
✜7/31(火)聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)、クリスチャン・アーティスト・ネットワークIBUKI会議(19:00-21:00)
✜8/1(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜8/3(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、コーヒーブレイク(使徒言行録、10:00-14:00)
✜8/5(日)洗礼試問会(9:00-10:00)、学び会(その日の信仰問答)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(洗礼式、聖餐式、10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、役員会(13:00-14:00)、小会(14:00-15:30)、掃除
🎤8/5(日)の説教
聖書・マタイによる福音書5章1、2節
説教題「山上の説教」
賛美歌・113、32、38、505、67、474、81、65-1、27、40-5
📅8月までの教会の行事
✜8月10日(金)Hereゴスペル・コンサート(当教会、14:00-15:10)
✜8月11日(土)夏休みこどもお楽しみ会
✜8月19日(日)献堂記念日・ぶどう狩り・ユース集会
📅8月までの中大会の行事
✜8月12日(日)~14日(火)東部中会青年会夏期修養会
✜8月12日(日)埼玉西部地区8・15集会、運営委員会
✜8月14日(火)~17日(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8月23日(木)~25日(土)ヤングサマーバイブルキャンプ(牧師出席。ご出席をご希望の方はお声をおかけください。参加費は全額、教会で負担いたします)
✜8月28日(火)~30日(木)東部中会学生会夏期修養会

Here Gospel concert
Date:8/10(Fri.)
Time:2pm-3:10pm
Place:光が丘キリスト教会(練馬区春日町4-37-26)
Adomission:Free(入場無料)
どなたでもご自由にいらしてください!
Here:夏のゴスペル・コンサートのために結成したプロジェクト・コラボチーム。韓国福音聖歌協会18期会員の中から、ゴスペルによって福音を伝えることを志す者たちが集まった。メンバーはCDデビューも果たしている。

2018年8月11日(土)
なつやすみこどもおたのしみ会
いつ? 8月11日(土)ごご2じから4じ
どこで? ひかりがおかキリストきょうかい(春日町4-37-26 ☎03-3577-1044)
なにするの? おはなしをきいたり、うたをうたったり、こんかいは「びんのなかであそぼう」っていうこうさくをするよ。そのあとはかきごおりをたべよう。
ひとりできても、おともだちやおとうさんおかあさんといっしょにきてもだいじょうぶです。
さんかひ むりょう

「弟子になる」
マタイによる福音書4章18-25節
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
今日の前半はイエス様が弟子を取る場面ですね。
最初の弟子たちは漁師でした。
私は魚釣りというのはあまりしたことがありませんでして、小学生の頃、近所の池でブラックバスを釣ったりしたことはあるのですが、釣りの経験というのはそれくらいですね。
最近になって、釣り堀に行ったことはあるんです。
その釣り堀には鯉がたくさんいまして、エサをまいてから釣り糸を垂らすんですが、もう、エサをまいた時点で鯉が20匹くらい、バシャバシャ集まってきますね。
ですので、もう、魚を釣るっていう感じでもないんですよね。
釣れない方がおかしいんです。
ただ、そこの釣り堀は、釣った魚は持って帰れません。
そのまま釣り堀に戻さないといけないんですね。
ですので私は今まで一度も、自分で釣った魚を食べたことがないんです。
それに対してイエス様の弟子たちは漁師ですよね。
食べる魚を取っているんです。
取って食べるどころか、食べる以上にたくさん釣って、それを売って、生活していたんです。
ただ、釣竿で釣りをしていたわけではありませんでして、ここのところを読んでいただけると分かりますが、網を使っていたんですね。
