
✜7/10(火)礼拝(聖餐式、9:00-10:00)、韓国語教室(初級13:00-14:00、中級14:00-15:30)
✜7/11(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜7/12(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜7/13(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、洗礼準備会(時間帯未定)
✜7/14(土)牧師週休日
✜7/15(日)学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、ユース集会(12:00-15:30)、掃除
🎤7/15(日)の説教
説教題「暗闇に光」
賛美歌・156、32、38、211、575、405、65-1、27、40-5
📅8月までの教会の行事
✜7月15日(日)ユース集会(当教会にて。7月16日[月・祝]に江古田教会で夏祭り。13時に光が丘キリスト教会に集合)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
📅8月までの中大会の行事
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください。参加費は全額、教会で負担いたします)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会

「荒れ野での誘惑」
マタイによる福音書4章1-11節
1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
サッカーのワールドカップの日本の試合、皆さんご覧になられましたかね。
日本がベルギーに3-2で負けちゃったんですけど。
負けたんですが、最後の最後まで全力で戦ったんですね。
もう、攻めることしか頭にないくらい頑張っていたと思います。
もちろん、ベルギーの方が実力が上ですから、ボールは大体ベルギーが持っていたんですけれども、最後の最後まで真っすぐに前を向いて頑張ってくれました。
一番最後の場面ですけど、後半のロスタイムですね。
試合がもう後数分で終わる、という場面です。
そこで、日本のコーナーキックになりました。
相手のゴールのすぐそば、真横からボールをけりこんでいいんですね。
あのコーナーキックは、攻めている場面ですけれども、点を取りに行ってはいけない場面なんだと、ある解説者が言っていました。
何しろ、後数分で試合終了ですね。
そうすると、延長戦になります。
延長戦は30分しかありません。
サッカーは点が入りにくいスポーツですから、30分だったら、ベルギー相手に守り切るということもできるかもしれない。
そして、30分で決着がつかなかったら、ペナルティーキックで決着を付けるんですね。
相手キーパーの真正面から、キーパーと一対一での勝負です。
他の選手たちは敵も味方も見ているだけ。
そうなったら、どちらが勝ってもおかしくないわけですよね。
なので、日本としては、そこは時間稼ぎをするべきだった、と言われたんです。
点を取りに行ったんですよね、後半の最後のコーナーキック。
本気でゴール前にけりこんだ。
でも、相手キーパーにボールを取られてしまって、そこから反撃されて、わずか9秒で、あっという間に点を取られて負けてしまったんです。
それがサッカーですよね。
どれだけ攻められているところからでも、9秒あれば点を取ることができる。
ただそれは、どちらのチームも本気でやっているから起こることですよね。
日本も本気、ベルギーも本気。
それが見れたのはすごく良かったです。
心にひびきました。
グループリーグの最後の試合ではそれが見れなかったんですね。
後半の最後の10分間、時間稼ぎの意味のないパス回しをして、その試合にそのまま負けることを選んだんです。
1-0だったら負けてもどうやらトーナメントに上がれそうだったから。
でも、試合なのに負けてもいいっていうのは困りますよね。
1点差だったら負けてもいいというのは、サッカーというスポーツそのものを否定していることになるんじゃないでしょうか。
でも今回は、本気で勝ちに行ったんですよね。
今度は時間稼ぎをしても誰にも文句は言われないのに、真っすぐに勝ちに行ったんです。
それが見れて良かったです。
時間を稼いでペナルティーキックに持ち込んで勝つよりも良かったんじゃないかと思っています。
真っすぐに向き合うっていうことは、先週の場面でも今日の場面でも、イエス様が示してくださっていることではないかと思いますね。
先週、イエス様は、洗礼者ヨハネに対して真っすぐだった。
洗礼者ヨハネもイエス様に対して真っすぐだった。
今週は、イエス様はなんと悪魔に対しても真っすぐなんですね。
全部真っすぐに答えているんです。
この悪魔というのがどういうものなのか分かりませんが、とにかく良い存在ではないわけですから、全部無視してもいいような気もしますし、追い払ってもいいように思いますが、そうはしない。
全部真っすぐに答えるんですね。
しかし、この「悪魔」というものは一体どういうものなんでしょうか。
原文では「サタン」なんですけれども、実はこの言葉、旧約聖書にはほとんど出てこないんです。
これは天使もそうなんですが、悪魔というのも、どういうものだとははっきり書かれていないんですね。
ですので、私たちの頭の中に、天使のイメージ、悪魔のイメージがありますけれども、それは人間が勝手に想像したことだと言っても言い過ぎではないんです。
