
✜10/1(月)牧師週休日
✜10/2(火)聖書を読む会(10:30-12:00)、韓国語教室(初級、13:00-14:15、中級14:15-15:30)
✜10/3(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30-20:30)
✜10/4(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
✜10/5(金)それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:10と21:00-21:10)
✜10/7(日)学び会(その日のハイデルベルク信仰問答、10:00-10:15)、奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(10:30-12:00)、食事会(12:00-13:00)、合同役員会(13:00-14:30)、小会(14:30-16:00)、掃除
🎤10/7(日)の説教:尾崎純牧師
説教題「平和を実現する人々は幸い」
賛美歌・156、32、38、211、575、405、65-1、24、40-5
📅来月までの教会の行事
✜10/21(日)ユース集会
✜10/28(日)第12回チャリティー・ゴスペル・ライブ
📅来月までの中大会の行事
✜10/8(月・祝)第73回定期大会(10日[水]まで)
✜10/14(日)近隣三教会講壇交換(尾崎牧師は江古田教会へ、当教会は新井主一牧師[高島平キリスト教会])

第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ
2018年10月28日(日)14時30分から16時30分
凪ゆうこ
ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。
NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。
第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。
現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。
当教会のゴスペル・スクールの講師。
収益は被災地に全額寄付されます。
チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500円
凪ゆうこゴスペル・スクール
生徒募集中!!
受講料
3ヶ月3,000円・トライアル1回500円
第4日曜14:00~15:30

「心の清い人々は幸いである」
マタイによる福音書5章8節
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
今日の御言葉を聞いたら、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。
そうなんですか……、という感じでしょうかね。
何かこう、あまりピンとこない、と言いますか……。
「神を見る」と言われましても、という感じですね。
心の清い人々は神を見る、と言われているんですが、まあそれはそうかもしれないとは思いますが、私たちの中に、「自分は心が清い」と言える方が一人でもおられますでしょうか。
これ、イエス様の言葉なんです。
神の子を前にして、私は心が清いです、と言えますかね。
それだけではなくて、心の清い人は神を見る、と言われております。
そんなことを言われてしまいますと、私はこの目で見たことがない、だったら私の心はどうなのか、と考えてしまいそうです。
ただ、ここで言う「心が清い」とはどういうことなのでしょうか。
「神を見る」とはどういうことなのでしょうか。
私たちの感覚で言うと、私たちは心が清いとはなかなか言えないし、この目で神を見たとも言えないわけです。
けれども、これはイエス様が言っていることなんですね。
神の言葉なんです。
人間の言葉ではないわけです。
ということは、私たちはこの言葉を私たちの感覚で理解しようとしても仕方ないんですね。
では、一体、神の言葉で「心が清い」と言ったら、それはどういうことなのでしょうか。
この「清い」という言葉は旧約聖書によく出てくる言葉ですね。
旧約聖書では、どういうものが清い、どういうものが汚れているということが良く言われます。
例えば、旧約聖書のレビ記には、そのことばかりずらずらっと書かれている個所もあります。
そこでは、ある病気などが汚れているとされています。
そして、それが治ったら清いと言われるんですね。
例えばらい病がそうです。
らい病というのは、今の言葉で言うとハンセン氏病を含むような病気で、ハンセン氏病だけを指しているわけではないのですが、皮膚が崩れたようになってしまう病気です。
そのような病気にかかると、汚れている、ということになりまして、それが治ると清いと言われるんですね。
そうなりますと頭の毛が心配な私としては、髪の毛がなくなってしまったらどうなんだろうか、と心配になります。
これ、調べてみると、本当に聖書に書いてあったんですね。
レビ記の13章40節と41節ですが、こういうふうに書かれていました。
「もし、頭部の毛が落ちて、後頭部がはげても、その人は清い。もし、前頭部の毛が落ちて、そこがはげても、その人は清い」。