網を使って魚を取ると聞きますと、地引網みたいな、砂浜でみんなで力を合わせて網を引き揚げると魚がたくさんかかっている、みたいな様子を想像しますけれども、それは少し違っていまして、網はスクリーンのように広げてそのまま水の中に入れるんですね。
そして、しばらく待ってから、そのまま網を真っすぐに上げる。
そうしますと、その網に魚が引っ掛かっている、という漁の仕方なんです。
魚というのは集団になって泳ぎますし、泳ぐコースが決まっているので、そのコースに網を沈めておいて、魚を捕まえる、ということなんですね。
今日の前半は、そういう、漁師であった人たちにイエス様が話しかけて弟子にした、それも、漁師たちが仕事をしている最中に弟子にした、漁師たちはイエス様に話しかけられるとすぐにすべてを捨ててついて行った、という話ですね。
それに対して、今日の後半はイエス様が病人をいやす話です。
これは別々の話が並べられているように思われるかもしれませんが、まず、聖書というのは、もともとの原文では、章とか節の区切りはありません。
全部つながって書かれているんですね。
そして、内容的にも、この二つの話は別々の話ではないと思うんです。
二つの話には共通点がありますね。
前半は、弟子たちがイエス様に従ったという話です。
そして後半は、最後まで読んでみると、大勢の群衆がイエス様に従ったという話です。
人がイエス様に従ったという話をしているんですね。
しかし、これが不思議なんです。
大勢の群衆はイエス様の力を見たんですから、従っていくというのは分かります。
けれども、弟子たちがイエス様に従ったのはどうしてでしょうか。
シモンとアンデレは仕事中だったんですよね。
ということは、イエス様の話を聞きたかったわけではないし、まして、病気を治してもらったわけでもないんです。
ヤコブとヨハネも同じですよね。
ですけれども、「すぐに」従った、その場で従ったということなんです。
まして、ペトロとアンデレは「網を捨てて」従った、ヤコブとヨハネは何と、「舟と父親とを残して」従ったということなんですね。
この、「舟と父親とを残して」という時の「残して」という言葉は、ペトロとアンデレが「網を捨てて」という時の「捨てて」という言葉と同じなんですね。
つまり、ヤコブとヨハネは、すぐにその場で「舟と父親とを捨てて」、イエス様に従ったんです。
これは一体どういうことなんでしょうか。
イエス様に従う時には、大切なものを捨てなければならないということでしょうか。
とにかく、大変なことが起こっているんですね。
ある意味、病気を治すよりも大変なことが起こっているんです。
この、漁師を弟子にした話はルカによる福音書の5章にも書かれているんですが、ルカによる福音書に書かれている話を読むと、どうして弟子たちが弟子になったのかは分かるんですね。
その日、漁師たちは、全然魚が取れなかったんです。
けれども、イエス様がそこにやってきて、言われたとおりに網を降ろすと大漁になったんですね。
それだったら、イエス様について行くのは分かります。
けれども、マタイはその出来事を書いていないんです。
では私たちは、今日のこの物語から、何を読み取るべきなんでしょうか。
イエス様は弟子になる人に、「わたしについて来なさい」と声をかけます。
そうすると、そう言われた人が「すぐに従う」ということが起こってきます。
これ、考えてみると、後半の話の群衆も同じなんじゃないでしょうか。
23節に、イエス様がなさったことが書かれていますね。
イエス様は病気をいやしただけではないんですよね。
「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ていたと書かれています。
「福音」というのは、原文では、「良い知らせ」という言葉です。
では何が良い知らせなのかというと、今日の直前の17節に、こういう言葉がありました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
これ、良い知らせですよね。
天の国が近づいている。
だから、病気が治っていくんです。
「天の国」の「天」という言葉は聖書では「神」と同じ言葉です。
そして、「天の国」の「国」という言葉は「支配」という意味にもなる言葉です。
「天の国」というのは「神の支配」ということなんですね。
その神の支配が近づいているから、人々が病気の支配から解放されていくんです。
