今週の説教「義に飢え渇く人は幸い」(新約聖書・マタイによる福音書5章6節)

⛪今週の予定

9/3()指導者訓練研究会会議(牧師、お茶の水、17:30-21:00

9/4()聖書を読む会(ヨハネによる福音書、10:30-12:00)

9/5()私的な学び会(17:15-18:30)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

9/6()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

9/7()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)、コーヒー・ブレイク(10:00-14:00)

9/8()牧師週休日

9/9()学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-14:00)、ゴスペル練習(14:00-15:30)、掃除

 

🎤9/9()の説教:ジョン・ゴー宣教師

聖書・使徒言行録1章3-58-11節

説教題「主は私たちを用いてくださる」

賛美歌・149323834340265-135240-5

 

📅来月までの教会の行事

10/21()ユース集会

10/28()13回チャリティー・ゴスペル・ライブ

 

📅来月までの中大会の行事

9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)

9/23()埼玉西部地区講壇交換(尾崎牧師は川越教会へ、当教会は長田詠喜牧師)

9/30()連合長老会例会、連合執事会例会

10/8(月・祝)73回定期大会(10[]まで)

10/14()近隣三教会講壇交換(牧師は江古田教会へ、当教会は新井主一牧師[高島平キリスト教会])


第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

 

2018年10月28日(日)14時30分から16時30分

 

 

 

凪ゆうこ

 

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

 

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

 

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

 

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

当教会のゴスペル・スクールの講師。

 

 

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500

 

 

 

凪ゆうこゴスペル・スクール

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・トライアル1回500

第2日曜13:0014:30

第4日曜14:0015:30


義に飢え渇く人は幸い

 

マタイによる福音書56

 

義に飢え渇く人々は、幸いである、

 

その人たちは満たされる。

 

 

 

 

 

「義に飢え渇く」ということが言われています。

 

何だか分かりにくい表現ですが、聖書で「義」と言ったら、神の正しさのことですね。

 

それに飢え渇くということはどういうことでしょうか。

 

神様の正しさが行われていない。

 

間違った人が堂々と間違ったことをしている。

 

それに我慢できない。

 

世の中一体どうなっているんだ、なんで自分がこんな目にあうんだ。

 

そういうふうに思う。

 

そして、本当に正しいことが行われるようになることを求める。

 

そういうことですね。

 

そういうことですとこれは、私たちみんなそうです。

 

私たちみんな、多かれ少なかれそう思っていますよね。

 

子どもだって思っていますよ。

 

これは昔話したことがある話ですが、私は幼稚園はキリスト教の幼稚園に通っていたんですね。

 

出身が神戸ですから、半分くらいの幼稚園はキリスト教の幼稚園ですから、別に信仰のない家庭であっても、子どもをキリスト教の幼稚園に入れるんですね。

 

そこで、先生たちから神様の話を聞くわけなんですが、やっぱり幼稚園児にとっては目に見えないことですので、神様と言われても良く分からないんですね。

 

そこで、同じ幼稚園に通っていた友人に聞きました。

 

「神様っているのかな?」。

 

その友人は答えました。

 

「神様がいるなら、こんな世の中のはずはないよ」。

 

幼稚園児がそんなことを言ったということに驚きますけれども、幼稚園児だって、世の中間違っていると思っているんですね。

 

考えてみますと、身の回りに、正しくないことが堂々と行われていることはいくらでもあるわけです。

 

私が最近本気で世の中どうなっているんだと思ってしまったことがあったんですが、それは、近所に住んでいる車いすのおじさんのお手伝いをしていてなんですね。

 

去年の年末に、教会の前を車いすのおじさんがコンビニの方に向かっていくんですね。

 

普通、車いすと言ったら手で車輪を回して進むんですけれども、手に力がないようで、足をパタパタ動かして、何とか前に進んでいるんですね。

 

それだと少しづつしか進みませんし、疲れておられるのか、10メートルごとに休みながら、なんですね。

 

それでお声をおかけしたら、すぐそこのコンビニに買い物に行くということでしたので、一緒に買い物して、家もすぐ近所でしたから、家まで行って、その日から、買い物のお手伝いをするようになったんです。

 

ですけれども、考えてみるとおかしいなと。

 

そのおじさん、完全に要介護なんですよ。

 

それなのに、誰も身の回りの手助けをしていないんです。

 

