
✜8/6(月)牧師週休日
✜8/8(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜8/10(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、ゴスペル・コンサート(14:00-15:10)
✜8/11(土)夏休みこどもお楽しみ会(14:00-16:00)
✜8/12(日)学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、埼玉西部地区8・15集会(上福岡教会、14:30-16:45、その後に運営委員会、※ゴスペル練習は休会)、掃除
🎤8/7(火)の説教:尾崎純牧師
聖書・詩篇23編
説教題「羊飼いと羊」
賛美歌・29、38、120、81、65-1、28、40-5
🎤8/12(日)の説教:尾崎純牧師
説教題「心の貧しい人は幸いである」
賛美歌・122、32、38、208、575、459、65-1、29、40-5
📅来月までの教会の行事
✜9/16(日)ゴスペル練習・ユース集会
✜9/29(土)バザー(10:00-13:00)
📅来月までの中大会の行事
✜8/14(火)~17(金)全国高校生会「サマーデイズ2018」
✜8/23(木)~25(土)ヤングサマーバイブルキャンプ
✜8/28(火)~30(木)東部中会学生会夏期修養会
✜9/1(土)小堀昇先生、花小金井教会牧師就職式(13:30-)
✜9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)
✜9/23(日)埼玉西部地区講壇交換
✜9/30(日)連合長老会例会、連合執事会例会

Here Gospel concert
Date:8/10(Fri.)
Time:2pm-3:10pm
Place:光が丘キリスト教会(練馬区春日町4-37-26)
Adomission:Free(入場無料)
どなたでもご自由にいらしてください!
Here:夏のゴスペル・コンサートのために結成したプロジェクト・コラボチーム。韓国福音聖歌協会18期会員の中から、ゴスペルによって福音を伝えることを志す者たちが集まった。メンバーはCDデビューも果たしている。

2018年8月11日(土)
なつやすみこどもおたのしみ会
いつ? 8月11日(土)ごご2じから4じ
どこで? ひかりがおかキリストきょうかい(春日町4-37-26 ☎03-3577-1044)
なにするの? おはなしをきいたり、うたをうたったり、こんかいは「びんのなかであそぼう」っていうこうさくをするよ。そのあとはかきごおりをたべよう。
ひとりできても、おともだちやおとうさんおかあさんといっしょにきてもだいじょうぶです。
さんかひ むりょう

「山上の説教」
マタイによる福音書5章1、2節
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
今日の聖書の場面は山の上ですけれども、先週は一週間お休みをいただいて、山の上に行ってきました。
やっぱり山の上は良かったですね。
草津温泉なんですけれども……。
草津温泉のエリアの中に、一つだけ教会がありました。
聖公会の教会で、聖バルナバ教会という名前の教会でした。
バルナバというのは聖書の登場人物で、「慰めの子」という意味の名前です。
やっぱり、山の上というのはイエス様に近づく場所なんでしょうかね。
その教会が立てられるに当たって、本当に神様の慰めにあふれた人が与えられていたんですね。
コンウォール・リーというお名前のイギリスの女性宣教師なんですけれども、この人は50歳にして日本にやってきて、私財をなげうって、ハンセン氏病の人々のために尽くしたんですね。
土地を買って、建物をいくつも立てて、……患者さんの住む建物、家族が住む建物、いろいろな建物を立てて、患者さんの生活を向上させるために生涯をささげたんですね。
ハンセン氏病の患者さんというのは著しく差別を受けていましたから、それは、最近になってもそうですね。
ですので、そのような人たちが喜んで生きていけるようにと、人間らしく生きていけるようにと、コンウォール・リーさんは働いたんですね。
「慰めの子」ですよね。
今回、山の上でそんな人がおられたことを知りました。
