
✜9/3(月)指導者訓練研究会会議(牧師、お茶の水、17:30-21:00)
✜9/4(火)聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)
✜9/5(水)私的な学び会(17:15-18:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜9/6(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜9/7(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)
✜9/8(土)牧師週休日
✜9/9(日)学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-14:00)、ゴスペル練習(14:00-15:30)、掃除
🎤9/9(日)の説教:ジョン・ゴー宣教師
聖書・使徒言行録1章3-5、8-11節
説教題「主は私たちを用いてくださる」
賛美歌・149、32、38、343、402、65-1、352、40-5
📅来月までの教会の行事
✜10/21(日)ユース集会
✜10/28(日)第13回チャリティー・ゴスペル・ライブ
📅来月までの中大会の行事
✜9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)
✜9/23(日)埼玉西部地区講壇交換(尾崎牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)
✜9/30(日)連合長老会例会、連合執事会例会
✜10/8(月・祝)第73回定期大会(10日[水]まで)
✜10/14(日)近隣三教会講壇交換(牧師は江古田教会へ、当教会は新井主一牧師[高島平キリスト教会])

第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ
2018年10月28日(日)14時30分から16時30分
凪ゆうこ
ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。
NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。
第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。
現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。
当教会のゴスペル・スクールの講師。
収益は被災地に全額寄付されます。
チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円
凪ゆうこゴスペル・スクール
生徒募集中!!
受講料
3ヶ月3,000円・トライアル1回500円
第4日曜14:00~15:30

「悲しむ人は幸い」
マタイによる福音書5章4節
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
悲しむことというのは誰にでもあると思います。
思い返してみると、私には子どもだったころの毎日悲しんでいたことがありました。
私は次男なのですが、次男と言うのは家の中で立場が非常に弱いんですね。
自分の未来も暗いように思われて、「生まれてきた順番で人生が決まってしまうんだな」と思うと本当に悲しかったですね。
幼稚園はキリスト教の幼稚園に通っていまして、幼稚園の先生が「困ったことがあったら祈りなさい」と言ってくださっていたことを小学校に入ってから思い出して、このことを祈ろうとしたんですが、結局祈れなかったんですね。
神様がいるのなら、こんな理不尽なことがあるはずがないと思ってしまったんです。
それくらい、本当に立場の弱さを悲しんでいました。
それなのに、今日の御言葉ですね。
イエス様の言葉です。
「悲しむ人々は、幸いである」。
悲しむ人が幸いなんて、訳が分からないんですね。
悲しむ人は悲しいんであって、全然幸せじゃないんです。
では一体これをどんなふうに理解するのが良いのでしょうか。
キリスト教会は、この言葉を、二通りに理解してきました。
一つは、悲しむというのは、自分の罪を悲しむことである、ということです。
私たちも自分の罪を悲しむということがありますけれども、自分の罪を悲しむことは悔い改めにつながりますね。
そういうことなら、それは良いことだとは言えるかもしれません。
