今週の説教「暗闇に光」(新約聖書・マタイによる福音書4章12-17節)

⛪今週の予定

7/16(月・祝)江古田教会夏祭り(13:30-16:00)

7/17()韓国語教室(初級13:00-14:00、中級14:00-15:30)、東部中会教師会(東京教会、13:30-17:00)

7/18()洗礼準備会(時間帯未定)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

7/19()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)、牧師ラジオ録音(お茶の水、時間帯未定)

7/20()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、洗礼準備会(時間帯未定)

7/21()牧師週休日

7/22()学び会(9:00-10:00)、教理クラス(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、学び会(13:00-13:50)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 

🎤7/22()の説教

聖書・マタイによる福音書418-25

説教題「弟子になる」

賛美歌・151323822657550465-12940-5

 

📅8月までの教会の行事

715()ユース集会(当教会にて716日[月・祝]に江古田教会で夏祭り。13時に光が丘キリスト教会に集合)

810()Hereゴスペル・コンサート(当教会、14:00-15:10)

811()夏休みこどもお楽しみ会

819()献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会

 

📅8月までの中大会の行事

729()連合長老会例会・連合執事会例会

812()14()東部中会青年会夏期修養会

812()埼玉西部地区815集会、運営委員会

814()17()全国高校生会「サマーデイズ2018

823()25()ヤングサマーバイブルキャンプ

828()30()東部中会学生会夏期修養会

 


Here Gospel concert

 

Date:8/10(Fri.)

 

Time:2pm-3:10pm

 

Place:光が丘キリスト教会(練馬区春日町4-37-26)

 

Adomission:Free(入場無料)

 

どなたでもご自由にいらしてください!

 

 

Here:夏のゴスペル・コンサートのために結成したプロジェクト・コラボチーム。韓国福音聖歌協会18期会員の中から、ゴスペルによって福音を伝えることを志す者たちが集まった。メンバーはCDデビューも果たしている。


2018年8月11日(土)

なつやすみこどもおたのしみ会

 

いつ? 8月11日(土)ごご2じから4じ

 

どこで? ひかりがおかキリストきょうかい(春日町4-37-26 ☎03-3577-1044)

 

なにするの? おはなしをきいたり、うたをうたったり、こんかいは「びんのなかであそぼう」っていうこうさくをするよ。そのあとはかきごおりをたべよう。

 

ひとりできても、おともだちやおとうさんおかあさんといっしょにきてもだいじょうぶです。

 

さんかひ むりょう


「暗闇に光」

 

マタイによる福音書412-17

 

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

15「ゼブルンの地とナフタリの地、

 

湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、

 

異邦人のガリラヤ、

 

16暗闇に住む民は大きな光を見、

 

死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 

17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 

 

 

 

 

今日、イエス様は、「退く」ということをなさいます。

 

まず、退くんですね。

 

ご自分のお働きをこれから始めるというのにです。

 

これはどういうことなのかなあと思いますが、イエス様は、お働きを始められてからも、退くということをしばしばなさいますね。

 

今いる場所から離れる、今いる場所から退く。

 

退いて何をしているのかというと、祈るんですよね。

 

人々からいったん離れて、自分と神様だけの一対一の時を持つんです。

 

そして、そこに力を与えられて、また現実に戻ってくるわけです。

 

私も昔、そういうことをしたことがありました。

 

休みをいただいた時に、山の中に入って行って、そして、一週間、聖書を読んで祈る、ということだけをしたことがありました。

 

これは別にさびしいことではないんですね。

 

神様がすぐそばにおられる、ということが分かってきます。

 

そして、神様が私を愛しておられ、見守ってくださっている、ということが分かってきます。

 

それは本当に力を与えられる出来事です。

 

ただ、イエス様も山なんかに退いて祈るということをしばしばなさったんですが、私の場合は少し事情が違っておりまして、イエス様が山で祈った時、それは、山小屋かなんかで祈ったんだと思うんですね。

 

あるいは、外で祈るということもあったでしょう。

 

山の、木立の中で祈る。

 

そういう感じだったんだろうと思います。

 

そこが私はまだまだだなあと思うのですが、私はその時、山の中とはいっても、草津温泉に退いたんですね。

 

まだまだ未熟だなあと思わされますね。

 

 

 

しかし、今回のイエス様は、どうしてここで退くんでしょうか。

 

