
⛪今週の予定
✜9/3(月)指導者訓練研究会会議(牧師、お茶の水、17:30-21:00)
✜9/4(火)聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)
✜9/5(水)私的な学び会(17:15-18:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜9/6(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜9/7(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)、コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)
✜9/8(土)牧師週休日
✜9/9(日)学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-14:00)、ゴスペル練習(14:00-15:30)、掃除
🎤9/9(日)の説教:ジョン・ゴー宣教師
聖書・使徒言行録1章3-5、8-11節
説教題「主は私たちを用いてくださる」
賛美歌・149、32、38、343、402、65-1、352、40-5
📅来月までの教会の行事
✜10/21(日)ユース集会
✜10/28(日)第13回チャリティー・ゴスペル・ライブ
📅来月までの中大会の行事
✜9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)
✜9/23(日)埼玉西部地区講壇交換(尾崎牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)
✜9/30(日)連合長老会例会、連合執事会例会
✜10/8(月・祝)第73回定期大会(10日[水]まで)
✜10/14(日)近隣三教会講壇交換(牧師は江古田教会へ、当教会は新井主一牧師[高島平キリスト教会])

第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ
2018年10月28日(日)14時30分から16時30分
凪ゆうこ
ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。
NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。
第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。
現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。
当教会のゴスペル・スクールの講師。
収益は被災地に全額寄付されます。
チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円
凪ゆうこゴスペル・スクール
生徒募集中!!
受講料
3ヶ月3,000円・トライアル1回500円
第4日曜14:00~15:30

「柔和な人は幸い」
マタイによる福音書5章5節
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
今日の話は、今までの話よりも分かりやすい話ですね。
受け入れやすいと言いますか、今までは「心の貧しい人々は、幸いである」とか、「悲しむ人々は、幸いである」とか言われてきました。
それに比べたら、「柔和な人々は、幸いである」というのは分かりやすい話です。
それはそうだろうなあ、と思えるんですね。
しかし、この「柔和」という言葉ですが、この言葉が福音書でつかわれる時には、それはイエス様のことを指す言葉なんですね。
この言葉がこの福音書の11章29節に出てきます。
それはイエス様の言葉としてなんですが、これが、ご自身がどういう方であるかを表した言葉なんですね。
21章5節にもこの言葉が出てきます。
イエス様が最後を迎えるべく、エルサレムに入られる場面です。
ここでも、この言葉は、イエス様を指してつかわれています。
ですから、「柔和」というのはイエス様のことなんですね。
そして、今日の言葉では、その人たちは「地を受け継ぐ」と言われています。
この、「地を受け継ぐ」という言葉は、単に土地をもらうということではなくて、その土地を支配する「王になる」ということです。
柔和な人は王になるんですね。
これもイエス様のことですね。
イエス様は天に昇って行かれる前に、いずれまたこの地上に来られると約束しておられました。
そしてその時にはこの地上の王になられるわけです。
そして、その時には、私たちイエス様の弟子たちも一人の王になるのだ、と約束してくださっていました。
イエス様の支配、愛の支配が実現する時、私たちは支配者の側にいることになるんです。
そういう約束をイエス様はしておられました。
ですから今日の言葉は、イエス様の約束なんですね。
しかし、そう言われても、という感じですね。
「柔和」というのはイエス様ご自身にはぴったり当てはまることですけれども、私たちは、いつもいつも柔和でいられるような余裕はないわけです。