ですから、言ってみれば、病気のいやしは結果としてそういうことが起こったということで、おまけみたいなものなんですね。
大事なのは天の国が近づいたことです。
大勢の群衆は、イエス様のなさる奇跡を見て、天の国が近づいたことを信じたわけです。
イエス様の言葉を受け入れた。
だから、従ったんですよ。
考えてみれば、そもそも、病気が治ったんなら、もうイエス様について行く必要なんてないはずですよね。
私たちだって、病気になったら病院に行きます。
でも、病気が治ったらもう行かないじゃないですか。
病院の先生について行こうだなんて、誰も思いませんよね。
先生だって、そんなことされたら迷惑ですよ。
人々がイエス様について行ったのは、イエス様の言葉を受け入れたからなんです。
だいたい、たとえ奇跡を見ても、それで信じるとは限らないですよね。
この福音書の11章20節から、多くの町が奇跡を見ても悔い改めなかったことをイエス様は叱ります。
奇跡を見ても悔い改めない、神のしるしを見てもイエス様に従わないということは、普通のことなんですね。
奇跡なんてことがあると目を引かれますが、それと、イエス様に従うかどうかというのは別の話です。
大事なのはイエス様の言葉を受け入れることです。
そして、そのイエス様の言葉というのは、「福音」、「良い知らせ」ですね。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉なんです。
「悔い改めよ」って言われていますけれども、「悔い改める」という言葉は原文では神に「立ち返る」ことですね。
今日の場面を見るとそれは、具体的には、イエス様に従うことです。
「わたしについて来なさい」というイエス様に従うことなんです。
しかし、どうして弟子たちはいきなり声をかけられてイエス様に従うことができたんでしょうか。
それは、「悔い改めたから」だと言うことができますね。
不思議と言えば不思議な話ですよ。
ですけれども、悔い改めて神に立ち返ったから、神の言葉を語るイエス様について行ったんだ、ということは言えますね。
マタイは、そのことに気付いてほしくて、今日の場面でこういう書き方をしたんだと思うんですね。
「舟と父親とを残して」従ったなんて言われますと、驚いてしまいますが、これは要するに、イエス様と自分との関係というのは、親であったとしても立ち入れないような、非常に個人的な事柄なんだということですね。
イエス様とこの私だけの間で、弟子になるということが起こるんだということです。
こういう関係というのは、深い関係ではありますよね。
例えば、若い人が恋愛をする時に、いちいち親のところに行って、「お父さん、この人を好きになってもいいですか」なんて言ったりはしませんよね。
イエスに従うことも同じことだということです。
例え親であっても、イエス様とこの私との間には入り込めないということなんです。
そのことをマタイは書いたんですね。
しかし、私たちも大切なものを捨てなければならなくなるとしたら、どうでしょうか。
そもそも、どうして捨てなければならないんでしょうか。
それは、私たちが、それに頼っているからなんです。
舟とか、父親とか。
生活の糧を得るための手段とか、自分に仕事を割り振ってくれる人とか。
そういうものに頼るよりも、イエス様に頼りなさいということなんです。
この世の支配の中では、私たちは人や物に頼るしかないんです。
けれども、天の国、神の支配が近づいているんです。
だから、神の子イエスに頼りなさいということなんですね。
そして、この「捨てる」ということは、文字通り捨てることではないんです。
この後の8章14節では、イエス様がペトロの家に行って、ペトロの家族の病気をいやしているんですね。
ペトロは家を捨てたわけではありません。
あるいは、ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架につけられた後、弟子たちは漁をしているんです。
やっぱり、文字通り舟を捨てたわけではないんです。
大事なのは、人や物に頼るよりも、イエス様に頼るようになった、人や物に頼る心を捨てた、ということなんです。
そして、イエス様に従うところに教会が生まれていくんだということなんです。
今日の21節で、ヤコブとヨハネに対してイエス様は、「彼らをお呼びになった」と書かれていますけれども、この「呼ぶ」という言葉が元になって、「教会」という言葉ができてくるんですね。
