今週の説教「心の貧しい者は幸い」(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)

📅今週の予定

8/13()電気業者来訪(10:00-11:00)

8/14()聖書を読む会(10:30-12:00)

8/15()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

8/16()牧師週休日

8/17()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

8/19()学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、献堂記念日礼拝(信徒の証、10:30-12:00)、ぶどう狩り(12:00-12:30)、ユース集会(12:30-15:30)、掃除

 

🎤8/19()の説教:尾崎純牧師

聖書・マタイによる福音書54

説教題「悲しむ人は幸いである」

賛美歌・141323822645753165-12440-5

 

📅来月までの教会の行事

9/16()ユース集会

 

📅来月までの中大会の行事

9/1()小堀昇先生、花小金井教会牧師就職式(13:30-)

9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)

9/23()埼玉西部地区講壇交換(尾崎純牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)

9/30()連合長老会例会、連合執事会例会

 


「心の貧しい者は幸い」

 

マタイによる福音書53

 

心の貧しい人々は、幸いである、

 

天の国はその人たちのものである。

 

 

 

 

 

本屋さんに行きますと、幸せになるためのハウツー本がたくさん置いてありますね。

 

まあ、人間誰だって幸せになりたい、幸せになるための法則を知りたい、身に着けたいということなんでしょうね。

 

今、イエス様も、そこにいたたくさんの人たちに対して、「幸い」ということを語っておられます。

 

今日の場面はイエス様の最初の説教の、その一番最初の場面ですけれども、一番最初に「幸い」ということがテーマになるんですね。

 

イエス様は人々が幸せになることを何よりも願っておられるんですね。

 

まして、12節まで来ますと、「喜びなさい。大いに喜びなさい」なんて言われています。

 

喜び、幸い、それが何より大事なんだということですよね。

 

しかし、今日の話は、幸いを得るための方法ではないですよね。

 

ハウツー本に書かれているような、どうすれば幸いになれる、という話ではないんです。

 

イエス様は言いますね。

 

「心の貧しい人々は、幸いである」。

 

これは原文では、「幸いだ。心の貧しい人は」という感じの表現です。

 

つまり、イエス様が心の貧しい人々に対して、「あなたがたは幸いなのだ」と宣言してくださったという感じです。

 

心が貧しければ、その人は幸いなんだ、と。

 

ですのでこれはどうすればいいのか、というような話ではないんです。

 

しかし、そう言われても、それだったら、「心の貧しい人」になる方法はないかと思ってしまいますよね。

 

ただ、この、「心が貧しい」というのはどういうことなんでしょうか。

 

「心が貧しい」と言われたとしたら、いい気分にはなりませんよね。

 

「心が貧しい」と聞くと、寂しい人、つまらない人、そんな感じがします。

 

ただ、ここで、「貧しい」というところにつかわれている言葉は原文では、何も持っていないことを表す言葉なんですね。

 

ですのでこの言葉は、お金を少ししか持っていないというような、貧乏というような言葉ではないんですね。

 

たとえ貧乏だったとしても、少しはお金を持っていますよね。

 

でも、この「貧しい」という言葉はそういう言葉ではないんです。

 

何も持っていないという言葉なんです。

 

それも、「心の貧しい人」ということですね。

 

心において、何も持っていない。

 

心の中には何もない。

 

空っぽ。

 

そういう感じのことなんですね。

 

この、「心が貧しい」という言葉を、「謙遜」のことだという人がいますけれども、創ではないんですね。

 

謙遜というのは、本当は力のある人がそのことを周りに自慢しないことですよね。

 

言ってみればそれは、本当は持っているけれども、持っていないふりをするということです。

 

けれどもそれは、ここで言う「貧しい」というのとは違うんです。

 

ここで言われていることは、心の中が空っぽということなんです。

 

しかし、そう言われると困りますよね。

 

私たちは誰も、心の中に何もないわけではありません。

 

と言いますか、自分の心は豊かだと思いたいですし、心を豊かにしたいですよね。

 

たいていの人はそうだと思います。

 

ですけれども、そんな私たちに対してイエス様は開口一番、「心の貧しい人々は、幸いである」なんて言うんですね。

 

そんな話を聞いたら、私たちの心は乱されてしまいます。

 