ではどうすればいいんでしょうか。
先ほど紹介しました、この「柔和」という言葉がイエス様ご自身を表してつかわれている個所を読んでみたいと思います。
11章28節、29節です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
「わたしの軛を負い」と言われていますね。
軛を負う。
軛というのは土地を耕す時に牛が首にかけて引っ張るものですから、これは何か大変そうです。
しかし、「わたしの軛を負い」と言われていますね。
しかし、牛が軛を負う時には、二頭が一組になります。
仕事に慣れた先輩の牛と一緒に軛を負うんですね。
そうすると、初めてその仕事をする牛も上手にできるんだそうです。
二頭とも初めてというのならできないんだそうですが、慣れた牛と一緒にやりますので、問題なくできるんですね。
イエス様はここのところで、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられますよね。
これはそういうことかもしれません。
とにかく、イエス様は、イエス様のように柔和になることは大変なことではないよと言っておられるんですね。
私たちは皆、イエス様のようになるためにトレーニングを受ける必要があります。
しかし、それはできないようなことではないんだということなんですね。
もう一か所、21章5節を見てみましょう。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。
二重のカギカッコの中に入っているところは、旧約聖書に書かれていることですね。
これがイエス様を指して言われています。
イエス様は王なんですね。
しかし柔和な王です。
戦いには使えない、庶民の乗り物ろばに乗ってやってくるんです。
民衆はイエス様を王として迎えました。
しかし、その一週間後には、期待を裏切られたと思って、民衆はイエス様を「十字架につけろ」と叫びだすんですね。
その時、イエス様はどうでしたでしょうか。
イエス様はいずれの時も、心を動かされませんでした。
人々が大歓迎しても有頂天になったりしなかった。
「十字架につけろ」と叫んでも怒ったりしなかった。
いずれの時も柔和であったんです。
こうなると困りますね。
さっきの箇所ではちょっとした訓練を受けるだけだと言われたような感じでしたが、これでは到底まねができないわけです。
しかし、ここで考えてみるべきことがあります。
そもそも、聖書で言う「柔和」とは何なのかということです。
聖書が「柔和」という時、それはまず、神様が与えてくださるものなんですね。
ガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節にこういう御言葉があります。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。
「柔和」というのは霊の結ぶ実だと言われています。
聖霊、神の霊ですね。
神様が私たちの中に実らせてくださるものだということなんです。
新約聖書で「柔和」と出てきたら、それはイエス様のことであり、神様が私たちの中に実らせてくださるものなんです。
ということは、私たちの中にも、「柔和」というものが実ってきているはずなんです。
私たちはそれをなかなか実感できないかもしれません。
でも、洗礼を受けると私たちには聖霊が与えられます。
それが聖書の約束です。
そして、聖書は、聖霊が与えられているんだったらその人の中に「柔和」というものが実ると約束しているんですね。
ですから、「柔和な人々」というのは私たちのことなんです。
これは、私たちがそれを実らせなければならないということではありません。
神様の責任において、事実、私たちの中に、「柔和」というものが実ってきているということなんです。
これは、「地を受け継ぐ」、つまり、「王になる」ということもおなじですね。
これも約束です。
約束してくださったのはイエス様です。
私たちが約束したのではありませんね。
約束したのはイエス様です。
だとしたら、約束を守るのはイエス様です。
私たちではないんです。
そもそも、神様は私たちの約束になんか期待していません。
イエス様が逮捕される前の夜に、自分こそは一番弟子だと思っていたペトロは、イエス様に対して、何と言いましたか。
どこまでもあなたについて行きます、と立派なことを言ったんですね。
でもその後、実際にはどうなりましたか。
逃げ出してしまったんですね。
しかし、そんなペトロのところにも、後になってイエス様は来てくださったんですよ。
と言いますか、ペトロが立派なことを言った時、イエス様はペトロに言いましたよね。
「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。
ペトロは立派な約束をしたのに、イエス様はそう答えたんです。
もう最初っから、こちらの約束になんて期待していないんですね。
でも、それでいいんだということですね。
ですから、今日の言葉、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。