役所の人が月に一度くらい来ているようなんですが、病院に行くのすら手伝ってくれない。

 

独りで生活するのもままならないような人をほったらかし。

 

これはおかしいなと思って、教会にいらっしゃる看護師さんにお伺いしたところ、包括支援センターというものがあって、身の回りに事を何でも手伝ってくれるということでした。

 

しかし、どうして役所の人は何も教えてくれなかったんでしょうか。

 

どういうことなんでしょうか。

 

世界にはもっとおかしなことがあります。

 

これは2001年に出版された本で、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、『世界がもし100人の村だったら』という本ですね。

 

その中には、こんなことが書かれています。

 

「世界がもし100人の村だったら、100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。

 

これも、どうなんですかね。

 

先進国では食べ物を捨てているんですね。

 

そして、発展途上国では食べ物が足りないわけです。

 

しかし、先進国で余っている食べ物を発展途上国に送ることができれば、誰も飢えることはなくなるときいたことがあります。

 

この本には、他にもこういうことが書かれていました。

 

「もしあなたがいやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従ってなにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています」。

 

そして、この本の最後にはこう書かれていました。

 

「もしもたくさんのわたしたちがこの村を愛することを知ったならまだ間にあいます。人びとを引き裂いている暴力からこの村を救えます」。

 

私たちの身の回りにも、正しいことが行われていないと思うことはあるし、世界全体を見ても間違っているとしか言えないような現実があるわけです。

 

しかし、イエス様はそれについて、「幸いである」と言うんですね。

 

それは「満たされる」からだと言うんです。

 

「満たされる」ということは、神の義、神の正しさが実現するってことですよね。

 

それはどのようにしてでしょうか。

 

間違いが直されることによってでしょうか。

 

間違っている人が滅ぼされることによってでしょうか。

 

そうではないんですね。

 

神の正しさは、神が人を救う、というかたちで現れるんです。

 

新約聖書で神の義と言ったらそれは十字架のことです。

 

神の子キリストが人間の罪を背負って十字架にかかってくださったこと。

 

それが神の正しさだと言うんですね。

 

罪というのは聖書では、的外れということです。

 

神の正しさからずれているんですね。

 

もし神が、何の罰も与えずに罪を許したとしたら、神は罪を見過ごす間違った方だということになってしまいます。

 

でも神様はそのような方ではない。

 

罪を見過ごす方ではないんですね。

 

人は本来、裁かれるべき者なんですね。

 

私たちの身の回りを見ても、世界全体を見ても、神の目に正しいと言えるようなことはまずないわけです。

 

それは私たちだってそうですね。

 

私たちには私たちの在り方が普通だと思っていますけれども、でも例えば、この世界が100人の村だったとして、飢えている15人が、私たちが食べ物を捨てているのを見たらどう思うでしょうか。

 

日本は食べ物の2割を捨てているんです。

 

1年間に1人当たり152キロも捨てているんですね。

 

飢えている人はそれをどう見るでしょうか。

 

日本は外国から食料を買っている国です。

 

外国から買い集めて、捨てているんです。

 

その一方で、世界では6秒に1人、栄養が足りなくて子どもが死んでいるんです。

 

それを神様はどう見ますかね。

 

私は、食べ物を捨てる時、もったいないな、とは思うんです。

 

でもそれは、「自分のお金を無駄にしてしまった」という感覚ですね。

 

それは事実で、反省すべきことですけれども、的外れです。

 

それは自分中心の感覚でしかないんです。

 

聖書が罪だと指摘するのはそれですよね。

 

自分中心です。

 

それは私たちにとっては普通のことかもしれません。

 

けれども、私たちにとって普通のことが、神様の目にも正しいとは限りません。

 

いやむしろ、神の義というのは、滅ぼされるべき私たちの代わりに、神の子が罰を受けてくださったということですから、大変なことですね。

 

私たちは滅ぼされるべきものだと聖書は言っているんです。

 

しかし、神の義は、間違っている私たちを滅ぼすものではなかったんです。

 

正しいことを行えない私たちを何とかして救うものだったんです。

 

 

 

私たちは身の回りを見ても世界を見ても、間違っていると思うことがあります。

 

そして、本当の正しさが実現することを強く願います。

 

ただ、気を付けなければならないのは、私たちがそのようにして神の義を求める時、私たちは知らない内に自分を正しい側に置いてしまっているんです。

 