天使といったらふわっとした服を着ていて、羽が生えている、とか、悪魔といったらつのが生えていてしっぽが生えている、とか、そういうイメージがありますが、それは私たちの想像に過ぎないと言ってもいい。
ですので、外見のことだけじゃなくて、悪魔ってそもそもどういうものなのか、私たちには良く分かりません。
ただ、旧約聖書には悪魔はあまり出てこないんですが、新約聖書に入って、福音書にはたくさん出てくるんですね。
福音書というのは、イエス様の物語です。
イエス様は神の子です。
ということは、これは重大なメッセージかもしれないですね。
神の目には、この世というのは神と悪魔がせめぎ合っている世界だと。
それが霊的な現実なんだというメッセージかもしれない。
もちろん、「悪魔」なんて、私たちの目には見えないわけです。
ただ、目に見えないと言ってしまうと、神様だって、人の心だって目で見るものではないですよね。
ですので、神の子イエス様にとっては今日の物語くらい悪魔というのはリアルなものなんでしょうが、私たちにとってはリアルではないわけです。
ただ、この世というのは神と悪魔のせめぎ合いであるという現実を知っておきなさい、ということでしょうか。
そして、「サタン」という言葉は、原文ではもともとの意味は「逆らう者」という意味なんですね。
神の力と神に逆らう力がせめぎ合っているのがこの世の現実なんだと。
目には見えないけれども、それをリアルに感じるようにしなさい。
そういうものの見方をしてみなさい、ということでしょうか。
目には見えないですから、何か悪いことがあった時に、「これは悪魔の攻撃だ」とかはっきり言い切れるわけではないですね。
けれども、私たちに対して、悪魔の攻撃がないとは思ってはいけないんでしょうね。
何しろ、神に「逆らう者」ですからね。
この世を見ていると、神に逆らう力がものすごく強いっていうのは子どもにでもわかることですね。
そう考えれば、悪魔の攻撃というのはどこかで、何かの形で、必ずあると思っておいた方がいい。
悪魔というのがどんなものなのかもはっきりしませんが、攻撃はあって当たり前ですね。
その悪魔に対して、イエス様はどう戦ったか、というのが今日の話です。
イエス様は「誘惑を受け」たんですね。
この「誘惑」という言葉は、「試す」、「試験する」という言葉です。
試験ですから、合格不合格があるわけですね。
そして、その悪魔のことが、3節で、「誘惑する者」と書かれています。
試験する者っていいうことですね。
神に逆らう者というのは、試験する者である。
試験して、時々人を不合格にしてしまうということでしょうか。
そう考えるなら、私たちとしても恐ろしいですね。
しかもこれは、少なくともこの時のイエス様にとっては避けられないことでした。
何しろ、イエス様は、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」んですね。
神の霊がイエス様を導いたんです。
先週の場面で、洗礼を受けると神の霊がイエス様に降りましたけれども、その霊が、試験を受けさせている、とも言えるわけです。
これは私たちも心しておきたいことですが、私たちも洗礼を受けると神の霊が与えられるわけですから、試験は避けられない、と言えるのかもしれないですね。
この時、悪魔は三つのテストをイエス様に対してしました。
一つ目は、イエス様はお腹がすいていたので、石をパンに変えたらいいんじゃないか、と。
二つ目は、神殿の屋根の端に立たせておいて、神の子なら守ってもらえるはずだから、そこから飛び降りてみろということですね。
三つ目は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうということですね。
一つ目と二つ目は似ていますよね。
「あなたならできるでしょう」、「できなきゃおかしいですよね」という感じで、やらせようとするわけです。
それに対して、イエス様は聖書の言葉でお答えになる。
一つ目については、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
これは、イエス様がこれからなさっていくお働きがどういうものであるのかを示しているんでしょうね。
イエス様がこれからやっていくお働きは単に食べ物を食べて生きる、そういう肉体のレベルのお働きではないんです。
「パンだけで生きるものではない」ということですから、肉体レベルのことを全く無視しているわけではないんですけれども、人間にとって本当に生きるというのは言葉によるんだよ、神の言葉によるんだよ、ということですね。
これからのお働きがどういうものになるのか、ここではっきり示したわけです。
ただ、肉体レベルのことを全く否定しているわけではないので、お腹がすいているんだったら石をパンに変えてもいいんじゃないかとも思いますが、これもイエス様のこれからのお働きを考えると分かることですね。
イエス様は、ご自分自身のためには神の力を使うことはしなかったんです。
「神の子ならできるだろう」なんて言われていますが、神の子は、人のために神の力を使うんですね。
多分、悪魔としてはイエス様がそういう方だと分かっていて、でも、何とかして、人に対して神の力を使ってほしくないから、こういう誘惑をしたんでしょうね。
二つ目は、「飛び降りたらどうだ」ってことですけれども、今度は悪魔も聖書の言葉を使うんですね。
これは怖いですよ。
悪魔も聖書を知っているんですね。
「神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える」。
それに対して、イエス様も、聖書の言葉を返しました。
「あなたの神である主を試してはならない」。
そうですよね。
