今週の説教「憐れみ深い人々は幸い」(新約聖書・マタイによる福音書5章7節)

⛪今週の予定

9/17(月・祝)東部中会信徒修養会「聖書がいのちのことばになるためには」(当日参加も可能。所沢市民文化センター、10:00-15:00)

9/18()礼拝(9:00-10:00)、韓国語教室(13:00-15:30)

9/19()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)

9/20()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

9/21()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

9/22()牧師週休日

9/23()私的な学び会(9:00-10:00)、学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:00)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)、掃除

 

 

🎤9/23()の説教:長田詠喜牧師(新所沢伝道所)

聖書・エフェソの信徒への手紙13-6

説教題「人の目的」

賛美歌・1563238245865-12740-5

 

📅来月までの教会の行事

10/21()ユース集会

10/28()12回チャリティー・ゴスペル・ライブ

 

📅来月までの中大会の行事

9/24(月・休)宇都宮教会新会堂献堂式(11:30-12:30)

9/30()連合長老会例会、連合執事会例会

10/8(月・祝)73回定期大会(10[]まで)

10/14()近隣三教会講壇交換(尾崎牧師は江古田教会へ、当教会は新井主一牧師[高島平キリスト教会])

 


第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

 

2018年10月28日(日)14時30分から16時30分

 

 

 

凪ゆうこ

 

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

 

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

 

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

 

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

当教会のゴスペル・スクールの講師。

 

 

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500

 

 

 

凪ゆうこゴスペル・スクール

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・トライアル1回500

第2日曜13:0014:30

第4日曜14:0015:30


憐れみ深い人々は幸い

 

マタイによる福音書57

 

憐れみ深い人々は、幸いである、

 

その人たちは憐れみを受ける。

 

 

 

 

 

今日の話も私たちにとって分かりやすい話ではないかと思います。

 

「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われますともう、そうですね、という感じですね。

 

しかし、ここで言う、「憐れみ深い」とはどういう意味なんでしょうか。

 

聖書で「憐れみ」と言ったら、まず神様を指してつかわれる言葉なんですね。

 

イエス様も、そういうつもりで「憐れみ」という言葉をつかいます。

 

憐れみについてのイエス様の話、と言いますと、私はルカによる福音書の1025節からの「善いサマリア人」という話を思い出すのですが、その話の中で、「憐れみ」という言葉が出てきますね。

 

どういう話だったかと言うと、まず、強盗に襲われて殺されかけて、倒れている人がいるわけです。

 

そこをたまたま通りかかったサマリア人は、「その人を見て憐れに思い」、助けたということですね。

 

憐れんで、助けた。

 

そんな憐れみの話です。

 

ただここで大事なのは、サマリア人というのは、ユダヤ人と敵同士なんです。

 

ですからこの話は、もう少し深い話なんですね。

 

単にかわいそうだったから助けたという話ではないんです。

 

ただ、この話では、倒れていた人がユダヤ人だったとは書かれていません。

 

まあ、場所がイスラエルですから、ユダヤ人かサマリア人かだったんでしょうけれども、もしかしたらローマ人だったかもしれないんですね。

 

ですので、この話というのは、相手が誰であれ助けるということなんです。

 

相手が誰なのかは問題じゃない。

 

と言うか、相手が誰であるかを問題にしない。

 

敵であれ味方であれ、助けを必要としている人を助ける。

 

その人が助けを必要としているから。

 

もう本当に、憐れみにだけ集中しているような憐れみなんです。

 

自分の立場がどうのとか、相手の立場がどうのとかじゃないんですね。

 

それが神の憐れみなんだ、とイエス様は言うんです。

 

もうこれは私たちが憐れみと言っているものとは違うわけです。

 

私たちの「憐れみ」は、単に弱い立場の人を助ける、困っている人を助ける、というだけのことですよね。

 

でも、イエス様の言う憐れみは、どんな相手でも、相手がどういう人かなんていうことを全く気にせずに助けることなんです。

 

助けるというより、愛すると言った方がいいかもしれませんね。

 

何しろこのサマリア人は、死にかけている人に手当てをしてあげただけではなくて、宿屋に連れて行って、宿屋で2万円を払って、宿屋の主人にお世話をしてくれるようにお願いしたんです。

 

「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで言って。

 

これはもう助けたというより愛した、というくらいのことですよね。

 

つまり、イエス様の言う憐れみというのは、相手がどんな人でも愛するっていうことなんです。

 

心したいですね。

 