何か特別に祈らなければならないことがあったんでしょうか。

 

まず、状況が良くなかったということはありますね。

 

自分に洗礼を授けてくれた洗礼者ヨハネが逮捕されたんです。

 

それを受けて、退くことになったということですね。

 

「ガリラヤに退かれた」ということなんですが、ガリラヤというのはイスラエルの国で一番北の地方です。

 

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのはユダヤという地方で、それはイスラエルの国で一番南の地方でした。

 

一番南から、一番北に退いたんですね。

 

一番北のガリラヤには、イエス様が生まれ育った村、ナザレがあります。

 

しかし、そこには戻らずに、カファルナウムに行ったんですね。

 

このカファルナウムという町は、イエス様の活動の本拠地になっていく町です。

 

そうなりますと、私たちとしては考えてしまいますね。

 

イエス様は、洗礼者ヨハネが逮捕されたので、自分も逮捕されないように安全なところに逃げたということなんじゃないか。

 

しかし、これは違います。

 

どうしてかというと、ガリラヤというのは、洗礼者ヨハネを死刑にした領主がいるところなんです。

 

敵の本拠地なんです。

 

イエス様にとってアウェイなんですね。

 

わざわざそんなところに行ったんですから、これは一人だけ逃げたということではありません。

 

イエス様としては、とにかく、一人になって祈りたいということだけだったんでしょうね。

 

洗礼者ヨハネが逮捕されたという現実を受けて、しかしその現実から離れて、神様とだけ向かい合う。

 

大事な時だからこそ、そうしたい。

 

その意味で、退いたということなんでしょう。

 

だから、イエス様はナザレには戻らなかったんでしょうね。

 

ナザレには家族や知り合いがいっぱいいますから、そこでは一人になれません。

 

一人っきりになって神様と話がしたかったんでしょうね。

 

イエス様は何を祈ったでしょうか。

 

ご自分のことを祈ったのではないかと思います。

 

これから、ご自分がどうなるのか、それを祈ったのではないかと思うんですね。

 

イエス様が退かれたのは、ヨハネが「捕らえられた」ことがきっかけでした。

 

この、「捕らえられた」という言葉は、原文で見ますと、「引き渡された」という言葉なんですね。

 

「引き渡された」というのはもう、福音書の専門用語ですよね。

 

イエス様が十字架に「引き渡された」というのと同じ言葉がここでつかわれているんです。

 

ですので、この時イエス様は、ご自分がこれからどうなるか、最終的にどうなるのか、神様と一対一で向かい合って、そのことを祈られたんじゃないかと思うんですね。

 

その祈りの中から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもって、イエス様は伝道を始めます。

 

この言葉、洗礼者ヨハネと同じ言葉なんですね。

 

洗礼者ヨハネもこの言葉で自分の働きをしていたんです。

 

その同じ言葉をつかうということは、イエス様は、ご自分がこれからどうなるか、最終的にどうなるか、分かっていたのではないかと思います。

 

 

 

そしてこの、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉ですけれども、「悔い改め」というのは原文では「神に立ち返ること」ですね。

 

そして、「天の国」と言われていますが、天という言葉は聖書では、神という言葉と同じようにつかわれます。

 

ですので、「天の国」と言ったらそれは「神の支配」のことです。

 

イエス様はこれから苦しみを受けることになります。

 

しかしそれによって、神様の支配が実現していくんだということ。

 

だから、神様に立ち返りなさい。

 

イエス様は、最初から、すべてご存じで、ご自分のお働きを始めたんですね。

 

 

 

そしてそれは、預言されていたことでもありました。

 

旧約聖書のイザヤ書の言葉が今日の場面に引用されていますね。

 

これはイザヤ書の8章の終わりから9章の初めにかけての言葉です。

 

ゼブルンの地とナフタリの地」と言われていますけれども、ゼブルン、ナフタリは人の名前です。

 

イスラエルは全部で12の部族があるんですが、ゼブルン、ナフタリというのはその12の部族の内、2つの部族の先祖なんですね。

 

そして、この人たちが住んでいた土地が、この時点で言うナザレやカファルナウムのあたりだったんです。

 

そしてそこは、引用されている通り、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。

 

異邦人が多かったんです。

 

ということは、イスラエル人は自分の民族をとにかく大事にしますから、良く思われていなかったということです。

 