神様が守ってくださるかどうか確かめるために飛び降りるなんていうのはふざけています。
というか、悪魔は聖書を知っていて、聖書の言葉を使っているけれども、使い方が間違ってますよね。
悪魔は、人の心を神の言葉から離れさせるために神の言葉を使っているんです。
人を聖書から遠ざけるために聖書を使うんですね。
これが悪魔だということでしょうか。
これは一つ目の誘惑も同じでした。
お腹がすいているのなら石をパンに変えてみろ、ということですが、もしそうしたとしたら、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という神の言葉から遠ざかってしまうことになりますね。
人を神から離れさせようとするのが悪魔だということなんです。
私たちは、そんなことには引っかからないと思うかもしれません。
でも、悪魔は誘惑の仕方が上手ですね。
飛び降りたらどうだ、と言った時、悪魔は、イエス様を神殿の屋根に立たせたんですよね。
今までは荒れ野にいたんでした。
荒れ野にも、飛び降りることができるような場所はいくらでもあったはずです。
でも、神殿まで連れて行った。
神殿には人がたくさんいます。
そんなところで屋根から飛び降りて無事だったら、もうそこにいる人たちはみんなイエス様が神の子だと信じますね。
つまり、この誘惑は、自分のことを人に認めさせてやれということなんです。
人に認められたいという思いを私たちはみんな持っています。
悪魔はそこをついてくるんですね。
イエス様はその誘惑には乗らなかった。
イエス様はこれから始めるお働きの中でも、ご自身が神の子であるはっきりとしたしるしを見せて人を集めるようなことはなさらないんですね。
いや、奇跡を見せることはあるんですが、そんな時に限って、「誰にも言わないように」と言ったりするんですね。
奇跡を見せて信じさせるなんていうことをイエス様はなさいません。
イエス様は私たちに、信じることを求めてきます。
そして、信じるところに、イエス様が神の子であるしるしが示されていくんですね。
奇跡を見て信じたんだとしたら、そんな信仰は本物の信仰じゃないですね。
ですから、奇跡を見せびらかすようなことはイエス様はなさらないんです。
しかし、これでもまだ試験は終わりません。
まだまだ、神から引き離そうと頑張るんですね。
最後の試験は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうってことですね。
もう今度は直接的に、自分を拝めと言ってくるんです。
これはもう無茶苦茶ですね。
この世のすべてが悪魔のものだなんて聖書には書いていません。
もうこれは嘘をついているんです。
この世のすべてが私のものだ。
というのは、はっきり言って、私は神だっていうことですよね。
そして、私を拝め、と。
悪魔は、思いっきり嘘をついてくることがあるということですね。
しかしこれも要注意です。
アドルフ・ヒトラーは、民衆は小さな嘘にはすぐに気づくが、大きな嘘には気づかない、ということを考えていたんです。
ですから私たちも、思いっきり嘘をつかれたらだまされてしまうかもしれないと思っておくべきでしょう。
そこでも大事なのは、神の言葉に立つことですね。
聖書の言葉です。
イエス様はやっぱり聖書の言葉で返事をしました。
「あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ」。
そうすると、悪魔は離れ去ったんですね。
イエス様は先週、洗礼を受けました。
洗礼を受けると私たちは神に結ばれます。
しかし、そうなると、すぐに悪魔が私たちを神様から引き離そうとしてくるかもしれない。
「あなたならできるでしょう」、「できなないとおかしいですよ」みたいな形で、神様から離れることをさせようとする。
それも、聖書の言葉を使って、神様から離れさせようとすることもある。
私たちの弱いところをついてきたり、もしかすると、思いっきり大きな嘘をついてくるかもしれない。
その時に大事なのは、イエス様のように、真っすぐに神様を見上げることですね。
聖書の言葉に立って、真っすぐに神様を見上げること。
そうすれば、悪魔は離れていくしかないんです。
では、私たちは、その試験に合格することができるのでしょうか。
これは、イエス様の最初の弟子たちのことを考えてみたいですね。
イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。
イエス様が逮捕されると、弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げ出しました。
そのことを、ルカによる福音書でイエス様は、それはサタンの試験だと言っていました。
弟子たちは全員、不合格だったんです。
しかし、不合格になった弟子たちはそのあと、どうなりましたか。
不合格になった弟子たちのところに、イエス様が来てくださったんですね。
たとえ私たちが不合格になっても、イエス様は私たちを見捨てないんです。
もし私たちが神様から離れそうになっても、イエス様が私たちを取り戻しに来ます。
だから、私たちは、安心してこの試験を受けていいんですね。
もし、「不合格になった」と思うようなことがあったとしても、大丈夫です。
その時、イエス様は私の隣にいます。
不合格になる度に、イエス様は私のところに来てくださいます。
そういうことを繰り返している内に、私たちは、本当に、真っすぐに、聖書の言葉に立って、神様を見上げることができるようになっていくんじゃないかと思うのです。
サッカーのワールドカップの日本の試合、皆さんご覧になられましたかね。
世界杯日本队的比赛,大家看了吗?