もう一つは、悲しむというのは、人の罪を悲しむことであるということです。
私たちは時折、人の罪を悲しむということがありますね。
それもそれで、良いことではないかと思うんですね。
私たちは人の罪を目にした場合、まず、どのような気持ちになるでしょうか。
怒るんですよね。
そして、怒って人を裁きます。
けれども、人の罪を悲しむということは、そういうふうにしないということです。
それはその人のために執り成して祈ることにつながっていくのではないでしょうか。
それはそれで素晴らしいことです。
しかし、これらの二つの考え方は、考え方としてとしてどうなんでしょうか。
「悲しむ人々は、幸いである」なんて言われても訳が分からない。
そこで、何とか納得しようとしていろいろ理屈をつけているという感じですよね。
けれども、イエス様はここで、ここで言う悲しみというのは何を悲しむことだ、とは言っておられない。
イエス様は単に、「悲しむ人々は、幸いである」と言ったんですね。
何を悲しむべきだとは言っておられないんです。
ただ、「悲しむ人」ということが言われています。
ということは、これは、私たちみんなに当てはまることではないでしょうか。
私たちは皆、悲しむことがあるわけです。
その時、私たちは、イエス様の言っている「悲しむ人」なんですね。
その私たちみんなが、幸いだと宣言されているんです。
「こういうふうに考えたら実は幸いだということになるよ」みたいなことを言っておられるんじゃないんです。
イエス様は、悲しんでいる私たちの現実の中に、幸いを作り出してくださるんですね。
それが、「慰められる」ということです。
慰められることがどうして幸いなのでしょうか。
慰められるということは、悲しみの原因がなくなるということではないんですよね。
それ自体は幸いなことではないような気がします。
悲しみが喜びに変えられる、ということなら話は分かるんですが、そうではない。
悲しむべきことはまだそこにあるんですね。
無くなってはいない。
ではどうしてそれが幸せなのかということなんですが、この「慰める」という言葉は「そばに呼ぶ」という言葉から出来ている言葉です。
そして、この言葉は聖書の中で、「励ます」とも訳されることがありますし、「勧める」とも訳されることがあるのです。
つまり、悲しみはなくなっていないけれども、悲しみを背負いながら、それに負けずに生きていくことができるように、イエス様が慰め励まし、アドバイスしてくださるということなんですね。
それは、イエス様が私たちの代わりに問題を解決してくださるということではありません。
「慰める」、「励ます」、「勧める」というのは、問題を代わりに解決してくださるということではないですよね。
それは問題に負けずに生きる力を与えてくださるということであって、問題がなくなったということではないわけです。
考えてみますと、この今の自分が背負っている問題というのは、自分の意識が変わらない限り解決しないですね。
自分の意識が変われば、その時、もう問題は問題ではなくなるということがあります。
私にとって、子どもだった頃には、次男だということで悲しい思いをしていたんですが、学校の先生もクラスメイトも、別に私を次男であるというふうには見ないわけです。
そして、中学校に入ると、これは良いことなのかどうか分かりませんけれども、生徒たちは成績で評価されるんですね。
そうなりますともう大きな問題ではないですね。
勉強をする時に親があまり次男に投資してくれないということはあるかもしれませんが、大人になって家に出ると解決しますね。
立場が変わって意識が変わったら、次男なんてどうでもいいことになったわけです。
次男であることに変わりはないんですけれども。
ただその時、ふてくされて勉強しなかったらどうなるでしょうか。
そうならないように、イエス様が「慰める」、「励ます」、「勧める」ということをしてくださるんですね。
それによって、問題に負けずに生きていく力が与えられるんです。
これは、イエス様が私たちに、本当の意味での解決を与えてくださろうとしているということなんです。
そのために私たちをそばに呼んでくださるんです。
私たちとしては、イエス様のそばに行くことですね。
呼んでくださるイエス様に応えることです。
私たちが悲しむ時、それは、イエス様に呼ばれている時なんです。
その時すぐにイエス様に近づくことです。
それは、祈ることでしょうね。
あるいは、聖書を開くことでしょう。
もしかしたら、お気に入りの場所に行くことかもしれません。
そこで、イエス様が語りかけてくださるんです。
「慰める」言葉、「励ます」言葉、「勧める」言葉を私たちは聞くんですね。