これを聞くと安心ですね。
いやもうこれは男性全員が喜んでいいことです。
まあとにかく、旧約聖書は、そういうことをいろいろ書いて、何が清くて何が汚れているのかという認識を持たせようとしているわけなんです。
食べ物のことでもいろいろ書かれています。
例えば、うろこのない魚は汚れていると言われます。
うなぎ、エビ、イカ、タコなんかはそうですよね。
こういったものは汚れているから食べてはいけないという話になるんです。
ただこれ、理由がはっきりしないんですね。
旧約聖書ではうなぎとかエビとかイカとかタコとかが汚れているということになっていて、食べてはいけないことになっているんですが、そもそも、聖書の一番最初のページには、神様が造られたすべての生き物はすべて良いものだったと書かれているわけじゃないですか。
良いものなのに汚れているなんて、どういうことでしょうか。
これは要するに、「清い」とか「汚れている」という言葉を文字通りに受け取ってはいけないということですね。
文字通りの意味ではないんです。
全ては神様が造られた良いものなんですから。
うろこのない魚がダメな生き物なのではないんですね。
では私たちはこれをどういうふうに理解すればいいのか、ということなんですが、聖書のそのページを開きますと、食べてはいけないもののリストの最後に、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているんですね。
あなたがたは神の民だということなんです。
だから、神の民である証として、食事からして、他の人たちとは違う食事をしなさいということなんですね。
そしてそれが、聖なる神の命令だから、食べていいもののことを「清い」、食べてはいけないもののことを「汚れている」と表現したんです。
食べていいのかいけないのかを決めたのは聖なる神だからです。
ですので、理由ははっきりしないんですが、神の命令だから食べない。
とにかく、神の言葉に従う、ということですね。
それでこそ神の民なんだ、ということなんです。
ですから、この「清い」とか「汚れている」という言葉は、そういう感覚を持つことが「御心に適っている」というくらいのことなんですね。
ただ理由は分かりません。
理由を言わずに「とにかくこれはだめ」、「これはいい」と言われているんですね。
それは言ってみれば、子どもに対して教える時の教え方ですね。
理由を言わずに、とにかくやらせる、やめさせる。
それは相手が子どもだったら仕方ないことですね。
本当に小さい子どもに対しては、そういう教え方をするしかありません。
そして、この、旧約聖書のレビ記の言葉が伝えられた時には、神の民は、まだ神の民としてほんの小さい子どもだったんです。
この時、まだ、神の民はできたばかりのグループで、自分は神の民だ、ということもまだよく分かっていなかったんです。
まだ神の民として子どもだったんですね。
自分が何者なのかも良く分かっていない子どもだったんです。
ですので、この時はそういう教え方をするしかありませんでした。
けれども、イエス様が来てくださって、もっとしっかり理解できるように神様の御心を伝えてくださって、神の民は大人になりました。
ですので、今は食べてはいけないものというのはないんです。
そのことは新約の使徒言行録10章にはっきり書かれています。
また、らい病が汚れているということでもありません。
イエス様はわざわざらい病の人に手を触れていやしたんでした。
もし本当に汚れているんだったら、イエス様だって触りませんよね。
要するに、理由も聞かずに言われた通りにしなさいという教え方をする段階は卒業したんです。
イエス様ははっきり言っていますね。
この福音書の15章11節ですが、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と言っています。
食べ物が問題じゃないんですね。
人の言葉こそが問題なんです。
私たちが何を語るのかが本当に大事なことなんです。
そして、言葉は私たちの心から出てきますから、本当に大事なのは私たちの心なんです。
ある食べ物を食べたり食べなかったりして、それで神様の言葉を守れたかどうか、なんていう段階の話ではもうないんです。
そういうことですから、旧約聖書にはルールがたくさんありますが、イエス様のルールは一つだけですね。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。
これですね。
これが大事なんです。
最初はまずはどんなことでも「はい」と言って神様の言うことを聞くことも大事だったでしょうが、結局神様が私たちに望んでおられることは互いに愛し合うことですから、それだけが本当に大事なんです。
ただ、そうなりますと、「心が清くなければならない」と思いますね。
ただ、清いというのも汚れているというのも、御心に適っているかどうかを表す言葉だったんでした。
ということは私たちは御心を知らなくてはならないですね。
自分で判断することではないわけなんですから。
そして、もっと大事なことは、どうして、何かが清い、何かが汚れている、と言われるのか、ということです。
「これは清いから大丈夫」、「これは汚れているからダメだ」というルールがたくさんあるわけですが、それは、「清いんだったら神の前に出ることができる」、「汚れている間は神の前に出てはいけない」ということなんです。