自分を神の側に置いてしまっているんですね。

 

けれども、神の子が私たちに代わって罰を受けたというのはどういうことでしょうか。

 

私たちは誰も正しくないんです。

 

私たちは皆、死に値するんです。

 

聖書はそう言っているんです。

 

私たちは神の目には、「世の中一体どうなっているんだ」、「なんで自分がこんな目にあうんだ」、そんなことを言う資格は最初からないんですね。

 

そういうふうに言いたくなることがない人というのはいないんでしょうけれども。

 

私たちみんな、「義に飢え渇いて」います。

 

それは満たされるんです。

 

ただそれは、私たちの考えもしなかった仕方でです。

 

神の子が命を投げ出してくださるという仕方で、なんです。

 

もうそれくらいしないと、どうしようもないくらい、私たちはみんな間違っていると神は言っておられるんです。

 

 

 

世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。

 

人の目にも、神の目にも。

 

私たち自身、誰かから見たら明らかに間違っています。

 

けれども、神はそんな私たちを救うんです。

 

世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。

 

けれどもそれも、神の義の中にあることだということです。

 

世界は丸ごと神の義の中にあります。

 

神は、人が、たとえ正しくなくても、とにかく人を救いたい。

 

正しくなくても、とにかく。

 

これは、愛しているということですね。

 

良く考えてみてどうするか、ということではないんです。

 

理屈ではないんです。

 

だから、命を捨てるところまで、人を愛し抜いたんです。

 

その愛の中に私たちは今、生かされています。

 

そのことを知っている私たちになら、私たちの目に間違っていると思うことがある時に、愛をもって何かをすることができるのではないかと思うんですね。

 

それが本当の意味で神の側に立つことではないかと思うんです。

 


義に飢え渇く人は幸い(饥渴慕义的人有福了)

 

「義に飢え渇く」ということが言われています。

 

  说到“饥渴慕义”。

 

何だか分かりにくい表現ですが、聖書で「義」と言ったら、神の正しさのことですね。

 

  感觉有点难理解,但是在圣经中说到“义”的话,是指神的公义。

 

それに飢え渇くということはどういうことでしょうか。

 

  渴慕神的公义是什么意思呢?

 

神様の正しさが行われていない。

 

  不行神的公义,

 

間違った人が堂々と間違ったことをしている。

 

  堂而皇之行不义之事。

 

それに我慢できない。

 

  对此难以忍受。

 

世の中一体どうなっているんだ、なんで自分がこんな目にあうんだ。

 

  人世间到底怎么了,为什么我要遭遇这种事。

 

そういうふうに思う。

 

  会这么想。

 

そして、本当に正しいことが行われるようになることを求める。

 

  于是,渴求真的能行公义。

 

そういうことですね。

 

  说的是这个。

 

そういうことですとこれは、私たちみんなそうです。

 

  我们大家都渴求这样的事。

 

私たちみんな、多かれ少なかれそう思っていますよね。

 

  大家多多少少也会这样想吧。

 

子どもだって思っていますよ。

 

  连孩子都会这么想。

 

これは昔話したことがある話ですが、私は幼稚園はキリスト教の幼稚園に通っていたんですね。

 

  之前讲到过,我幼儿园上的是基督教幼儿园。

 

出身が神戸ですから、半分くらいの幼稚園はキリスト教の幼稚園ですから、別に信仰のない家庭であっても、子どもをキリスト教の幼稚園に入れるんですね。

 

  我出生在神户,因为那里的幼儿园差不多一半左右都是基督教幼儿园,所以即使不信基督的家庭,也会进基督教幼儿园。

 

そこで、先生たちから神様の話を聞くわけなんですが、やっぱり幼稚園児にとっては目に見えないことですので、神様と言われても良く分からないんですね。

 

  虽然从老师们那里听了很多神的话语,但对于幼儿园的孩子来说,因为是看不见摸不着的东西,即使老师们说了,也还是搞不太明白。

 

そこで、同じ幼稚園に通っていた友人に聞きました。

 

  当时我问过在同一个幼儿园上学的好朋友:

 

「神様っているのかな?」。

 

  有神的?”