ぜひ皆さんも、草津に行くことがあったら訪ねてみてくださいね。
そうなりますともう、本当に、イエス様に会いに山の上に行く、みたいな感じですよね。
ぜひ行ってみてください。
さて、今日の聖書の場面は山の上でイエス様が説教をなさる場面なんですが、この場面、山の上で神の教えが語られる、というと、他に、どんな場面を思い出しますかね。
旧約聖書で、モーセが山の上で十戒の石の板をもらった場面が思い出されるかもしれないですね。
モーセというのは、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人たちをエジプトから脱出させて、神様が約束してくださった土地に連れて行った人ですね。
そのモーセは、エジプトから脱出して、約束の土地に入る前に、山の上に登って、山の上で神様の言葉が書かれた石の板をいただいて、それを人々に伝えました。
それと同じように、今、イエス様は、山の上に登って、山の上からメッセージを伝えようとしておられるんですね。
何かこう、イエス様とモーセが重なるような感じです。
実際、イエス様とモーセは、その働きも重なりますよね。
モーセは奴隷であった人々を自由にしたんでした。
それに対して、イエス様は罪の奴隷である私たちを自由にしてくださる方ですね。
罪というのは神に背くことですけれども、私たちは、自分の力で罪をどうにかすることはできない。
罪の奴隷状態にある。
そこから、私たちを自由にしてくださるのがイエス様ですね。
モーセもイエス様も人を自由にするんです。
似通っているのはそれだけではありません。
モーセは旧約聖書の一番大事な部分、旧約聖書のは全部で39巻の書物が収められていますが、その一番大事な一番最初の五つの書物はモーセによるものですね。
大事なメッセージが五つ。
それと同じように、イエス様も、このマタイによる福音書で、しばしば、長いメッセージをなさいますけれども、その、イエス様の長いメッセージというのは全部で五つ出てくるんですね。
それはもう、イエス様の長いメッセージが五つだというのははっきりしていまして、今回のメッセージの場合は、5章から7章まで続くんですが、7章の最後でイエス様のメッセージが終わると、群衆がイエス様の権威に驚く、ということが起こってきます。
そして、そのことが、他の長いメッセージでも起こってくるんですね。
長い話を聞いて、群衆がイエス様に驚く。
それが、イエス様の長いメッセージが全部で五つだぞというしるしになっています。
モーセの話も五つ。
イエス様の話も五つ。
やっぱり、モーセとイエス様が重なるんですね。
そのイエス様が、神の教えを伝えてくださろうとしています。
今回のイエス様の山上の説教は、弟子たちが一番そばで聞いていて、群衆もイエス様の話を聞いていたんですね。
この群衆がどこから来たのかと言いますと、今日の場面の直前の場面ですね。
つまりこの人たちはイエス様に従ってきた人たちです。
それは弟子たちもそうですよね。
弟子たちも、イエス様に声をかけられて従った人たちです。
イエス様の今回のメッセージは、イエス様に従う人に対して語られているんです。
ですから、私たちとしても、心して聞きたいですね。
ここのところの、誰に対して語るのか、という点でも、今回のイエス様の説教は、モーセが伝えた神の言葉と似通っていますね。
モーセを通して人々に語られたメッセージも、言ってみればモーセに従った人たちに対して語られたものではあるのですが、モーセが人々に語った時、その時には人々はもうエジプトから脱出していたんですから、もうその人たちは事実、奴隷ではありませんでした。
もう自由にされていたんです。
それに対して、どうでしょうか。
今イエス様の話を聞こうとしている人たちは、罪の奴隷であるところから、事実、自由にされているでしょうか。
そうではないですよね。
これよりももっとずっと後の場面になりますが、イエス様が逮捕されると、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出したんでした。
罪ですよね。
罪というのは神に背くことだと申し上げましたけれども、どうして神に背いてしまうのかというと、真っ先に自分を愛してしまうからです。
自分をかたよって愛して、人を愛すること、神を愛することは後回し。