悲しみの原因がなくなるわけではありません。
その意味で、悲しむ人々というのは、それ自体が幸いなわけではありません。
けれども、その私たちをイエス様がそばに呼んでくださり、慰め励まし勧めてくださるところに幸いがあるんです。
そして、悲しむ人々は幸いであると言われていますよね。
これは強調しておきたいんですけれども、どんな悲しみも、イエス様のそばに呼ばれる幸いにはかなわないということなんです。
聖書の少し先のところで、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われています。
これは悲しんではいけないということではありません。
悲しむべきことというのはあるんです。
私たちの周りには、悲しむべきことがいつもあります。
私たちはそれを思い切り悲しんでいいんです。
泣いていいんです。
ただ、その時、イエス様は私たちをそばに呼んでくださっています。
イエス様は私たちが泣いているのを黙って見ていられるような方ではないんです。
黙っていられないんです。
慰めてくださるんです。
必ず私たちは慰められるんです。
つまり、私たちは、神様の慰めの中に生きているんです。
悲しむべきことはたくさんあるけれども、神様の慰めに私たちは包まれている。
その神様の慰めの中で、悲しむべきことを悲しんでいきたいと思います。
そう言える私たちは幸せな者です。
悲しむ人は幸い(哀恸的人有福了)
悲しむことというのは誰にでもあると思います。
我想谁都会有难过的事。
思い返してみると、私には子どもだったころの毎日悲しんでいたことがありました。
回想起来我小的时候曾经每天都很难过。
私は次男なのですが、次男と言うのは家の中で立場が非常に弱いんですね。
我是次子,次子在家里的地位很低。
自分の未来も暗いように思われて、「生まれてきた順番で人生が決まってしまうんだな」と思うと本当に悲しかったですね。
感觉自己的未来一片黑暗,一想到“人生由出生的顺序来决定”真的很悲伤。
幼稚園はキリスト教の幼稚園に通っていまして、幼稚園の先生が「困ったことがあったら祈りなさい」と言ってくださっていたことを小学校に入ってから思い出して、このことを祈ろうとしたんですが、結局祈れなかったんですね。
我幼儿园是在基督教幼儿园上的,上小学后想起幼儿园老师说过的“要是有困难的话就祷告”,想为这事祷告来着,最终也没祷告成。
神様がいるのなら、こんな理不尽なことがあるはずがないと思ってしまったんです。
我觉得如果真有神的话,就不可能有这种不讲道理的事。
それくらい、本当に立場の弱さを悲しんでいました。
真的因为这样没地位而悲伤过。
それなのに、今日の御言葉ですね。
而今天神的话语,
イエス様の言葉です。
耶稣所说的却是:
「悲しむ人々は、幸いである」。
“哀恸的人有福了。”
悲しむ人が幸いなんて、訳が分からないんですね。
哀恸的人居然有福,不明白是为什么。
悲しむ人は悲しいんであって、全然幸せじゃないんです。
哀恸的人很悲伤,完全不幸福。
では一体これをどんなふうに理解するのが良いのでしょうか。
那么到底要怎么理解才好呢?
キリスト教会は、この言葉を、二通りに理解してきました。
基督教中这句话可以分两方面来理解。
一つは、悲しむというのは、自分の罪を悲しむことである、ということです。
一方面哀恸是指为自己的罪而哀恸。
私たちも自分の罪を悲しむということがありますけれども、自分の罪を悲しむことは悔い改めにつながりますね。
我们也为自己的罪而哀恸过,为自己的罪哀恸就会悔改。
そういうことなら、それは良いことだとは言えるかもしれません。
如果是这样的话,或许可以说成是好事。
もう一つは、悲しむというのは、人の罪を悲しむことであるということです。
另一方面是指为他人的罪而哀恸。
私たちは時折、人の罪を悲しむということがありますね。
我们有时会为他人的罪而哀恸。
それもそれで、良いことではないかと思うんですね。
这不也是好事吗?
私たちは人の罪を目にした場合、まず、どのような気持ちになるでしょうか。
我们看到他人犯罪的时候,首先会是什么情绪?
怒るんですよね。
会生气吧。
そして、怒って人を裁きます。
然后生着气去论断人。
けれども、人の罪を悲しむということは、そういうふうにしないということです。
可是,为他人的罪而哀恸的话就不会这样。
それはその人のために執り成して祈ることにつながっていくのではないでしょうか。
会为那个人求情祷告不是吗?
それはそれで素晴らしいことです。
这真的是很了不起。
しかし、これらの二つの考え方は、考え方としてどうなんでしょうか。
可是知道了这两点又怎样呢?