教会という言葉は、原文に忠実に訳すなら、「呼び出された集まり」というくらいの言葉です。
「わたしについて来なさい」という呼びかけに応えた集まりが、教会なんです。
そして、次からは、自分が人を呼んでくるんだということですね。
だって、イエス様は今日、呼びかけた人に対して、「人間をとる漁師にしよう」と言っておられますよね。
これ、私たちにも言われていることなんです。
これが教会に与えられた使命です。
これがイエス様の最初の言葉にして、最後の言葉です。
イエス様は最後にも、同じことをおっしゃいましたよね。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
これって、「人間をとる漁師にしよう」っていうことじゃないですか。
何かそう言われると、大変そうだなと思ってしまいますけれども、大事なことは、ここで、イエス様が「そうする」と言っているんだ、ということですね。
「人間をとる漁師にしよう」っていうのは、イエス様がその人をそのようにする、っていうことですよね。
弟子たちはその言葉を信じて従ったんです。
私たちもイエス様の呼びかけに応えて、改めて、イエス様に頼る新しい生き方をしていきたいんですね。
もしかしたら、イエス様から呼びかけられるのは、仕事中かもしれません。
仕事中というのは、ある意味、自分にとって一番大事な時ですよね。
イエス様は私たちにとって一番大事な時に切り込んでくるんです。
それは、イエス様が、「本当に大事なこと」を私たちに知ってほしいからなんですね。
ですので、どんな時にその呼びかけがあるのかは分かりませんけれども、どうぞ、今の内から準備をしておいてください。
大丈夫です。
イエス様が責任を持ってくださると言われているんです。
それを信じて、その時、すぐに、イエス様に従ってください。
弟子になる (成为门徒)
今日の前半はイエス様が弟子を取る場面ですね。
今天的前半部分是耶稣招门徒的场景。
最初の弟子たちは漁師でした。
耶稣最早的门徒都是渔夫。
私は魚釣りというのはあまりしたことがありませんでして、小学生の頃、近所の池でブラックバスを釣ったりしたことはあるのですが、釣りの経験というのはそれくらいですね。
我没怎么钓过鱼,小学的时候,在附近的池塘里钓过鲈鱼,要说钓鱼的话就这么点经验而已。
最近になって、釣り堀に行ったことはあるんです。
最近倒是去了收费的鱼塘钓鱼。
その釣り堀には鯉がたくさんいまして、エサをまいてから釣り糸を垂らすんですが、もう、エサをまいた時点で鯉が20匹くらい、バシャバシャ集まってきますね。
那个鱼塘里有很多鲤鱼,一撒下鱼饵钓鱼竿的线就下沉,因为鱼饵一撒下就会有20条左右的鲤鱼啪啪啪游过来。
ですので、もう、魚を釣るっていう感じでもないんですよね。
因此并没什么钓鱼的感觉,
釣れない方がおかしいんです。
这样还钓不到的话就有点奇怪了。
ただ、そこの釣り堀は、釣った魚は持って帰れません。
但是那个鱼塘不能把钓到的鱼带回去。
そのまま釣り堀に戻さないといけないんですね。
必须就这样把鱼放回鱼塘。
ですので私は今まで一度も、自分で釣った魚を食べたことがないんです。
所以至今为止,我一次都没有吃过自己钓到的鱼。
それに対してイエス様の弟子たちは漁師ですよね。
耶稣的门徒都是渔夫。
食べる魚を取っているんです。
他们捕自己要吃的鱼。
取って食べるどころか、食べる以上にたくさん釣って、それを売って、生活していたんです。
不止捕来吃,更多的是拿去卖掉,以此来维持生计。
ただ、釣竿で釣りをしていたわけではありませんでして、ここのところを読んでいただけると分かりますが、網を使っていたんですね。
只是他们并不是用鱼竿钓鱼,读到这里应该知道他们用的是渔网。
網を使って魚を取ると聞きますと、地引網みたいな、砂浜でみんなで力を合わせて網を引き揚げると魚がたくさんかかっている、みたいな様子を想像しますけれども、それは少し違っていまして、網はスクリーンのように広げてそのまま水の中に入れるんですね。
一听到用渔网捕鱼,可能大家会想象像拖网那样大家齐心合力在沙滩边将网拉上来,网里满满都是鱼这种画面,但其实还是有点不一样的,门徒的渔网像大屏幕那样张开着撒入水中。
そして、しばらく待ってから、そのまま網を真っすぐに上げる。
然后稍微等待一会儿之后,还是这样把网收上来。
そうしますと、その網に魚が引っ掛かっている、という漁の仕方なんです。