しかしそこに、「光が射し込んだ」んですね。

 

キリストが来てくださった。

 

それは、ゼブルン、ナフタリだけではないですね。

 

「暗闇に住む民」とか「死の陰の地に住む者」と言われていますが、それは何もこの土地の人たちだけではなくて、罪に支配されている私たちみんなそうですね。

 

罪というのは神に背くことですが、もう少し具体的に言うと、神中心じゃなくて自分中心ということです。

 

しかし、自分中心になりますと、いつも不安で、いつもイライラすることになりますね。

 

自分の思い通りになることなんてなかなかないというのが現実ですから。

 

そんなことは分かっているんです。

 

分かっているんですが、それでも私たちは自分の思い通りにしたいんです。

 

自分の思い通りにならないことには理由があるんですが、そして、自分の思い通りになったらなったで、周りが苦しむことにもなりかねないわけなんですが、自分を中心にしてしまう。

 

それってもう、暗闇ですよね。

 

暗闇の中で生きているような感じです。

 

色々なことに目を閉ざして、自分にだけ心を向けている。

 

私たちは、多かれ少なかれ、暗闇の中にいる。

 

そして、「死の陰の地に住む者」というのも、いずれ死ななければならない私たちみんなに当てはまることですね。

 

私たちの多くは、別に、今日明日死ぬかもしれないというような健康上の問題なんかを抱えているわけではないかもしれませんが、いずれ死ぬことははっきりしています。

 

となると、死というものに私たちがおびやかされているということにまではならないとしても、死の陰というのは私たちにおおいかぶさっていることに違いはないわけです。

 

しかし、その私たちのところに、光であるキリストは来てくださるんですね。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

 

罪と死の暗闇に支配されている私たちに、神の支配が伝えられている。

 

光が差し込んでいる。

 

その神の光に心を向けることが悔い改めです。

 

私たちは普段、暗闇の中にいるんです。

 

そして、それに慣れてしまっているかもしれません。

 

だからこそ、光に目を向けることが苦手かもしれません。

 

けれどもここで、自分から、意識して、神の光に心を向けてみてください。

 

私たちは今日、この聖書の言葉を聞いたんですね。

 

ということは、どういうことですか。

 

私たちは神の目には、神の光の中にあるんです。

 

現実に、私たちは、神の目には、神の光の中にある。

 

どうぞそのことに心を向けてください。

 

私たちは今、それぞれの現実から離れて、退いて、ここに集まってきました。

 

だからこそ、なおさら、心を神の光に向けたいんですね。

 

そして、それに力を与えられて、明日からも、私たちそれぞれの現実の中を生きていきましょう。

 


今日、イエス様は、「退く」ということをなさいます。

 

  今天,耶稣要退去

 

まず、退くんですね。

 

  首先是退去

 

ご自分のお働きをこれから始めるというのにです。

 

  明明要开始他的做工了。

 

これはどういうことなのかなあと思いますが、イエス様は、お働きを始められてからも、退くということをしばしばなさいますね。

 

  这是怎么回事呢?耶稣开始做工以后也经常退去。

 

今いる場所から離れる、今いる場所から退く。

 

  离开现在所在的地方,从现在所在的地方退去。

 

退いて何をしているのかというと、祈るんですよね。

 

  退去后做什么呢?祷告。

 

人々からいったん離れて、自分と神様だけの一対一の時を持つんです。

 

  暂且离开人群,与神独处。

 

そして、そこに力を与えられて、また現実に戻ってくるわけです。

 

  从中获取力量,继续回到现实中。

 

私も昔、そういうことをしたことがありました。

 

  我以前也做过这样的事情。

 

休みをいただいた時に、山の中に入って行って、そして、一週間、聖書を読んで祈る、ということだけをしたことがありました。

 

  休假的时候,去山里,一个礼拜只读经祷告,曾做过这样的事情。

 

これは別にさびしいことではないんですね。

 

  并不觉得孤单。

 

神様がすぐそばにおられる、ということが分かってきます。

 

  因为知道神就在身边。

 

そして、神様が私を愛しておられ、見守ってくださっている、ということが分かってきます。

 

  知道神爱我,保守我。

 

それは本当に力を与えられる出来事です。

 

  这真的可以汲取力量。

 

ただ、イエス様も山なんかに退いて祈るということをしばしばなさったんですが、私の場合は少し事情が違っておりまして、イエス様が山で祈った時、それは、山小屋かなんかで祈ったんだと思うんですね。