自分は、そんな者ではない。

 

心の中に何もないわけではない。

 

だったら私は幸いではないのか。

 

何かこう、悲しい気持ちになってしまいます。

 

もしかすると、こんなことを言われたら、腹を立てる人もいるかもしれませんね。

 

おかしいじゃないか。

 

そんなことはないはずだ。

 

こんな話を聞いても、悲しい気持ちになるか、怒ってしまうか、とにかく、受け入れることはできません。

 

しかしそれが、「心の貧しさ」ということではないのかなと思うんですね。

 

私たちは自分の心の中に何もないとは思っていない。

 

むしろ、心が豊かだと思いたい。

 

けれども、受け入れられないような話を聞くと、悲しくなったり怒ったりしてしまう。

 

心の豊かさが失われてしまう。

 

それって、結局、心が豊かではなかったということなんじゃないですか。

 

状況が良い時は心が豊かだと思っていても、受け入れられないような話を聞いてしまったとかで状況が悪くなると心の状態も悪くなる。

 

ということは、私たちの心は結局、状況で決まっているんであって、心そのものは貧しいんですね。

 

心は空っぽなんです。

 

状況が満たされている時は心も豊かに思えますが、悪い状況になると心も悪くなる、というのでは、これはもう、心としては貧しい、何もなかったんだということですよね。

 

ですので、「心の貧しさ」というのは私たちの現実なんです。

 

私たちは認めたくないですけれども、実際のところ、私たちの心は貧しいんですね。

 

けれども、イエス様は言うんですね。

 

「心の貧しい人々は、幸いである」。

 

どうしてそんなことが言えるんでしょうか。

 

心の貧しさは、それ自体が幸いなのではないですね。

 

しかし、続けて言うんです。

 

「天の国はその人たちのものである」。

 

だから、「幸い」なんですね。

 

「天の国はその人たちのものである」というのは、一口に言うと、あなたがたは救われるっていうことですよね。

 

救われるということは、逆に言って、救われないようなひどい状態にあったということです。

 

それが心の貧しさですよね。

 

でも、そこから救い出してもらえるんです。

 

神様が、そんなどうしようもない人間を救ってくださるんです。

 

つまり、ここで言われていることは、神様というのはどんな人でも救う神様なんだよということなんです。

 

これって本当に幸いですよね。

 

これ以上の幸いはありません。

 

だから、神様の御心を現しておられるイエス様は、人々の心の貧しさを受け入れてくださるんですよね。

 

どんなに心の貧しい人でも、イエス様は受け入れてくださるんです。

 

今、話を聞いている弟子たちなんて、後になるとイエス様を裏切るんですよ。

 

状況がいい時は「あなたのためなら命を捨てます」なんて言っていたのに、状況が悪くなるとイエス様を見捨てて逃げ出してしまうんですね。

 

でも、裏切るような弟子であっても、見捨てるような弟子であっても、イエス様はその人を見捨てないんですね。

 

「あなたの心がどれだけ貧しくても、私はあなたを愛するよ」。

 

これがイエス様なんです。

 

ですので、今日の話も、幸せになるためのハウツー本に書かれているようなこととは全然違うんです。

 

今日の話は、こういうふうにすれば幸せになれるよ、という話ではありません。

 

今日の話は、幸せになれないあなたたちを幸せにしてあげるよ、という話なんですね。

 

もうこれって、喜んでいいですよね。

 

大喜びしていいところです。

 

宗教改革者であったルターは、天に召される二日前に書いたことがあります。

 

現代ではつかわれない言葉を含む表現ですが、そのまま読ませていただきます。

 

「われわれは乞食だ。それが本当だ」。

 

私たちは、何も持っていないんです。

 

空っぽなんです。

 

でも、神様は、そんな私たちを天の国に招き入れてくださるんです。

 

ルターはその言葉を、喜びながら書いたんじゃないですか。

 

私たちも喜んでいいですね。

 

何もない私たちを、神様は救ってくださる。

 

心の貧しい者は幸いなのです。

 


心の貧しい者は幸い(心灵贫乏的人有福了)

 

本屋さんに行きますと、幸せになるためのハウツー本がたくさん置いてありますね。

 