「悲しむ人々は、幸いである」なんて言われても訳が分からない。
还是不明白为什么说“哀恸的人有福了”。
そこで、何とか納得しようとしていろいろ理屈をつけているという感じですよね。
感觉像是为了要理解这句话而硬编的理由,有这种感觉吧。
けれども、イエス様はここで、ここで言う悲しみというのは何を悲しむことだ、とは言っておられない。
但是,耶稣在这里说的哀恸并没有说是哀恸什么。
イエス様は単に、「悲しむ人々は、幸いである」と言ったんですね。
耶稣只说了哀恸的人有福了。
何を悲しむべきだとは言っておられないんです。
没有说为什么而哀恸。
ただ、「悲しむ人」ということが言われています。
只说了哀恸的人。
ということは、これは、私たちみんなに当てはまることではないでしょうか。
这也就是说这句话对我们大家都适用。
私たちは皆、悲しむことがあるわけです。
因为我们大家都有哀恸的时候。
その時、私たちは、イエス様の言っている「悲しむ人」なんですね。
这样的时候,我们就是耶稣所说的“哀恸的人”了。
その私たちみんなが、幸いだと宣言されているんです。
我们大家被告知是有福的。
「こういうふうに考えたら実は幸いだということになるよ」みたいなことを言っておられるんじゃないんです。
并不是在说“这样想的话其实就是福”那样的话。
イエス様は、悲しんでいる私たちの現実の中に、幸いを作り出してくださるんですね。
耶稣造福于处于哀恸现实中的我们。
それが、「慰められる」ということです。
就是得安慰。
慰められることがどうして幸いなのでしょうか。
为什么说得安慰是福呢?
慰められるということは、悲しみの原因がなくなるということではないんですよね。
得安慰,并不是说哀恸就没了。
それ自体は幸いなことではないような気がします。
这并不是福本身。
悲しみが喜びに変えられる、ということなら話は分かるんですが、そうではない。
哀恸变喜悦,如果是这样的话那么就好理解了,但并不是。
悲しむべきことはまだそこにあるんですね。
哀恸的事依然存在,
無くなってはいない。
并没有消失。
ではどうしてそれが幸せなのかということなんですが、この「慰める」という言葉は「そばに呼ぶ」という言葉から出来ている言葉です。
那么为什么说是有福呢,“安慰”这个词来自于“叫到身旁”。
そして、この言葉は聖書の中で、「励ます」とも訳されることがありますし、「勧める」とも訳されることがあるのです。
这词在圣经中也译成“鼓励”和“劝告”。
つまり、悲しみはなくなっていないけれども、悲しみを背負いながら、それに負けずに生きていくことができるように、イエス様が慰め励まし、アドバイスしてくださるということなんですね。
也就是说,哀恸虽然没有消失,但是即使背负哀恸,我们依然可以不畏哀恸而活下去,为此耶稣安慰鼓励我们,劝慰我们。
それは、イエス様が私たちの代わりに問題を解決してくださるということではありません。
这并不是说耶稣替我们解决问题。
「慰める」、「励ます」、「勧める」というのは、問題を代わりに解決してくださるということではないですよね。
“安慰”、“鼓励”、“劝告”,不是替我们解决问题。
それは問題に負けずに生きる力を与えてくださるということであって、問題がなくなったということではないわけです。
而是给予我们不畏困难生活的力量,并不是让困难消失。
考えてみますと、この今の自分が背負っている問題というのは、自分の意識が変わらない限り解決しないですね。
现在自己背负的问题只要自己的意识不改变就得不到解决,想想看是不是这样。
自分の意識が変われば、その時、もう問題は問題ではなくなるということがあります。
如果意识改变了,那时候,问题也就不是问题了。
私にとって、子どもだった頃には、次男だということで悲しい思いをしていたんですが、学校の先生もクラスメイトも、別に私を次男であるというふうには見ないわけです。
就我而言,小的时候为自己是次子而哀恸,但是学校的老师也好,同学也好,并没有把我当成次子来看待。
そして、中学校に入ると、これは良いことなのかどうか分かりませんけれども、生徒たちは成績で評価されるんですね。
而到了中学,学生是以成绩来衡量的,虽然不知道这样算好还是不好。
そうなりますともう大きな問題ではないですね。
这样次子也就不是什么大问题了。
勉強をする時に親があまり次男に投資してくれないということはあるかもしれませんが、大人になって家に出ると解決しますね。
可能读书的时候父母几乎不会花钱培养次子,但是长大了一离开家后问题也没有了。
立場が変わって意識が変わったら、次男なんてどうでもいいことになったわけです。
观念意识改变的话,次子不次子的也就变得无所谓了。
次男であることに変わりはないんですけれども。
虽然次子的身份并没有改变。
ただその時、ふてくされて勉強しなかったらどうなるでしょうか。
但是那个时候要是怄气不读书的话会怎样?