私たちは、自分と相手の立場の違いとか相手の性格とか行いとか、そういうものをまず最初に見ますけれども、それを見てしまったらなかなか愛せないんですね。

 

そういうものって、自分と違うから。

 

立場とか性格とか行いとか、そういうものがまったく一致している人って、そうはいないから。

 

だから、逆に言って、神の憐れみを私たちが持つことができるとしたら、それは、自分と相手に同じものを見ることが大切なのかなとも思います。

 

注目したいのが、ここでつかわれている「憐れみ深い」という言葉なんですね。

 

新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、この言葉をユダヤ人の言葉、旧約聖書の言葉であるヘブライ語に直すと、そのもとの意味は、「母の胎」を意味する言葉なんですね。

 

お母さんにとってお腹の中にいる赤ちゃんというのはどんなものでしょうか。

 

もう、自分と子どもが別物だと思えないんじゃないでしょうか。

 

自分の内に、命がある。

 

自分にも命があるんですが、自分の内にも命がある。

 

まだ顔を見ることもできないんですが、命がある。

 

自分の命も子どもの命も、同じように尊い。

 

どちらの命も、神から与えられた命。

 

それを見つめるなら、私たちも憐れみ深い者にされていくんでしょうね。

 

 

 

しかし、私たちはいつもいつもそうすることができるでしょうか。

 

「憐れみ深い」と言われるほどに私たちが神様と心を一つにするようにして、すべての人をいつも憐れむことができるでしょうか。

 

そう考えてしまうと、なんだか落ち込んでしまいそうです。

 

しかし、イエス様は私たちを落ち込ませるためにこんなことを言っているのではないんですね。

 

イエス様は私たちに、「憐れみ深い人々は幸いである」と言っておられます。

 

イエス様は私たちに幸いになってほしいんです。

 

憐れみ深い人々はどうして幸いなのでしょうか。

 

「憐れみを受ける」からだと言われていますね。

 

神様が私たちを憐れんでくださるから、私たちは幸いなんです。

 

実際、私たちは神様の憐れみを受けているじゃないですか。

 

私たちはもともと、神様に背く者でした。

 

神様に従えない者でした。

 

しかし、そのような、神の敵だったのに、私たちは赦していただいたんだと聖書は言います。

 

敵である私たちを神様は赦してくださったんです。

 

もう少し正確に言うと、私たちが受けるはずだった罰を、代わりに神の子が受けてくださったんですね。

 

それが十字架です。

 

それによって、私たちが神のもとに帰る道が開かれたんです。

 

私たちはまさに、神の憐れみを受けているんです。

 

もう受けているんです。

 

私たち自身はまだまだイエス様の言うようなことはできないけれども、私たちはすでに、神の憐れみを受ける、幸いな者です。

 

ということは、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」というのは、「もしあなたがたが頑張って、神様のように憐れみ深くなったら、その時には神様が憐れんでくださるよ」ということではないんですね。

 

私たちはもう憐れみを受けているんですから。

 

そして、イエス様から、憐れみとはどういうものであるのかも聞いています。

 

だから、私たちは、憐れみ深くなることができます。

 

もし私たちが本当の憐れみがどういうものなのかということを聞いていなかったら、私たちは憐れみ深くなることはできないでしょう。

 

普通に考えて、憐れみというのは、ただ、困っている人を助けるというだけのことです。

 

でもそうじゃないんですね。

 

本当の憐れみというのは、相手がどのような人であっても精一杯愛することなんです。

 

また、話を聞いただけでは、私たちは実際にやってみようという気にはならないでしょうね。

 

私たちは、神様の憐れみについて聞いていて、その神様の憐れみを実際に受けているから、そうなりたいと思えるんです。

 

神様の憐れみは全く常識外れですよ。

 

けれども、そんな常識外れのことをしてまで、神様は私たちをご自分のもとに引き寄せたいんです。

 

1人も失われてほしくないんです。

 

逆に言うと、私たちは、常識外れのことをしなかったら、普通に考えたんだったら、滅ぶしかないような存在なんだということです。

 

どうしようもない存在だということなんです。

 

神の目にはそうなんです。

 

私たちはまさに神の敵なんです。

 

けれども、そんな私たちでも、神様はどんなことをしてでも赦したい、救いたい、失われてほしくない。

 

それが神の憐れみなんですね。

 

それが、今、私たちに及んでいます。

 

では、その私たちは人に対してどのようにあるべきでしょうか。

 

イエス様は言います。

 