 

その友人は答えました。

 

  那个朋友回答说:

 

「神様がいるなら、こんな世の中のはずはないよ」。

 

  “如果有神的话,世界不可能是这样的。

 

幼稚園児がそんなことを言ったということに驚きますけれども、幼稚園児だって、世の中間違っていると思っているんですね。

 

  虽然对于幼儿园的孩子说出这种话感到很惊讶,但是确实连幼儿园的孩子都觉得这世道有问题。

 

考えてみますと、身の回りに、正しくないことが堂々と行われていることはいくらでもあるわけです。

 

  想想我们的周围,堂而皇之行不义之事的实在太多太多。

 

私が最近本気で世の中どうなっているんだと思ってしまったことがあったんですが、それは、近所に住んでいる車いすのおじさんのお手伝いをしていてなんですね。

 

  最近有件事还真的让我思考这世界到底怎么了,是帮忙住在附近的一位坐轮椅的大叔的事。

 

去年の年末に、教会の前を車いすのおじさんがコンビニの方に向かっていくんですね。

 

  去年年底,一位坐着轮椅的大叔经过教会往便利店去。

 

普通、車いすと言ったら手で車輪を回して進むんですけれども、手に力がないようで、足をパタパタ動かして、何とか前に進んでいるんですね。

 

  一般轮椅的话是用手转动轮子前进的,但似乎是手没有力气,踩着脚啪塔啪塔向前进。

 

それだと少しづつしか進みませんし、疲れておられるのか、10メートルごとに休みながら、なんですね。

 

  这样只能一点点往前,可能是累吧,每十米要休息一下。

 

それでお声をおかけしたら、すぐそこのコンビニに買い物に行くということでしたので、一緒に買い物して、家もすぐ近所でしたから、家まで行って、その日から、買い物のお手伝いをするようになったんです。

 

  我跟他打了个招呼,因为正好要去便利店买东西,就一起去了,家也离得很近,就送到了家门口,从那天起,一直帮忙买东西。

 

ですけれども、考えてみるとおかしいなと。

 

  但是想想的话感觉有点奇怪。

 

そのおじさん、完全に要介護なんですよ。

 

  那位大叔,完全需要看护。

 

それなのに、誰も身の回りの手助けをしていないんです。

 

  可是,并没有人照顾他的日常生活。

 

役所の人が月に一度くらい来ているようなんですが、病院に行くのすら手伝ってくれない。

 

  政府人员虽然一个月左右会来一次,但是就连去医院都不来帮忙。

 

独りで生活するのもままならないような人をほったらかし。

 

  对不能一个人生活的人不管不顾。

 

これはおかしいなと思って、教会にいらっしゃる看護師さんにお伺いしたところ、包括支援センターというものがあって、身の回りに事を何でも手伝ってくれるということでした。

 

  觉得很奇怪,于是请教了来教会的护士,说是有综合支援中心,日常起居任何事都能帮忙。

 

しかし、どうして役所の人は何も教えてくれなかったんでしょうか。

 

  可是为什么政府人员什么都没说呢?

 

どういうことなんでしょうか。

 

  到底是怎么回事?

 

世界にはもっとおかしなことがあります。

 

  世间还有更奇怪的事。

 

これは2001年に出版された本で、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、『世界がもし100人の村だったら』という本ですね。

 

  或许有人知道,2001年出版了一本书叫做《如果世界是个100人的村庄》。

 

その中には、こんなことが書かれています。

 

  这本书里写了这样的事:

 

「世界がもし100人の村だったら、100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。

 

  “如果世界是个100人的村庄,100人中有20人营养不良,1人将饿死,但是15人过于肥胖。”

 

これも、どうなんですかね。

 

  这又是怎么回事。

 

先進国では食べ物を捨てているんですね。

 

  发达国家浪费粮食。

 

そして、発展途上国では食べ物が足りないわけです。

 

  而发展中国家粮食不足。

 

しかし、先進国で余っている食べ物を発展途上国に送ることができれば、誰も飢えることはなくなるときいたことがあります。

 

  听说过如果能把发达国家剩余的食物送给发展中国家的话,谁都不会挨饿。

 

この本には、他にもこういうことが書かれていました。

 

  这本书里也写了其它的事。

 

「もしあなたがいやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従ってなにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています」。

 

  “如果你不怕惹人生气、逮捕、拷问或死亡,遵从信仰、信条、良心说话做事的话,比不这么做的另外48人更蒙恩惠。”

 

そして、この本の最後にはこう書かれていました。

 

  在书的最后这样写到:

 

「もしもたくさんのわたしたちがこの村を愛することを知ったならまだ間にあいます。人びとを引き裂いている暴力からこの村を救えます」。

 