それが聖書で言うところの罪です。
弟子たちは結局、そんな罪人だったんです。
今から始まるイエス様の話を聞いていたんですけれども、まったく罪から自由になれてはいなかったんです。
イエス様の説教を聞いても、自分の力ではどうにもならなかったんです。
でも、そんな弟子たちも、最後は皆、世界中に出て行って世界中に教会を立てて、最後の最後は、12人の弟子たちのうち、11人は殉教したんですね。
何も殉教することが良いことだということではありませんが、弟子たちは、自分の命も惜しくないくらいに神様に従う人に変えられたんですね。
すごい変わりようですよ。
自分可愛さにイエス様を見捨てたような人たちだったんですから。
どうして、弟子たちはこんなに変えられたんでしょうかね。
弟子たちはイエス様が逮捕されるとイエス様を見捨てて逃げ出しました。
でも、その弟子たちのところに、イエス様が来てくださったんですよね。
弟子たちがイエス様を見捨てても、イエス様は弟子たちを見捨てなかったんです。
そして、その後に、神の霊が弟子たちに与えられました。
それで弟子たちは、罪の奴隷であったところから自由になったんです。
変えられたんです。
今日は三人の方の洗礼式が行われましたが、洗礼を受けると神の霊が与えられます。
だからと言って、罪が完全になくなるわけではないですよ。
生きている限り、罪は残ります。
弟子たちだって、後になってもけんかしたりしていることが聖書に描かれています。
でも、もう罪の奴隷ではなくなるんですね。
神の霊が、霊である神が、私たちを導いていってくださるんです。
しかし、そういうことになりますと、山上の説教なんて、必要ないんじゃないかと思ってしまいそうになりますね。
結局、この話を聞いても、聞いただけではどうにもならなかったんですから。
でも、この話を聞くことで、人は、自分が罪の奴隷であることに気づかされることになります。
自分がどういう者であるのかということに気づくことはとても大切なことだと思いますね。
奴隷であることに気づかないんだったら、自由になりたいとは思わないわけです。
奴隷であると気づいたら、誰だって自由になりたいと願うようになるわけです。
その意味で、ここから始まる話を聞くことは最初の第一歩ですね。
ここからしか、自分の罪に気づくところからしか、何も始まりません。
ですので、イエス様は、この大事な最初の一歩を、山の上で始めるんですね。
それは、モーセが神の言葉をいただいた場所です。
そして、イエス様が山の上で語る時、その時、どういうことが起こるでしょうか。
17章に、イエス様が山に登られる場面が描かれます。
その時、イエス様は光り輝く栄光の姿を現されたんですね。
山の上、そこは、イエス様が神から遣わされた救い主であるということが明らかになる場所です。
この福音書の一番最後の28章も山の上ですね。
そこでイエス様は、弟子たちに対して宣言なさいます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。
こんなことを言いきったんですね。
山の上はイエス様の栄光が現れる場所なんです。
考えてみれば、今ここも、山の上ですよね。
私たちは今、イエス様の話を聞いています。
それは、栄光の中にある方の言葉だから、聞いてみようと思って、私たちは出かけてきたんですよね。
ということは、今この場面でイエス様を取り囲んでいる弟子たちや群衆と同じですよ。
今ここに、やっぱり、イエス様の栄光があるんだと思うんですね。
とにかくそれくらい、大事なところなんです。
私たちは、イエス様の言葉を聞いて、自分の罪に気づかされます。
また、イエス様にあふれる神の栄光に驚くことになります。
そして、弟子たちが山の上でイエス様によって世界中に派遣されていったように、私たちもそれぞれの場所に派遣されていくことでしょう。
そう聞くと、何か恐ろしいような気持ちになりますけれども、そう考える必要はないと思うんです。
たとえ私たちがイエス様を見捨てたとしても、イエス様は私たちを見捨てません。
そればかりか、神の霊を与えてくださって、その、霊なる神が、私たちを導くようにしてくださいます。
そして、今日、イエス様がモーセと重なるという話をしましたが、イエス様とモーセで決定的に違う点があります。
