらくは、洗礼者ヨハネとは違う声で、でも、同じことを言っておられるんですね。
神に立ち返りなさい、と。
これは、悔い改めなければ命はないぞということではありません。
わたしの命をあなたにあげるから、あなたは大丈夫だ。
安心して、心を開いて、あなたの心の中に、私に入らせてほしい。
イエス様は私たちにそう言っておられるんですね。
イエス様は最初からそのおつもりでした。
これも、洗礼者ヨハネが分かっていなかったことですが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉がありましたね。
この「主の道」というのは王のための道の道なんですが、イザヤ書では、王様が戦いに勝って帰ってくる道なんです。
命を投げ出してくださったイエス様は、死に勝利して、復活なさった。
その王である神の子イエス様が来られる。
勝利の凱旋パレードをしながら、私たちのところに来られる。
そういうことなんです。
だから私たちとしては、喜びをもって迎え入れるだけですね。
負けた王様を迎え入れるのは大変ですよ。
でも、死に勝った王です。
どんな力よりも強い王なんです。
その王を、私たちの心のすべてで王にしましょう。
これは、聖書のもっとずっと後の場面ですが、イエス様がエルサレムにロバにのって入城される場面がありますね。
人々はその時、王を迎える態度を示しました。
その時、人々は自分の服を脱ぎ、それを道に敷いたんです。
着飾っていた自分を捨てた。
自分を覆い隠していたものを捨てた。
イエス様に自分を開け放って、それを道に敷いた。
イエス様にささげた。
そのようにしましょう。
私たちが開け放った分、イエス様は、もっと私たちの心の奥深くにまでいらしてくださいます。
前触れ
「蝮の子らよ」と洗礼者ヨハネが人々に語りかけています。
施洗约翰对着人说“毒蛇的种类”,
これは大変な言葉ですね。
这话很难听啊。
マムシというのは蛇です。
マムシ就是蛇。
そして、蛇というのは聖書ではサタンを指す言葉にもなりますね。
蛇在圣经中也意指撒旦。
お前たちはサタンの子だ、と洗礼者ヨハネは言っているんですね。
施洗约翰是在说:你们是撒旦的后代。
でも、この時洗礼者ヨハネの前にいた人たちって、「ファリサイ派やサドカイ派の人々」なんですよね。
但是当时在施洗约翰面前的那些人是法利赛人和撒都该人。
この人たちって、指導者たちですよ。
这些人是指导者。
ユダヤ教の先生たちです。
是犹太教的老师
その人たちに向かって「サタンの子だ」なんて言うのはもう、ハラスメントですね。
居然对这些人说他们是撒旦的后代,这算是一种攻击吧。
モラル・ハラスメントです。
属于精神攻击。
きっと、ユダヤ教の先生たちは大いに傷ついたんじゃないかと思うんですね。
犹太教的老师们必定受到了很大的伤害。
モラハラっていうのは言っている本人に相手を傷つけるつもりがなくても、モラハラになるんだそうですね。
即使说者并无意伤害对方,似乎还是造成了精神攻击。
洗礼者ヨハネだってそれはそうですよね。
施洗约翰就是的。
けれども、こう言われたユダヤ教の先生たちはどんな気持ちだったでしょうかね。
那么被这么说的犹太教的老师们又是什么感觉呢?