鱼其实是被网勾住的,是这样的捕鱼方式。
魚というのは集団になって泳ぎますし、泳ぐコースが決まっているので、そのコースに網を沈めておいて、魚を捕まえる、ということなんですね。
因为鱼类群游,洄游路线是有规律的,所以将网洒在洄游路线中,就能捕到鱼。
今日の前半は、そういう、漁師であった人たちにイエス様が話しかけて弟子にした、それも、漁師たちが仕事をしている最中に弟子にした、漁師たちはイエス様に話しかけられるとすぐにすべてを捨ててついて行った、という話ですね。
今天的前半部分讲的是:耶稣招呼这些渔夫要他们做门徒,渔夫们当时正在捕鱼中,耶稣招呼他们之后立即舍弃所有跟从了耶稣,做了他的门徒。
それに対して、今日の後半はイエス様が病人をいやす話です。
而后半部分讲的是耶稣医治病人。
これは別々の話が並べられているように思われるかもしれませんが、まず、聖書というのは、もともとの原文では、章とか節の区切りはありません。
可能大家会觉得这里把完全不一样的内容写在了一起,但是我们首先要知道,圣经原文并没有章节区分。
全部つながって書かれているんですね。
全部内容都是连在一起写的。
そして、内容的にも、この二つの話は別々の話ではないと思うんです。
而且,我觉得在内容上这两个部分并不是完全独立的。
二つの話には共通点がありますね。
它们之间有共同点。
前半は、弟子たちがイエス様に従ったという話です。
前半部分是讲门徒跟从耶稣。
そして後半は、最後まで読んでみると、大勢の群衆がイエス様に従ったという話です。
而后半部分读到最后,是讲许多人跟从了耶稣。
人がイエス様に従ったという話をしているんですね。
是人跟从耶稣的故事。
しかし、これが不思議なんです。
可是感觉有点不可思议。
大勢の群衆はイエス様の力を見たんですから、従っていくというのは分かります。
许多人因为看到了耶稣的大能,跟从了耶稣,这点可以理解。
けれども、弟子たちがイエス様に従ったのはどうしてでしょうか。
但是门徒们为什么跟从了耶稣呢?
シモンとアンデレは仕事中だったんですよね。
西门和安得烈正在工作中。
ということは、イエス様の話を聞きたかったわけではないし、まして、病気を治してもらったわけでもないんです。
也就是说,他们并非是想听耶稣讲道,也并没有想要病得医治。
ヤコブとヨハネも同じですよね。
雅各和约翰也是如此。
ですけれども、「すぐに」従った、その場で従ったということなんです。
但是却立刻跟从了耶稣,当场就跟从了他。
まして、ペトロとアンデレは「網を捨てて」従った、ヤコブとヨハネは何と、「舟と父親とを残して」従ったということなんですね。
而且彼得和安得烈是舍了网跟从,雅各和约翰是丢下父亲跟从。
この、「舟と父親とを残して」という時の「残して」という言葉は、ペトロとアンデレが「網を捨てて」という時の「捨てて」という言葉と同じなんですね。
这里的“丢下船和父亲”中的“丢下”和安得烈与彼得“舍了网”中的“舍”是同一个词。
つまり、ヤコブとヨハネは、すぐにその場で「舟と父親とを捨てて」、イエス様に従ったんです。
也就是说雅各和约翰在当场立刻“舍了船和父亲”,跟从了耶稣。
これは一体どういうことなんでしょうか。
这到底是怎么一回事?
イエス様に従う時には、大切なものを捨てなければならないということでしょうか。
是指跟从耶稣的时候,必须要舍弃重要的东西吗?
とにかく、大変なことが起こっているんですね。
总之,是发生了不可思议的事。
ある意味、病気を治すよりも大変なことが起こっているんです。
某种意义上说,是比病得医治更不可思议的事。
この、漁師を弟子にした話はルカによる福音書の5章にも書かれているんですが、ルカによる福音書に書かれている話を読むと、どうして弟子たちが弟子になったのかは分かるんですね。
呼召渔夫做门徒的故事路加福音五章中也写到了,读了路加福音就会明白他们为什么做了门徒。
その日、漁師たちは、全然魚が取れなかったんです。
那天,渔夫们一条鱼都没有捕到。
けれども、イエス様がそこにやってきて、言われたとおりに網を降ろすと大漁になったんですね。
但是耶稣来到那里,渔夫们按照他说的撒下网后,捕到了很多的鱼。
それだったら、イエス様について行くのは分かります。
这就明白了他们为什么跟从耶稣。
けれども、マタイはその出来事を書いていないんです。
但是,马太没有写这事。
では私たちは、今日のこの物語から、何を読み取るべきなんでしょうか。
那么我们应该从今天的内容当中读到点什么呢?