「憐れみ深い人々は、幸いである」。

 

神様の憐れみの中で、私たちが何を見すえて、どのようにあるべきか、しっかりと考えたいと思います。

 


憐み深い人々は幸い(怜恤人的人有福了)

 

今日の話も私たちにとって分かりやすい話ではないかと思います。

 

  我觉得今天要讲的对我们来说也比较容易理解。

 

「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われますともう、そうですね、という感じですね。

 

  说到“怜恤人的人有福了”,会有确实如此这样的感觉吧。

 

しかし、ここで言う、「憐れみ深い」とはどういう意味なんでしょうか。

 

  可是,这里所说的“怜恤”是什么意思呢?

 

聖書で「憐れみ」と言ったら、まず神様を指してつかわれる言葉なんですね。

 

  圣经中说到“怜悯”一词,首先指的是神。

 

イエス様も、そういうつもりで「憐れみ」という言葉をつかいます。

 

  耶稣用“怜悯”也是这个意思。

 

憐れみについてのイエス様の話、と言いますと、私はルカによる福音書の1025節からの「善いサマリア人」という話を思い出すのですが、その話の中で、「憐れみ」という言葉が出てきますね。

 

  耶稣讲到怜悯,让我想到了路加福音1025节开始的“好撒玛利亚人”的故事,里面也出现了“怜悯”一词。

 

どういう話だったかと言うと、まず、強盗に襲われて殺されかけて、倒れている人がいるわけです。

 

  是怎样的故事呢?是讲有一个人遭强盗袭击被打,倒在路边,

 

そこをたまたま通りかかったサマリア人は、「その人を見て憐れに思い」、助けたということですね。

 

  碰巧经过那里的撒玛利亚人,“看到他就动了怜悯之心”,帮助了他。

 

憐れんで、助けた。

 

  心生怜悯,出手相助。

 

そんな憐れみの話です。

 

  这样的故事。

 

ただここで大事なのは、サマリア人というのは、ユダヤ人と敵同士なんです。

 

  只是这里的重点是撒玛利亚人是犹太人的死对头。

 

ですからこの話は、もう少し深い話なんですね。

 

  因此这个故事,有更深层的含义。

 

単にかわいそうだったから助けたという話ではないんです。

 

  不是单纯地因为可怜所以出手相助这样的故事。

 

ただ、この話では、倒れていた人がユダヤ人だったとは書かれていません。

 

  只是故事里并没有记载倒下的人就是犹太人。

 

まあ、場所がイスラエルですから、ユダヤ人かサマリア人かだったんでしょうけれども、もしかしたらローマ人だったかもしれないんですね。

 

  因为地点是在耶路撒冷,所以可能是犹太人或是撒玛利亚人,但是也有可能是罗马人。

 

ですので、この話というのは、相手が誰であれ助けるということなんです。

 

  因此,这个故事说是不管对方是谁都出手相助。

 

相手が誰なのかは問題じゃない。

 

  对方是谁不是问题。

 

と言うか、相手が誰であるかを問題にしない。

 

  也就是说,问题不在于对方是谁。

 

敵であれ味方であれ、助けを必要としている人を助ける。

 

  不分敌我,帮助需要帮助的人。

 

その人が助けを必要としているから。

 

  因为那人需要帮助。

 

もう本当に、憐れみにだけ集中しているような憐れみなんです。

 

  真正地只是因为怜悯而怜悯。

 

自分の立場がどうのとか、相手の立場がどうのとかじゃないんですね。

 

  自己的立场如何,对方的立场如何,并没有关系。

 

それが神の憐れみなんだ、とイエス様は言うんです。

 

  耶稣说那是神的怜悯。

 

もうこれは私たちが憐れみと言っているものとは違うわけです。

 

  这与我们所说的怜悯不一样。

 

私たちの「憐れみ」は、単に弱い立場の人を助ける、困っている人を助ける、というだけのことですよね。

 

  我们的怜悯只是帮助弱势群体和有困难的人。

 

でも、イエス様の言う憐れみは、どんな相手でも、相手がどういう人かなんていうことを全く気にせずに助けることなんです。

 

  但是,耶稣所说的怜悯是指无论对方是谁,完全不在乎对方是怎样的人而给与帮助。

 

助けるというより、愛すると言った方がいいかもしれませんね。

 

  与其说是帮助,说成爱或许更合适。

 