ただ、洗礼者ヨハネはもちろん、モラハラをしに来たわけではありません。
施洗约翰自然不是为了攻击他们而来,
ついうっかり自分でも気づかない内に厳しいことを言ってしまって、すいません、なんて、そんなことではないんですね。
因为自己稀里糊涂地无意间说了很严厉的话,所以道歉之类的,并非如此。
この人は、旧約聖書に書かれていた言葉を実現した人ですね。
他是要应验旧约的话。
今日の3節ですが、カギカッコの中に入っているところは、旧約聖書からの引用なんです。
今天的第三节,引号中引用的就是旧约的内容。
旧約聖書のイザヤ書の40章3節からの引用です。
引用了以赛亚书40章3节。
そこに出てくる「荒れ野で叫ぶ者」というのが洗礼者ヨハネのことですね。
其中“在旷野中呼喊的人”就是施洗约翰。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われていますが、これから神様が来られるから、お迎えする準備をしようということですね。
“预备主的道,修直他的路!”是因为神要来,所以要做好迎接的准备。
洗礼者ヨハネ自身もこう言いました。
施洗约翰自己也这样说:
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
“天国近了,你们应当悔改!”
そこで、洗礼を授けていたんですね。
于是给人受洗。
人々の罪を洗い清めていたんです。
洗清众人的罪孽。
「天の国は近づいた」って言われていますけれども、聖書では、「天」と「神」とは同じです。
“天国近了”,其实在圣经中天和神是相同的。
そして、「国」という言葉は「支配」とも訳せるんですね。
国也可以翻译成支配掌权,
ですから、天の国というのは神様の支配のこと。
所以天国就是由神掌权的意思
神様が私たちの王になってくださるということです。
也就是神将成为我们的王。
それは、天国っていう時にイメージしてしまうような、どこか分からない遠くの場所ではなくて、今私たちがいるこの場所で、神様が私たちの王になってくださるということなんですね。
这是要告诉我们:天国并非想象中那样未知的遥远的地方,神就在我们现在所在的地方作我们的王,
その時は近いんです。
时候到了
もうすぐ、神の子キリストが来てくださり、私たちの王になられる。
不久神的儿子基督就会来做我们的王。
だから、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということなんですね。
所以要“预备主的道,修直他的路”。
そのために、「悔い改めよ」と洗礼者ヨハネは言ったんですが、この「悔い改める」という言葉は、旧約聖書の原文では「立ち返る」という言葉です。
因此,是施洗约翰说“应当悔改”,“应当悔改”在旧约原文中用的是“回归”这个词。
何に立ち返るのかというと、神にですよね。
回到哪里?回到神那里。
神様を自分の王にする。
把神作为自己的王。
神様は私たちの王になってくださる。
让神成为我们的王。
そういうことがここで言われているんですね。
这里要说的是这件事。
こんなことが言われているということは、私たちは知らない内に自分を自分の王としてしまっているということかもしれませんね。
这样的事情被说,可能是因为我们在不知不觉中把自己当成了王。
いえ、多くの人は自分が王様だとは思わないでしょうが、もし、心の中に、自分のことは自分で決めます、自分のことは自分でやりますっていう思いがあるとしたら、もし、心の中に、他の誰も立ち入ることを許さない場所があるとしたら、その部分では、私たちは自分が自分の王なんですよね。
虽然大多数人并不觉得自己是王,但是心里想着自己的事情由自己决定,由自己去做,或者说,不允许其他人进入自己的内心世界,就这点来说,我们自己就是自己的王。
そして、そういう部分というのは、私たちの誰にでもあるのではないかと思います。
这种想法我们大家应该都有吧。
ですから、今日のテーマは、神様を真の王として迎え入れる、ということですね。
所以今天的主题是迎接神做我们真正的王。
この部分はお任せしますが、この部分は結構です、じゃなくて、神様を全く私たちの王としてお迎えすること。
这部分交给主,这部分就算了,不是这样的,要迎接神做我们完全的王。
それが今日のテーマです。
这就是今天的主题。
だから、今日の1節で、一番最初に「そのころ」と書かれていますよね。
所以今天的第一节开头写着“那个时候”,
これ、なんで「そのころ」なんだっていう話ですね。
为什么是“那个时候”呢?