イエス様は弟子になる人に、「わたしについて来なさい」と声をかけます。
耶稣对他们说:“来跟从我。”
そうすると、そう言われた人が「すぐに従う」ということが起こってきます。
于是,那些人“立刻跟从了他”。
これ、考えてみると、後半の話の群衆も同じなんじゃないでしょうか。
细想一下,这点和后面内容中的那些人是一样的。
23節に、イエス様がなさったことが書かれていますね。
23节写了耶稣所行的事。
イエス様は病気をいやしただけではないんですよね。
耶稣不只是医治疾病。
「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ていたと書かれています。
经上写到:“在会堂里教训人,传天国的福音。”
「福音」というのは、原文では、「良い知らせ」という言葉です。
“福音”在原文中用的是“好消息”这一词。
では何が良い知らせなのかというと、今日の直前の17節に、こういう言葉がありました。
好消息是什么?前面17节有这样的话:
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
“天国近了,你们应当悔改。”
これ、良い知らせですよね。
这就是好消息。
天の国が近づいている。
天国近了。
だから、病気が治っていくんです。
因此会得医治。
「天の国」の「天」という言葉は聖書では「神」と同じ言葉です。
“天国”中的“天”在圣经中和“神”用的是同一个词。
そして、「天の国」の「国」という言葉は「支配」という意味にもなる言葉です。
而“天国”中的“国”是“掌权”的意思,
「天の国」というのは「神の支配」ということなんですね。
所以“天国”就是“神掌权”的地方。
その神の支配が近づいているから、人々が病気の支配から解放されていくんです。
因为神掌权的日子就要来到了,所以人们将会从病痛折磨中解脱出来。
ですから、言ってみれば、病気のいやしは結果としてそういうことが起こったということで、おまけみたいなものなんですね。
因此可以说病得医治就好比连带的福利一般。
大事なのは天の国が近づいたことです。
重要的是天国近了。
大勢の群衆は、イエス様のなさる奇跡を見て、天の国が近づいたことを信じたわけです。
许多人看到了耶稣所行的神迹,就相信天国近了。
イエス様の言葉を受け入れた。
接受了耶稣所说的。
だから、従ったんですよ。
所以跟从了他。
考えてみれば、そもそも、病気が治ったんなら、もうイエス様について行く必要なんてないはずですよね。
大家想想,只是病得医治的话,应该没必要跟从耶稣吧。
私たちだって、病気になったら病院に行きます。
我们生了病的话会去医院。
でも、病気が治ったらもう行かないじゃないですか。
但是病好了以后就不会再去了。
病院の先生について行こうだなんて、誰も思いませんよね。
谁也不会想要去跟从医院的医生吧。
先生だって、そんなことされたら迷惑ですよ。
如果这样的话会给医生带来困扰。
人々がイエス様について行ったのは、イエス様の言葉を受け入れたからなんです。
人们跟从耶稣是因为接受了耶稣所说的。
だいたい、たとえ奇跡を見ても、それで信じるとは限らないですよね。
一般情况下即使看到了神迹也未必会相信。
この福音書の11章20節から、多くの町が奇跡を見ても悔い改めなかったことをイエス様は叱ります。
马太福音11章20节,耶稣责备诸城中那些见了神迹也不悔改的人。
奇跡を見ても悔い改めない、神のしるしを見てもイエス様に従わないということは、普通のことなんですね。
见了神迹不悔改,不跟从耶稣这事其实很普遍。
奇跡なんてことがあると目を引かれますが、それと、イエス様に従うかどうかというのは別の話です。
神迹虽然会引起关注,但是否跟从耶稣又是另外一回事了。
大事なのはイエス様の言葉を受け入れることです。
重要的是接受耶稣所说的。
そして、そのイエス様の言葉というのは、「福音」、「良い知らせ」ですね。
而耶稣所说的是“福音”是“好消息”。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉なんです。
是“天国近了,你们应当悔改”这句话。
「悔い改めよ」って言われていますけれども、「悔い改める」という言葉は原文では神に「立ち返る」ことですね。
“你们应当悔改”中“悔改”一词在原文中是指归向神。
今日の場面を見るとそれは、具体的には、イエス様に従うことです。
今天的内容中具体是指跟从耶稣。
「わたしについて来なさい」というイエス様に従うことなんです。
跟从那一位说“来跟从我”这句话的耶稣。
しかし、どうして弟子たちはいきなり声をかけられてイエス様に従うことができたんでしょうか。
可是,门徒们为什么跟从了突然招呼他们的耶稣呢?