  “如果我们中有很多人懂得爱这个村子,那么还来得及。可以从暴行中将这个村子拯救出来,以免分裂。”

 

私たちの身の回りにも、正しいことが行われていないと思うことはあるし、世界全体を見ても間違っているとしか言えないような現実があるわけです。

 

  就连我们的身边也有不义之事,纵观整个世界,只能说这是现实。

 

しかし、イエス様はそれについて、「幸いである」と言うんですね。

 

  可是,耶稣却说这是有福的。

 

それは「満たされる」からだと言うんです。

 

  因为“必得饱足”。

 

「満たされる」ということは、神の義、神の正しさが実現するってことですよね。

 

  “必得饱足”是指实现了神的义和神的公义。

 

それはどのようにしてでしょうか。

 

  这是怎么做到的呢?

 

間違いが直されることによってでしょうか。

 

  是把错的矫正吗?

 

間違っている人が滅ぼされることによってでしょうか。

 

  把犯错的人消灭吗?

 

そうではないんですね。

 

  不是的。

 

神の正しさは、神が人を救う、というかたちで現れるんです。

 

  神的公义表现在神对我们的拯救上。

 

新約聖書で神の義と言ったらそれは十字架のことです。

 

  新约中说到神的义是指十字架。

 

神の子キリストが人間の罪を背負って十字架にかかってくださったこと。

 

  是指神儿子基督背负人的罪被钉十字架。

 

それが神の正しさだと言うんですね。

 

  这是神的公义。

 

罪というのは聖書では、的外れということです。

 

  罪在圣经中是指偏离的意思。

 

神の正しさからずれているんですね。

 

  偏离了神的公义。

 

もし神が、何の罰も与えずに罪を許したとしたら、神は罪を見過ごす間違った方だということになってしまいます。

 

  如果神没有任何惩罚就原谅罪的话,那神就成了对罪视而不见的神了。

 

でも神様はそのような方ではない。

 

  但神并不是那样的神。

 

罪を見過ごす方ではないんですね。

 

  不会对罪视而不见。

 

人は本来、裁かれるべき者なんですね。

 

  人生来就该被审判。

 

私たちの身の回りを見ても、世界全体を見ても、神の目に正しいと言えるようなことはまずないわけです。

 

  我们周围也好,纵观全世界也好,在神眼里没有可以称得上公义的。

 

それは私たちだってそうですね。

 

  即便我们也是如此。

 

私たちには私たちの在り方が普通だと思っていますけれども、でも例えば、この世界が100人の村だったとして、飢えている15人が、私たちが食べ物を捨てているのを見たらどう思うでしょうか。

 

  虽然我们会觉得我们的行为很正常。但是比方说整个世界是个100人的村庄,挨饿的15人要是看到我们把吃的扔了会怎么想?

 

日本は食べ物の2割を捨てているんです。

 

  日本有两成的食物是丢掉的。

 

1年間に1人当たり152キロも捨てているんですね。

 

  每一年每个人会扔掉152公斤。

 

飢えている人はそれをどう見るでしょうか。

 

  挨饿的人会怎么看待这事?

 

日本は外国から食料を買っている国です。

 

  日本是食品进口国。

 

外国から買い集めて、捨てているんです。

 

  从国外买进集中起来再扔掉。

 

その一方で、世界では6秒に1人、栄養が足りなくて子どもが死んでいるんです。

 

  而另一方面,全世界每六秒就有一个孩子因为营养不良而饿死。

 

それを神様はどう見ますかね。

 

  神如何看待这事?

 

私は、食べ物を捨てる時、もったいないな、とは思うんです。

 

  我扔掉食物的时候会觉得好浪费。

 

でもそれは、「自分のお金を無駄にしてしまった」という感覚ですね。

 

  但其实是觉得浪费了自己的钱。

 

それは事実で、反省すべきことですけれども、的外れです。

 

  事实上这也是该反省的,但是却偏离了重点。

 

それは自分中心の感覚でしかないんです。

 

  这只是以自我为中心的想法。

 

聖書が罪だと指摘するのはそれですよね。

 

  这点正是圣经中指出的罪。

 

自分中心です。

 

  以自我为中心。

 

それは私たちにとっては普通のことかもしれません。

 

  可能这对我们来说很普通。

 