だって、2章までのところでは、イエス様はまだ幼子です。
因为到第2章为止,耶稣还是个幼子。
ほんの小さい子どもです。
是个小小孩。
ですけれども、3章では、もうこの洗礼者ヨハネがこんなふうに、人々に対して大きな働きをしている。
但是在第三章,施洗约翰已经开始对人们做如此了不起的事了。
この洗礼者ヨハネとイエス様は、半年しか年が違わないんです。
施洗约翰和耶稣只差了半岁。
この時点で、イエス様ももう大人なんですね。
这个时候耶稣也已经是大人了。
それなのに、今日の場面が「そのころ」という言葉で始まっているのは、2章と3章でテーマが同じだからですね。
然而,今天的场景却以“那个时候”开始,是因为第二章和第三章的主题相同。
2章では大変ひどい王様が出てきましたよね。
第二章里出现了非常残暴的君王。
ヘロデ王です。
希律王。
その人が王であったために、人々は不安の中で生きなければいけなかったですし、イエス様が来られるということでヘロデ王は恐れまして、イエス様かもしれない男の子を皆殺しにするなんていう、大変な事件も起こしていたんですね。
因为这个王,人们活在不安中,他因为害怕耶稣要来,把可能是耶稣的男孩子全都杀了,连这样的事情他都做了。
そんな王のもとにいたのでは、どうしようもありません。
在这样的王面前实在无能为力。
でも、違っていたのが占星術の学者たちでしたね。
然而,占星师们却不同。
この人たちはイエス様を礼拝するために、遠く外国から旅をしてきたんでした。
这些人为了敬拜耶稣,不远万里而来。
この人たちだけは、喜びにあふれていたんですね。
只有这些人大大欢喜。
ですので、誰を自分の王にするのか、イエス様を自分の真の王にしよう、これが2章と3章を貫くテーマなんです。
因此谁来做我们的王,要让耶稣来做我们真正的王,这就是第二张和第三章所贯穿的主题。
ただ、今日の洗礼者ヨハネの言葉は厳しいですね。
只是今天施洗约翰的话很严厉啊。
8節ですが、「悔い改めにふさわしい実を結べ」なんて言われています。
第八节说,“结出与悔改的心相称的果子”。
実を結んでいないから、「蝮の子らよ」と言われたんですね。
因为没有结出果子,所以说是“毒蛇的种类”。
「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」なんて言っていますけれども、「だれが教えたのか」って、洗礼者ヨハネ自身ですよね。
虽然他问“谁教你们逃避将来的愤怒呢?”要说到“是谁教的”,应该是约翰自己。
ただ、そう言っているということは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたらもう大丈夫、ということではないということですね。
只是虽然这样说,并不是从施洗约翰那里受了洗之后就没事了,
実を結ぶことが決定的に大事なんです。
结出果子来才是起决定性作用的关键。
では、実を結ぶとはどういうことなんでしょうか。
那么结出果子是指什么呢?
何か良い行いをすればいいんでしょうか。
要做什么才可以呢?