 

  虽然耶稣也经常退到山上祷告,但是和我的情况还是有点不一样的,耶稣是在山上的小屋之类的地方祷告,

 

あるいは、外で祈るということもあったでしょう。

 

  或者有时是在野外祷告,

 

山の、木立の中で祈る。

 

  在山间丛林中祷告,

 

そういう感じだったんだろうと思います。

 

  觉得应该是那样。

 

そこが私はまだまだだなあと思うのですが、私はその時、山の中とはいっても、草津温泉に退いたんですね。

 

  这我还做不到那地步,我那个时候退去山上是退到草津温泉去了。

 

まだまだ未熟だなあと思わされますね。

 

  还差得远呢。

 

しかし、今回のイエス様は、どうしてここで退くんでしょうか。

 

  可是,这次耶稣为什么从这里退去呢?

 

何か特別に祈らなければならないことがあったんでしょうか。

 

  有什么特别的必须要祷告的吗?

 

まず、状況が良くなかったということはありますね。

 

  有不妙的事发生。

 

自分に洗礼を授けてくれた洗礼者ヨハネが逮捕されたんです。

 

  给自己受洗的施洗约翰被捕了。

 

それを受けて、退くことになったということですね。

 

  所以决定要退去

 

「ガリラヤに退かれた」ということなんですが、ガリラヤというのはイスラエルの国で一番北の地方です。

 

  “退到加利利去”,加利利是以色列的最北边。

 

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのはユダヤという地方で、それはイスラエルの国で一番南の地方でした。

 

  耶稣受洗的地方是在犹太,是以色列的最南边。

 

一番南から、一番北に退いたんですね。

 

  从最南边退到最北边。

 

一番北のガリラヤには、イエス様が生まれ育った村、ナザレがあります。

 

  在最北边的加利利有一个村叫拿撒勒,耶稣在那里长大。

 

しかし、そこには戻らずに、カファルナウムに行ったんですね。

 

  可是他并没有回到那里,而是去了迦百农。

 

このカファルナウムという町は、イエス様の活動の本拠地になっていく町です。

 

  迦百农这个地方成了耶稣的根据地。

 

そうなりますと、私たちとしては考えてしまいますね。

 

  如此一来,我们会想:

 

イエス様は、洗礼者ヨハネが逮捕されたので、自分も逮捕されないように安全なところに逃げたということなんじゃないか。

 

  耶稣因为施洗约翰被捕,为了不让自己也被捕所以逃到了安全的地方吧?

 

しかし、これは違います。

 

  事实并非如此

 

どうしてかというと、ガリラヤというのは、洗礼者ヨハネを死刑にした領主がいるところなんです。

 

  为什么这么说,因为加利利这个地方,是宣判施洗约翰死刑的官员住的地方。

 

敵の本拠地なんです。

 

  是敌人的根据地。

 

イエス様にとってアウェイなんですね。

 

  对耶稣来说那是敌方阵营。

 

わざわざそんなところに行ったんですから、これは一人だけ逃げたということではありません。

 

  特地去了那样的地方,所以并不是一个人逃跑。

 

イエス様としては、とにかく、一人になって祈りたいということだけだったんでしょうね。

 

  就耶稣而言,无论如何,想要一个人祷告。

 

洗礼者ヨハネが逮捕されたという現実を受けて、しかしその現実から離れて、神様とだけ向かい合う。

 

  他接受了施洗约翰被捕的事实,从这个现实状况中脱离出来,只想与神面对面独处。

 

大事な時だからこそ、そうしたい。

 

  正因为是重要的时刻,所以想要这样做。

 

その意味で、退いたということなんでしょう。

 

  为此才要退去

 

だから、イエス様はナザレには戻らなかったんでしょうね。

 

  所以,耶稣没有回拿撒勒。

 

ナザレには家族や知り合いがいっぱいいますから、そこでは一人になれません。

 

  拿撒勒家人朋友很多,那里没办法一个人独处。

 

一人っきりになって神様と話がしたかったんでしょうね。

 

  他想要一个人和神交通。

 

イエス様は何を祈ったでしょうか。

 

  耶稣祷告了什么呢?

 

ご自分のことを祈ったのではないかと思います。

 

  为自己祷告吗?