日本がベルギーに3-2で負けちゃったんですけど。
日本队3:2 输给了比利时。
負けたんですが、最後の最後まで全力で戦ったんですね。
虽然是输了,但是一直奋战到了最后一刻。
もう、攻めることしか頭にないくらい頑張っていたと思います。
我想应该是脑子里除了进攻之外其他什么都不想拼命地踢。
もちろん、ベルギーの方が実力が上ですから、ボールは大体ベルギーが持っていたんですけれども、最後の最後まで真っすぐに前を向いて頑張ってくれました。
当然因为比利时队实力太强,球基本上都在他们的掌控中,但是日本队还是殊死拼搏到最后一刻。
一番最後の場面ですけど、後半のロスタイムですね。
最后是伤停补时的场景
試合がもう後数分で終わる、という場面です。
也就是比赛还有几分钟就要结束了的时候。
そこで、日本のコーナーキックになりました。
这时日本队赢得了一个角球,
相手のゴールのすぐそば、真横からボールをけりこんでいいんですね。
在对方球门边上,横踢入球门。
あのコーナーキックは、攻めている場面ですけれども、点を取りに行ってはいけない場面なんだと、ある解説者が言っていました。
解说员说,角球虽然是直接进攻,但并不能得分。
何しろ、後数分で試合終了ですね。
总之,再过几分钟比赛就结束了。
そうすると、延長戦になります。
然后还要延长赛
延長戦は30分しかありません。
延长赛只有三十分钟
サッカーは点が入りにくいスポーツですから、30分だったら、ベルギー相手に守り切るということもできるかもしれない。
足球是很难拿分的运动,所以如果只是三十分钟的话,或许可以防守住对手。
そして、30分で決着がつかなかったら、ペナルティーキックで決着を付けるんですね。
30分钟还没结果的话,就罚球来结束。
相手キーパーの真正面から、キーパーと一対一での勝負です。
在对方守门员的正前方,与守门员一对一绝胜负。
他の選手たちは敵も味方も見ているだけ。
其他选手,对方的以及队友都只是看着。
そうなったら、どちらが勝ってもおかしくないわけですよね。
这样的话,不管是谁胜都不足为奇
なので、日本としては、そこは時間稼ぎをするべきだった、と言われたんです。
都说日本队那时该做的是拖延时间,
点を取りに行ったんですよね、後半の最後のコーナーキック。
后半场最后的角球是要得分的,
本気でゴール前にけりこんだ。
真的踢到了球门前,
でも、相手キーパーにボールを取られてしまって、そこから反撃されて、わずか9秒で、あっという間に点を取られて負けてしまったんです。
但是,对方守门员接到了球,然后开始反击,仅仅九秒钟一眨眼就得了分,日本输了。
それがサッカーですよね。
这就是足球
どれだけ攻められているところからでも、9秒あれば点を取ることができる。
不管如何被进攻,哪怕是九秒也照样能得分。
ただそれは、どちらのチームも本気でやっているから起こることですよね。
只是必须要正儿八经地踢才会发生这种情况,无论是哪个队。
日本も本気、ベルギーも本気。
日本队是玩真的,比利时也是。
それが見れたのはすごく良かったです。
能看到这样真是好,
心にひびきました。
内心回荡着这样的感觉。
グループリーグの最後の試合ではそれが見れなかったんですね。
小组赛的最后一场比赛并没有看到这样的场景。
後半の最後の10分間、時間稼ぎの意味のないパス回しをして、その試合にそのまま負けることを選んだんです。
后半场的最后十分钟毫无意义地倒脚耗时间,选择以输收场。
1-0だったら負けてもどうやらトーナメントに上がれそうだったから。
因为即使1:0输了似乎也可以晋级淘汰赛。
でも、試合なのに負けてもいいっていうのは困りますよね。
但是比赛的话输了也没关系就有点问题了。
1点差だったら負けてもいいというのは、サッカーというスポーツそのものを否定していることになるんじゃないでしょうか。
差一分输了也没关系的话,就是否定了足球这一运动的本质。
でも今回は、本気で勝ちに行ったんですよね。
但是这次真的是奔着胜利而去的。
今度は時間稼ぎをしても誰にも文句は言われないのに、真っすぐに勝ちに行ったんです。
这次即是拖延时间谁都不会有怨言,但还是一个劲地奔着胜利而去。
それが見れて良かったです。
看了觉得真不错
時間を稼いでペナルティーキックに持ち込んで勝つよりも良かったんじゃないかと思っています。
感觉比起拖延时间等着靠罚球赢要更好,不是吗?