これは、イエス様が必ず約束を守る、ということです。
ただ、そうは言っても、いずれにせよ、私たちは柔和になっていならなければならないわけですね。
神様がそうしてくださるんですが、そうであるべきということに変わりはありません。
柔和なのがクリスチャンなんです。
それには変わりはないんですね。
ただ、さっき見た聖書の言葉では、「柔和」というのは「実り」なんですね。
「実り」ということは時間がかかるということです。
そして、「軛を負う」という言葉もありましたね。
楽なことではないということなんです。
私たちは時間をかけて、大変な思いをしながら、柔和になっていくんです。
神様がそのようにして私たちを鍛えてくださるということなんです。
軛を負うのは楽なことではありませんが、イエス様が共に負ってくださいます。
だから、これが大事なところですが、無理ではないということですね。
私があなたを成長させて、愛の王にするよと、イエス様は言っておられるんです。
長い道のりになるでしょうね。
しかしこれは必要なことだと思うんです。
アメリカでトマトの収穫をしている場面をテレビで見たことがあります。
輸出用のトマトだったようで、まだ青いのに収穫するんですね。
しかし、そのままスーパーの棚に並んだのでは誰も買いませんから、青いトマトを赤くするんです。
どうやって赤くするか、分かりますか。
色をぬるんじゃないですね。
青いトマトに炭酸ガスを吹き付けるんです。
そうすると、まるで魔法です。
あっという間に青いトマトが真っ赤になるんです。
これで見た目は熟したトマトです。
ただ、問題がありまして、味はやっぱり本当に熟して赤くなったトマトとは比べ物にならないそうです。
やっぱり、時間がかかるんですね、本物になるためには。
ただこれは、私たちがあれこれ考えて計画する必要はないことですよね。
長い人生の歩みの中で、神様が十分に私たちを柔和な者にしてくださると約束してくださっているんです。
それが今日の言葉です。
これからも、神様からの訓練を受けていきましょう。
「柔和な人」にならせてもらいましょう。
神様がそうしてくださいます。
柔和な人は幸い(温柔的人有福了)
今日の話は、今までの話よりも分かりやすい話ですね。
今天要讲的比之前的容易理解。
受け入れやすいと言いますか、今までは「心の貧しい人々は、幸いである」とか、「悲しむ人々は、幸いである」とか言われてきました。
说容易理解,因为至今已讲过“心灵贫乏的人有福了”和“哀恸的人有福了”。
それに比べたら、「柔和な人々は、幸いである」というのは分かりやすい話です。
相比较而言,“温柔的人有福了”更容易理解。
それはそうだろうなあ、と思えるんですね。
是这么觉得的吧。
しかし、この「柔和」という言葉ですが、この言葉が福音書でつかわれる時には、それはイエス様のことを指す言葉なんですね。
可是,“温柔”一词在福音书里使用的时候是指耶稣。
この言葉がこの福音書の11章29節に出てきます。
这一词出现在马太福音11章29节。
それはイエス様の言葉としてなんですが、これが、ご自身がどういう方であるかを表した言葉なんですね。
作为描写耶稣的词,用来表示他本人是个怎样的人。
21章5節にもこの言葉が出てきます。
这一词也在出现在21章5节。
イエス様が最後を迎えるべく、エルサレムに入られる場面です。
耶稣迎来生命的最后时刻进耶路撒冷的场景。
ここでも、この言葉は、イエス様を指してつかわれています。
在这里这个词也用来指耶稣。
ですから、「柔和」というのはイエス様のことなんですね。
所以“温柔”就是指耶稣。
そして、今日の言葉では、その人たちは「地を受け継ぐ」と言われています。
而今天要说的是,他们“必承受地土”。
この、「地を受け継ぐ」という言葉は、単に土地をもらうということではなくて、その土地を支配する「王になる」ということです。
这个“承受地土”不单是获得土地,而是要成为支配这地的王。
柔和な人は王になるんですね。
温柔的人能成为王。
これもイエス様のことですね。
这也是指耶稣。
イエス様は天に昇って行かれる前に、いずれまたこの地上に来られると約束しておられました。
耶稣升天之前约定好不久后还会回到这里。
そしてその時にはこの地上の王になられるわけです。
并且到那时将成为这地上的王。
そして、その時には、私たちイエス様の弟子たちも一人の王になるのだ、と約束してくださっていました。
并且约定,到那时,我们这些门徒也会成为王。
イエス様の支配、愛の支配が実現する時、私たちは支配者の側にいることになるんです。
耶稣掌权,由爱支配实现的时候,我们就会成为支配者的那一方。
そういう約束をイエス様はしておられました。
耶稣做了这样的约定。
ですから今日の言葉は、イエス様の約束なんですね。
因此,今天要说的就是耶稣的约定。
しかし、そう言われても、という感じですね。
但是,有种“话虽这么说”的感觉吧。
「柔和」というのはイエス様ご自身にはぴったり当てはまることですけれども、私たちは、いつも柔和でいられるような余裕はないわけです。
“温柔”一词用在耶稣身上非常恰当,但是我们并不能一直保持温柔。
ではどうすればいいんでしょうか。
那么,要怎么做才好呢?
