
✜7/3(火)聖書を読む会(10:30-12:00)、東部中会臨時会(東京恩寵教会、18:00-21:00)
✜7/4(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜7/5(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜7/6(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、コーヒーブレイク案内者訓練会(10:00-14:00)
✜7/7(土)牧師週休日
✜7/8(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル自主練習(13:00-14:30)、掃除
🎤7/1(日)の説教
説教題「荒れ野での試み」
賛美歌・122、32、38、208、575、531、65-1、24、40-5
📅8月までの教会の行事
✜7月15日(日)ユース集会(当教会にて。7月16日[月・祝]に江古田教会で夏祭り)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
📅8月までの中大会の行事
✜7月3日(火)東部中会第一回臨時中会
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください。参加費は全額、教会で負担いたします)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会

「イエスの洗礼」
マタイによる福音書3章13-17節
13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
サッカーのワールドカップが行われていますね。
皆さんの中にも、いくつかの試合をご覧になられた方もいらっしゃるのではないかと思います。
しかしあの、日本の3試合目の試合はどうだったんでしょうね。
日本がポーランドに負けたたんですが、決勝トーナメントに進出することを決めた試合ですね。
あの試合の最後の10分間ですよ。
私は、あれだけ動きのないサッカーは初めて見ました。
1対0で負けているのに、ただ時間が過ぎるのを待っているだけですね。
負けたままで良い、このままでいい。
別の会場で日本と同じグループに入っているコロンビアとセネガルが試合をしていました。
その時点で、コロンビアが1点リードしていたんですね。
コロンビアがセネガルを1点リードしていて、日本がポーランドに1点負けている。
もし、そのまま試合が終われば、日本は決勝トーナメントに進むことができることになるんですね。
そういうことで、コロンビアがそのまま勝つことを信じて、日本はポーランドにそのまま負けてもいいということで、意味のないパス回しをして、試合を終わらせたんですね。
これはちょっと考えものですね。
コロンビアがそのまま勝つかどうかは誰にも分からないんです。
それなのに、こんなことをするっていうのは、これは、自分の運命を別にチームに完全にゆだねたってことですよね。
神にゆだねた、とは言えないですね。
完全に人にゆだねたんです。
結局、グループリーグの中で、日本とセネガルは両チームとも1勝1敗1引き分けで並んで、得失点差でも並んで、最後に、イエローカードの枚数が日本の方が少なかったから、日本が決勝トーナメントに上がるということになったんですね。
最後の最後にイエローカードの枚数で順位を決めることをフェアプレイ・ポイントというんだそうですが、時間稼ぎして、試合には負けたまま終わって、それでフェアプレイ・ポイントというのはどうかって感じですね。
だいたい、負けたままで良いっていうのは競技としてどうなんですかね。
これはポーランドもどうかと思いますよ。
ポーランドは日本と試合をするまでに2敗していましたから、もう決勝トーナメントには進めないことに決まっていました。
けれども、3試合目、日本と試合すると1点先に取った。
このままいけば勝てるんですね。
1勝2敗ですから、良い成績ではないんですが、最後に一つは勝って、国に帰ることができます。
それだったらもうそれでいいかということで、日本の時間稼ぎに同意したんですね。
でもこれ、意味のないパス回しをして時間が過ぎるのを待つなんていうのは、サッカーという競技そのものを否定することですよ。
ポーランドはもう、勝っても負けても、決勝トーナメントには上がれないことになっていましたから、だからこそ、日本に時間稼ぎはさせない、最後の最後までサッカーの試合をするということもできたんじゃないかと思います。
でも、そうはしなかった。