真っすぐに向き合うっていうことは、先週の場面でも今日の場面でも、イエス様が示してくださっていることではないかと思いますね。
不管是上周还是今天的内容,直面是耶稣展现给我们的姿态。
先週、イエス様は、洗礼者ヨハネに対して真っすぐだった。
上周,耶稣直面施洗约翰
洗礼者ヨハネもイエス様に対して真っすぐだった。
施洗约翰对耶稣也是一样
今週は、イエス様はなんと悪魔に対しても真っすぐなんですね。
这周耶稣即便对魔鬼也是直面他。
全部真っすぐに答えているんです。
全部正面回答。
この悪魔というのがどういうものなのか分かりませんが、とにかく良い存在ではないわけですから、全部無視してもいいような気もしますし、追い払ってもいいように思いますが、そうはしない。
虽然不知道这个魔鬼是什么,总之不是什么好东西,应该无视或者驱逐为好,但是耶稣没有。
全部真っすぐに答えるんですね。
全部直接对着他回答。
しかし、この「悪魔」というものは一体どういうものなんでしょうか。
这魔鬼到底是什么呢?
原文では「サタン」なんですけれども、実はこの言葉、旧約聖書にはほとんど出てこないんです。
在原文中是“撒旦”,但是旧约里面几乎没有出现这个词。
これは天使もそうなんですが、悪魔というのも、どういうものだとははっきり書かれていないんですね。
和天使一样,魔鬼到底是什么也没有明确记载。
ですので、私たちの頭の中に、天使のイメージ、悪魔のイメージがありますけれども、それは人間が勝手に想像したことだと言っても言い過ぎではないんです。
虽然在我们的脑海里,会有天使和魔鬼的形象,但可以说那些都是人凭空想象出来的。
天使といったらふわっとした服を着ていて、羽が生えている、とか、悪魔といったらつのが生えていてしっぽが生えている、とか、そういうイメージがありますが、それは私たちの想像に過ぎないと言ってもいい。
说到天使会想象穿着轻飘飘的衣服,长着翅膀,说到魔鬼,会想象长着犄角和尾巴,这些可以说都只是我们的想象而已。
ですので、外見のことだけじゃなくて、悪魔ってそもそもどういうものなのか、私たちには良く分かりません。
不只是外表,魔鬼到底是什么我们并不清楚。
ただ、旧約聖書には悪魔はあまり出てこないんですが、新約聖書に入って、福音書にはたくさん出てくるんですね。
旧约里面并没有出现的魔鬼,新约四福音书里却大量出现。
福音書というのは、イエス様の物語です。
福音书是写耶稣的故事。
イエス様は神の子です。
耶稣是神的儿子。
ということは、これは重大なメッセージかもしれないですね。
这或许是重大的信息。
神の目には、この世というのは神と悪魔がせめぎ合っている世界だと。
在神的眼中,这世间是神和魔鬼征战的地方。
それが霊的な現実なんだというメッセージかもしれない。
这就是现实,或许是要传递这样的信息。
もちろん、「悪魔」なんて、私たちの目には見えないわけです。
当然我们的肉眼并看不到魔鬼。
ただ、目に見えないと言ってしまうと、神様だって、人の心だって目で見るものではないですよね。
只是,如果要说到肉眼所看不到的,在神看来,人心并不是用眼睛来看的。
ですので、神の子イエス様にとっては今日の物語くらい悪魔というのはリアルなものなんでしょうが、私たちにとってはリアルではないわけです。
对神的儿子耶稣来说在今天如神话般的魔鬼是真实存在的,而对我们来说是虚幻的,不真实的。
ただ、この世というのは神と悪魔のせめぎ合いであるという現実を知っておきなさい、ということでしょうか。
但是这个世界是神与魔鬼之间的征战,这个事实我们要知晓。
そして、「サタン」という言葉は、原文ではもともとの意味は「逆らう者」という意味なんですね。
“撒旦”一词原文本来的意思是叛逆者。
神の力と神に逆らう力がせめぎ合っているのがこの世の現実なんだと。
神的力量和背叛神的力量相互征战,是这个世界的现实状况 。
目には見えないけれども、それをリアルに感じるようにしなさい。
虽然眼睛看不见,但是能感觉到这是真的。
そういうものの見方をしてみなさい、ということでしょうか。
要有这样的认识是指什么呢?