先ほど紹介しました、この「柔和」という言葉がイエス様ご自身を表してつかわれている個所を読んでみたいと思います。
我们来试着读一下刚刚介绍的几处用“温柔”来表现耶稣的地方。
11章28節、29節です。
第11章28节,29节。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
“凡劳苦担重担的人,可以到我这里来,我就使你们得安息。我心里柔和谦卑,你们当负我的轭,学我的样式,这样你们心里就必得享安息。因为我的轭是容易的,我的担子是轻省的。”
「わたしの軛を負い」と言われていますね。
说“当负我的轭”。
軛を負う。
负轭。
軛というのは土地を耕す時に牛が首にかけて引っ張るものですから、これは何か大変そうです。
轭是耕地时牛架在脖子上拉的东西,这东西看上去很吃力。
しかし、「わたしの軛を負い」と言われていますね。
但是耶稣却说“当负我的轭”。
しかし、牛が軛を負う時には、二頭が一組になります。
牛负轭的时候是两头一组的。
仕事に慣れた先輩の牛と一緒に軛を負うんですね。
和作惯了的老牛一起负轭。
そうすると、初めてその仕事をする牛も上手にできるんだそうです。
据说那样的话第一次耕地的牛也能很熟练地完成。
二頭とも初めてというのならできないんだそうですが、慣れた牛と一緒にやりますので、問題なくできるんですね。
如果两头牛都是第一次的话听说就完不成,但是因为和做熟了的牛一起就没问题。
イエス様はここのところで、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられますよね。
耶稣在这里说:“当负我的轭,学我的样式”。
これはそういうことかもしれません。
可能就是这个意思。
とにかく、イエス様は、イエス様のように柔和になることは大変なことではないよと言っておられるんですね。
总之,耶稣要说的是,成为耶稣那样温柔的人并不是难事。
私たちは皆、イエス様のようになるためにトレーニングを受ける必要があります。
我们大家为了要成为耶稣那样的人接受试炼是必须的。
しかし、それはできないようなことではないんだということなんですね。
但是,并不是做不到。
もう一か所、21章5節を見てみましょう。
另一处,21章5节,一起看一下。
「シオンの娘に告げよ。
要对锡安的女子说:
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
“看哪,你的王来到你这里,
柔和な方で、ろばに乗り、
是温柔的,又骑着驴,
荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。
就是骑着装行李的驴驹子。”
二重のカギカッコの中に入っているところは、旧約聖書に書かれていることですね。
双引号中的话是旧约圣经中记载的内容。
これがイエス様を指して言われています。
这里所说的就是耶稣。
イエス様は王なんですね。
耶稣是王。
しかし柔和な王です。
但是是温柔的王。
戦いには使えない、庶民の乗り物ろばに乗ってやってくるんです。
骑着不能用于战争的平民骑的驴而来。
民衆はイエス様を王として迎えました。
民众把耶稣当作王来迎接。
しかし、その一週間後には、期待を裏切られたと思って、民衆はイエス様を「十字架につけろ」と叫びだすんですね。
可是,一周后,与期待的相反,民众叫嚣着“把他钉十字架”。
その時、イエス様はどうでしたでしょうか。
那个时候耶稣怎样呢?