とても残念ですね。
私は今回、いくつかの試合を見て、サッカーというのはすごいスポーツだと思っていたんです。
もみくちゃにされながら、ひたすらゴールを目指して、ボールをけるんですよね。
チャンスは一瞬しかありません。
1秒でも、1メートルでもずれたら、もうどうにもならない。
もみくちゃにされながら、その一瞬にかける。
自分を信じる、仲間を信じる。
それがサッカーなんだと思って、感動しながら見ていたのに、残念なことが起こってしまいました。
本質よりも、制度の方が上になってしまった。
それで、本質を否定することになってしまった。
次の試合で、日本代表が本物かどうかが問われるんだと思いますね。
次は世界ランキング3位のベルギーが相手です。
もう、もみくちゃにされるわけですよ。
嫌でももみくちゃにされます。
その中で、どこまでやれるか。
サッカーの本質に対して、どこまで真っすぐであるか。
見守りたいと思いますね。
さて、今日の場面はイエス様が世に登場してくる場面ですね。
ただ、面白いですね、登場してきて最初にしたのは説教ではないんですね。
最初にしたことは、洗礼を受ける、ということでした。
イエス様は、洗礼を受けることを希望したんです。
これには洗礼者ヨハネもびっくりですね。
洗礼者ヨハネはイエス様を止めようとします。
当然と言えば当然ですよね。
先週の場面の洗礼者ヨハネの言葉を聞くなら、洗礼者ヨハネはイエス様がどういう方かということを理解していますね。
聖霊を授ける方だ、と言っていましたけれども、聖霊というのは神の霊です。
神の霊を授けるなんてことができるのは、もうこれは神ですよ。
洗礼者ヨハネはイエス様が神の子だと分かっています。
ですけれども、洗礼というのは、罪を洗い清めることですね。
罪っていうのは人間のことですよ。
神の子なんだったら罪はありません。
洗礼者ヨハネとしてはびっくりですよね。
でも、よく読んでみると、洗礼者ヨハネはそんなことは言っていないですね。
あなたには罪がないから洗礼を受ける必要はありません、なんてことを言ったんじゃないんです。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」です。
洗礼者ヨハネはそう言ったんですね。
あなたがわたしに洗礼を授けてください。
あなたが私を清めてください。
人に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネが、そう言っているんですね。
イエス様こそが本物なんだってことですね。
いや別に、洗礼者ヨハネも偽物ではないんです。
ユダヤ教のルールでは、ユダヤ人は洗礼を受けないことになっているのに、ユダヤ教の先生たちが大勢洗礼を受けに来るくらいの人ですよ。
でも、ここで洗礼者ヨハネはイエス様だけを見つめているんです。
これはとても大事なことですね。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。
そういうふうに言いましたけれども、これを、洗礼者ヨハネの周りにいた人たちが聞いたら、どう思うでしょうかね。
この人の周りにいた人たちは、みんな、この人が最高の先生だと思っているような人たちですよ。
弟子たちだって、たくさんいたんじゃないですか。
でも、この人は周りの顔色をうかがうようなことはしなかったんですね。
本物に対して、真っすぐだったんです。
その洗礼者ヨハネに対して、イエス様が答えます。
それは「正しいこと」なんだ、「我々にふさわしい」ことなんだってことですね。
イエス様もまっすぐなんです。
真っすぐな人に、イエス様も真っすぐに答えるんです。
もうこの会話なんて、周りで聞いていた人は何にも分からなかったでしょうけれども、もうとにかく、二人とも本質だけで会話しているんですね。
ただ別に、洗礼はイエス様に必要だったわけではないですよね。
だから、「今は、止めないでほしい」と言っています。
止めるのももっともだってことですよね。
それは自分にとって必要なことではないけれども、洗礼を受けるのは、人間として、正しいことなんだとイエス様は言ったんです。
それは、「我々にふさわしい」って。
「我々」なんですね。
洗礼者ヨハネとイエス様で、「我々」なんです。
真っすぐな洗礼者ヨハネと、真っすぐなイエス様。
真っすぐに向かい合う二人は「我々」。
真っすぐイエス様に心を向けるなら、イエス様は、ご自分と私たちで、「我々」なんだと言ってくださるんですね。
これ、私たちも気を付けたいですね。
私たちも、人の顔色をうかがいたくなることもありますね。
周りの状況が気になることもあります。
完全に人に任せてしまうこともあるかもしれません。