  只要去书店,总会看到里面有好多关于如何才能变得幸福的书。

 

まあ、人間誰だって幸せになりたい、幸せになるための法則を知りたい、身に着けたいということなんでしょうね。

 

  是人的话谁都想要幸福,想知道幸福的法则,想要掌握它。

 

今、イエス様も、そこにいたたくさんの人たちに対して、「幸い」ということを語っておられます。

 

  此刻,耶稣也在对那里的众人讲述“幸福”。

 

今日の場面はイエス様の最初の説教の、その一番最初の場面ですけれども、一番最初に「幸い」ということがテーマになるんですね。

 

  今天的内容是耶稣一开始的说教,这最初的内容,是以“幸福”为主题的。

 

イエス様は人々が幸せになることを何よりも願っておられるんですね。

 

 比起其它,耶稣更希望人们能得到幸福。

 

まして、12節まで来ますと、「喜びなさい。大いに喜びなさい」なんて言われています。

 

  而且,在12小节他说:“你们要欢喜,要大大地欢喜。”

 

喜び、幸い、それが何より大事なんだということですよね。

 

  欢喜,幸福,比什么都重要。

 

しかし、今日の話は、幸いを得るための方法ではないですよね。

 

  但是今天要说的并不是获得幸福的方法。

 

ハウツー本に書かれているような、どうすれば幸いになれる、という話ではないんです。

 

  不是如how to书中写的那样,如何变得有福这样的话题。

 

イエス様は言いますね。

 

  耶稣说:

 

「心の貧しい人々は、幸いである」。

 

  “心灵贫乏的人有福了。”

 

これは原文では、「幸いだ。心の貧しい人は」という感じの表現です。

 

  原文是这样表达的:“有福了,心灵贫乏的人。”

 

つまり、イエス様が心の貧しい人々に対して、「あなたがたは幸いなのだ」と宣言してくださったという感じです。

 

  也就是说,耶稣对心灵贫乏的人宣告说:“你们是有福的。”是这样的感觉。

 

心が貧しければ、その人は幸いなんだ、と。

 

  只要心灵贫乏,那人便为有福。

 

ですのでこれはどうすればいいのか、というような話ではないんです。

 

  所以说并不是该怎么做才好这样的话题。

 

しかし、そう言われても、それだったら、「心の貧しい人」になる方法はないかと思ってしまいますよね。

 

  可是即便这样说,我们还会想难道没有让“心灵贫乏”的方法吗?

 

ただ、この、「心が貧しい」というのはどういうことなんでしょうか。

 

  只是这“心灵贫乏”到底是指什么呢?

 

「心が貧しい」と言われたとしたら、いい気分にはなりませんよね。

 

  如果被说成“心灵贫乏”的话,心情不会好吧。

 

「心が貧しい」と聞くと、寂しい人、つまらない人、そんな感じがします。

 

  一听到“心灵贫乏”,会觉得是那些寂寞无聊的人。

 

ただ、ここで、「貧しい」というところにつかわれている言葉は原文では、何も持っていないことを表す言葉なんですね。

 

  只是这里用的“贫乏”一词在原文中是用一无所有来表示的。

 

ですのでこの言葉は、お金を少ししか持っていないというような、貧乏というような言葉ではないんですね。

 

  因此这里的贫乏并不是指只有一点点钱那样的贫乏,

 

たとえ貧乏だったとしても、少しはお金を持っていますよね。

 

  即使再穷,也会有一点点钱吧。

 

でも、この「貧しい」という言葉はそういう言葉ではないんです。

 

  但是这里的“贫乏”并不是这个意思。

 

何も持っていないという言葉なんです。

 

  它是指一无所有。

 

それも、「心の貧しい人」ということですね。

 

  这也就是“心灵贫乏的意思。

 

心において、何も持っていない。

 

  心里面没有任何东西。

 

心の中には何もない。

 

  内心一无所有。

 

空っぽ。

 

  空空的。

 

そういう感じのことなんですね。

 

  是这样的感觉。

 

この、「心が貧しい」という言葉を、「謙遜」のことだという人がいますけれども、創ではないんですね。

 

  “心灵贫乏”一词也有人认为是“谦逊”,但其实并不是。

 