要するに、その人が御心に適っていて、神の前に出ることができるかどうか、という話なんですね。
では、どういう人が御心に適っていて、神の前に出ることができるのでしょうか。
まさにこのことをイエス様が話してくださった場面があります。
これは聖書を開いていただきたいんですが、ルカによる福音書18章10節からのところです。
少し長いのですがお読みいたします。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
御心に適っていたのは徴税人でした。
本当の意味で神の前に出ることができたのは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことしかできなかったこの人なんですね。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。
そういうふうにしか言うことができないとしたら、この人は、自分の心が清いなどとは思っていないわけです。
それに対して、ファリサイ派の人は、自分では、自分は御心に適っていて神の前に出ることができると考えていますよね。
この人は自信満々でした。
でも、この人は清い人ではなかったんです。
人間の考えと神様の考えは違うんですね。
だから私たちはいつも御心を求める必要があります。
意識して自分の考えを退ける必要があるんです。
しかし、どうして、このたとえ話はこういう結論になったんでしょうか。
どうして徴税人は御心に適っていたんでしょうか。
徴税人は、自分の罪を悔いています。
ひとつには、そのことがあるでしょう。
私たちには皆、罪があります。
神に対する罪ですね。
神に背くという罪です。
私たちは皆、いつもいつも神様に従っているわけではありません。
私たちは皆、御心に適う者ではないんです。
清い者なんかではないんです。
神の目に私たちはそうなんです。
だとしたら、自分の罪を悔いるということは、御心に適うことになりますね。
それだけではありません。
ファリサイ派の人はどういうふうに祈っているでしょうか。
この人は、自分と他の人を比べています。
自分は他の人より立派だと言っているんです。
この人の心は、神様に向かっていないんですね。
それに対して、徴税人はどうでしょうか。
目を天に上げようともしないんです。
しかし、この人の心はどうでしょうか。
ただ、神の憐れみを求めているんです。
それが御心に適ったんですね。
ですから、「心の清い人」という言葉は、御心に適う人、ということなんですが、それをまた、こういうふうに言い換えることもできるかもしれません。
心の清い人というのは、自分の罪を悲しみながら、神様を求める人である、ということですね。
そして、そのような人は神を見ると言われています。
それは、私たちが頑張って自分の心を清めていって、私たちの心がいつか清くなったら神を見ることができるということではありません。
このたとえ話からは、こう言うことができます。
私たちが、自分の罪を悲しみながら、一心に神を求めるなら、私たちは神を見出すことになる。
この徴税人を神様はどう扱ってくださいましたか。
この人は「義とされて家に帰った」と書かれています。
義というのは神の前に正しいということです。
罪を悔いて神を求める人に、神は、「それでいいんだよ」と言ってくださるんです。
私たちは、その、神の赦しを見出すんです。
「神を見る」とはそういうことでしょう。
そうなりますと、私たちは皆、「心の清い人々」と言われる資格は十分ですね。
何しろ私たちはこの礼拝の中で、自分の罪を悔いて、神を求めました。
それは御心に適うことです。
そして、その私たちを神は義としてくださっています。
私たちはそう信じていいんです。
まして、私たちは、今、私たちの罪をゆるす十字架の前にいます。
私たちは今、まさに神を見ているんです。
ですから、こう言われています。
「心の清い人々は、幸いである」。
私たちこそ、まさに、幸いな者なのです。
心の清い人々は幸い (清心的人有福了)
今日の御言葉を聞いたら、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。
听了今天的话语,大家会是什么感觉呢?
そうなんですか……、という感じでしょうかね。
是这样吗?会这样觉得吧?
何かこう、あまりピンとこない、と言いますか……。
总觉得一下子说不上来。
「神を見る」と言われましても、という感じですね。
即使说是“必得见神”,也是这么觉得。
心の清い人々は神を見る、と言われているんですが、まあそれはそうかもしれないとは思いますが、私たちの中に、「自分は心が清い」と言える方が一人でもおられますでしょうか。
说是清心的人必得见神,虽然会觉得或许有可能是这样,但是我们中间,有人能说自己是清心的人也就是心灵洁净的人吗?
これ、イエス様の言葉なんです。
这是耶稣的话。
神の子を前にして、私は心が清いです、と言えますかね。
在神子面前我们能说自己是心灵洁净的吗?
それだけではなくて、心の清い人は神を見る、と言われております。
不仅如此,还说了清心的人必得见神。
そんなことを言われてしまいますと、私はこの目で見たことがない、だったら私の心はどうなのか、と考えてしまいそうです。
一听到这话,可能会想我没有亲眼见过神,那么我的内心又是怎样的呢?