それは、「悔い改めたから」だと言うことができますね。
因为他们悔改了。
不思議と言えば不思議な話ですよ。
要说不可思议确实是有点。
ですけれども、悔い改めて神に立ち返ったから、神の言葉を語るイエス様について行ったんだ、ということは言えますね。
但是,可以说是因为悔改归向神,所以跟从了传讲神的话语的耶稣。
マタイは、そのことに気付いてほしくて、今日の場面でこういう書き方をしたんだと思うんですね。
我想马太是希望大家能够意识到这一点,所以将今天的内容这样写下来了。
「舟と父親とを残して」従ったなんて言われますと、驚いてしまいますが、これは要するに、イエス様と自分との関係というのは、親であったとしても立ち入れないような、非常に個人的な事柄なんだということですね。
说到“丢下船和父亲”跟从耶稣,虽然感觉有点意外,但是这里要说的是,耶稣和自己的关系是连父母都不能介入的及其私密的那样的关系。
イエス様とこの私だけの間で、弟子になるということが起こるんだということです。
就耶稣和自己彼此两个人如此单纯的关系下,做了他的门徒。
こういう関係というのは、深い関係ではありますよね。
这种关系是深厚的。
例えば、若い人が恋愛をする時に、いちいち親のところに行って、「お父さん、この人を好きになってもいいですか」なんて言ったりはしませんよね。
比如说,年轻人要谈恋爱时,不会一个个都跑到父母那里去说“爸爸,我可以喜欢那个人吗?”这种话吧。
イエスに従うことも同じことだということです。
跟从耶稣也同样如此。
例え親であっても、イエス様とこの私との間には入り込めないということなんです。
即使是父母,也无法介入耶稣和自己之间。
そのことをマタイは書いたんですね。
马太要写明的是这一点。
しかし、私たちも大切なものを捨てなければならなくなるとしたら、どうでしょうか。
但是如果要我们也必须舍弃最重要的东西,会怎样呢?
そもそも、どうして捨てなければならないんでしょうか。
首先,为什么必须要舍弃?