 

これから、ご自分がどうなるのか、それを祈ったのではないかと思うんですね。

 

  接下来自己会怎么样,是祷告这个吗?

 

イエス様が退かれたのは、ヨハネが「捕らえられた」ことがきっかけでした。

 

  耶稣离开的契机是施洗约翰被捕,

 

この、「捕らえられた」という言葉は、原文で見ますと、「引き渡された」という言葉なんですね。

 

  被捕在原文中是“交出来”这个词

 

「引き渡された」というのはもう、福音書の専門用語ですよね。

 

  “交出来”是福音书的专用语。

 

イエス様が十字架に「引き渡された」というのと同じ言葉がここでつかわれているんです。

 

  和耶稣被交给人钉十字架用的是同一个词。

 

ですので、この時イエス様は、ご自分がこれからどうなるか、最終的にどうなるのか、神様と一対一で向かい合って、そのことを祈られたんじゃないかと思うんですね。

 

  我们会认为那个时候的耶稣,与神面对面,为自己接下来将如何,最终会如何而祷告。

 

その祈りの中から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもって、イエス様は伝道を始めます。

 

  “天国近了,你们应当悔改”,耶稣以这句话开始了传道。

 

この言葉、洗礼者ヨハネと同じ言葉なんですね。

 

  这话也和施洗约翰的相同。

 

洗礼者ヨハネもこの言葉で自分の働きをしていたんです。

 

  施洗约翰也以这话开始自己的做工。

 

その同じ言葉をつかうということは、イエス様は、ご自分がこれからどうなるか、最終的にどうなるか、分かっていたのではないかと思います。

 

  用同样的话,是因为耶稣明白自己接下来会如何,最后结局会如何。

 

そしてこの、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉ですけれども、「悔い改め」というのは原文では「神に立ち返ること」ですね。

 

  “天国近了,你们当悔改”这句话中,“悔改”一词在原文中是“归向神”。

 

そして、「天の国」と言われていますが、天という言葉は聖書では、神という言葉と同じようにつかわれます。

 

  而“天国”中的天在圣经中和神是同一个词。

 

ですので、「天の国」と言ったらそれは「神の支配」のことです。

 

  因此“天国”是“神的国度”的意思

 

イエス様はこれから苦しみを受けることになります。

 

  耶稣今后会受到苦楚。

 

しかしそれによって、神様の支配が実現していくんだということ。

 

  但是因此成就了神的国。

 

だから、神様に立ち返りなさい。

 

  所以要归向神。

 

イエス様は、最初から、すべてご存じで、ご自分のお働きを始めたんですね。

 

  耶稣从一开始就知道所有的一切,开始了他的做工。

 

そしてそれは、預言されていたことでもありました。

 

  这也是预言到的

 

旧約聖書のイザヤ書の言葉が今日の場面に引用されていますね。

 

  今天的内容中引用了以赛亚书的经文。

 

これはイザヤ書の8章の終わりから9章の初めにかけての言葉です。

 

  以赛亚书8章末尾至9章开头,

 

ゼブルンの地とナフタリの地」と言われていますけれども、ゼブルン、ナフタリは人の名前です。

 

  “西布伦地,拿弗他利地”中,西布伦、拿弗他利是人的名字。

 

イスラエルは全部で12の部族があるんですが、ゼブルン、ナフタリというのはその12の部族の内、2つの部族の先祖なんですね。

 

  以色列总共12个支派,西布伦、拿弗他利是12个支派中的其中两个。

 

そして、この人たちが住んでいた土地が、この時点で言うナザレやカファルナウムのあたりだったんです。

 

  这两个支配所在地正是当时的拿撒勒、迦百农一带。

 

そしてそこは、引用されている通り、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。

 

  那里正如以赛亚书所写的,被称为“异邦人的加利利”

 

異邦人が多かったんです。

 

  异邦人很多。

 

ということは、イスラエル人は自分の民族をとにかく大事にしますから、良く思われていなかったということです。

 

  因为以色列人认为自己民族最厉害,所以不觉得那里是什么好地方。

 

しかしそこに、「光が射し込んだ」んですね。

 

  可是那里“光照进来”

 

キリストが来てくださった。

 

  基督来了,

 

それは、ゼブルン、ナフタリだけではないですね。

 

  不只是西布伦、拿弗他利,

 