ただ、ここで言う「心が清い」とはどういうことなのでしょうか。
这里所说的“清心”是指什么呢?
「神を見る」とはどういうことなのでしょうか。
“得见神”又是什么意思呢?
私たちの感覚で言うと、私たちは心が清いとはなかなか言えないし、この目で神を見たとも言えないわけです。
要是按我们自己的感觉来说的话,我们远说不上心灵洁净,也说不上亲眼见到神。
けれども、これはイエス様が言っていることなんですね。
但是,这是耶稣说的。
神の言葉なんです。
是神的话语。
人間の言葉ではないわけです。
并不是人的话。
ということは、私たちはこの言葉を私たちの感覚で理解しようとしても仕方ないんですね。
也就是说,我们大家想要用自己的感觉来理解是不行的。
では、一体、神の言葉で「心が清い」と言ったら、それはどういうことなのでしょうか。
那么神的话语“清心也就是心灵洁净”到底是什么意思呢?
この「清い」という言葉は旧約聖書によく出てくる言葉ですね。
“洁净”一词在旧约中经常出现。
旧約聖書では、どういうものが清い、どういうものが汚れているということが良く言われます。
旧约里面,经常讲到什么东西是洁净的,什么东西是污秽的
例えば、旧約聖書のレビ記には、そのことばかりずらずらっと書かれている個所もあります。
比方说,利未记中有地方写的都是这些东西。
そこでは、ある病気などが汚れているとされています。
那里写到某种病是污秽的。
そして、それが治ったら清いと言われるんですね。
还写到治好了的话就洁净了。
例えばらい病がそうです。
比方说癞病。
らい病というのは、今の言葉で言うとハンセン氏病を含むような病気で、ハンセン氏病だけを指しているわけではないのですが、皮膚が崩れたようになってしまう病気です。
癞病包括现在所说的麻风病等病,并不单指麻风病,是皮肤会溃烂的那种病。
そのような病気にかかると、汚れている、ということになりまして、それが治ると清いと言われるんですね。
得了那种病就成污秽的了,治好了的话又洁净了。
そうなりますと頭の毛が心配な私としては、髪の毛がなくなってしまったらどうなんだろうか、と心配になります。
我很担心掉头发,对我而言比较关心头发掉光了的话会怎样?
これ、調べてみると、本当に聖書に書いてあったんですね。
查了一下关于这方面的内容,圣经中还真有写。
レビ記の13章40節と41節ですが、こういうふうに書かれていました。
利未记13章40、41节,这样写着:
「もし、頭部の毛が落ちて、後頭部がはげても、その人は清い。もし、前頭部の毛が落ちて、そこがはげても、その人は清い」。
“人头上的发若掉了,他不过是后头秃,还是洁净。他顶前若掉了头发,他不过是顶门秃,还是洁净。”
これを聞くと安心ですね。
听到这我就安心了。
いやもうこれは男性全員が喜んでいいことです。
这应该是所有男人听了都会高兴的事。
まあとにかく、旧約聖書は、そういうことをいろいろ書いて、何が清くて何が汚れているのかという認識を持たせようとしているわけなんです。
总之,旧约中,这样的事写了很多,让我们辨别什么是洁净的什么是污秽的。
食べ物のことでもいろいろ書かれています。
食物也写了很多。
例えば、うろこのない魚は汚れていると言われます。
比如说没有鳞的鱼是不洁的。
うなぎ、エビ、イカ、タコなんかはそうですよね。
鳗鱼、虾、乌贼、章鱼之类的都是。
こういったものは汚れているから食べてはいけないという話になるんです。
讲到了因为这些东西是不洁的所以不能吃。
ただこれ、理由がはっきりしないんですね。
只是没有很明确地写明理由。
旧約聖書ではうなぎとかエビとかイカとかタコとかが汚れているということになっていて、食べてはいけないことになっているんですが、そもそも、聖書の一番最初のページには、神様が造られたすべての生き物はすべて良いものだったと書かれているわけじゃないですか。
旧约中虽然说鳗鱼、虾、乌贼、章鱼是不洁的不能吃,但是在圣经最前面的一页里写着神所造的一切活物都是好的。
良いものなのに汚れているなんて、どういうことでしょうか。
明明是好的却是不洁的,这是什么意思呢?