行いということなら、ファリサイ派やサドカイ派はしっかりした人たちです。
说到做,法利赛人和撒都该人是有做的。
でも、その人たちが今、叱られているんです。
但是现在他们却被训斥。
行いではないんですね。
是因为没有作为。
9節を見ますとどういうことなのかが分かってきます。
看了第九节就明白了。
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。
“不要自己心里说:‘有亚伯拉罕为我们的祖宗。’我告诉你们,神能从这些石头中给亚伯拉罕兴起子孙来。”
これがまずいということのようですね。
这话很难听啊。
「我々の父はアブラハムだ」。
“有亚伯拉罕为我们的祖宗”
そんなふうに思って、自分は大丈夫だと思い込んでいること。
这样想的话,就是认定自己没问题。
それが、悔い改めにふさわしい実を結んでいないということなんでしょう。
这就是没有结出与悔改的心相称的果子。
アブラハムというのはユダヤ人の先祖です。
亚伯拉罕是犹太人的祖先。
神がアブラハムを選んだのがユダヤ人の始まりです。
神拣选的亚伯拉罕就是犹太人的始祖。
そして、ユダヤ人は、自分はアブラハムの子孫だから、神に選ばれている、神の救いにあずかる者だと信じていました。
因此,犹太人相信因为是亚伯拉罕的子孙,自己就是被神拣选,蒙受神救恩的人。
それが、悔い改めにふさわしい実を結べていないということなんですね。
这就是没有结出与悔改之心相称的果子。
「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と洗礼者ヨハネは言いました。
施洗约翰说:“神能从这些石头中,给亚伯拉罕兴起子孙来。”
誰の子孫かなんてそんなことは、石ぐらいのものだ、神の前には何の問題でもないのだ、ということですね。
谁的子孙这事在神面前就和石头一样没什么大不了的。
そもそも、最初から自分は神の民だ、自分は大丈夫だと思っているのなら、悔い改める必要なんてないですよね。
如果一开始就觉得自己是神的子民,自己没问题的,没必要悔改。
それなら、洗礼を受けても形だけです。
如果这样的话,受洗也就只是个形式。
けれども、洗礼者ヨハネは本気なんですね。
但是施洗约翰是很认真的。
悔い改めが決定的に大事だと考えているんです。
把悔改当作决定性的大事考虑。
この人はユダヤ人にも洗礼を授けていますけれども、洗礼というのはそもそも、外国人がユダヤ教徒になる時に受けるものなんです。
他虽然也给犹太人受洗,但受洗最初是在外国人入犹太教的时候受的。
ユダヤ人は洗礼を受けなくていいと考えられていました。
当时认为犹太人不受洗也没关系。
それをユダヤ人にも受けさせているんですから、もうこの人としては、形だけじゃなくて、本当に悔い改めているかどうか、自分は大丈夫だなんて思いこんでいないかっていうということを、何よりも大事なことだと考えていたということなんですね。
让犹太人受洗,对施洗约翰来说,不只是形式,是否真心悔改,不认定自己没问题,这比什么都重要。
これはイエス様もそうですよね。
耶稣也是如此。
4章17節でイエス様も同じことを言って、ご自分の働きを始めたんですね。
第四种17节,耶稣也说了同样的话,开始了他的做工。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」ですよね。
“天国近了,你们应当悔改。”
形だけじゃない、本当の悔い改めですね。
不只是形式,是真正的悔改。
本当に悔い改めたら、自分は大丈夫だなんて言えないですよね。
如果真心悔改的话,是不会说自己没问题之类的。
そうなっているかどうか。
有没有这样说,
それが大事なんです。
这很重要。
洗礼者ヨハネは、洗礼を受けに集まった人々に厳しい言葉で決断を迫っていますね。
施洗约翰召集受洗的人用很严厉的话,比他们做决定。
10節から12節ですけれども、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。
10节到12节,“现在斧子已经放在树根上,凡不结好果子的树,就砍下来丢在火里。”
悔い改めて、神様を本当に王にできなかったら、火に投げ込まれるんですね。
そして、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
当悔改,不真把神当王的话,就丢进火里。而且,“我是用水给你们施洗,叫你们悔改,但那在我以后来的,能力比我更大,我就是给他提鞋也不配,他要用圣灵与火给你们施洗。”