「暗闇に住む民」とか「死の陰の地に住む者」と言われていますが、それは何もこの土地の人たちだけではなくて、罪に支配されている私たちみんなそうですね。

 

  “住在黑暗里的百姓”、“住在死荫之地的人”不仅仅是指那里的百姓,被罪恶驱使的我们也一样。

 

罪というのは神に背くことですが、もう少し具体的に言うと、神中心じゃなくて自分中心ということです。

 

  罪是指背离神的人,更具体点说就是:不以神为中心,而是以自己为中心。

 

しかし、自分中心になりますと、いつも不安で、いつもイライラすることになりますね。

 

  可是,以自我为中心的话,总是不安,变得很焦虑。

 

自分の思い通りになることなんてなかなかないというのが現実ですから。

 

  因为现实总是不如自己所愿。

 

そんなことは分かっているんです。

 

  我们都知道这一点

 

分かっているんですが、それでも私たちは自分の思い通りにしたいんです。

 

  虽然知道,我们还是想要按自己的意愿去做。

 

自分の思い通りにならないことには理由があるんですが、そして、自分の思い通りになったらなったで、周りが苦しむことにもなりかねないわけなんですが、自分を中心にしてしまう。

 

  知道不应该按自己的意愿去做,如果按自己意愿的话,有可能会给周围的人带来痛苦,但还是以自己的意愿做了。

 

それってもう、暗闇ですよね。

 

  便是黑暗。

 

暗闇の中で生きているような感じです。

 

  感觉活在黑暗中

 

色々なことに目を閉ざして、自分にだけ心を向けている。

 

  对很多事情视而不见,只管自己。

 

私たちは、多かれ少なかれ、暗闇の中にいる。

 

  我们多多少少都活在黑暗中。

 

そして、「死の陰の地に住む者」というのも、いずれ死ななければならない私たちみんなに当てはまることですね。

 

  “住在死荫之地”适合早晚都要死的我们。

 

私たちの多くは、別に、今日明日死ぬかもしれないというような健康上の問題なんかを抱えているわけではないかもしれませんが、いずれ死ぬことははっきりしています。

 

  虽然我们大家或许都没有今天明天就要死那样严重的健康问题,但是早晚要死这一点是肯定的。

 

となると、死というものに私たちがおびやかされているということにまではならないとしても、死の陰というのは私たちにおおいかぶさっていることに違いはないわけです。

 

  即使我们不至于受死亡的威胁,被死荫笼罩那是一定的。

 

しかし、その私たちのところに、光であるキリストは来てくださるんですね。

 

  可是耶稣来到我们这里。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

 

  “天国近了,你们要悔改,”

 

罪と死の暗闇に支配されている私たちに、神の支配が伝えられている。

 

  向被罪恶和死亡笼罩着的我们传到神的救恩。

 

光が差し込んでいる。

 

  光照进来。

 

その神の光に心を向けることが悔い改めです。

 

  心向神就是悔改

 

私たちは普段、暗闇の中にいるんです。

 

  我们一直活在黑暗里,

 

そして、それに慣れてしまっているかもしれません。

 

  或许已经习惯了黑暗,

 

だからこそ、光に目を向けることが苦手かもしれません。

 

  或许正因为如此,我们不习惯面对光明,

 

けれどもここで、自分から、意識して、神の光に心を向けてみてください。

 

  但是在这里,请大家要自觉做到心向光明。

 

私たちは今日、この聖書の言葉を聞いたんですね。

 

  我们今天听了圣经的话语,

 

ということは、どういうことですか。

 

  这意味着什么?

 

私たちは神の目には、神の光の中にあるんです。

 

  我们在神的眼目中,在神所赐予的光明中。

 

現実に、私たちは、神の目には、神の光の中にある。

 

  事实是我们在神的眼目中,在神所赐的光明中。

 

どうぞそのことに心を向けてください。

 

  请大家的心朝向光明。

 

私たちは今、それぞれの現実から離れて、退いて、ここに集まってきました。

 

  我们大家此刻都是远离了各自的现实生活,聚集到了这里,

 

だからこそ、なおさら、心を神の光に向けたいんですね。

 

  正是如此,我们更加想要把我们的心朝向神所赐的光明。

 

そして、それに力を与えられて、明日からも、私たちそれぞれの現実の中を生きていきましょう。

 

 从那里获取力量,明天起让我们回到各自的现实生活中活出基督的荣耀来。