それは、私たちが、それに頼っているからなんです。
因为我们依赖那些东西。
舟とか、父親とか。
船;父亲;
生活の糧を得るための手段とか、自分に仕事を割り振ってくれる人とか。
为获取生活食粮的手段;给自己分配工作的人;
そういうものに頼るよりも、イエス様に頼りなさいということなんです。
比起依靠那些,更要依靠耶稣。
この世の支配の中では、私たちは人や物に頼るしかないんです。
在这人世间,我们只能依靠他人他物,
けれども、天の国、神の支配が近づいているんです。
但是有神掌权的天国近了,
だから、神の子イエスに頼りなさいということなんですね。
所以要依靠神子耶稣。
そして、この「捨てる」ということは、文字通り捨てることではないんです。
这里的“舍弃”不是字面意思上的舍弃,
この後の8章14節では、イエス様がペトロの家に行って、ペトロの家族の病気をいやしているんですね。
后面的8章14节耶稣到彼得家,治好了彼得家人的病。
ペトロは家を捨てたわけではありません。
彼得并没有舍弃他的家。
あるいは、ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架につけられた後、弟子たちは漁をしているんです。
还有在约翰福音中,耶稣被钉十字架之后,门徒们又回去捕鱼了。
やっぱり、文字通り舟を捨てたわけではないんです。
并没有如字面上写的舍弃了船。
大事なのは、人や物に頼るよりも、イエス様に頼るようになった、人や物に頼る心を捨てた、ということなんです。
重要的是,比起依靠他人或他物,更要依靠耶稣,舍弃的是依靠他人他物这种心思。
そして、イエス様に従うところに教会が生まれていくんだということなんです。
跟从耶稣的地方教会就诞生了。
今日の21節で、ヤコブとヨハネに対してイエス様は、「彼らをお呼びになった」と書かれていますけれども、この「呼ぶ」という言葉が元になって、「教会」という言葉ができてくるんですね。
今天的21节写到:对着雅各和约翰耶稣“招呼了他们”,“招呼”一词原来用的是“教会”。
教会という言葉は、原文に忠実に訳すなら、「呼び出された集まり」というくらいの言葉です。
教会一词按照原文直译的话,是“叫出来聚在一起”大概这样的意思。
「わたしについて来なさい」という呼びかけに応えた集まりが、教会なんです。
回应“来跟从我”这一呼召而聚集在一起,便是教会。
そして、次からは、自分が人を呼んでくるんだということですね。
接下来要做的是自己去招呼人。
だって、イエス様は今日、呼びかけた人に対して、「人間をとる漁師にしよう」と言っておられますよね。
今天的内容中,耶稣对被呼召的那些人说:“我要叫你们得人如得鱼一样。”
これ、私たちにも言われていることなんです。
这话也是对我们说的。
これが教会に与えられた使命です。
这是赋予教会的使命。
これがイエス様の最初の言葉にして、最後の言葉です。
这既是耶稣最初的话,也是最后的话。
イエス様は最後にも、同じことをおっしゃいましたよね。
耶稣在最后,也说了同样的话。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
“所以你们要去使万民做我的门徒,奉父、子、圣灵的名给他们施洗,凡我所吩咐你们的,都教训他们遵守。”
これって、「人間をとる漁師にしよう」っていうことじゃないですか。
这不就是“我要让你们得人如得鱼一样”吗?
何かそう言われると、大変そうだなと思ってしまいますけれども、大事なことは、ここで、イエス様が「そうする」と言っているんだ、ということですね。
虽然我们会觉得这话有点不可思议,但重要的是耶稣要在这里说明“我要这么做”。
「人間をとる漁師にしよう」っていうのは、イエス様がその人をそのようにする、っていうことですよね。
“我要叫你们得人如得鱼一样”这话是指耶稣要让人这么做。
弟子たちはその言葉を信じて従ったんです。
门徒们信了这话并跟从了耶稣。
私たちもイエス様の呼びかけに応えて、改めて、イエス様に頼る新しい生き方をしていきたいんですね。
我们也想要响应耶稣的呼召,想要重新过依靠耶稣的新生活对吧。
もしかしたら、イエス様から呼びかけられるのは、仕事中かもしれません。
或许也有可能在工作的时候被耶稣呼召,
仕事中というのは、ある意味、自分にとって一番大事な時ですよね。
某种意义上说工作中是对个人而言最重要的时刻,
イエス様は私たちにとって一番大事な時に切り込んでくるんです。
耶稣在最关键的时刻来到我们这里,
それは、イエス様が、「本当に大事なこと」を私たちに知ってほしいからなんですね。
这是因为耶稣希望我们明白什么才是真正最重要的。
ですので、どんな時にその呼びかけがあるのかは分かりませんけれども、どうぞ、今の内から準備をしておいてください。
虽然我们不知道什么时候会被呼召,但是请大家现在就做好心理准备。
大丈夫です。
不要有顾虑。
イエス様が責任を持ってくださると言われているんです。
因为耶稣会为我们担当一切。
それを信じて、その時、すぐに、イエス様に従ってください。
相信这一点,到那时,请大家立刻回应呼召跟从耶稣。