でも、そんな時こそ、イエス様に対して真っすぐでありたいんですね。
イエス様は洗礼を受けました。
その時、「天がイエスに向かって開いた」。
「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。
そして、天から声が聞こえます。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
洗礼を受けることは、神様の御心に適うことだったんですね。
イエス様個人にとって必要だったわけではないですね。
ただ、イエス様は神の働きをしていくに先立って、洗礼を受けられた。
これは、洗礼がスタートになるんだということを示しているんだと思いますね。
洗礼って言うと、なんだかゴールっていうイメージがありますけれども、ゴールではないんですね。
洗礼を受けなければスタートできないんです。
それくらい大事なことだから、イエス様はわざわざ、必要もないのにここで洗礼を受けるというデモンストレーションをしてくださったんじゃないかと思うんですね。
洗礼がスタートなんです。
人間としてのスタートなんです。
ですので、どうぞ皆さん洗礼を受けてください。
これ、真っすぐに、イエス様が言っていることなんです。
それは「正しいこと」なんだと。
そして、神様もそうなんです。
神様も言っていますね。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、神様が洗礼を受けたイエス様のことを、そう言っているんです。
洗礼を受けると聖霊が与えられます。
洗礼者ヨハネは水による洗礼を授けていました。
しかし今、イエス様に聖霊が降ったんですね。
そのイエス様の洗礼だから、私たちにも聖霊が与えられます。
聖霊は神の霊ですね。
神ご自身です。
私たちも、神の子にされるんですね。
イエス様と同じ立場です。
そうして私たちも、イエス様のように、正しいことを真っすぐに行っていくようになる。
それが私たちにもふさわしいことですね。
考えてみると、イエス様はいつも、正しいことに真っすぐですね。
これは何も、考えることがなかったということではないですね。
今いる場所から退いて祈ることもありました。
けれども、右にも左にもそれることはなかったんですね。
遠回りすることもなかった。
もみくちゃにされることはありましたよ。
イエス様の最後の1週間なんて、もう、もみくちゃももみくちゃ。
でも、ゴールを目指して正しいことに真っすぐであり続けたんです。
私たちはそういうことが苦手かもしれないですけれども、でも、そんな私たちにも、神の霊が与えられるチャンスが開かれているんです。
それがスタートです。
真っすぐに生きる心と力を与えられていくこと、それがスタート。
それがふさわしいこと。
もみくちゃにされることもありますよ。
自分の心の中を自分でもみくちゃになってしまうこともあります。
けれども、真っすぐに心を神様に向けるなら、神様は必ず応えてくださいます。
なにしろ、「これはわたしの愛する子」という今日の言葉は、この私にも言われている言葉なんです。
「わたしの心に適う者」と言われてしまうと、イエス様はともかく、自分はどうかと思ってしまいますが、神様の心に適うというのは、神様が愛して、神様がふさわしいと思っているということですね。
これは、同じことを2回、言い方を変えて言う、ユダヤの表現なんです。
前で言ったことと後に言ったことは同じことなんですね。
「これはわたしの愛する子」というのと、「わたしの心に適う者」というのは、同じ内容なんです。
神様は、かけがえのない者として洗礼を受けた者を愛しているんです。
それがスタート。
神様に愛されることがスタートです。
スタートとして、すごくないですか。
もうゴールみたいなスタートですよね。
でも、神様としては、それがスタートだよ、ということなんですね。
それくらい、神様は私たちと一緒に生きていきたいと思っておられるんです。
もみくちゃにされることもありますよ。
人は人を批判するのが得意ですからね。
でも、もみくちゃになっても、真っすぐに神様を見つめたいんですね。
もみくちゃになるからこそ、真っすぐに神様を見つめたい。
時に深く考えながら、時に退いて祈りながら、神様と一緒に、ふさわしい仕方で、正しいことを行っていきたいと思います。
サッカーのワールドカップが行われていますね。
世界杯正在进行中。
皆さんの中にも、いくつかの試合をご覧になられた方もいらっしゃるのではないかと思います。
我们中间也有人看了几场比赛吧。
しかしあの、日本の3試合目の試合はどうだったんでしょうね。
日本队的第三场比赛大家感觉怎么样呢?