モーセは、人々をエジプトから脱出させることには成功しましたが、モーセ自身は約束の土地に入れなかったんですね。
人々を約束の土地に連れて入ったのは、モーセの後継ぎであるヨシュアという人です。
そして、その、ヨシュアという名前は、イエス様の名前なんです。
旧約聖書の言葉であるヘブライ語ではヨシュア。
それを新約聖書の言葉であるギリシャ語に直すと、イエスになるんです。
イエス様は最後まで責任を取ってくださるんです。
そのイエス様の最初の長いメッセージが始まろうとしています。
心して聞いて、胸に収めたいと思います。
山上の説教(山上宝训)
今日の聖書の場面は山の上ですけれども、先週は一週間お休みをいただいて、山の上に行ってきました。
今天圣经内容的场景在山上,我上个礼拜休息一周,去了山上。
やっぱり山の上は良かったですね。
还是山上好啊。
草津温泉なんですけれども……。
当然我去的是草津温泉……
草津温泉のエリアの中に、一つだけ教会がありました。
草津温泉那一带,只有一家教会。
聖公会の教会で、聖バルナバ教会という名前の教会でした。
是一家圣公会教会,名叫圣巴拿巴。
バルナバというのは聖書の登場人物で、「慰めの子」という意味の名前です。
巴拿巴是圣经中的人物,这个名字是“劝慰子”的意思。
やっぱり、山の上というのはイエス様に近づく場所なんでしょうかね。
山上应该是离耶稣比较近的地方吧。
その教会が立てられるに当たって、本当に神様の慰めにあふれた人が与えられていたんですね。
这家教会的建立之初,委派了一位真正得着神丰盛安慰的人。
コンウォール・リーというお名前のイギリスの女性宣教師なんですけれども、この人は50歳にして日本にやってきて、私財をなげうって、ハンセン氏病の人々のために尽くしたんですね。
是一位名叫Cornwall Legh的女宣教师,五十岁才来到日本,为麻风病人变卖财产,倾尽所有。
土地を買って、建物をいくつも立てて、……患者さんの住む建物、家族が住む建物、いろいろな建物を立てて、患者さんの生活を向上させるために生涯をささげたんですね。
她买土地,建房屋,病人住的,家属住的,建了许许多多,为改善病人们的生活,她奉献了她的一生。
ハンセン氏病の患者さんというのは著しく差別を受けていましたから、それは、最近になってもそうですね。
麻风病人备受歧视,即使是现在依然如此。
ですので、そのような人たちが喜んで生きていけるようにと、人間らしく生きていけるようにと、コンウォール・リーさんは働いたんですね。
为了让他们可以快乐地生活,可以像普通人一样活着,她为此辛勤付出。
「慰めの子」ですよね。
真的是“劝慰子”。
今回、山の上でそんな人がおられたことを知りました。
这次去知道了山上有这样的人
ぜひ皆さんも、草津に行くことがあったら訪ねてみてくださいね。
大家如果也去草津的话一定要去那里拜访一下。
そうなりますともう、本当に、イエス様に会いに山の上に行く、みたいな感じですよね。
那样的话真的会有上山去见耶稣的感觉。
ぜひ行ってみてください。
大家一定要去看一下。
さて、今日の聖書の場面は山の上でイエス様が説教をなさる場面なんですが、この場面、山の上で神の教えが語られる、というと、他に、どんな場面を思い出しますかね。
今天圣经的场景是耶稣在山上说教,在山上讲神的道,大家想到其他类似的场景了吧。
旧約聖書で、モーセが山の上で十戒の石の板をもらった場面が思い出されるかもしれないですね。
可能会想到旧约里,摩西拿到十诫石板的场景。
モーセというのは、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人たちをエジプトから脱出させて、神様が約束してくださった土地に連れて行った人ですね。
摩西就是那位将在埃及为奴的以色列人带出埃及,并将他们带入神应许之地的人。
そのモーセは、エジプトから脱出して、約束の土地に入る前に、山の上に登って、山の上で神様の言葉が書かれた石の板をいただいて、それを人々に伝えました。
这位摩西,在出埃及入应许之地前,上西奈山,在山上获赠了写有神话语的石板,他把神的话传讲给了以色列众人。
それと同じように、今、イエス様は、山の上に登って、山の上からメッセージを伝えようとしておられるんですね。
同样的,今天耶稣也上了山,想要在山上传道。
