今週の説教「言葉は出来事」(旧約聖書・イザヤ書55章10、11節)

2018年8月11日(土)

なつやすみこどもおたのしみ会

 

いつ? 8月11日(土)ごご2じから4じ

 

どこで? ひかりがおかキリストきょうかい(春日町4-37-26 ☎03-3577-1044)

 

なにするの? おはなしをきいたり、うたをうたったり、こんかいは「びんのなかであそぼう」っていうこうさくをするよ。そのあとはかきごおりをたべよう。

 

ひとりできても、おともだちやおとうさんおかあさんといっしょにきてもだいじょうぶです。

 

さんかひ むりょう


言葉は出来事

 

イザヤ書551011

 

10雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

 

 

 

 

今日の聖書の言葉は私たちに非常に大切なことを告げています。

 

神の言葉は実現するということですね。

 

神の言葉はただの言葉ではない。

 

それがそのまま実現するようなものであるのだということです。

 

これは、聖書全体を貫くテーマであると言ってもいいと思います。

 

旧約聖書の最初、創世記の1章では、神様はすべてのものを言葉でお造りになります。

 

「光あれ」と言ったら光がある。

 

言葉が実現するんですね。

 

あるいは、新約聖書の最初、ヨハネによる福音書の1章では、「言は神であった」と言われています。

 

言葉こそが神なんですね。

 

神の言葉が語られると、実現する、出来事になる。

 

神の言葉は神の御心を実現する。

 

言葉は神である。

 

それが聖書の信仰なんですね。

 

旧約聖書はヘブライ語という言葉で書かれていますが、そのヘブライ語では、「言葉」という単語は、「出来事」と訳すこともできる言葉です。

 

言葉は出来事なんです。

 

あるいは、ヘブライ語の時制は、完了形と未完了形しかありません。

 

過去形や未来形や進行形はないんですね。

 

完了形と未完了形だけ。

 

つまり、神の言葉がもうすでに実現したか、まだ実現していないか。

 

それだけなんです。

 

そういう信仰が言語にも表れているんですね。

 

これは、日本語もそれに近いと言えるかもしれません。

 

日本語に「言葉」という単語がありますが、それは、「ことのは」ということですね。

 

「ことのは」、つまり、「出来『事の端』っこ」です。

 

言葉というのは、それがそのまま出来事というわけではないけれども、出来事の一端ではある。

 

そういう理解です。

 

ですので、例えば平安時代の人々にとって、政治というのは、和歌を詠むことでした。

 

こうなったらいいなということを和歌に詠むんですね。

 

もちろん、和歌を詠むだけではなくて、具体的な事務仕事もたくさんしていたでしょうが、特に位が上の人たちにとっては、政治というのは和歌を詠むことでした。

 

心を込めて歌を詠んで、その言葉が実現しますように、ということですね。

 

言霊と言ったりしますけれども、言葉には、それが出来事の一端であると言えるくらいの力がある、そういう信仰がありますから、歌を詠むことが政治であったわけです。

 

ただ、和歌というのは人の言葉ですね。

 

それに対して、聖書は神の言葉です。

 

ですから、当然、それを実現させる力も備えている。

 

すべてのものを造ることができるくらいの力が、無限の力がそこにある。

 

その力によって私たちも造られたと聖書は言います。

 

無限の力の一部が、私たち自身に、存在しているんですね。

 

神の言葉の力が、私たちを存在させているんです。

 

だからこそ、聖書の人々は、神の言葉を大変大切に扱ってきました。

 

旧約聖書の申命記66節以下ですが、このように書かれています。

 

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。

 

これはもうまったく、神の言葉と共に生きるという感じですね。

 

ここに書かれているのはユダヤ教の流儀ですけれども、神の言葉が私を存在させている、神の言葉の力が、私に現れている、そう考えるのでしたら、別に私たちがこれをまねたとしてもおかしなことではないんでしょうね。

 

無限の力によって造られた私たちが、すべてを造った神の言葉を全く信頼しているということの表れなんですね。

 

と言いますか、もし、神の言葉に力があって、その力が自分を存在させていると思うのなら、これくらいのことをしても当たり前だと言えるかもしれません。

 

そして、今日の個所を見ますと、神の言葉は信頼してよい、信頼すべきものだということですね。

 

10節に書かれています。

 

雨も雪も、降ることはあっても、天に上ることはありません。

 

それは当たり前のことですね。

 

言われなくても誰でも分かっていることです。

 

私たちは、雨や雪が天に上るなんて想像することもないわけです。

 

まったく当たり前で、それ以外に考えもしない。そのように、神の言葉が語られると、それは実現する。それは全く当たり前で、それ以外にないことです。

 

そしてそれは、私たちが具体的な現実を生きる中での恵みなんですね。

 

大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種を与え、糧を与えるものなんですね。

 

神の言葉は、私たちに恵みを与える以外にないものであるということです。

 

それ以外のことは考えなくて良いようなものであるということなんですね。

 

今、神ご自身が、私たちに、そのようなことを語ってくださっているんですね。

 

ですので、私たちとしては、御言葉を読むことに励みたいですね。

 

それが当然のように実現することを思いながら読んでみたいと思います。

 

また、これだ、と思った御言葉を探すのも良いかもしれません。

 

探すのが面倒なら、今日の御言葉でもいいですね。

 

少し長いようですが、これくらいだったら、何度か読めばすぐに覚えます。

 

そういうことを習慣にして、神の言葉によって造られた私たちが、神の言葉と共に生きていくようにと、神様は励ましてくださっているんですね。

 

イエス様は神の言葉を種に例えました。

 

神の言葉という種をまいてくださったんですね。

 

その種を私たちはイエス様からすでに受け取っていると言えるでしょう。

 

せっかくイエス様がまいてくださった種を受けているんだから、礼拝の中で聞くだけじゃなくて、それが実現するところまで、求めていきたいし、求めていいんです。

 

もし求めるなら、神は神の言葉を私たちに実現させてくださいます。

 

それは神にとって当たり前のことです。

 

何しろ神にとってそもそも私たちはご自分の言葉で造ったものなんです。

 

神様にとってはもうすでに神の言葉は私たちという形で実現しているんです。

 

その私たちが神の言葉の実現をさらに望むとしたら、神様がそれを実現させてくださらないなんてこと、あるはずがないんですね。

 

神の言葉の現れである私たちです。

 

神の言葉を、もっと求めていきましょう。