日本がポーランドに負けたたんですが、決勝トーナメントに進出することを決めた試合ですね。
这场比赛日本队虽然输给了波兰,但晋级了淘汰赛。
あの試合の最後の10分間ですよ。
这场比赛最后十分钟
私は、あれだけ動きのないサッカーは初めて見ました。
那样没劲的足球赛我也是第一次看到。
1対0で負けているのに、ただ時間が過ぎるのを待っているだけですね。
都已经1比0输了,却只是等待时间过去。
負けたままで良い、このままでいい。
就这样输了也无所谓。
別の会場で日本と同じグループに入っているコロンビアとセネガルが試合をしていました。
另一个的场地上正进行着哥伦比亚和塞内加尔的比赛。
その時点で、コロンビアが1点リードしていたんですね。
此时,哥伦比亚一分领先。
コロンビアがセネガルを1点リードしていて、日本がポーランドに1点負けている。
哥伦比亚领先塞内加尔一分,日本输波兰一分。
もし、そのまま試合が終われば、日本は決勝トーナメントに進むことができることになるんですね。
如果就这样比赛结束的话,日本队可以晋级淘汰赛。
そういうことで、コロンビアがそのまま勝つことを信じて、日本はポーランドにそのまま負けてもいいということで、意味のないパス回しをして、試合を終わらせたんですね。
也就是说,因为相信哥伦比亚会胜出,所以日本觉得就这样输给波兰也无所谓,于是就这样毫无意义的传来传去,结束了比赛。
これはちょっと考えものですね。
想想都明白,
コロンビアがそのまま勝つかどうかは誰にも分からないんです。
哥伦比亚能否就这样赢其实谁都不知道。
それなのに、こんなことをするっていうのは、これは、自分の運命を別にチームに完全にゆだねたってことですよね。
即便如此还这样做就等于是把自己的命运完全交给了其它的队。
神にゆだねた、とは言えないですね。
不是交给神,
完全に人にゆだねたんです。
而是完全交给了人。
結局、グループリーグの中で、日本とセネガルは両チームとも1勝1敗1引き分けで並んで、得失点差でも並んで、最後に、イエローカードの枚数が日本の方が少なかったから、日本が決勝トーナメントに上がるということになったんですね。
小组赛日本和塞内加尔都是一胜一负一平,积分也相同,因为日本队的黄牌比较少,所以最终日本晋级淘汰赛。
最後の最後にイエローカードの枚数で順位を決めることをフェアプレイ・ポイントというんだそうですが、時間稼ぎして、試合には負けたまま終わって、それでフェアプレイ・ポイントというのはどうかって感じですね。
最后用黄牌数来决定排名虽说是公平的,但是即使输了也无所谓耗时间等待比赛结束,这样的公平竞争总觉得有点问题。
だいたい、負けたままで良いっていうのは競技としてどうなんですかね。
输了也可以的比赛算什么比赛,
これはポーランドもどうかと思いますよ。
波兰也有问题。
ポーランドは日本と試合をするまでに2敗していましたから、もう決勝トーナメントには進めないことに決まっていました。
波兰在和日本踢之前已经输了两场,所以晋级是不可能的了。
けれども、3試合目、日本と試合すると1点先に取った。
但是第三场和日本之战已经拿下了一分。
このままいけば勝てるんですね。
就这样下去的话这场就赢了。
1勝2敗ですから、良い成績ではないんですが、最後に一つは勝って、国に帰ることができます。
一胜两败虽说不是什么好成绩,但是最后一场赢了,回去不至于太丢脸。
それだったらもうそれでいいかということで、日本の時間稼ぎに同意したんですね。
要是这样的话也挺好,就认同了日本队的做法。
でもこれ、意味のないパス回しをして時間が過ぎるのを待つなんていうのは、サッカーという競技そのものを否定することですよ。
但是这样毫无意义的传来传去等待时间过去,是对足球这一竞技运动的否定。
ポーランドはもう、勝っても負けても、決勝トーナメントには上がれないことになっていましたから、だからこそ、日本に時間稼ぎはさせない、最後の最後までサッカーの試合をするということもできたんじゃないかと思います。
正是因为波兰无论胜负都不能晋级了,所以不能让日本队耗掉时间,无论如何都要拼死决战到最后,我觉得应该这样才对。
でも、そうはしなかった。
但是并没有这样。
とても残念ですね。
非常遗憾。
私は今回、いくつかの試合を見て、サッカーというのはすごいスポーツだと思っていたんです。
我这次也看了几场比赛,觉得足球真是了不起的运动。
もみくちゃにされながら、ひたすらゴールを目指して、ボールをけるんですよね。
尽管场面很混乱,但是大家都是一个劲地瞄准目标踢球
チャンスは一瞬しかありません。
机会只在一瞬间,
1秒でも、1メートルでもずれたら、もうどうにもならない。
哪怕是一秒一米错过的话都不行,
もみくちゃにされながら、その一瞬にかける。
就在混乱中的一瞬间
自分を信じる、仲間を信じる。
相信自己,相信队友,
それがサッカーなんだと思って、感動しながら見ていたのに、残念なことが起こってしまいました。
这才是足球,被这种足球精神感动而看的,却发生了这样的事情。
本質よりも、制度の方が上になってしまった。
相比本质更注重制度,
それで、本質を否定することになってしまった。
这样就否定了本质,
次の試合で、日本代表が本物かどうかが問われるんだと思いますね。
下一场比赛,就要见证日本队的真正实力了。
次は世界ランキング3位のベルギーが相手です。
下一场对手是世界排名第三的比利时队。
もう、もみくちゃにされるわけですよ。
又要你推我搡
嫌でももみくちゃにされます。
即使不想也得这样
その中で、どこまでやれるか。
能踢到什么程度?