イエス様はいずれの時も、心を動かされませんでした。
他和平常一样,没有慌乱。
人々が大歓迎しても有頂天になったりしなかった。
人们热烈欢迎时他没有得意忘形。
「十字架につけろ」と叫んでも怒ったりしなかった。
被叫嚣“钉十字架”时他也没有发怒。
いずれの時も柔和であったんです。
任何时候都保持温柔。
こうなると困りますね。
要做到这样的话可就难了。
さっきの箇所ではちょっとした訓練を受けるだけだと言われたような感じでしたが、これでは到底まねができないわけです。
前一处,感觉只要接受一下训练就可以了,而这里的却无论如何也学不会。
しかし、ここで考えてみるべきことがあります。
可是,在这里我们有必要思考:
そもそも、聖書で言う「柔和」とは何なのかということです。
圣经上所说的“温柔”到底是什么?
聖書が「柔和」という時、それはまず、神様が与えてくださるものなんですね。
圣经中说到“温柔”时,首先是神所赋予我们的东西。
ガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節にこういう御言葉があります。
加拉太书5章22节,23节里有这么一段话。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。
“圣灵所结的果子就是仁爱,喜乐,和平,忍耐,恩慈,良善,信实,温柔,节制”。
「柔和」というのは霊の結ぶ実だと言われています。
“温柔”是圣灵所结的果子。
聖霊、神の霊ですね。
是圣灵,神的灵。
神様が私たちの中に実らせてくださるものだということなんです。
是神在我们的里面所结的果子。
新約聖書で「柔和」と出てきたら、それはイエス様のことであり、神様が私たちの中に実らせてくださるものなんです。
“温柔”在新约圣经中所指的,既是耶稣本人,也是神在我们里面所结的果子。
ということは、私たちの中にも、「柔和」というものが実ってきているはずなんです。
也就是说,在我们里面,应该已经结了“温柔”的果实。
私たちはそれをなかなか実感できないかもしれません。
或许我们感受不到。
でも、洗礼を受けると私たちには聖霊が与えられます。
但是,受洗以后圣灵进驻到我们里面。
それが聖書の約束です。
那是圣经的约定。
そして、聖書は、聖霊が与えられているんだったらその人の中に「柔和」というものが実ると約束しているんですね。
而且圣经上还约定,被赐予圣灵的人的里面,将结出“温柔”的果实。
ですから、「柔和な人々」というのは私たちのことなんです。
因此,“温柔的人”就是我们。
これは、私たちがそれを実らせなければならないということではありません。
这并不是要求我们必须结出温柔的果子。
神様の責任において、事実、私たちの中に、「柔和」というものが実ってきているということなんです。
神会负起这个责任,真的在我们的里面结出“温柔”的果子。
これは、「地を受け継ぐ」、つまり、「王になる」ということもおなじですね。
“承受地土”,也就是“成为王”也是同样的意思。
これも約束です。
这也是约定。
約束してくださったのはイエス様です。
许下约定的是耶稣。
私たちが約束したのではありませんね。
不是我们许下的约定。
約束したのはイエス様です。
是耶稣约定的。
だとしたら、約束を守るのはイエス様です。
因此,要遵守约定的也是耶稣。
私たちではないんです。
不是我们。
そもそも、神様は私たちの約束になんか期待していません。
原本,神就没有期待我们会遵守约定。
イエス様が逮捕される前の夜に、自分こそは一番弟子だと思っていたペトロは、イエス様に対して、何と言いましたか。
耶稣被逮捕前一夜,自认为自己才是第一门徒的彼得对耶稣说了什么呢。
どこまでもあなたについて行きます、と立派なことを言ったんですね。
他说了“无论你往哪里去我都跟从你”这么冠冕堂皇的话。
でもその後、実際にはどうなりましたか。
但是后来,实际又是怎么做的呢。
逃げ出してしまったんですね。
逃跑了。
しかし、そんなペトロのところにも、後になってイエス様は来てくださったんですよ。
可是,即便是这样的彼得,耶稣后来还是来到了他的身旁。
と言いますか、ペトロが立派なことを言った時、イエス様はペトロに言いましたよね。