何しろこのサマリア人は、死にかけている人に手当てをしてあげただけではなくて、宿屋に連れて行って、宿屋で2万円を払って、宿屋の主人にお世話をしてくれるようにお願いしたんです。

 

  这个撒玛利亚人,不仅处理了那将死之人的伤口,还把他带到客栈,付了二钱银子拜托店主照顾。

 

「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで言って。

 

  甚至还说:“费用不够的话,我回来再付。”

 

これはもう助けたというより愛した、というくらいのことですよね。

 

  这点相比帮助,已经是爱的程度了吧。

 

つまり、イエス様の言う憐れみというのは、相手がどんな人でも愛するっていうことなんです。

 

  总之,耶稣所说的怜悯是指不管对方是怎样的人都要爱。

 

心したいですね。

 

  要留心的是:

 

私たちは、自分と相手の立場の違いとか相手の性格とか行いとか、そういうものをまず最初に見ますけれども、それを見てしまったらなかなか愛せないんですね。

 

  我们首先会看自己和对方的立场是否相同,对方的性格、行为这些,但是看了这些的话就难以去爱了。

 

そういうものって、自分と違うから。

 

  因为这些与自己的不一样。

 

立場とか性格とか行いとか、そういうものがまったく一致している人って、そうはいないから。

 

  立场、性格、行为,这些和自己完全一致的人是没有的。

 

だから、逆に言って、神の憐れみを私たちが持つことができるとしたら、それは、自分と相手に同じものを見ることが大切なのかなとも思います。

 

  所以反过来说,我们如果可以拥有神那样的怜悯的话,重点是要看到自己和对方有相同之处。

 

注目したいのが、ここでつかわれている「憐れみ深い」という言葉なんですね。

 

  想要大家注意的是,这里使用的“怜恤”一词。

 

新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、この言葉をユダヤ人の言葉、旧約聖書の言葉であるヘブライ語に直すと、そのもとの意味は、「母の胎」を意味する言葉なんですね。

 

  新约是用希腊语写的,这一词用犹太人的语言,旧约所使用的希伯来语直译的话,原意是“母胎”。

 

お母さんにとってお腹の中にいる赤ちゃんというのはどんなものでしょうか。

 

  对母亲来说腹中的婴孩是怎样的存在呢?

 

もう、自分と子どもが別物だと思えないんじゃないでしょうか。

 

  不会认为自己和孩子是不同的吧?

 

自分の内に、命がある。

 

  自己的里面有生命。

 

自分にも命があるんですが、自分の内にも命がある。

 

  自己有生命,自己的里面也有生命。

 

まだ顔を見ることもできないんですが、命がある。

 

  虽然还不能见面,但是有生命。

 

自分の命も子どもの命も、同じように尊い。

 

  自己的生命和孩子的生命,同样珍贵。

 

どちらの命も、神から与えられた命。

 

  不管哪个生命,都是神所赐的。

 

それを見つめるなら、私たちも憐れみ深い者にされていくんでしょうね。

 

  如果能注意到这点,我们也能成为怜恤人的人。

 

しかし、私たちはいつもいつもそうすることができるでしょうか。

 

  可是,我们能一直做到这样吗?

 

「憐れみ深い」と言われるほどに私たちが神様と心を一つにするようにして、すべての人をいつも憐れむことができるでしょうか。

 

  我们能一直做到像这里所说的“怜恤”那般与神同心,怜悯所有人吗?

 

そう考えてしまうと、なんだか落ち込んでしまいそうです。

 

  这样想的话,感觉似乎有点失落。

 

しかし、イエス様は私たちを落ち込ませるためにこんなことを言っているのではないんですね。

 

  可是,耶稣不是为了让我们感到失落才说那样的话。

 

イエス様は私たちに、「憐れみ深い人々は幸いである」と言っておられます。

 

  耶稣对我们说“怜恤人的人有福了”。

 

イエス様は私たちに幸いになってほしいんです。

 

  耶稣希望我们变得有福。

 

憐れみ深い人々はどうして幸いなのでしょうか。

 

  为什么怜恤人的人有福呢?