サッカーの本質に対して、どこまで真っすぐであるか。
真正的足球精神,该走向何方?
見守りたいと思いますね。
将继续关注。
さて、今日の場面はイエス様が世に登場してくる場面ですね。
今天是耶稣登场的场景。
ただ、面白いですね、登場してきて最初にしたのは説教ではないんですね。
但是有趣的是,耶稣出场最先做的并不是讲道。
最初にしたことは、洗礼を受ける、ということでした。
最先做的是受洗这件事。
イエス様は、洗礼を受けることを希望したんです。
耶稣希望受洗。
これには洗礼者ヨハネもびっくりですね。
这让施洗约翰很惊讶。
洗礼者ヨハネはイエス様を止めようとします。
施洗约翰想要阻止耶稣。
当然と言えば当然ですよね。
要说也是理所当然。
先週の場面の洗礼者ヨハネの言葉を聞くなら、洗礼者ヨハネはイエス様がどういう方かということを理解していますね。
如果听到上周施洗约翰的话,应该可以明白他是知道耶稣是谁的。
聖霊を授ける方だ、と言っていましたけれども、聖霊というのは神の霊です。
是赐下圣灵的人,而圣灵是神的灵,
神の霊を授けるなんてことができるのは、もうこれは神ですよ。
能够赐下圣灵的也是神。
洗礼者ヨハネはイエス様が神の子だと分かっています。
施洗约翰知道耶稣是神的儿子。
ですけれども、洗礼というのは、罪を洗い清めることですね。
但受洗是为了洗清罪孽,
罪っていうのは人間のことですよ。
而罪是人才有的,
神の子なんだったら罪はありません。
神的儿子没有罪。
洗礼者ヨハネとしてはびっくりですよね。
所以施洗约翰很惊讶。
でも、よく読んでみると、洗礼者ヨハネはそんなことは言っていないですね。
但是仔细读的话,其实施洗约翰并没有这样说。
あなたには罪がないから洗礼を受ける必要はありません、なんてことを言ったんじゃないんです。
因为你没有罪所以没必要受洗,没有说这样的话。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」です。
“我当受你的洗,”
洗礼者ヨハネはそう言ったんですね。
施洗约翰这么说。
あなたがわたしに洗礼を授けてください。
请你为我施洗。
あなたが私を清めてください。
请你洁净我。
人に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネが、そう言っているんですね。
给人施洗的约翰是这样说的。
イエス様こそが本物なんだってことですね。
耶稣才是真的,
いや別に、洗礼者ヨハネも偽物ではないんです。
当然并不是说施洗约翰是假的。
ユダヤ教のルールでは、ユダヤ人は洗礼を受けないことになっているのに、ユダヤ教の先生たちが大勢洗礼を受けに来るくらいの人ですよ。
犹太教的教规规定犹太人可以不用受洗,但是犹太教的老师们都来受洗。
でも、ここで洗礼者ヨハネはイエス様だけを見つめているんです。
但是,施洗约翰只关注耶稣。
これはとても大事なことですね。
这非常重要。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。
“我当受你的洗,你反倒上我这里来吗?”
そういうふうに言いましたけれども、これを、洗礼者ヨハネの周りにいた人たちが聞いたら、どう思うでしょうかね。
他这样说,他周围的人听了会怎么想呢?