何かこう、イエス様とモーセが重なるような感じです。
总感觉耶稣和摩西有相似之处。
実際、イエス様とモーセは、その働きも重なりますよね。
事实上耶稣和摩西所做的的确有相同的地方。
モーセは奴隷であった人々を自由にしたんでした。
摩西让为奴的以色列众人获得了自由。
それに対して、イエス様は罪の奴隷である私たちを自由にしてくださる方ですね。
同样的,耶稣让我们这些罪的奴仆获取自由。
罪というのは神に背くことですけれども、私たちは、自分の力で罪をどうにかすることはできない。
罪是背离神,但是我们无法靠自己的力量脱离罪。
罪の奴隷状態にある。
就成了罪的奴仆。
そこから、私たちを自由にしてくださるのがイエス様ですね。
让我们从罪恶的捆绑中得自由的是耶稣。
モーセもイエス様も人を自由にするんです。
摩西和耶稣都让人获自由。
似通っているのはそれだけではありません。
相同之处不只是这一点。
モーセは旧約聖書の一番大事な部分、旧約聖書のは全部で39巻の書物が収められていますが、その一番大事な一番最初の五つの書物はモーセによるものですね。
旧约一共39卷,最重要的前面五卷是摩西写的。
大事なメッセージが五つ。
重要的内容有五部分。
それと同じように、イエス様も、このマタイによる福音書で、しばしば、長いメッセージをなさいますけれども、その、イエス様の長いメッセージというのは全部で五つ出てくるんですね。
与此相同,耶稣在马太福音中, 虽然反反复复讲了很多的内容,但是长篇信息的话总共也是五部分。
それはもう、イエス様の長いメッセージが五つだというのははっきりしていまして、今回のメッセージの場合は、5章から7章まで続くんですが、7章の最後でイエス様のメッセージが終わると、群衆がイエス様の権威に驚く、ということが起こってきます。
耶稣的长篇讲道有五篇是很明确的,这次的内容从五章一直到七章,第七章最后耶稣讲道结束,众人都感到稀奇,因为他像有权柄的人。
そして、そのことが、他の長いメッセージでも起こってくるんですね。
对于其它的讲道也是如此。
長い話を聞いて、群衆がイエス様に驚く。
听完每篇讲道,众人都感到很稀奇。
それが、イエス様の長いメッセージが全部で五つだぞというしるしになっています。
而这就是耶稣讲道一共有五篇的证明。
モーセの話も五つ。
摩西的也是五篇,
イエス様の話も五つ。
耶稣的也是五篇。
やっぱり、モーセとイエス様が重なるんですね。
果然摩西和耶稣有共同之处。
そのイエス様が、神の教えを伝えてくださろうとしています。
耶稣想要传讲神的教诲。
今回のイエス様の山上の説教は、弟子たちが一番そばで聞いていて、群衆もイエス様の話を聞いていたんですね。
这次耶稣的山上说教,门徒们就在边上听,众人也听了耶稣的说教。
この群衆がどこから来たのかと言いますと、今日の場面の直前の場面ですね。
这些人从哪里来的,今天经文的前面有写。
つまりこの人たちはイエス様に従ってきた人たちです。
这些是跟从耶稣的人。
それは弟子たちもそうですよね。
门徒们也是。
弟子たちも、イエス様に声をかけられて従った人たちです。
门徒们也是耶稣招呼后立即跟随的人。
イエス様の今回のメッセージは、イエス様に従う人に対して語られているんです。
耶稣这次的讲道是对那些跟从他的人讲的。
ですから、私たちとしても、心して聞きたいですね。
因此,我们也想用心聆听。
ここのところの、誰に対して語るのか、という点でも、今回のイエス様の説教は、モーセが伝えた神の言葉と似通っていますね。
就说给谁听这一点,这次耶稣的说教与摩西所传讲的神的话语也有相同之处。
モーセを通して人々に語られたメッセージも、言ってみればモーセに従った人たちに対して語られたものではあるのですが、モーセが人々に語った時、その時には人々はもうエジプトから脱出していたんですから、もうその人たちは事実、奴隷ではありませんでした。
通过摩西传讲给众人的信息也可以说成是讲给跟从摩西的人的,摩西在给那些人讲的时候,那时候已经出埃及了,所以事实上他们已经不再是奴隶了。
もう自由にされていたんです。
已经获得自由了。
それに対して、どうでしょうか。
相对应的是什么情况呢?
今イエス様の話を聞こうとしている人たちは、罪の奴隷であるところから、事実、自由にされているでしょうか。
今天想要听耶稣讲道的那些人,他们从罪恶的捆绑中获得自由了吗?