 

「憐れみを受ける」からだと言われていますね。

 

  耶稣说因为“必蒙怜恤”。

 

神様が私たちを憐れんでくださるから、私たちは幸いなんです。

 

  因为神怜悯我们,所以我们有福。

 

実際、私たちは神様の憐れみを受けているじゃないですか。

 

  实际上,我们正受着神的怜悯。

 

私たちはもともと、神様に背く者でした。

 

  我们原本背离神。

 

神様に従えない者でした。

 

  不跟从神。

 

しかし、そのような、神の敵だったのに、私たちは赦していただいたんだと聖書は言います。

 

  可是圣经上说虽然我们与神敌对,但是却获得了赦免。

 

敵である私たちを神様は赦してくださったんです。

 

  神赦免了与他敌对的我们。

 

もう少し正確に言うと、私たちが受けるはずだった罰を、代わりに神の子が受けてくださったんですね。

 

  更确切点说的话,我们该受的惩罚神的儿子替我们受了。

 

それが十字架です。

 

  那就是十字架。

 

それによって、私たちが神のもとに帰る道が開かれたんです。

 

  因此,我们回归神的路敞开了。

 

私たちはまさに、神の憐れみを受けているんです。

 

  我们的的确确受着神的怜悯。

 

もう受けているんです。

 

  已经领受了。

 

私たち自身はまだまだイエス様の言うようなことはできないけれども、私たちはすでに、神の憐れみを受ける、幸いな者です。

 

  我们自己还做不到耶稣所说的那样,却已经是蒙神怜悯的有福之人。

 

ということは、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」というのは、「もしあなたがたが頑張って、神様のように憐れみ深くなったら、その時には神様が憐れんでくださるよ」ということではないんですね。

 

  “怜恤人的人有福了,因为他们必蒙怜恤。”并不是说“如果你们努力像神那样怜恤人的话,也会得到神的怜悯。”

 

私たちはもう憐れみを受けているんですから。

 

  我们已经蒙神怜悯。

 

そして、イエス様から、憐れみとはどういうものであるのかも聞いています。

 

  而且,也从耶稣那里聆听了怜悯的含义。

 

だから、私たちは、憐れみ深くなることができます。

 

  因此,我们可以做到怜恤人。

 

もし私たちが本当の憐れみがどういうものなのかということを聞いていなかったら、私たちは憐れみ深くなることはできないでしょう。

 

  如果我们没有听到真正的怜悯是什么的话,我们就做不到怜恤。

 

普通に考えて、憐れみというのは、ただ、困っている人を助けるというだけのことです。

 

  一般会认为怜悯只是帮助有困难的人。

 

でもそうじゃないんですね。

 

  其实并不是。

 

本当の憐れみというのは、相手がどのような人であっても精一杯愛することなんです。

 

  不管对方是怎样的人都竭尽全力去爱,那才是真正的怜悯。

 

また、話を聞いただけでは、私たちは実際にやってみようという気にはならないでしょうね。

 

  另外,只是听听的话,我们实际上并不真的想要那样做。

 

私たちは、神様の憐れみについて聞いていて、その神様の憐れみを実際に受けているから、そうなりたいと思えるんです。

 

  因为我们聆听神的怜悯,真实地感受神的怜悯,所以我们也想那样。

 

神様の憐れみは全く常識外れですよ。

 

  神的怜悯完全出乎常理。

 

けれども、そんな常識外れのことをしてまで、神様は私たちをご自分のもとに引き寄せたいんです。

 

  但是,就算出乎常理,神也想把我们带到他的身边。

 

1人も失われてほしくないんです。

 

  一个也不想失去。

 

逆に言うと、私たちは、常識外れのことをしなかったら、普通に考えたんだったら、滅ぶしかないような存在なんだということです。

 

  反过来说,如果不是出乎常理,只是正常思维的话,我们只能被灭亡。

 

どうしようもない存在だということなんです。

 

  无法挽救了。

 

神の目にはそうなんです。

 

  在神眼里是这样的。

 

私たちはまさに神の敵なんです。

 

  我们的确与神敌对。

 

けれども、そんな私たちでも、神様はどんなことをしてでも赦したい、救いたい、失われてほしくない。

 

  但是,即使是这样的我们,神无论如何都想要赦免我们,救赎我们,不想失去我们。

 

それが神の憐れみなんですね。

 

  这就是神的怜悯。

 

それが、今、私たちに及んでいます。

 

  如今神的怜悯临到我们。

 

では、その私たちは人に対してどのようにあるべきでしょうか。

 

  那么我们应该如何对待人呢?

 

イエス様は言います。

 

  耶稣说:

 

「憐れみ深い人々は、幸いである」。

 

  “怜恤人的人有福了。”

 

神様の憐れみの中で、私たちが何を見すえて、どのようにあるべきか、しっかりと考えたいと思います。

 

在神的怜悯中,我们该着眼于什么,该如何做?希望大家好好思考。