これは要するに、「清い」とか「汚れている」という言葉を文字通りに受け取ってはいけないということですね。
总之不能就这么按字面意思来理解“洁净”“污秽”。
文字通りの意味ではないんです。
不是字面上的意思。
全ては神様が造られた良いものなんですから。
因为全部都是神所造的好东西。
うろこのない魚がダメな生き物なのではないんですね。
没有鳞的鱼并不是不好。
では私たちはこれをどういうふうに理解すればいいのか、ということなんですが、聖書のそのページを開きますと、食べてはいけないもののリストの最後に、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているんですね。
那么我们该如何理解为好呢?打开圣经,在罗列了不能吃的一堆东西的最后,写着“因为我是圣洁的,所以你们也要成为圣洁。”
あなたがたは神の民だということなんです。
你们都是神的子民。
だから、神の民である証として、食事からして、他の人たちとは違う食事をしなさいということなんですね。
因此,要证明是神的子民,从吃的开始,就要与其他人不同。
そしてそれが、聖なる神の命令だから、食べていいもののことを「清い」、食べてはいけないもののことを「汚れている」と表現したんです。
因为是圣洁的神的命令,所以把可以吃的东西称作“洁净的”,不可以的吃的东西用“污秽的”的来表示的。
食べていいのかいけないのかを決めたのは聖なる神だからです。
因为能不能吃是圣洁的神所决定的。
ですので、理由ははっきりしないんですが、神の命令だから食べない。
因此,虽然没有明确的理由,但是因为是神的命令所以不吃。
とにかく、神の言葉に従う、ということですね。
总之要遵从神的话语。
それでこそ神の民なんだ、ということなんです。
正因为如此才是神的子民。
ですから、この「清い」とか「汚れている」という言葉は、そういう感覚を持つことが「御心に適っている」というくらいのことなんですね。
因此,这里的“洁净”也好“污秽”也好,大概就是“合神心意”那样差不多的意思。
ただ理由は分かりません。
只是理由是搞不明白的。
理由を言わずに「とにかくこれはだめ」、「これはいい」と言われているんですね。
不说理由,只是写到“总之这个不行”,“那个可以”。
それは言ってみれば、子どもに対して教える時の教え方ですね。
这样说的话,像是对孩子的教育方式。
理由を言わずに、とにかくやらせる、やめさせる。
不说理由,总之就是这个要做,那个不要做。
それは相手が子どもだったら仕方ないことですね。
因为对方是孩子所以没有办法只能这样。
本当に小さい子どもに対しては、そういう教え方をするしかありません。
对于真正的小孩,只能这样教。
そして、この、旧約聖書のレビ記の言葉が伝えられた時には、神の民は、まだ神の民としてほんの小さい子どもだったんです。
旧约利未记被传开的时候,当时神的子民真的还是小小孩。
この時、まだ、神の民はできたばかりのグループで、自分は神の民だ、ということもまだよく分かっていなかったんです。
那个时候,神的子民刚刚被造,还不是很清楚自己就是神的子民。
まだ神の民として子どもだったんですね。
神的子民还是孩子。
自分が何者なのかも良く分かっていない子どもだったんです。
连自己是谁都搞不清的孩子。
ですので、この時はそういう教え方をするしかありませんでした。
因此,那个时候只能这样教。
けれども、イエス様が来てくださって、もっとしっかり理解できるように神様の御心を伝えてくださって、神の民は大人になりました。
但是,耶稣来更清楚明白地传达了神的心意,神的子民长大成人了。
ですので、今は食べてはいけないものというのはないんです。
因此,现在没有不可以吃的东西了。
そのことは新約の使徒言行録10章にはっきり書かれています。
这一点新约使徒行传10章里面很清楚地写着。
また、らい病が汚れているということでもありません。
另外,癞病也不再是污秽的了。
イエス様はわざわざらい病の人に手を触れていやしたんでした。
耶稣特意按手在癞病人的身上治愈了。
もし本当に汚れているんだったら、イエス様だって触りませんよね。
如果真的污秽的话,耶稣也不会去碰了。
要するに、理由も聞かずに言われた通りにしなさいという教え方をする段階は卒業したんです。
总之,已经从不问理由按说的去做那样的教育阶段毕业了。
イエス様ははっきり言っていますね。
马太福音15章11节,耶稣明确地说:
この福音書の15章11節ですが、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と言っています。
“入口的不能污秽人,出口的才污秽人。”
食べ物が問題じゃないんですね。
食物没有问题。
人の言葉こそが問題なんです。
说出来的话才有问题。
私たちが何を語るのかが本当に大事なことなんです。