謙遜というのは、本当は力のある人がそのことを周りに自慢しないことですよね。

 

  所谓谦逊,是指真正有能力的人不在旁人面前炫耀自夸。

 

言ってみればそれは、本当は持っているけれども、持っていないふりをするということです。

 

  可以说事实上是有的,但是装成没有的样子。

 

けれどもそれは、ここで言う「貧しい」というのとは違うんです。

 

  这点与这里所说的“贫穷”是不同的。

 

ここで言われていることは、心の中が空っぽということなんです。

 

  这里说的是心里是空的。

 

しかし、そう言われると困りますよね。

 

  可是被这样说的话会感到困惑。

 

私たちは誰も、心の中に何もないわけではありません。

 

  无论是谁我们的里面并非真的一无所有。

 

と言いますか、自分の心は豊かだと思いたいですし、心を豊かにしたいですよね。

 

  而且会觉得自己内心很充实,想要让自己的内心变得更充实。

 

たいていの人はそうだと思います。

 

  大部分人都是这样想的。

 

ですけれども、そんな私たちに対してイエス様は開口一番、「心の貧しい人々は、幸いである」なんて言うんですね。

 

  但是,面对这样的我们,耶稣一开口就是:“心灵贫乏的人有福了。”

 

そんな話を聞いたら、私たちの心は乱されてしまいます。

 

  听了这样的话,会让我们的感到困扰。

 

自分は、そんな者ではない。

 

  我们不是这样的人。

 

心の中に何もないわけではない。

 

  内心并非一无所有。

 

だったら私は幸いではないのか。

 

  所以我就没福分了吗?

 

何かこう、悲しい気持ちになってしまいます。

 

  总感觉会有点这样的悲伤情绪。

 

もしかすると、こんなことを言われたら、腹を立てる人もいるかもしれませんね。

 

  或许还有人会因此而生气。

 

おかしいじゃないか。

 

  太奇怪了。

 

そんなことはないはずだ。

 

  没有这样的事。

 

こんな話を聞いても、悲しい気持ちになるか、起こってしまうか、とにかく、受け入れることはできません。

 

  听了这种话,或难受,或生气,总之是无法接受。

 

しかしそれが、「心の貧しさ」ということではないのかなと思うんですね。

 

  可是这不就是“心灵贫乏”吗?

 

私たちは自分の心の中に何もないとは思っていない。

 

  我们并不觉得自己的内心空虚。

 

むしろ、心が豊かだと思いたい。

 

  反而认为自己内心充实。

 

けれども、受け入れられないような話を聞くと、悲しくなったり怒ったりしてしまう。

 

  但是,听了难以接受的话就悲伤发怒,

 

心の豊かさが失われてしまう。

 

  那样就彻底失去了内心的充实。

 

それって、結局、心が豊かではなかったということなんじゃないですか。

 

  最终内心不再充实,不是吗?

 

状況が良い時は心が豊かだと思っていても、受け入れられないような話を聞いてしまったとかで状況が悪くなると心の状態も悪くなる。

 

  状态好的时候觉得内心充实,一旦听了接受不了的话状态变差,心态也跟着变差。

 

ということは、私たちの心は結局、状況で決まっているんであって、心そのものは貧しいんですね。

 

  也就是说,我们的内心最终是由实际情况而决定的,内心其本身是贫乏的。

 

心は空っぽなんです。

 

  是空的。

 

状況が満たされている時は心も豊かに思えますが、悪い状況になると心も悪くなる、というのでは、これはもう、心としては貧しい、何もなかったんだということですよね。

 

  状况令人满意的时候内心觉得充实,状况变糟糕的话心情也糟糕,这其实就是心灵贫乏里面一无所有。

 

ですので、「心の貧しさ」というのは私たちの現実なんです。

 

  因此“心灵贫乏”就是我们的现状。

 

私たちは認めたくないですけれども、実際のところ、私たちの心は貧しいんですね。

 

  即使我们不想承认,事实上我们的里面是贫乏的。

 

けれども、イエス様は言うんですね。

 

  但是耶稣说:

 

「心の貧しい人々は、幸いである」。

 

  “心灵贫乏的人有福了。”

 

どうしてそんなことが言えるんでしょうか。

 

  为什么这么说呢?