この人の周りにいた人たちは、みんな、この人が最高の先生だと思っているような人たちですよ。
他周围的人都认为他是最厉害的,
弟子たちだって、たくさんいたんじゃないですか。
也有很多的弟子。
でも、この人は周りの顔色をうかがうようなことはしなかったんですね。
但是他没有看周围人的脸色,
本物に対して、真っすぐだったんです。
对耶稣他很坦诚,
その洗礼者ヨハネに対して、イエス様が答えます。
对着施洗约翰,耶稣回答:
それは「正しいこと」なんだ、「我々にふさわしい」ことなんだってことですね。
这是应当的,与我们相称的。
イエス様もまっすぐなんです。
耶稣也是很坦诚的,
真っすぐな人に、イエス様も真っすぐに答えるんです。
对坦诚的人,耶稣也坦诚地回答。
もうこの会話なんて、周りで聞いていた人は何にも分からなかったでしょうけれども、もうとにかく、二人とも本質だけで会話しているんですね。
这话可能周围的人完全不明白,但是这两个人只说实质的内容。
ただ別に、洗礼はイエス様に必要だったわけではないですよね。
只是受洗对于耶稣来说其实并没有必要,
だから、「今は、止めないでほしい」と言っています。
所以说“请暂且许我”
止めるのももっともだってことですよね。
阻止是自然的
それは自分にとって必要なことではないけれども、洗礼を受けるのは、人間として、正しいことなんだとイエス様は言ったんです。
虽然自己并没必要受洗,但是耶稣说作为人受洗是应当的,
それは、「我々にふさわしい」って。
是与我们相称的,
「我々」なんですね。
是我们,
洗礼者ヨハネとイエス様で、「我々」なんです。
施洗约翰和耶稣之间用的是“我们”,
真っすぐな洗礼者ヨハネと、真っすぐなイエス様。
坦诚的施洗约翰和坦诚的耶稣。
真っすぐに向かい合う二人は「我々」。
两个坦诚相待的人称作“我们“
真っすぐイエス様に心を向けるなら、イエス様は、ご自分と私たちで、「我々」なんだと言ってくださるんですね。
心向着耶稣的话,耶稣会把他自己和我们称作“我们”,
これ、私たちも気を付けたいですね。
我们要注意,
私たちも、人の顔色をうかがいたくなることもありますね。
我们有时会观察人的脸色,
周りの状況が気になることもあります。
也会在意周围的情形,
完全に人に任せてしまうこともあるかもしれません。
可能会完全地托付于人,
でも、そんな時こそ、イエス様に対して真っすぐでありたいんですね。
恰恰是这种时候,该直直地面向耶稣。
イエス様は洗礼を受けました。
耶稣受了洗,
その時、「天がイエスに向かって開いた」。
那个时候,“天为他开了”,
「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。
“他就看见神的灵仿佛鸽子降下,落在他身上。”
そして、天から声が聞こえます。
从天上有声音说:
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
“这事我的爱子,我所喜悦的。”
洗礼を受けることは、神様の御心に適うことだったんですね。
受洗是合神心意的。
イエス様個人にとって必要だったわけではないですね。
对于耶稣个人来说并非必要,
ただ、イエス様は神の働きをしていくに先立って、洗礼を受けられた。
但是耶稣在为神做工之前先受了洗。
これは、洗礼がスタートになるんだということを示しているんだと思いますね。
这是要显明以受洗为开端。
洗礼って言うと、なんだかゴールっていうイメージがありますけれども、ゴールではないんですね。
说到受洗可能会认为是一种目标,但其实不是,
洗礼を受けなければスタートできないんです。
不受洗就不能开始。
それくらい大事なことだから、イエス様はわざわざ、必要もないのにここで洗礼を受けるというデモンストレーションをしてくださったんじゃないかと思うんですね。
因为是如此重要的事,所以即使没必要耶稣还是特地来受洗,他是为了要证实这一点。
洗礼がスタートなんです。
受洗只是一个开始,
人間としてのスタートなんです。
是他作为人的开始。
ですので、どうぞ皆さん洗礼を受けてください。
因此,希望大家受洗。
これ、真っすぐに、イエス様が言っていることなんです。
耶稣是很真诚地说的,
それは「正しいこと」なんだと。
这是“应当”的。
そして、神様もそうなんです。
神也是如此。
神様も言っていますね。
神也说:
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、神様が洗礼を受けたイエス様のことを、そう言っているんです。
“这是我的爱子,我所喜悦的。”神对受洗后的耶稣这样说。
洗礼を受けると聖霊が与えられます。
一受洗就降下圣灵。
洗礼者ヨハネは水による洗礼を授けていました。
施洗约翰用水施洗,
しかし今、イエス様に聖霊が降ったんですね。
圣灵却降下落在耶稣身上,
そのイエス様の洗礼だから、私たちにも聖霊が与えられます。
因为是耶稣的洗礼,圣灵也会降在我们身上。
聖霊は神の霊ですね。
圣灵是神的灵,
神ご自身です。
是神自己,
私たちも、神の子にされるんですね。
我们也会成为神的子女。
イエス様と同じ立場です。
和耶稣一样。
そうして私たちも、イエス様のように、正しいことを真っすぐに行っていくようになる。
我们也要和耶稣一样,直直地去行义。
それが私たちにもふさわしいことですね。
这是与我们相称的。
考えてみると、イエス様はいつも、正しいことに真っすぐですね。
仔细想想,耶稣一直为义直直向前。
これは何も、考えることがなかったということではないですね。
这一点并不难想到
今いる場所から退いて祈ることもありました。
他有时会退出所在的地方去祷告,
けれども、右にも左にもそれることはなかったんですね。
但是不偏左不偏右
遠回りすることもなかった。
也不绕远路。
もみくちゃにされることはありましたよ。
他也遭遇不幸。
イエス様の最後の1週間なんて、もう、もみくちゃももみくちゃ。
耶稣的最后一周,遭到不能再糟。
でも、ゴールを目指して正しいことに真っすぐであり続けたんです。
但是,他瞄准目标为义继续向前,
私たちはそういうことが苦手かもしれないですけれども、でも、そんな私たちにも、神の霊が与えられるチャンスが開かれているんです。
可能我们做不到这样,但是神也给我们机会,赐下圣灵给我们。
それがスタートです。
这只是开始
真っすぐに生きる心と力を与えられていくこと、それがスタート。
直接赐下生命和力量,这只是开始
それがふさわしいこと。
是与我们相称的。
もみくちゃにされることもありますよ。
我们也会经历风雨,
自分の心の中を自分でもみくちゃになってしまうこともあります。
甚至自己也会为难自己,
けれども、真っすぐに心を神様に向けるなら、神様は必ず応えてくださいます。
但是只要心直直地向着神,神必定会回应我们。
なにしろ、「これはわたしの愛する子」という今日の言葉は、この私にも言われている言葉なんです。
因为“这是我的爱子”这句话也是对我们说的。
「わたしの心に適う者」と言われてしまうと、イエス様はともかく、自分はどうかと思ってしまいますが、神様の心に適うというのは、神様が愛して、神様がふさわしいと思っているということですね。
被称为“合我心意的人”,先不说耶稣,我自己怎么想呢?我觉得合神心意应该是爱神,与神相称。
これは、同じことを2回、言い方を変えて言う、ユダヤの表現なんです。
这是犹太人的一种表达方式,将同一件事用两种说法来说。
前で言ったことと後に言ったことは同じことなんですね。
前面说的和后面说的是同样的事情。
「これはわたしの愛する子」というのと、「わたしの心に適う者」というのは、同じ内容なんです。
“这是我的爱子”和“合我心意的人”是一样的内容。
神様は、かけがえのない者として洗礼を受けた者を愛しているんです。
神爱受洗的每一个人,每一个人都是不可替代的。
それがスタート。
这只是一个起点
神様に愛されることがスタートです。
被神爱只是一个起点
スタートとして、すごくないですか。
作为起点是不是很了不起呢?
もうゴールみたいなスタートですよね。
如终点般的起点。
でも、神様としては、それがスタートだよ、ということなんですね。
但是神说这是起点,
それくらい、神様は私たちと一緒に生きていきたいと思っておられるんです。
神是如此地希望与我们同在。
もみくちゃにされることもありますよ。
我们也会被排挤,
人は人を批判するのが得意ですからね。
人最擅长批判人,
でも、もみくちゃになっても、真っすぐに神様を見つめたいんですね。
但是即使被排挤,也要直直地看向神,
もみくちゃになるからこそ、真っすぐに神様を見つめたい。
正是因为被排挤,才更要直直地看向神,
時に深く考えながら、時に退いて祈りながら、神様と一緒に、ふさわしい仕方で、正しいことを行っていきたいと思います。
愿大家多思考,多祷告,时刻与神同在,用我们的好行为去行义。