これ、イエス様のことですね。
这是指耶稣。
イエス様がこれから来られる。
耶稣之后到来。
そのイエス様が何をするのかというと、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」ということですね。
说到耶稣将要做什么?“他手里拿着簸箕,要扬净他的场,把麦子收在仓里,把糠用不灭的火烧尽了。”
これは大変なことです。
这不得了啊。
すぐにでも悔い改めてイエス様をお迎えできるようにしなければいけません。
哪怕是即刻也必须要悔改迎接耶稣。
ですけれども、人々は結局悔い改めることができなかったんですよね。
可是,结果人们并没有悔改。
良い実を結べなかったんです。
没有结出好果子。
人々はイエス様を王として迎えるどころか、結局イエス様を十字架につけてしまいました。
人们非但没有把耶稣作为王迎接,反而是把他钉在了十字架上。
けれども、イエス様が人々を切り倒して火に投げ入れたかというと、そうではないですよね。
但是耶稣并没有把人们砍下丢进火里。
これは洗礼者ヨハネも予想できなかったことでした。
这是施洗约翰都没料想到的。
イエス様は、人々が罪をあらわにしているのに、何も言わず、イエス様自身が命を投げ出してくださったんですね。
虽然人犯了罪,但是耶稣什么都没说,献出了自己的生命。
私たちの王は、私たちのために命を投げ出してくださる王なんです。
我们的王是为我们舍命的王。
そのような方が、私たちの王としていらしてくださるんですね。
这样的人他来作我们的王。
ただ、その方も、「悔い改めよ」と言っておられるんです。
他也说:“应当悔改。“
おそらくは、洗礼者ヨハネとは違う声で、でも、同じことを言っておられるんですね。
恐怕是用和约翰不一样的声音,但是说的却是同样的事。
神に立ち返りなさい、と。
要归向神。
これは、悔い改めなければ命はないぞということではありません。
不是说不悔改命就没有了。
わたしの命をあなたにあげるから、あなたは大丈夫だ。
因为我的命交给了你,所以你就没事了。
安心して、心を開いて、あなたの心の中に、私に入らせてほしい。
放心敞开心胸,让我进入。
イエス様は私たちにそう言っておられるんですね。
耶稣对我们这样说,
イエス様は最初からそのおつもりでした。
耶稣一开始就是这么打算的。
これも、洗礼者ヨハネが分かっていなかったことですが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉がありましたね。
这也是施洗约翰不知道的,但是以赛亚书中有“预备主的道,修直他的路。”这样的话。
この「主の道」というのは王のための道の道なんですが、イザヤ書では、王様が戦いに勝って帰ってくる道なんです。
这里“主的道“是指为王之道的道,在以赛亚书中,是王凯旋而归的道。
命を投げ出してくださったイエス様は、死に勝利して、復活なさった。
舍命的耶稣战胜了死亡,复活了。
その王である神の子イエス様が来られる。
这个王是神的儿子耶稣,他来了。
勝利の凱旋パレードをしながら、私たちのところに来られる。
随着胜利凯旋的队伍来到了我们这里。
そういうことなんです。
だから私たちとしては、喜びをもって迎え入れるだけですね。
我们只需欢欢喜喜地迎接。
負けた王様を迎え入れるのは大変ですよ。
迎接打败仗的王会很惨,
でも、死に勝った王です。
但是我们迎接的是战胜死亡的王。
どんな力よりも強い王なんです。
是比什么都强的王。
その王を、私たちの心のすべてで王にしましょう。
让他成为我们的全部吧。
これは、聖書のもっとずっと後の場面ですが、イエス様がエルサレムにロバにのって入城される場面がありますね。
虽然是很后面的场景,但是有写到耶稣骑着驴进入耶路撒冷城的场面。
人々はその時、王を迎える態度を示しました。
那个时候人们展现了迎接王的姿态。
その時、人々は自分の服を脱ぎ、それを道に敷いたんです。
人们脱下自己的衣服,把衣服铺在地上。
着飾っていた自分を捨てた。
不再是盛装的自己。
自分を覆い隠していたものを捨てた。
也不再是掩饰起来的自己。
イエス様に自分を開け放って、それを道に敷いた。
向耶稣敞开自己,匍匐在他面前。
イエス様にささげた。
将自己献给耶稣。
そのようにしましょう。
让我们这样做吧。
私たちが開け放った分、イエス様は、もっと私たちの心の奥深くにまでいらしてくださいます。
我们向他敞开,耶稣会进到我们的内心更深处。