目には見えないですから、何か悪いことがあった時に、「これは悪魔の攻撃だ」とかはっきり言い切れるわけではないですね。
因为眼睛看不见,有什么不好的事情的时候,就不会断定说这是魔鬼的攻击,
けれども、私たちに対して、悪魔の攻撃がないとは思ってはいけないんでしょうね。
但是对我们来说,觉得魔鬼不会攻击那是不对的。
何しろ、神に「逆らう者」ですからね。
因为魔鬼是背叛神的人,
この世を見ていると、神に逆らう力がものすごく強いっていうのは子どもにでもわかることですね。
只要看看这个世界,就连孩子都明白能背叛神的力量该有多强。
そう考えれば、悪魔の攻撃というのはどこかで、何かの形で、必ずあると思っておいた方がいい。
要这样想的话,就会知道魔鬼的攻击一定会在什么地方以某种形式存在,最好能这样想。
悪魔というのがどんなものなのかもはっきりしませんが、攻撃はあって当たり前ですね。
虽然不能很明确地说清魔鬼是什么,但是攻击是必然存在的。
その悪魔に対して、イエス様はどう戦ったか、というのが今日の話です。
耶稣是如何与魔鬼征战的,是今天要说的内容。
イエス様は「誘惑を受け」たんですね。
耶稣受诱惑。
この「誘惑」という言葉は、「試す」、「試験する」という言葉です。
诱惑是试验、试探的意思。
試験ですから、合格不合格があるわけですね。
试探就会有通过通不过。
そして、その悪魔のことが、3節で、「誘惑する者」と書かれています。
魔鬼在第三节中写着是“诱惑者”
試験する者っていうことですね。
也可以说是试探者。
神に逆らう者というのは、試験する者である。
背叛神的人是试探者。
試験して、時々人を不合格にしてしまうということでしょうか。
试探经常让人通不过。
そう考えるなら、私たちとしても恐ろしいですね。
这样想的话即使是我们也会害怕。
しかもこれは、少なくともこの時のイエス様にとっては避けられないことでした。
而这,至少在当时对耶稣来说是无法逃避的,
何しろ、イエス様は、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」んですね。
因为耶稣是“被圣灵引到旷野”的。
神の霊がイエス様を導いたんです。
圣灵指引耶稣,
先週の場面で、洗礼を受けると神の霊がイエス様に降りましたけれども、その霊が、試験を受けさせている、とも言えるわけです。
上周的讲道中,耶稣受洗后,圣灵降在耶稣身上,这个圣灵也可以说是让耶稣受试探。
これは私たちも心しておきたいことですが、私たちも洗礼を受けると神の霊が与えられるわけですから、試験は避けられない、と言えるのかもしれないですね。
这点我们也要有心里准备,因为我们受洗被赐予圣灵,因此可以说试探是不可避免的。
この時、悪魔は三つのテストをイエス様に対してしました。
当时,魔鬼让耶稣受了三次试探。
一つ目は、イエス様はお腹がすいていたので、石をパンに変えたらいいんじゃないか、と。
第一次是因为耶稣饿了,所以让他把石头变成食物。
二つ目は、神殿の屋根の端に立たせておいて、神の子なら守ってもらえるはずだから、そこから飛び降りてみろということですね。
第二次是让耶稣站在神殿的屋顶上,因为神的儿子是被守护的所以让他从顶上跳下去。
三つ目は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうということですね。
第三次是如果拜魔鬼,就赐予他世上的一切。
一つ目と二つ目は似ていますよね。
第一次和第二次很相似。
「あなたならできるでしょう」、「できなきゃおかしいですよね」という感じで、やらせようとするわけです。
“是你的话肯定行”“不行就怪了”带着这种感觉让耶稣做那些的。
それに対して、イエス様は聖書の言葉でお答えになる。
对于这些试探,耶稣用圣经的话语回应。
一つ目については、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
第一次是“人活着,不是单靠食物,乃是靠神口里所出的一切话。”
これは、イエス様がこれからなさっていくお働きがどういうものであるのかを示しているんでしょうね。
这是要显示耶稣接下来要做的是什么?
イエス様がこれからやっていくお働きは単に食べ物を食べて生きる、そういう肉体のレベルのお働きではないんです。
耶稣接下来要做的不是单靠食物而活,不是这种肉体层面的工作。
「パンだけで生きるものではない」ということですから、肉体レベルのことを全く無視しているわけではないんですけれども、人間にとって本当に生きるというのは言葉によるんだよ、神の言葉によるんだよ、ということですね。
“不是单靠食物而活”,并不是完全无视肉体的存在,而是对人而言,真正能活着是靠神的话语,是这个意思。
これからのお働きがどういうものになるのか、ここではっきり示したわけです。
接下来要怎么做,这里很明确地显示了。
ただ、肉体レベルのことを全く否定しているわけではないので、お腹がすいているんだったら石をパンに変えてもいいんじゃないかとも思いますが、これもイエス様のこれからのお働きを考えると分かることですね。
因为并没有完全否定肉体层面的事,所以想想耶稣接下来做的就能明白,如果饿的话是可以把石头变成食物的但是他却没有这样做。
イエス様は、ご自分自身のためには神の力を使うことはしなかったんです。
耶稣没有因为自己而使用神的大能。
「神の子ならできるだろう」なんて言われていますが、神の子は、人のために神の力を使うんですね。
虽说“神的儿子的话就可以”但是神的儿子只为人使用神的大能。
多分、悪魔としてはイエス様がそういう方だと分かっていて、でも、何とかして、人に対して神の力を使ってほしくないから、こういう誘惑をしたんでしょうね。
或许,魔鬼是知道耶稣会这样,但是总而言之,他并不希望耶稣为人使用神的大能,所以如此试探耶稣。
二つ目は、「飛び降りたらどうだ」ってことですけれども、今度は悪魔も聖書の言葉を使うんですね。
第二次“跳下去怎么样”,这次魔鬼也用了圣经上的话语。
これは怖いですよ。
这很可怕啊。
悪魔も聖書を知っているんですね。
魔鬼也知晓圣经。
「神があなたのために天使たちに命じると、
“主要为你吩咐他的使者,
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
为了不让你的脚碰在石头上,
天使たちは手であなたを支える」。
天使会用手托着你”。
それに対して、イエス様も、聖書の言葉を返しました。
对这,耶稣也用圣经的话回:
「あなたの神である主を試してはならない」。
“不可试探主你的神”.