けれども、私たちにとって普通のことが、神様の目にも正しいとは限りません。

 

  但是对我们而言很平常的事情,在神眼里未必是公义的。

 

いやむしろ、神の義というのは、滅ぼされるべき私たちの代わりに、神の子が罰を受けてくださったということですから、大変なことですね。

 

  岂止如此,神的义是神子代替该被灭亡的我们接受惩罚,所以非常了不起。

 

私たちは滅ぼされるべきものだと聖書は言っているんです。

 

  圣经上说我们是该被灭亡的。

 

しかし、神の義は、間違っている私たちを滅ぼすものではなかったんです。

 

  可是,神的义是不让犯了错的我们灭亡。

 

正しいことを行えない私たちを何とかして救うものだったんです。

 

  无论如何也要拯救行不义的我们。

 

私たちは身の回りを見ても世界を見ても、間違っていると思うことがあります。

 

  我们身边也好,整个世界也好,充满了罪恶过犯。

 

そして、本当の正しさが実現することを強く願います。

 

  因此,我们强烈渴望实现真正的公义。

 

ただ、気を付けなければならないのは、私たちがそのようにして神の義を求める時、私たちは知らない内に自分を正しい側に置いてしまっているんです。

 

  只是必须要注意的是,我们在如此渴求神的义的同时,我们在不知不觉中把自己归在了公义的一方。

 

自分を神の側に置いてしまっているんですね。

 

  把自己归在了神的一方。

 

けれども、神の子が私たちに代わって罰を受けたというのはどういうことでしょうか。

 

  那么,神子代替我们接受惩罚又算什么呢?

 

私たちは誰も正しくないんです。

 

  我们没有谁是公义的。

 

私たちは皆、死に値するんです。

 

  我们大家都当死。

 

聖書はそう言っているんです。

 

  圣经上这么说。

 

私たちは神の目には、「世の中一体どうなっているんだ」、「なんで自分がこんな目にあうんだ」、そんなことを言う資格は最初からないんですね。

 

  我们在神的眼里,从一开始就没有资格说“这世界到底怎么了”、“为什么我会遭遇这种事”。

 

そういうふうに言いたくなることがない人というのはいないんでしょうけれども。

 

  但是却没有人不想这么说。

 

私たちみんな、「義に飢え渇いて」います。

 

  我们大家都“饥渴慕义”。

 

それは満たされるんです。

 

  也必得饱足。

 

ただそれは、私たちの考えもしなかった仕方です。

 

  只是我们万万没想到。

 

神の子が命を投げ出してくださるという仕方で、なんです。

 

  办法是要让神子舍命。

 

もうそれくらいしないと、どうしようもないくらい、私たちはみんな間違っていると神は言っておられるんです。

 

  神说如果不这样的话就不行,因为我们大家都犯了错。

 

世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。

 

  世间没有不犯错的。

 

人の目にも、神の目にも。

 

  在人眼里也好,在神眼里也好。

 

私たち自身、誰かから見たら明らかに間違っています。

 

  我们谁都清楚自己犯了错。

 

けれども、神はそんな私たちを救うんです。

 

  但是神拯救这样的我们。

 

世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。

 

  世间的过犯不会消失。

 

けれどもそれも、神の義の中にあることだということです。

 

  但是这也在神的义中。

 

世界は丸ごと神の義の中にあります。

 

  世界整个儿都在神的义中。

 

神は、人が、たとえ正しくなくても、とにかく人を救いたい。

 

  即使人类再不义,神无论如何都想要拯救人类。

 

正しくなくても、とにかく。

 

  即使不义也要拯救。

 

これは、愛しているということですね。

 

  这就是爱。

 

良く考えてみてどうするか、ということではないんです。

 

  不是深思熟虑后决定的。

 

理屈ではないんです。

 

  是毫无理由的。

 

だから、命を捨てるところまで、人を愛し抜いたんです。

 

  神爱我们爱到舍命。

 

その愛の中に私たちは今、生かされています。

 

  我们现在活在这份爱里。

 

そのことを知っている私たちになら、私たちの目に間違っていると思うことがある時に、愛をもって何かをすることができるのではないかと思うんですね。

 

  知道这一点的我们,看到有过犯的时候,让我们带着爱心想想我们可否为此做点什么。

 

それが本当の意味で神の側に立つことではないかと思うんです。

 

我觉得这才是真正意义上的站到神的一边不是吗?