そうならないように、イエス様が「慰める」、「励ます」、「勧める」ということをしてくださるんですね。
为了避免这样,耶稣“安慰”、“鼓励”、“劝告”。
それによって、問題に負けずに生きていく力が与えられるんです。
通过这样,赐予了我们无所畏惧生活下去的力量。
これは、イエス様が私たちに、本当の意味での解決を与えてくださろうとしているということなんです。
这才是真正意义上的耶稣对我们的帮助。
そのために私たちをそばに呼んでくださるんです。
为此把我们叫到身旁。
私たちとしては、イエス様のそばに行くことですね。
我们去到耶稣那里。
呼んでくださるイエス様に応えることです。
回应呼召我们的耶稣。
私たちが悲しむ時、それは、イエス様に呼ばれている時なんです。
我们哀恸的时候,正是耶稣呼召我们的时候。
その時すぐにイエス様に近づくことです。
那时立刻去到耶稣那里。
それは、祈ることでしょうね。
也就是祷告。
あるいは、聖書を開くことでしょう。
或者翻看圣经。
もしかしたら、お気に入りの場所に行くことかもしれません。
或者是去某个喜欢的地方。
そこで、イエス様が語りかけてくださるんです。
在那里,耶稣会有话临到。
「慰める」言葉、「励ます」言葉、「勧める」言葉を私たちは聞くんですね。
让我们听“安慰”的话,“鼓励”的话,“劝告”的话。
悲しみの原因がなくなるわけではありません。
并不是没有了哀恸的缘由。
その意味で、悲しむ人々というのは、それ自体が幸いなわけではありません。
这点来说哀恸的人本身并不是福。
けれども、その私たちをイエス様がそばに呼んでくださり、慰め励まし勧めてくださるところに幸いがあるんです。
但是,耶稣把我们叫到身边,安慰鼓励劝告我们,这一点是福。
そして、悲しむ人々は幸いであると言われていますよね。
所以说哀恸的人有福了。
これは強調しておきたいんですけれども、どんな悲しみも、イエス様のそばに呼ばれる幸いにはかなわないということなんです。
想要强调的是,不管怎样的哀恸,都不能与被耶稣呼召到身边这样的福相提并论。
聖書の少し先のところで、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われています。
就在后面的章节中耶稣说到“要欢喜,大大地欢喜”。
これは悲しんではいけないということではありません。
这并不是说不要哀恸。
悲しむべきことというのはあるんです。
还是有哀恸。
私たちの周りには、悲しむべきことがいつもあります。
我们的周围总是有哀恸的事。
私たちはそれを思い切り悲しんでいいんです。
我们可以为此尽情哀恸,
泣いていいんです。
尽情哭泣。
ただ、その時、イエス様は私たちをそばに呼んでくださっています。
但是到那时耶稣会把我们呼召到他身旁。
イエス様は私たちが泣いているのを黙って見ていられるような方ではないんです。
耶稣不会默默地看着我们哭泣。
黙っていられないんです。
不会沉默。
慰めてくださるんです。
会安慰我们。
必ず私たちは慰められるんです。
我们一定会得着安慰。
つまり、私たちは、神様の慰めの中に生きているんです。
我们会活在耶稣的安慰中。
悲しむべきことはたくさんあるけれども、神様の慰めに私たちは包まれている。
哀恸的事情有很多,但是我们被神的安慰包围着。
その神様の慰めの中で、悲しむべきことを悲しんでいきたいと思います。
让哀恸在神的安慰中继续哀恸下去。
そう言える私たちは幸せな者です。
能如此说的我们是有福的。