そうですよね。
确实如此。
神様が守ってくださるかどうか確かめるために飛び降りるなんていうのはふざけています。
为了确认神是否会守护而跳下去太搞笑了。
というか、悪魔は聖書を知っていて、聖書の言葉を使っているけれども、使い方が間違ってますよね。
话说,魔鬼虽然知道圣经,用了圣经的话语,但是用错了。
悪魔は、人の心を神の言葉から離れさせるために神の言葉を使っているんです。
魔鬼是为了让人的内心远离神而用了神的话语。
人を聖書から遠ざけるために聖書を使うんですね。
为了让人远离圣经而用圣经。
これが悪魔だということでしょうか。
这就是魔鬼。
これは一つ目の誘惑も同じでした。
这与第一次试探相同。
お腹がすいているのなら石をパンに変えてみろ、ということですが、もしそうしたとしたら、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という神の言葉から遠ざかってしまうことになりますね。
要是饿了就把石头变成食物,如果这样的话,就背离了“人活着,不是单靠食物,乃是靠神口里所出的一切话。”这句话。
人を神から離れさせようとするのが悪魔だということなんです。
让人离开神的就是魔鬼。
私たちは、そんなことには引っかからないと思うかもしれません。
我们或许会认为,我们不会上当受骗。
でも、悪魔は誘惑の仕方が上手ですね。
但是魔鬼很擅长诱惑。
飛び降りたらどうだ、と言った時、悪魔は、イエス様を神殿の屋根に立たせたんですよね。
说跳下去如何的时候,魔鬼让耶稣站在了神殿的顶上。
今までは荒れ野にいたんでした。
本来是在旷野的。
荒れ野にも、飛び降りることができるような場所はいくらでもあったはずです。
旷野中应该也有几个可以跳下去的地方。
でも、神殿まで連れて行った。
但是,带耶稣来到了神殿。
神殿には人がたくさんいます。
神殿里有很多人。
そんなところで屋根から飛び降りて無事だったら、もうそこにいる人たちはみんなイエス様が神の子だと信じますね。
如果在这里的顶上跳下去没事的话,那里的人就会相信耶稣是神的儿子。
つまり、この誘惑は、自分のことを人に認めさせてやれということなんです。
也就是说,这个试探是为了让别人认可自己。
人に認められたいという思いを私たちはみんな持っています。
我们都想被人认可。
悪魔はそこをついてくるんですね。
魔鬼就把耶稣带到了这里。
イエス様はその誘惑には乗らなかった。
耶稣没有上当。
イエス様はこれから始めるお働きの中でも、ご自身が神の子であるはっきりとしたしるしを見せて人を集めるようなことはなさらないんですね。
耶稣在接下来的做工中,并没有为了让人们看能清楚能显明他是神儿子的神迹而把人集中起来。
いや、奇跡を見せることはあるんですが、そんな時に限って、「誰にも言わないように」と言ったりするんですね。
虽然也有让人看到神迹的时候,但只要是那样的时候,他总说“不要对任何人说”
奇跡を見せて信じさせるなんていうことをイエス様はなさいません。
让人看到神迹然后让人信,耶稣并没有做这样的事。
イエス様は私たちに、信じることを求めてきます。
耶稣希望我们信。
そして、信じるところに、イエス様が神の子であるしるしが示されていくんですね。
信了才行神迹显明他是神的儿子。
奇跡を見て信じたんだとしたら、そんな信仰は本物の信仰じゃないですね。
要是看到神迹再信的话,这样的信仰就不是真正的信仰了。
ですから、奇跡を見せびらかすようなことはイエス様はなさらないんです。
所以耶稣没有炫耀神迹。
しかし、これでもまだ試験は終わりません。
可是到这里试探还没有结束。
まだまだ、神から引き離そうと頑張るんですね。
魔鬼还在拼命想着要耶稣离开神。
最後の試験は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうってことですね。
最后的试探是:如果俯伏拜我的话,就把这一切都赐给你。
もう今度は直接的に、自分を拝めと言ってくるんです。
这次是直接地说要拜他。
これはもう無茶苦茶ですね。
这太荒唐了。
この世のすべてが悪魔のものだなんて聖書には書いていません。
圣经上并没有写说整个世界都是魔鬼的。
もうこれは嘘をついているんです。