そうではないですよね。
并没有。
これよりももっとずっと後の場面になりますが、イエス様が逮捕されると、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出したんでした。
很后面的场景耶稣被逮捕后,门徒们扔下耶稣跑了。
罪ですよね。
这是罪
罪というのは神に背くことだと申し上げましたけれども、どうして神に背いてしまうのかというと、真っ先に自分を愛してしまうからです。
罪就是背弃神,那么为什么会背弃神呢?因为我们首先爱的是自己。
自分をかたよって愛して、人を愛すること、神を愛することは後回し。
偏爱自己,爱人爱神以后再说。
それが聖書で言うところの罪です。
这就是圣经中所说的罪。
弟子たちは結局、そんな罪人だったんです。
门徒们结果还是成了这样的罪人。
今から始まるイエス様の話を聞いていたんですけれども、まったく罪から自由になれてはいなかったんです。
虽然从一开始就听了耶稣的讲道,但是完全没能从最当中获得自由。
イエス様の説教を聞いても、自分の力ではどうにもならなかったんです。
即使听了耶稣的说教,靠自己的力量依然无能为力。
でも、そんな弟子たちも、最後は皆、世界中に出て行って世界中に教会を立てて、最後の最後は、12人の弟子たちのうち、11人は殉教したんですね。
但是这样的门徒,最后去到世界各地,在各个地方建立教会,12个门徒中最终11人殉教。
何も殉教することが良いことだということではありませんが、弟子たちは、自分の命も惜しくないくらいに神様に従う人に変えられたんですね。
并不说殉教就是好,但是门徒们变成了不惜生命也要跟从神的人。
すごい変わりようですよ。
是非常了不起的改变。
自分可愛さにイエス様を見捨てたような人たちだったんですから。
因为他们曾丢下了爱自己的耶稣。
どうして、弟子たちはこんなに変えられたんでしょうかね。
门徒们为什么会有如此改变?
弟子たちはイエス様が逮捕されるとイエス様を見捨てて逃げ出しました。
耶稣一被捕,门徒们就丢下他逃跑了。
でも、その弟子たちのところに、イエス様が来てくださったんですよね。
但是耶稣还是来到了他们那里。
弟子たちがイエス様を見捨てても、イエス様は弟子たちを見捨てなかったんです。
即使他们丢下耶稣,耶稣也没有丢下他们。
そして、その後に、神の霊が弟子たちに与えられました。
而且后来圣灵降临在他们身上。
それで弟子たちは、罪の奴隷であったところから自由になったんです。
于是门徒从罪的奴仆变身自由。
変えられたんです。
这就是改变。
今日は三人の方の洗礼式が行われましたが、洗礼を受けると神の霊が与えられます。
今天有三人受了洗,一受洗就得圣灵恩膏。
だからと言って、罪が完全になくなるわけではないですよ。
虽说如此,并非罪就全没了。
生きている限り、罪は残ります。
人只要活着罪就相随。
弟子たちだって、後になってもけんかしたりしていることが聖書に描かれています。
经上记载着,门徒们到了后面也还吵架。
でも、もう罪の奴隷ではなくなるんですね。
但是,我们已经不再是罪的奴仆了,
神の霊が、霊である神が、私たちを導いていってくださるんです。
因为圣灵引领着我们。
しかし、そういうことになりますと、山上の説教なんて、必要ないんじゃないかと思ってしまいそうになりますね。
可是这样的话,会觉得山上说教之类的似乎就没有必要了。
結局、この話を聞いても、聞いただけではどうにもならなかったんですから。
因为即使听了,只是听的话依然无济于事。
でも、この話を聞くことで、人は、自分が罪の奴隷であることに気づかされることになります。
但是,听这些道,可以让人意识到自己是罪的奴仆。
自分がどういう者であるのかということに気づくことはとても大切なことだと思いますね。
我觉得意识到自己是怎样的人是非常重要的。
奴隷であることに気づかないんだったら、自由になりたいとは思わないわけです。
如果意识不到自己是奴仆,就不会想要自由。
奴隷であると気づいたら、誰だって自由になりたいと願うようになるわけです。
意识到的话,谁都想要自由。
その意味で、ここから始まる話を聞くことは最初の第一歩ですね。
这个意义上说,听道是最初的第一步。
ここからしか、自分の罪に気づくところからしか、何も始まりません。
只有从这里,从意识到自己的罪开始。
ですので、イエス様は、この大事な最初の一歩を、山の上で始めるんですね。
因此,耶稣在山上开始了这重要的第一步。
それは、モーセが神の言葉をいただいた場所です。
山上也是摩西聆听神话语的地方。
そして、イエス様が山の上で語る時、その時、どういうことが起こるでしょうか。
耶稣在山上讲道的时候,发生了什么呢?