我们说什么才真的重要。
そして、言葉は私たちの心から出てきますから、本当に大事なのは私たちの心なんです。
而话是从我们的心里发出来的,所以真正重要的是我们的内心。
ある食べ物を食べたり食べなかったりして、それで神様の言葉を守れたかどうか、なんていう段階の話ではもうないんです。
已经不是以吃不吃某种食物来衡量是否遵守神的话语那样的阶段了。
そういうことですから、旧約聖書にはルールがたくさんありますが、イエス様のルールは一つだけですね。
正因为如此,虽然旧约有众多的戒律,但是耶稣只有一条。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。
“你们要彼此相爱,像我爱你们一样,这就是我的命令。”(约翰福音15:12)
これですね。
是这个。
これが大事なんです。
这才重要。
最初はまずはどんなことでも「はい」と言って神様の言うことを聞くことも大事だったでしょうが、結局神様が私たちに望んでおられることは互いに愛し合うことですから、それだけが本当に大事なんです。
虽然起初不管什么事都要说“是”,听神的话很重要,但是最终神希望我们彼此相爱,所以这才是真正重要的。
ただ、そうなりますと、「心が清くなければならない」と思いますね。
只是这样的话,会觉得“内心必须要洁净”。
ただ、清いというのも汚れているというのも、御心に適っているかどうかを表す言葉だったんでした。
洁净污秽都是用来表示合神心意的词。
ということは私たちは御心を知らなくてはならないですね。
这一点我们必须要知道。
自分で判断することではないわけなんですから。
因为不是自己判断的。
そして、もっと大事なことは、どうして、何かが清い、何かが汚れている、と言われるのか、ということです。
而且更为重要的是为什么说哪些是洁净的,哪些是污秽的。
「これは清いから大丈夫」、「これは汚れているからダメだ」というルールがたくさんあるわけですが、それは、「清いんだったら神の前に出ることができる」、「汚れている間は神の前に出てはいけない」ということなんです。
“这是洁净的没问题”、“这是污秽的所以不行”这样的戒律有很多,这是指“因为洁净所以可以得能见神”,“因为污秽所以不能得见神”。
要するに、その人が御心に適っていて、神の前に出ることができるかどうか、という話なんですね。
总之要说的就是这个人是否合神心意,可以来到神的面前。
では、どういう人が御心に適っていて、神の前に出ることができるのでしょうか。
那么,怎样的人合神心意,可以来到神的面前呢?
まさにこのことをイエス様が話してくださった場面があります。
耶稣还真的有说到过。
これは聖書を開いていただきたいんですが、ルカによる福音書18章10節からのところです。
打开圣经,在路加福音18章10节。
少し長いのですがお読みいたします。
稍微有点长我来读一下。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
“有两个人上殿里去祷告。一个是法利赛人,一个是税吏。法利赛人站着,自言自语地祷告说:‘神啊,感谢你,我不像别人勒索、不义、奸淫,也不像这个税吏。我一个礼拜禁食两次,凡我所得的,都捐上十分之一。’那税吏远远地站着,连举目望天也不敢,只捶着胸说:‘神啊,开恩可怜我这个罪人!’我告诉你们:这人回家去比那人倒算为义了。因为凡自高的,必降为卑;自卑的,必升为高。”
御心に適っていたのは徴税人でした。
合神心意的是税吏。
本当の意味で神の前に出ることができたのは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことしかできなかったこの人なんですね。
真正意义上能来到神面前的,是那个只说了“神啊,可怜我这个罪人”的人。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。
“神啊,可怜我这个罪人。”
そういうふうにしか言うことができないとしたら、この人は、自分の心が清いなどとは思っていないわけです。
只会说这话,那个人压根没有想过自己的内心是洁净的之类的问题。
それに対して、ファリサイ派の人は、自分では、自分は御心に適っていて神の前に出ることができると考えていますよね。
而相对应的,法利赛人认为自己合神心意,可以来到神的面前。
この人は自信満々でした。
他满有自信。
でも、この人は清い人ではなかったんです。
但是,他并不洁净。
人間の考えと神様の考えは違うんですね。
人所想的与神所想的并不同。
だから私たちはいつも御心を求める必要があります。
因此,我们要不停求问神的心意。
意識して自分の考えを退ける必要があるんです。
必须有意识地放下自己的想法。
しかし、どうして、このたとえ話はこういう結論になったんでしょうか。
为什么这个比喻得出这样的结论呢?