话说回来,彼得在说豪言壮语时,耶稣也对彼得说了话。
「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。
“我已经为你祈求,叫你不至于失了信心”。
ペトロは立派な約束をしたのに、イエス様はそう答えたんです。
彼得许下豪言壮语时,耶稣却这么回他。
もう最初っから、こちらの約束になんて期待していないんですね。
从一开始,他就对我们许下的约定没有什么期待。
でも、それでいいんだということですね。
但是,即便这样也没关系。
ですから、今日の言葉、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。
因此,今天的话语,“温柔的人有福了,因为他们必承受地土”。
これは、イエス様が必ず約束を守る、ということです。
这是在说,耶稣必定会遵守他的约定。
ただ、そうは言っても、いずれにせよ、私たちは柔和になっていならなければならないわけですね。
话虽如此,但是无论如何,我们必须要变得温柔。
神様がそうしてくださるんですが、そうであるべきということに変わりはありません。
神会成就我们,这一点毋庸置疑。
柔和なのがクリスチャンなんです。
温柔的是基督徒。
それには変わりはないんですね。
这一点不会变。
ただ、さっき見た聖書の言葉では、「柔和」というのは「実り」なんですね。
只是,刚才圣经上的话说,“温柔”是“结出的果子”。
「実り」ということは時間がかかるということです。
“结果子”是花时间的。
そして、「軛を負う」という言葉もありましたね。
而且,还要“负轭”。
楽なことではないということなんです。
并不是轻松的事。
私たちは時間をかけて、大変な思いをしながら、柔和になっていくんです。
我们经过长时间的历练,逐渐变得温柔。
神様がそのようにして私たちを鍛えてくださるということなんです。
神会那样锤炼我们。
軛を負うのは楽なことではありませんが、イエス様が共に負ってくださいます。
负轭并不轻松,但是神会和我们一起担负。
だから、これが大事なところですが、無理ではないということですね。
因此,虽然这是个大事业,但不是不能实现的。
私があなたを成長させて、愛の王にするよと、イエス様は言っておられるんです。
我会让你成长,成为爱的王,耶稣是这么说的。
長い道のりになるでしょうね。
长路漫漫。
しかしこれは必要なことだと思うんです。
但却是必须的。
アメリカでトマトの収穫をしている場面をテレビで見たことがあります。
在电视上看到过美国收获西红柿的场景。
輸出用のトマトだったようで、まだ青いのに収穫するんですね。
因为是出口用的西红柿,还很青的时候就摘了。
しかし、そのままスーパーの棚に並んだのでは誰も買いませんから、青いトマトを赤くするんです。
可是因为就这样放上超市货架的话不会有人买,所以要把青的西红柿变红。
どうやって赤くするか、分かりますか。
知道如何让它变红的吗?
色をぬるんじゃないですね。
不是给它上色。
青いトマトに炭酸ガスを吹き付けるんです。
是往青西红柿上喷二氧化碳。
そうすると、まるで魔法です。
那样简直就跟施了魔法一样。
あっという間に青いトマトが真っ赤になるんです。
瞬间青西红柿就变红了。
これで見た目は熟したトマトです。
看上去就是熟西红柿。
ただ、問題がありまして、味はやっぱり本当に熟して赤くなったトマトとは比べ物にならないそうです。
只是问题还是有的,据说味道不能与真正自然熟的西红柿相提并论。
やっぱり、時間がかかるんですね、本物になるためには。
果然还是需要时间。
ただこれは、私たちがあれこれ考えて計画する必要はないことですよね。
只是,我们不需要这样那样地去思考规划。
長い人生の歩みの中で、神様が十分に私たちを柔和な者にしてくださると約束してくださっているんです。
神约定在漫长的人生旅途中,会让我们变得足够温柔。
それが今日の言葉です。
这就是今天要说的。
これからも、神様からの訓練を受けていきましょう。
今后也让我们一起接受神的试炼吧。
「柔和な人」にならせてもらいましょう。
让我们成为“温柔的人”。
神様がそうしてくださいます。
神会成就这一切。