17章に、イエス様が山に登られる場面が描かれます。
17章描写了耶稣上山的场景。
その時、イエス様は光り輝く栄光の姿を現されたんですね。
当时,耶稣荣光显现。
山の上、そこは、イエス様が神から遣わされた救い主であるということが明らかになる場所です。
山上是显明耶稣是神所派来的救世主的地方。
この福音書の一番最後の28章も山の上ですね。
马太福音的最后28章写的也是山上的场景。
そこでイエス様は、弟子たちに対して宣言なさいます。
在那里耶稣对门徒说:
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。
“天上地下所有的权柄都赐给我了。”
こんなことを言いきったんですね。
耶稣断然说了那样的话。
山の上はイエス様の栄光が現れる場所なんです。
山上真是耶稣荣光显现的地方。
考えてみれば、今ここも、山の上ですよね。
试想现在这里也是山上,
私たちは今、イエス様の話を聞いています。
我们现在也正在听耶稣讲道,
それは、栄光の中にある方の言葉だから、聞いてみようと思って、私たちは出かけてきたんですよね。
因为我们想聆听满有荣光者的话语,所以我们来到了这里。
ということは、今この場面でイエス様を取り囲んでいる弟子たちや群衆と同じですよ。
我们现在聚在这里,跟围着耶稣的门徒及众人是一样的。
今ここに、やっぱり、イエス様の栄光があるんだと思うんですね。
我觉得现在这里也同样有耶稣的荣光。
とにかくそれくらい、大事なところなんです。
总之就是如此重要的地方。
私たちは、イエス様の言葉を聞いて、自分の罪に気づかされます。
我们听耶稣的讲道意识到自己的罪性,
また、イエス様にあふれる神の栄光に驚くことになります。
也惊奇于满有神荣光的耶稣。
そして、弟子たちが山の上でイエス様によって世界中に派遣されていったように、私たちもそれぞれの場所に派遣されていくことでしょう。
而且,如同被耶稣派到世界各地的弟子们那样我们也会被派往各个不同的地方。
そう聞くと、何か恐ろしいような気持ちになりますけれども、そう考える必要はないと思うんです。
听到这,总觉得有点害怕,其实没有必要这么认为。
たとえ私たちがイエス様を見捨てたとしても、イエス様は私たちを見捨てません。
即使我们舍弃耶稣,耶稣也不会舍弃我们。
そればかりか、神の霊を与えてくださって、その、霊なる神が、私たちを導くようにしてくださいます。
而且圣灵会降临,会引领我们。
そして、今日、イエス様がモーセと重なるという話をしましたが、イエス様とモーセで決定的に違う点があります。
今天虽然讲了耶稣和摩西的共同点,但是耶稣和摩西其实有决定性的不同。
モーセは、人々をエジプトから脱出させることには成功しましたが、モーセ自身は約束の土地に入れなかったんですね。
摩西虽然成功地带领众人出了埃及,但是摩西自己并没有进入应许之地。
人々を約束の土地に連れて入ったのは、モーセの後継ぎであるヨシュアという人です。
带领人们进应许之地的是摩西的继承人约书亚。
そして、その、ヨシュアという名前は、イエス様の名前なんです。
而约书亚这个名字,其实也是耶稣的名字。
旧約聖書の言葉であるヘブライ語ではヨシュア。
旧约使用的语言希伯来语是约书亚。
それを新約聖書の言葉であるギリシャ語に直すと、イエスになるんです。
约书亚用新约使用的语言希腊语直译就是耶稣。
イエス様は最後まで責任を取ってくださるんです。
耶稣会为我们担当一切直到最后。
そのイエス様の最初の長いメッセージが始まろうとしています。
这位耶稣要开始他长长的说教了。
心して聞いて、胸に収めたいと思います。
希望大家用心听,并牢牢地记在心里。