どうして徴税人は御心に適っていたんでしょうか。
为什么税吏合神心意呢?
徴税人は、自分の罪を悔いています。
因为税吏认罪悔改。
ひとつには、そのことがあるでしょう。
至少是其中一个原因。
私たちには皆、罪があります。
我们大家都有罪。
神に対する罪ですね。
是对神所犯的罪。
神に背くという罪です。
是背弃神的罪。
私たちは皆、いつもいつも神様に従っているわけではありません。
我们大家并非一直都在追随神。
私たちは皆、御心に適う者ではないんです。
我们并不合神心意。
清い者なんかではないんです。
并非洁净之人。
神の目に私たちはそうなんです。
在神眼里我们是这样的。
だとしたら、自分の罪を悔いるということは、御心に適うことになりますね。
因此,认罪悔改是合神心意的。
それだけではありません。
并不只是如此。
ファリサイ派の人はどういうふうに祈っているでしょうか。
法利赛人是怎样祷告的呢?
この人は、自分と他の人を比べています。
他拿自己和别人比较。
自分は他の人より立派だと言っているんです。
说自己比其他人高尚。
この人の心は、神様に向かっていないんですね。
这人并没有心向神。
それに対して、徴税人はどうでしょうか。
于此相对的税吏又如何呢?
目を天に上げようともしないんです。
连举目望天都不敢。
しかし、この人の心はどうでしょうか。
可是,这人的内心呢?
ただ、神の憐れみを求めているんです。
只求神的怜悯。
それが御心に適ったんですね。
这是合神心意的。
ですから、「心の清い人」という言葉は、御心に適う人、ということなんですが、それをまた、こういうふうに言い換えることもできるかもしれません。
因此,“清心的人”一词是指合神心意的人,或许可以就这么替换着说。
心の清い人というのは、自分の罪を悲しみながら、神様を求める人である、ということですね。
所谓清心的人是指为自己的罪而悲痛,求告神的人。
そして、そのような人は神を見ると言われています。
经上说这样的人必得见神。
それは、私たちが頑張って自分の心を清めていって、私たちの心がいつか清くなったら神を見ることができるということではありません。
并不是说我们努力洁净自己的内心,等有一天我们的心灵洁净了就能见到神了。
このたとえ話からは、こう言うことができます。
从这个比喻中,可以得知:
私たちが、自分の罪を悲しみながら、一心に神を求めるなら、私たちは神を見出すことになる。
我们为自己的罪而悲痛,一心求告神,如此便能得见神。
この徴税人を神様はどう扱ってくださいましたか。
神如何对待这个税吏的呢?
この人は「義とされて家に帰った」と書かれています。
经上写着这人“算为义回家了”。
義というのは神の前に正しいということです。
义指的是在神面前为公义。
罪を悔いて神を求める人に、神は、「それでいいんだよ」と言ってくださるんです。
神对认罪悔改求告神的人说“这就可以了”。
私たちは、その、神の赦しを見出すんです。
我们要看到神的赦免。
「神を見る」とはそういうことでしょう。
“得见神”说的就是这个。
そうなりますと、私たちは皆、「心の清い人々」と言われる資格は十分ですね。
如果是这样的话,我们大家都够格被说成是“清心的人”。
何しろ私たちはこの礼拝の中で、自分の罪を悔いて、神を求めました。
因为我们在礼拜中,认罪悔改求告神。
それは御心に適うことです。
这是合神心意的。
そして、その私たちを神は義としてくださっています。
神把我们算为义。
私たちはそう信じていいんです。
我们要相信这点。
まして、私たちは、今、私たちの罪をゆるす十字架の前にいます。
而且现在我们罪得赦免来到了十字架前。
私たちは今、まさに神を見ているんです。
我们现在真的见到神了。
ですから、こう言われています。
所以说:
「心の清い人々は、幸いである」。
“清心的人有福了”。
私たちこそ、まさに、幸いな者なのです。
我们真是有福的人。