这是在撒谎。
この世のすべてが私のものだ。
说整个世界都是我的
というのは、はっきり言って、私は神だっていうことですよね。
说明白点就是:我是神。
そして、私を拝め、と。
所以当拜我。
悪魔は、思いっきり嘘をついてくることがあるということですね。
简直就是弥天大谎。
しかしこれも要注意です。
这点也要注意。
アドルフ・ヒトラーは、民衆は小さな嘘にはすぐに気づくが、大きな嘘には気づかない、ということを考えていたんです。
希特勒认为百姓能立马意识到小谎言,却意识不到大谎言。
ですから私たちも、思いっきり嘘をつかれたらだまされてしまうかもしれないと思っておくべきでしょう。
因此,我们或许也会被弥天大谎所骗,
そこでも大事なのは、神の言葉に立つことですね。
这里最重要的是,立足于神的话语。
聖書の言葉です。
圣经的话语。
イエス様はやっぱり聖書の言葉で返事をしました。
耶稣也是用圣经的话语回答的。
「あなたの神である主を拝み、
“当拜主你的神,
ただ主に仕えよ」。
单要侍奉他”。
そうすると、悪魔は離れ去ったんですね。
于是,魔鬼离去了。
イエス様は先週、洗礼を受けました。
上周耶稣受了洗,
洗礼を受けると私たちは神に結ばれます。
受洗后我们与神相联结。
しかし、そうなると、すぐに悪魔が私たちを神様から引き離そうとしてくるかもしれない。
可是这样的话魔鬼可能马上想要我们远离神。
「あなたならできるでしょう」、「できなないとおかしいですよ」みたいな形で、神様から離れることをさせようとする。
“你的话肯定行”,“不行就怪了”之类的话想要让我们远离神,
それも、聖書の言葉を使って、神様から離れさせようとすることもある。
而且也会用圣经的话语,让我们离开神。
私たちの弱いところをついてきたり、もしかすると、思いっきり大きな嘘をついてくるかもしれない。
把我们带到容易让我们软弱的地方,也或许会对我们撒弥天大谎。
その時に大事なのは、イエス様のように、真っすぐに神様を見上げることですね。
那个时候最重要的是,要像耶稣那样,直直地仰望神。
聖書の言葉に立って、真っすぐに神様を見上げること。
立足于圣经的话语,直直地仰望神。
そうすれば、悪魔は離れていくしかないんです。
这样的话,魔鬼只能离开了。
では、私たちは、その試験に合格することができるのでしょうか。
但是我们能胜过试探吗?
これは、イエス様の最初の弟子たちのことを考えてみたいですね。
想想耶稣最初的那几个弟子。
イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。
他们是怎么做的?
イエス様が逮捕されると、弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げ出しました。
耶稣被逮捕后,他们撇下耶稣逃走了。
そのことを、ルカによる福音書でイエス様は、それはサタンの試験だと言っていました。
路加福音中耶稣说这是撒旦的试探。
弟子たちは全員、不合格だったんです。
弟子们全都没有胜过。
しかし、不合格になった弟子たちはそのあと、どうなりましたか。
可是没有胜过试探的弟子们后来怎样了呢?
不合格になった弟子たちのところに、イエス様が来てくださったんですね。
耶稣还是来到了他们那里。
たとえ私たちが不合格になっても、イエス様は私たちを見捨てないんです。
即便我们不能胜过试探,耶稣也不会舍弃我们。
もし私たちが神様から離れそうになっても、イエス様が私たちを取り戻しに来ます。
即使我们想要离开神,耶稣也会把我们找回来。
だから、私たちは、安心してこの試験を受けていいんですね。
因此,我们放心接受试探。
もし、「不合格になった」と思うようなことがあったとしても、大丈夫です。
即使觉得胜不了也没有关系。
その時、イエス様は私の隣にいます。
那时耶稣会在我们身边。
不合格になる度に、イエス様は私のところに来てくださいます。
每一次软弱耶稣都会来到我们这里,
そういうことを繰り返している内に、私たちは、本当に、真っすぐに、聖書の言葉に立って、神様を見上げることができるようになっていくんじゃないかと思うのです。
如此反复,总有一天我们可以真正立足圣经话语,直直地仰望神。