 

心の貧しさは、それ自体が幸いなのではないですね。

 

  心灵贫乏,本身并不是福。

 

しかし、続けて言うんです。

 

  可是耶稣继续说到:

 

「天の国はその人たちのものである」。

 

  “天国是他们的。

 

だから、「幸い」なんですね。

 

  因此是“有福的”。

 

「天の国はその人たちのものである」というのは、一口に言うと、あなたがたは救われるっていうことですよね。

 

  所谓的“天国是他们的”,用一句话说就是你们得救了。

 

救われるということは、逆に言って、救われないようなひどい状態にあったということです。

 

  得救换言之,就是有难以挽救这样糟糕的情况,

 

それが心の貧しさですよね。

 

  那便是心灵贫乏。

 

でも、そこから救い出してもらえるんです。

 

  但是,从那里被解救出来。

 

神様が、そんなどうしようもない人間を救ってくださるんです。

 

  神救赎了如此难以挽救的人。

 

つまり、ここで言われていることは、神様というのはどんな人でも救う神様なんだよということなんです。

 

  这里要说的是不管什么人神都会拯救,神是这样的神。

 

これって本当に幸いですよね。

 

  这才是真正的福。

 

これ以上の幸いはありません。

 

  没有比这更有福的了。

 

だから、神様の御心を現しておられるイエス様は、人々の心の貧しさを受け入れてくださるんですよね。

 

  因此,显明上帝如此心意的耶稣接受了心灵贫乏的人们。

 

どんなに心の貧しい人でも、イエス様は受け入れてくださるんです。

 

  不管内心如何地贫乏,耶稣都接受。

 

今、話を聞いている弟子たちなんて、後になるとイエス様を裏切るんですよ。

 

  此刻听着耶稣讲道的门徒们,后来竟然也背叛了耶稣,

 

状況がいい時は「あなたのためなら命を捨てます」なんて言っていたのに、状況が悪くなるとイエス様を見捨てて逃げ出してしまうんですね。

 

  状况好的时候说“为你舍命”之类的话,糟糕的时候抛下耶稣逃命。

 

でも、裏切るような弟子であっても、見捨てるような弟子であっても、イエス様はその人を見捨てないんですね。

 

  但是即使是背叛耶稣的门徒,抛弃耶稣的门徒,耶稣都没有抛弃他们。

 

「あなたの心がどれだけ貧しくても、私はあなたを愛するよ」。

 

  “不管你内心如何贫乏,我都爱你。”

 

これがイエス様なんです。

 

  这就是耶稣。

 

ですので、今日の話も、幸せになるためのハウツー本に書かれているようなこととは全然違うんです。

 

  因此,今天的内容,与怎样变得有福的书里写的内容完全不同。

 

今日の話は、こういうふうにすれば幸せになれるよ、という話ではありません。

 

  今天所讲的并不是如何可以变得有福。

 

今日の話は、幸せになれないあなたたちを幸せにしてあげるよ、という話なんですね。

 

  今天讲的是赐福给不幸的你们。

 

もうこれって、喜んでいいですよね。

 

  这样的话就可以欢喜了。

 

大喜びしていいところです。

 

  可以大大欢喜。

 

宗教改革者であったルターは、天に召される二日前に書いたことがあります。

 

  宗教改革家路德在被召回天家前两天曾写到:

 

現代ではつかわれない言葉を含む表現ですが、そのまま読ませていただきます。

 

  虽然含有现在不使用的词,我还是依照原文来读)

 

「われわれは乞食だ。それが本当だ」。

 

  “我们是乞丐,这是真的。”

 

私たちは、何も持っていないんです。

 

  我们什么也没有。

 

空っぽなんです。

 

  空空的。

 

でも、神様は、そんな私たちを天の国に招き入れてくださるんです。

 

  但是神召唤这样的我们入天堂。

 

ルターはその言葉を、喜びながら書いたんじゃないですか。

 

  路德应该是欢欢喜喜写下这话的。

 

私たちも喜んでいいですね。

 

  我们也当欢喜。

 

何もない私たちを、神様は救ってくださる。

 

  神救赎一无所有的我们,

 

心の貧しい者は幸いなのです。

 

心灵贫乏的人有福了。